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2005年9月の9件の記事

2005年9月30日 (金)

反省会

 1970年代の小学校では毎日、1日の終わりに学級ごと
に開かれていたミーティング。反省会。

 いじめっ子、弱い者をつるし上げる場として存在した。
 原告役と被告役はほとんど固定していて、教諭は中立ではなく
原告の主張を全面的に受け入れて被告を裁く位置にいた。

 被告側からしてみれば「またかよ」「そんなことどうでもいい
じゃん」と思うようなことを毎日のように告発される、鬱陶しい
時間帯であった。

 現在は「帰りの会」などと呼ばれている。先生が明日の予定を
言い、生徒が各係りからのお知らせなどを言う場である。
 いじめっ子の告発などは「帰りの会」では言わず、先生に直接
言いに行くことになっている。

 いじめっ子を公開の場で告発できた時代がよかったのかという
と決してそうではない。当時、告発していたのは、せいぜい、
「moto君がスカートをめくりました。いけないと思います」とか
「moto君が掃除のとき、ふざけて金魚ばちをゆすって金魚を驚か
せたのはよくないと思います。」といった程度で、とても巨悪に
迫ったものではなかった。

 いつの時代も本当に怖い者を告発できる勇者はそんなにはいな
いのである。巨悪に迫れば迫るほど、僕らは巨悪から遠のいてい
くってわけ。だって巨悪は強いんだもん!
江木俊夫ならば、こう言うだろう。

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2005年9月29日 (木)

東京湾北部地震

首都直下地震 (東京湾北部地震)

 政府は既に来るべき地震に命名している。起こる場所まで入っ
ている。"名前"があると人はものごとをイメージ化しやすい。
 クールビズは今年一斉に普及した。企業では人事部が「クール
ビズを推奨します。」なんてやっていたはずだ。もし、クールビ
ズという言葉がなくて、「夏場に職場のエアコンが28度でも暑
苦しくないような、半袖のシャツやノーネクタイで清潔感のある
服装
」では、ユニクロも売り場づくりに困っただろうし、世の中
に全く普及しなかっただろう。

 だが、首都直下地震は名前は付いているのに、今ひとつ普及し
ていないようだ。
 既に2004年11月には、首都直下地震対策専門調査会が、
「震度分布図」を発表している。自分の町が震度いくつになるか
発表されているのに、この図を見た人がどれだけいるだろう?

 2004年12月15日、政府の中央防災会議・首都圏直下地
震対策専門調査会は「死者は最悪の場合12,000人」と発表
した。阪神淡路大震災が6,430人、関東大震災の死者は
142,000人である。

 2005年9月27日、首都直下地震対策大綱では、国会、中
央省庁、日銀などの各機関に災害時、三日間程度は機能を維持
できるよう求めた。僕は衆議院の委員会で言ったのだが、「災害
が起きて30分後に本会議を開いて緊急対策法を制定することは
考えられない。初動は首相官邸と関連省庁だけだろう。国会機能
を災害直後に稼動させることを想定しないでもいいのでは?」と
思う。災害は国会機能と利権を地元に移転させたい人達にとって
格好の材料なのだ。

 一方、東京都はすぐには支援活動が行き渡らない可能性がある
ので、「三日間は自分で何とかして欲しい」と言っている。

 地震対策は以下の2つのテーマについて、切り分けておくと
わかりやすそうだ。
① 地震直後、いかに身の安全を守るか
② 地震後三日間、いかに生命と生活を維持するか

(このつづきはカテゴリー一般をクリックしてご覧ください)

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2005年9月28日 (水)

旧1号になった日

 子どもの頃、仮面ライダーと言えば旧2号~新2号のファンだった。
 それが1998年のフィギュア王8仮面ライダー特集を契機にライダーコレクターの道に入った時には旧1号ファンに変わってしまった。

 それ以来、旧1号に絞り、旧1号のモノが出ればなんでも買った。

 それから5年後、ヤフオクに出ていた1/1マスクを手に入れた。手元のスイッチでCアイが点灯する。初めて被った旧1号マスクには感慨もひとしおで「あぁこれでコレクター生活に終止符が打てる」と思った。

 その半年後、今度は変身ベルトを手に入れた。

 さらに半年後、神奈川県のある町に豆子郎を買いに出かけた。
 滅多に来ることはない町だから、オモチャ屋でもないかなとネットで検索したら1件ヒットしたので行ってみた。店頭にマネキンに着せた旧1号が立っていた。

 その後、松戸のバンダイミュージアムや、2005年夏の展示イベントなどで何度か旧1号を見ることになるのだが、この時が旧1号との初対面。血管が逆流した

 店主に「いくらか」と尋ねた。
 店主は「売り物じゃないんですけど、」ともったいつけたうえで
100万円ならお譲りしてもいいです
もし銀行残高が100万円あったら、そこで買ったかも知れない。

いつか、お金を手にしたら100万円出してでも買おうと心に誓った。
夢を手にすることは永遠を手にすることに思えた。

 脳の情報収集能力は恐ろしい。
 その半月後には旧1号を入手していた。
 オモチャ屋で見たものを参考にして、ディスプレイ用に指まで稼働するマネキンを買った。

 旧1号が迎えてくれる暮らしは悪くない。

 そしてこの夏、福岡三越でやっていた展示イベントで、初めて「旧サイクロン号」の実車を見た・・・

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2005年9月27日 (火)

SONYでどうしても買いたいモノ

僕はビデオ機器は全部ソニーだった。
カメラは8mm→Hi8DV 3台ともソニー。
3台めのカメラTRV-9は盗撮で話題になった。発売後すぐ、
密かに仕様を変更して服が透けなくなったが、それ以前のモノは
今でも時おりヤフオクに出ている。

ビデオデッキもソニー
8mm→Hi8
なぜデッキがソニーなのか・・
それは佐野元春のビデオが見たかったから。1985年に出た
「ビジターズツアー」のビデオは初め8mmのみの発売だった。
 「V8マガジン」(後にビデオCAPA)の第2号に佐野元春
が登場して、そのビデオを試写してコメントしている。当時、露
出度が低かった佐野が、これまた注目度の低い「8mmビデオ」
の専門誌に出ているのだから、かなりコアなファンでもチェック
できた人は少ないだろう。
 これをみて機種は決まった。ソニーから出ていた8mmビデオ
デッキの1号機は24万9800円もしたが、ソニー販売に勤め
る友達が社員価格で売ってくれた。

 8mmビデオフォーマットは、テープの6分の5で映像、音声
を記録し、6分の1がPCM音源のトラックとして空けてある。
ここに画面編集した後に音楽などをアフレコすることができ、
オフで撮ったビデオを編集するのに役立った。送った作品を
見て佐野さんから
「どなたかプロの方がいるんですか?」
とメールをもらった時は、60分の映像に30時間かけた苦労が
吹っ飛んだものだった。

 また、8mmビデオテープは6トラックの音声PCM記録をす
ることもでき、60分テープのSP(標準モード)で36時間の
音楽をデジタルで録音することができた。
 当時僕は、レンタルからシングルを借りてきてはPCMに放り
込み、そこから選曲してカセットにダビングしていた。ダビング
の度に音が劣化する時代に音楽を聞き始めた者にとって、これは
魔法のおもちゃを手に入れた気分だった。お陰で近所のレンタル
屋の兄ちゃんから
「motoさんがこの店の No.1ユーザーですから」
と言われたこともあった。

 デンスケに憧れていた。SLの音を撮りに行きたかった。
 エルカセットが欲しかった。涎が出そうだった。

 さて、SONYの業績が悪いらしい。
 "規格のソニー"にいま、ヒット商品がないのだという。

 僕はソニーに出してほしいものがある。
 それは音楽プレーヤーPDAを合体させたもの。
 パソコン、携帯、PDA、音楽プレーヤーは互いに守備範囲が
かぶっている。音楽を聴くのに一番便利な環境はパソコンだが、
バイオUでも持ち運びはしんどい。かと言ってディスプレイが小
さくて入力インターフェースがない音楽プレーヤーでは、
Mr.childrenの曲全部!」とか
「アクセスボトム50=聴いてない順50」
といった色々な検索の楽しみがない。

 一方、住所録機能を携帯に奪われたPDAは単独で持つ必然性
を失ったツールだが、依然としてスケジュール機能は捨てがたい。
 PDAを肌身離さず持ち歩く習慣がなくなって以来、一番困っ
ているのは、数時間後の予定のリマインダー。
 テレビ番組の予約、ヤフオクの入札終了時間、明日会社に持っ
てくるものの備忘録など。

 ぜひ、HD音楽プレーヤーとPDAを組み合わせたマシンを出
してもらいたい。ポケットPCで音楽を聴くために、割だかな
記憶メディア(SDカードなど)を買い足すのはご免なのだ。

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2005年9月26日 (月)

愛・地球博のからくり

 愛知万博が決まったのは名古屋がオリンピックの招致に負けて次の目標として万博をターゲットにしたのが始まり。初めの計画では名古屋市、尾張旭市の隣り瀬戸物で有名な瀬戸市にある海上の森(かいしょのもり)を切り開いて会場を作る予定だった。
 しかし、環境破壊を問題視する運動が起こり、規模を縮小して、長久手の戦いで少し知られている名古屋市の隣り、愛知郡長久手町(ながくてまち)の長久手会場をメインにして、瀬戸市はサブ会場の位置づけになった。
(会場は終了後すべて撤収され、元の姿に戻すことになっている)

 愛知万博は1,500万人の入場者目標に対して2,200万人を超え、大幅な目標クリアを達成。「さすが元気な名古屋」ということになったが、当初の目標は4,000万人だった。規模を縮小するということで目標を1,500万人にしておいたのが功を奏した。

 老人や小学生には無料パスが大量に配られた。僕が行ったのは初夏だが、口の悪い名古屋の知人は「仮設老人ホーム」と言っていた。
「おりゃぁこれで5回目だがね」
「なにたわけたことゆーとりゃーす、おりゃ27回目だがや」
 こんな会話が実際に飛び交っていた。

 愛・地球博の入場券はコンピューターチップが埋め込まれていた。人気のパビリオンは事前にインターネットで予約し、当日入場ゲートの機械を通すと予約が確定するという先進のシステム。

 学校の先生の中には、入場を何度もやり直す人もいた。大量に券を渡されて、すべて「入場済」にするよう言われてきたようだ。

 愛知の雄、カンバン方式のトヨタが大々的にバックアップしただけあって、カイゼンの姿勢はすばらしいと評価された。
 子供達が遠足に行って、行列でごはんが食べられないと言えば、弁当持ち込みを許可し、それを食べる場所がないといえば、専用のスペースをつくり、雨宿り場所がほとんどなく、弁当ごとびしょ濡れになったときけば、屋根を作り・・
 カイゼン後の話しだけきくと美しいが、初めの方に行った人は「最初からやっとけ」とつっこんでいた。

 「名古屋人は新しモノ好き」という人がいる。
 また一方、慎重で人がやっているのをみて、案配がよさそうならば雪崩を打ったように追随する土地柄だという人もいる。 事実、パチンコ屋、焼鳥屋、喫茶店・・新しい商売が始まると、じーっと様子をみていて、「儲かるでかんわ」ということになると、一斉に参入するのは確かだった。

 ただ、愛知万博について言えば、初めのほうに行った人が正解だろう。僕が行った5月は、すでにトヨタ館など企業系パビリオンはとても入れないような混雑状況になっていたが、それでも開門と同時に直行すれば「マンモスのみ」が見られたし、外国系パビリオンはがらがらだった。

 名古屋の街のインフラとして リニモセントレア、名港トリトンは残ったが、大阪の「太陽の塔」のような、記念碑的な建造物を造ってほしかった。
 子供達のこころにずっと残るような

*参考図書
「虚飾の愛知万博」前田栄作 光文社 2005年2月

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2005年9月25日 (日)

首都圏地震

 12月15日までに関東で大地震が起こる。
という想定でこれまでにやってきた対策を点検中。

水と缶詰たくさん買い置きしました。
大地震来ませんでした。
水と缶詰余りました。

水と缶詰買い置きしませんでした。
大地震きました。
三日間飲まず食わずでした。

 どちらがいいかといえば、前者だろう。
 これから3か月、いつ来てもいいように備えようと思う。

地震チェックその①
「水」

 東京都の場合、行政の能力に対して人口が多すぎるため川口町のようにはいかない。給水車が各家庭に水を持ってきてくれるまで、1週間かかるとみる。
 ケースで買ってきて、外箱の上の面に賞味期限をマジックで書いておき、賞味期限が近くなると飲む。また買ってきて補充する。このくり返し。

 地震チェック記事は12月15日まで随時書いていきたい。

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2005年9月24日 (土)

はーどですく

 このところ、たてつづけに数人の友達がハードディスクのデータを失った。
僕は20GBほどのデータを一切バックアップしていなかったので、転ばぬ先の杖と思い、外付けハードディスクを買うことにした。
 買ったのはアイオーデータの250GB。

 1990年、初めて買ったパソコンはEPSONのNoteA
 それまでシャープ電子手帳PA-7000が営業ツールだった僕は、鈴木亜具里がノートパソコンで打合せするCMを見て、すっかり参ってしまった。 

 でも東芝ダイナブック、NECの98ノートはハードディスクがついていなかった。
 そこに、この386NoteAが国内初のハードディスク内臓可能なパソコンとして登場した。
 本体26万円、着脱式ハードディスクは別売で、20MB13万円だった。(当時は消費税はない)

 そして、今回買ったハードディスクが250GB1.3万円なので、1MBあたりで計算すると、330分の1
 あの頃は20MBの中に一太郎、123入れて、エコロジーⅡで無駄なファイルはFDに保存して、やりくりしていた。

 1992年のある日、仕事でパソコン一式を納品に行った。
 CRTディスプレイ、PC9801パソコン本体、ソフトなど。
専用の台は一式に入っていないので、先方の社長さんに
「パソコンを置くデスクは自分で買っておいてくださいね。」
と頼んでおいた。

 ところが、いざ行ってみるとデスクを買っていない。

moto「デスクは買っておいてくださいって言ったじゃないですか?」
社長「あんた、そぉゆーたけど、
   納品書にハードデスクって書いてあるがね!」

それは外付けのハードディスク!
堅い机じゃないっての。

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2005年9月23日 (金)

ヒマ人は価値を創り出すか?

 会議のプレゼン資料をすべてテキスト(文字)だけで作る人がいる。
 説明を受ける側は、図と文字とどちらが短時間で理解できるだろうか。
僕は図だと思う。

 だから、打合せの前には図をつくる。
 ある時、東京、名古屋、大阪、神戸、福岡の拠点にまたがる案件が滞っていた。そこでGoogleのイメージ検索で日本地図をもってきて、地図の上に現状を書き込んだ。

 さて、打合せの席。図を出した瞬間、皆が笑顔になった。
 笑い声がもれた
 でも、「わかりやすいね」と言葉にした人は一人もいなかった。
 ひとりが、笑いながらこう言った。
 「いいけどさ・・ motoさんって、ヒマなの?

 会議は手短におわった。

 僕は、仕事中にインターネットを見たり、毎時必ず休憩所でタバコを吸ったり、よその部署に遊びに行ったり、携帯でメールを打ったりしている人はヒマ人だと思うが、仕事の工夫に時間をかけている人をヒマ人とは思わない。

 僕はこの日本地図を作るのに 1時間かかった。
 確かに、図ではなく、文字だけで作れば30分くらいは浮いただろう。
 だが、この図によって皆が短時間で要件を理解してくれた。もし、皆がなかなか理解できず10分ほど会議が長引けば、その場には5人が参加していたので、10×5=50分 が会社として失う時間となる。

 実際には、参加者全員が要件を理解して終わる会議はほとんどない。
 そして、理解していなかった人は、あとで理解した人の時間を奪って質問するか、誤った理解に基づいて失敗し、また周囲の時間を奪う。

 この図はその後、イントラネットに置いてあり、問合せやトラブル対応の度に、共通理解をする図となっている。離れた場所で同じ図を見ながら話すことができるので、電話で話しが済む。

 理解は時間を創り出す。
 理解がなければ、新たな価値は生まれない。

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2005年9月22日 (木)

しらべるが行く

 1995年に佐野元春さんのホームページを仲間たちとみんなで立ち上げた時、 魔法のような技術を駆使して絵が動くのを見ても、なんだかぴんとこなかった。

 僕が知っていたのは、NIFTY-Serveの文字だけのパソコン通信画面だったから。


 1年後、MIPSの仲間と会う機会があった。
 彼らが話す言葉がなにもわからなかった。
 悔しかった。
 そして、思った。

 自分も勉強してこの仲間に入りたい!


 インターネットマガジンをしばらく買った。
 でも、何が何だかさっぱりわからなかった。
 結局、一念発起してから3年ほったらかした・・

 1999年、暖めていた考えがまとまりつつあった。

 この発想はこれまでに誰もやっていないはずだ。

 でも、その枠組みを言い表す言葉がなかった。

 目黒駅のホームを海に向かって歩いているときに、言葉がおりてきた

 「そうだ。しらべるで作ればいいじゃん」

 しらべる

 この言葉に僕がやってきたこと、やりたいことが集約されていた。

 いったいこの言葉、あの時、どこから降りてきたんだろう?

 今日からブログでも、しらべるが行く。


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