« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »

2006年10月の31件の記事

2006年10月31日 (火)

スナック菓子は混ぜると美味い

 スナック菓子を瓶に入れたら、途中で手を止めることができる。
 そうして初日はお菓子が残った。
 次の日は違うお菓子を買ってきた。瓶に入れた。

 

 お菓子が混ざった。
 この時、あぁそうだったのかと気が付いた。

 

 お菓子は混ぜると美味いのだ。
 次の日は99shopで4個99円コーナーで4種類のお菓子を買ってきて瓶に入れた。

 

 コーン味
 醤油味
 ポテトチップス
 カレー味

 

 交互に食べると、ひと口ごとに美味しさが押し寄せた。
 スナック菓子を開封した初めのひと口の美味さ。あれが、ずっと続くのだ。

 

 食事をする時、大概の人は、ごはん、おかず、付け合せ、小鉢、お吸い物・・と交互に箸を運ぶだろう。ごはん完食、おかず完食、付け合せ完食・・のように順番に片付けることはない。

 

 味、食感、混ざり合うことで生まれる新たな味。
 食事では自然におこなっていた習慣を、スナック菓子界に持ち込んではどうだ。

 

 この方法を2週間ほど試してみた。
 確かに美味い。いつまでも美味い。毎日美味い。
 スナック菓子が毎日でも食べられてしまう。

 

 実践して気づいた難点は、お金がかかり過ぎること。
 単品買いして "袋食べ" していた時は、量重視でお菓子を選んでいた。"瓶食べ"では味重視。量が少ないお菓子を数点買いする。これまでとは菓子選びの観点も変わるのだ。
 ただし量が少ないからと言っても値段はそこそこ高い。

 

 そこで希望としては、お菓子メーカーは子袋サイズのお菓子をたくさん用意してもらいたい。
 それでは単価が落ちて、売上が落ちるというならば、子袋の4色セットを売ればよい。
 カルビーの例でいえば、かっぱえびせん、サッポロポテトは、同じ種類を小袋4連で売っている。
 あれをかっぱえびせん、サッポロポテト、バーベキュー味、ピザポテト・・のような4連で売るのだ。

 

 一人で愉しむスナック菓子ライフは、しらべるが変えて行く。

|

2006年10月30日 (月)

マンション勧誘の電話を切る方法

 職場で仕事をしていると年金確保、節税のためにワンルームマンションを勧める電話がかかってくる。このような電話を論理的に短時間で切り、その後かかってこないようにするには、どうすればよいか。

 「今、いません」
 と逃げると、何度でもかかってくる。
 「死にました」
 というと、食い下がられてしまうし、品がない。
 試行錯誤した結果、以下の方法が有効であることがわかった。

【 応酬話法 】

セールス「鈴木ですが、佐藤さんですか?」
自分「はい」

セールス「今日は節税と年金対策としてのお話を・・」
自分「あ、すいません。ちょっとお聞きしたいのですが」

セールス「は?」
自分「この電話は、私への業務のご連絡ですよね?」

セールス「いいえ」
自分「では、これは業務の電話ですので、お受けできません。失礼します」
   ↓
ここで受話器を置く。

●ポイント
 質問に質問を返す。
 相手に「いいえ」を言わせる。

●実効性が低い切り返しトーク

■「今いません」
では、何度でもかかってくるので同僚にも迷惑。

■「いま忙しいんで」
だと、「じゃいつならいいんですか?」と食い下がられる。

■「お金がない」「興味がない」
だと、セールスがトーク集で暗記した応酬話法で食い下がられる。

■「私の個人情報を削除して欲しい」
 こう言うと「了解しました」という人と「個人・・」と言いかけたところで電話をガチャンと切る人がいる。法律の定義について説明を始める人もいる。
 たとえ削除を了解すると言われても、業者名を替えて電話をかけられたらわからないし、実効性に乏しい。「個人情報」を持ち出すのは時間が惜しい。

 電話アポイントは確率の勝負。
 セールスはたくさん電話をかけなければならない。
 暇だからと言って、興味もないのに電話の相手にするのはセールスの人にとって迷惑である。



しらべる

|

2006年10月29日 (日)

デコのタトゥー

 先週まででデコのテレビ出演記事を締めくくったところ、20日深夜の「サッカーアース」では欧州クイズとしてデコが取り上げられていた。
 デコが背中に入れているタトゥーの図柄は?という設問。
 正解は「芸者」
 これを選んだ理由は「絵が気に入ったから」
・・そのまんまやないか

 デコが試合後に裸で歩いているのは見たことがあるが、タトゥーには注目していなかった。2005年6月と7月の横浜戦では、いずれも裸で引き上げてきた。なんで服着ないんだろう?と思ったら、女性のファンクラブメンバーが「サービス サービス!」と喜んでいた。女性にとって男の裸って、やっぱりいいものなのだろうか。

 このタトゥーを入れたために、奥さんから「私以外の女を彫るなんて」と怒られたというエピソードが紹介されたが、前の奥さんか今の奥さんかという細かいツッコミは、知ってか知らずか、さすがになかった。
 数日後、スペイン在住デコファンクラブメンバーの報告によると、サッカー番組にデコがバルセロナからの中継で出演。背中のタトゥーが「芸者」であることを語ったという。
 この週はタトゥー情報強化週間だったのかも知れない。

 以前、スマステで「デコ選手のファンなんです」と言ったのは加賀まりこ だが、ニッテレ「サッカーアース」に出演した上戸 彩は頑なにデコを拒んだ。

 どうですか?デコ選手
「いやぁ、ちょっと~」

 どこがいやぁ、ちょっとなのだか知らないが、全国放送中に絶句するとは失礼な。デコが活躍した後になって、手のひら返さないでもらいたいものだ。
 決勝戦、デコがMVP!ってことになっても、
「いやぁ、ちょっと~」
を貫いてもらいたい。

|

2006年10月28日 (土)

佐世保バーガー

 佐世保で売られている手作りのハンバーガー。

 佐世保はハンバーガーの美味い店が多い町。
 2000年代に入り、一気にハンバーガーの町としても名が売れた。
 アンパンマンの作者やなせたかしが佐世保ハンバーガーのキャラクターを描いている。

 中でも国際通りのヒカリの人気が高い。エッグ&ベーコンなど玉子入りのものが美味い。1個300円~400円。お客は店の前に車を停めて買い車の中で食べている。2005年、ゴールデンウィーク半ばの5月4日17時頃、店の前で数えたら、100人ほどが順番を待っていた。
 里帰りする度に、この店の前に群がるクルマが増えていく。時折パトカーが来て、車の移動を促していく。

 佐世保には古くから「らりるれろ」という ハンバーガー・チェーン店があったが、2006年夏には見かけなかった。マクドナルドが入って来たのは、かなり遅く 2000年前後だったと記憶している。これは別に地元に美味しいハンバーガー店が多かったからという理由ではなく、単に市場が小さいので後回しだったというだけ。セブンイレブンも長崎県にできたのは2000年以降だった。

 2005年にはいると、東京、大阪など他県でも「佐世保バーガー」が売られるようになった。佐世保独楽は全国に普及していないので、史上初の佐世保ブランド拡大攻勢であり、とても喜ばしい。

 ところで、大阪で売っている佐世保バーガーは、佐世保バーガーと言えるのか?
 卵、ベーコン、牛肉、パン・・何ひとつ佐世保の産品を使っていない手作りバーガーは佐世保バーガーなのか?

 その答えは、どこで売っても「佐世保バーガー」の名前で売っていれば佐世保バーガー。

 食べ物も、モノと同様にブランドが形成されるからだ。

 明石焼きは梅田の阪神百貨店スナックコーナーで「明石焼き」と冠して売っていれば明石焼きだし、石狩鍋は博多で出しても石狩鍋。

 ご当地名入りの食べ物は、限定的なレシピが確定して、地名で命名された時点でブランドが確立する。だから、その名を名乗る限りその名前の食べ物なのだ。

 そういう点では "鳥取県産の食材を1品でも使えば認定される" というレギュレーションの「鳥取カレー」はレシピの限定を想定しておらず、食べ物ブランドとは言い難い。

 佐世保バーガーは美味い。美味いから広がる。ではなぜ 「うなバーガー」は広がらないのか? それは来週のこの時間に・・

|

2006年10月27日 (金)

佐野さんチャットに登場

1991年
 8月、retake album「Slow songs」
10月、父親が亡くなる。

1992年
TDKカセットテープでCM初出演 CMソングは「誰かが君のドアをたたいている」
 7月、オリジナル8作目「SWEET16」
12月、best album「No damage II(Greatest Hits '84-'92)」

 佐野さんが初めて出たテレビCM「音楽は力、今君はそれを手にしている」という佐野さんの台詞にしびれた。誰が考えたか知らないこのコピー。その後の人生のなかで、何度も音楽に救われ、その度この言葉を思い起こした。

1993年
11月、オリジナル9作目「Circle」

1994年
 8月、live album「GOLDEN LING」
 9月、横浜スタジアムライブ「Land Ho!」を最後に THE HEARTLAND を解散。
解散当時の様子は「時代をノックする音」山下柚実 毎日新聞社 1999年2月25日刊 に詳しい。
11月、写真集「佐野元春写真集―RE‐MEMBERS」岩岡吾郎 TOKYO FM出版 発売。

1995年
 3月13日、ニフティの元春ファングループ「元春HP」からMIPSが生まれ、国内で初めてのファンによる、アーティスト・ウェブサイト「Moto's web server」オープン。
 3月、ツアー帯同ドキュメント「ワン・フォー・ザ・ロード―佐野元春with THE HEARTLAND」山本智志 大栄出版 発売。
 夏、野茂英雄に「また明日」をプレゼント。

1996年
 9月、著書「Diary‐Studio days making of "Fruits"(レコーディング日誌)」PARCO出版 発表。
 7月、オリジナル10作目「フルーツ」
 8月16日、MWSで初めての元春とファンによるチャット。
 9月、矢野顕子ベスト「ひとつだけ/the very best of akiko yano」に佐野と矢野が2人で歌う「自転車でおいで」が収録される。
10月、とんねるずに「FREEDOM」を提供。

 チャットには元春本人が直接パワーブックのキーボードを叩いて登場。ファンが作ったキャラクター「元春くん」の話題などで盛り上がった。進行役が「佐野さんはキータイプが遅いので」と合いの手を入れていたが、全然そんなことはなく、何と失礼なことを言うやつだと思ったものだ。佐野さんも顔で笑って心で「このやろう」と思っていたに違いない。

|

2006年10月26日 (木)

鈴鹿シケインスタンド

 鈴鹿のレースはいつもシケインスタンドで見る。
 カテゴリーのランクではメインスタンド、第一コーナースタンドに次いで3番め。

 ■最も速度が落ちる
 ■速度が落ちる場所なのでエスケープ・ゾーンが狭く、コースとスタンドが近い
 ■鈴鹿では数少ない追い抜き地点
 ■ピットに入るところが見られる
 ■大型スクリーンがあり、レース全体を追うことができる。

 サーキットには、どの場所にも大型スクリーンがあるわけではない。1周4kmの沿道すべてにスクリーンを置くのは無理だから。

 シケインから見るとホームストレートは進行方向に向かってかなり下っている。テレビは横長なので、右往左往を捕らえるのは得意だが、昇降を捕らえるのが苦手。テレビ画面とはかなり印象が違う。

 お目当てのマシンがホームストレートを下って行くとモニターに目を移す。画面を追っていて、スピードが落ちたなと思うと、画面の中にいたマシンが目の前に現れ、視点をコースに切り替える。

 モニターでレース全体を俯瞰して、目の前ではスリリングなシーン。シケインスタンドはやめられない。

 ところが、ここ数年、F1も モトGPもテレビに映し出されるシケインスタンドに空席が目立っていた。応援団らしき人たちが陣取る第一コーナーは埋まっていても、シケインスタンドはまばらな入り。
 チーム、メーカーが異なるライバル同士がしのぎを削ってこそスタンドは埋まる。ここ数年、秋風の吹く鈴鹿は、日本の不況も手伝って寂しげに見えた。

 2006年10月8日(日)、鈴鹿は16万人の人が出た。立錐の余地無く埋まったシケインスタンドを見て嬉しくなった。しばらく途絶えていたお祭りが今年限りの復活を果たしたようだった。

 だが20シーズンつづいた鈴鹿のF1は終わる。モトGPは既に数年前に「もてぎ」に移っている。
 難しく、スリリング、どこにもないレイアウトゆえに、他のサーキットでは見られない光景の数々。鈴鹿こそが日本GPに相応しい。
 関東のテーマパークが1人勝ちするように、何もかもが集客力のある関東に移ってしまうのは仕方が無いことだが、割り切れない。

|

2006年10月25日 (水)

マラソン人気1位と瀬古利彦

 2006年2月読売新聞に掲載された 日本人が好きなスポーツ調査によると、マラソンは男性では野球に次いで2位、女性は1位。
 サッカーは男女共にベスト5に入っていない。

 プロ野球やサッカー日本代表の結果に一喜一憂する人はいるが、マラソンの結果を熱く語る人は周囲にいないので、意外な印象を持った。
 しかし、箱根駅伝を主催している讀賣グループといえども、調査結果を操作することはないだろう。
 日本人はマラソンが大好きなのだ。

 日本に見るスポーツとしてのマラソンを根付かせた功労者は瀬古利彦である。
 それまでにもマラソンの名選手はいたが、レース結果、走る姿の美しさ、顔。これだけ人を惹き付ける要素を兼ね備えたマラソン選手は後にも先にも彼一人。

瀬古利彦
【 せこ としひこ 】
 三重県立四日市工業高校-早稲田大学-SB食品

1956年
 7月15日、三重県生まれ
1978年
福岡国際マラソンでマラソン初優勝 以降同大会3連覇 競技場に入り手をぐるぐる回すガッツポーズがかっこよかった。
1980年
金メダル確実と思われたピーク時に迎えたモスクワ五輪、ソ連がアフガニスタンに侵攻したため日本は不参加。
1983年
福岡国際マラソン4度めの優勝
 僕は競技場で瀬古を待っていた。
 イカンガーに次いで平和台競技場に入った瀬古。スクリーンには二人の姿が大写しになっている。瀬古ならば余力を残しているはずで、どこで彼がスパートするのかを観客が息を潜めて待っていた時。残り150m地点、瀬古の表情がゆがむ。さすがに今日はここまでなのか・・
と思わせた直後、ラスト100mの直線にさしかかったとたん、脱兎のようにイカンガーを抜き去り優勝。あまりの速さに観客は度肝を抜かれた。イカンガーは心の傷を負ったのではないか。イカンガーの親戚は「瀬古さん、それはいかんがー」と言ったかも知れない。場内放送の係りも動揺し「ただいまの記録は世界記録です」と誤報を流したが、時計を見ればこれが世界記録ではないことは誰もが知っており、それを咎める声もなかった。
1984年
ロサンゼルス五輪で五輪初出場 ピークを過ぎていた瀬古は猛暑のレースで14位に沈む。
1986年
シカゴマラソン優勝 このレースで自身のベストタイム2時間8分27秒を記録。
1988年
ソウル五輪9位
現役引退、SB食品陸上部監督就任

 最近は大きなレースでテレビ解説をつとめることが多い。
 彼はあけっぴろげな性格なのか、放送中つい本音が出てしまう。見ているほうは「おいおい」とツッコミどころ満載。
 テレビ局の信頼を失わぬよう、仕事を失わぬよう、紳士的発言ばかりの "解説者界" では異端であるが、楽しい。
 瀬古さん、これからも楽しい解説を頼みます。

 10月24日、東京マラソン事務局からメールがはいった。
 すわ、追加当選の連絡か・・
 と色めきたって本文を読んだところ

・青梅マラソンの出場を受け付けている。
・ボランティアの受付開始
 というお知らせだった。

 当初は同一日開催でひと悶着あったが、ここに来ての支援は惻隠の情に映る。

|

2006年10月24日 (火)

スナック菓子のおいしい食べ方

 いつも美味しい横綱あられを探してきた。
 ただ、闇雲に探していたのではなく、記憶の中に沈むあの味を求めて。

 

 名古屋にいた時に食べた横綱あられ。確か藤が丘のおもちゃ屋に売っていた。透明の瓶* に入った横綱あられ。*実際の材質はセルロイド
 製造元は確か岩塚の中村製菓だった。愛知県は菓子製造工場のメッカ。大手メーカー以外のお菓子を買って製造元をみると愛知県であることが多い。

 

 およそ10年前に食べたあの味を超える横綱あられ(ひねり揚げ)には未だ出会えない。
 そんなある日、セブンイレブンに菓子瓶に入ったシリーズが並んだ。もしかして秘密は瓶にあるのではないか?まさかね・・そうは思いつつも購入した。
 売り場に値札がついていなかったが、レシートで確認すると1個380円もした。分量的には105円で売っている「まちのお菓子やさん」シリーズのひねり揚げよりも少ない。これでは値札が付けられないのも仕方ない。

 

 ここでは、その味は問題ではない。
 買う前から、狙いは容器だった。

 

 スナック菓子を食べていて疲れてくることがある。
 スナック菓子が最も美味しい瞬間は開封して、油の匂いをかいで一口放り込んだ時。
 その後は手が進むほどに、感覚は麻痺してくる。
 しばらく食べた頃、自分に問いかけてみる。
「ほんとに美味しい?」
 答えはノー。あまり美味しいとは思えない。
 だが、一度開けてしまうと最後まで手が止まらない。

 

 セブンイレブンであの瓶を見た時に思った。スナック菓子を袋から瓶に移して食べれば、小分けに食べることができるのではないか。
 これまでも食べかけのスナック菓子の袋を二つに折って輪ゴムに留めて冷蔵庫に入れていたが、なんだか物悲しい。
 瓶ならばねじで締める蓋で密封できるし、乾燥剤も入っている(食べる時は邪魔なので裏返した蓋に乗せておく)

 

 スナック菓子が、こんなに美味しかったのかと見直したのはこの次の日だった。

 

10月31日につづく

 

しらべる

 

|

2006年10月23日 (月)

焼そば弁当 評価一覧

 カップやきそばをお昼にも食べたい。
 だが、給湯室でお湯を入れて、しばらくその場で待って、流し台をペコペコいわせて、あのカップのままで食べるのは美しくない。
 そこで、朝、家で弁当箱につめて、お昼に会社で食べることにした。
 冷めても、時間がたってもおいしいカップやきそばはどれか?を検証した。



10点満点で採点

■マルちゃん 昔ながらのソース焼そば 10点
 冷めてもソースがぴりっと美味い。麺も伸びた感じがしない。粉末ソースは作った時にかけておく。ふりかけ(青のり+しょうが)は食べる時にかける。しょうが粒がかりっとしてよい。

■日清 お好み焼きそば 10点
 2006年6月発売 冷めると美味い。2ヶ月経過時点で、大半のセブンイレブンで定番を外れている。

■明星 じゃがマヨネーズ 塩焼きそば 9点
 しっかり形があるじゃがいもが珍しい。スパイスふりかけを直前にかけると香ばしい。ただしニンニクの香りなので口臭に要注意。

■明星 一平ちゃん夜店の焼そば 塩だれ味 9点
 冷めても、味付けが映える。

■ペヤング 大盛四川風やきそば 8点
 麺の食感、味付け共に 冷めても美味しい。

■ペヤング やきそば 7点
 薄味なので違和感がない。スパイス(胡椒)は食べる時にかける。

■明星 ぶぶか 7点
 熱いときは油の絡みが美味いのに、時間がたつと平凡なやきそばに変わる。なるとやチャーシュー、メンマを盛り付けると、開けた時に見た目が楽しい。

■エースコック ホントに焼いた本焼きそば 6点
 できたては「ほんとに焼いた」違いがわかるが、お昼にはわからなくなる。ふりかけの中身は青海苔のみ。

□日清 UFO 5点
 時間が経つと麺の食感が変わる。

□サンヨー食品 サッポロ一番 バソキヤ2006 わさびマヨネーズ味焼そば 3点
 2006年7月発売。からしマヨネーズが辛すぎる。弁当を涙しながら食べることになる。

 2003年6月にわずか数ヶ月で打ち切られた「チーガリ」が今もあれば、ぜひ弁当で食べたい。

 やきそば弁当はライフワークの一つとして随時、情報を掲載していく。→やきそば弁当

#curetion_leisure
 



|

2006年10月22日 (日)

デコがバロンドール

 東海テレビでデコから10か月
 2006年4月23日、カタルーニャではサンジョルディの日
 久しぶりにデコがテレビに出た。

 フジテレビ系列「UEFA CHAMPIONS LEAGUE MAGAZINE」
 CL準決勝ACミラン戦(ステュディオ・ジュゼッペ・メアッツァ)
 この日、デコは出場停止。自宅の大型液晶テレビで観戦するデコの様子とインタビューを紹介。多くのバルサファンが「デコ爪噛むなよ!」とつっこんだ。

 その1ヶ月後、デコはひっそりとスカパーに登場する。
 と言っても、デコ特集があったわけではない。
 2006年5月21日
 スカパー NATIONAL GEO GRAPHIC「密着FCバルセロナ」
 ラポルタ会長と新経営陣がバルサ再建に着手した2003-04シーズンのドキュメント。ライカールト就任1年めのこのシーズン、バルサは前半の不調を挽回。終盤追い上げて2位で終える。この番組の圧巻シーンは経営陣の会議映像。
 「シーズンが始まった頃は皆同等だったけれど、今や僕はその他大勢になった気分だよ」
 など、それぞれが言いたい放題。あれだけ言い合える会議だったら気持ちいい。あのような関係を日本では「風通しがよい」と言うのである。

 この番組の最後、シーズンオフにFCポルトから獲得したデコと契約を交わすシーンが映る。このシーンこそが後のバルサ黄金時代の幕開けだ。
 2002、2003とFCポルトでリーグ2連覇、契約直前にはCLも制覇していた「優勝請負人」デコの獲得。
 ライカールト監督はデコ獲得の報に接し「デコ?信じられない!」と叫んだと言う。

 バルサは翌シーズン以降、デコが加入してからは一度も二位以下でシーズンを終えていない。

 2006年10月6日(金)24:25サッカーアース(ニッテレ)でデコ特集が放送された。放送では「優勝請負人」という言葉が使われた。

 DECOM JAPAN が把握しているデコテレビ出演は以上。

 過去4シーズン、所属クラブをリーグ優勝に導いているデコ、過去3シーズンで2度CLを制しているデコ。クラブチームの成績を重視するバロンドール(欧州最優秀選)は今年こそデコのものになりそうだ。

|

2006年10月21日 (土)

ほぼ日2007牛革ガラスの光

 9月7日、発売日に申し込んでおいた「ほぼ日手帳2007」が届いた。

 2006年7月に初めて購入。在庫があったのはオレンジのナイロンカバーのみ。これはかなり汚れが目立つ。初めのうちこそ、中性洗剤を薄く吸わせた布で拭いていたが、日々汚れるので追いつかない。

 毎日手元に置いて使うものなので、2007年版は牛革ガラス加工にした。
 日々、どのように風合いが変わっていくかが楽しみだ。

■9月7日、ほぼ日ストアで発売。
 クレジットカードはVISA、MASTERしか使えない!手元にJCBしかもっていなかったため、代引きを選択。ただし、後から何度でも変更できる。

 2007年からの改良(追加機能)
■旧暦表示
■通算日数表示
■ふた付きポケット
■しおりの紐の素材が柔らかい布に変わった。ただし、この紐の折れ曲がり防止にはもう一つ工夫をして欲しい。

 2007 主な商品
■ナイロンカバー+手帳 ¥3,500
■牛革ガラス加工 革カバー+手帳 ¥7,800
 ブルーブラック/ダークブラウン
■牛革タンニン仕上げ 革カバー+手帳 ¥6,800
■牛革エンボス 革カバー+手帳 ¥6,800

■手帳のみ ¥2,000
 2年めからは手帳のみを購入して、差し替えることができる。

■アドレス帳 ¥400
 手帳本体から独立した冊子。カバーに差し込んで使う。年が変わっても使える。

 使い始めて 1週間、牛革ガラス加工ブルーブラックの鈍い光がたまらなくいい。

 幻冬舎から解説本「ほぼ日手帳の秘密」山田浩子著 が発売されている。

|

2006年10月20日 (金)

佐野さんの底なし沼

1985年
 2月、国際青年年のテーマ 16th single「YOUNG BLOODS」
 春、ビジターズツアーのスペシャルライブ。初めての大都市限定スペシャルライブ。終わりがけ屋根から風船が舞った。元春が風船を使ったのはこの時が最初。たくさんあったので3つ持ち帰った。電車の駅には手を離れた風船が舞っていた。

 5月、cassette book 「ELECTRIC GARDEN」小学館
 スペシャルライブの際、チラシが配られた。今でこそ元春はこれでもかというほど商品を展開しているが、当時は音楽と映像だけ。ポエトリーリーディング(詩の朗読)という日本では初めての試み。本来、レコード店に走っていたファンはこのとき初めて書店へ走ることになる。僕はこの商品に、後世の流通の多様性を予見した。

12月、12inch single「Christmas time in blue」

1986年
 4月、cassette 「ELECTRIC GARDEN #2」
12月、5th album「Cafe Bohemia」
 このアルバムまではデフォルトがLPレコード発売だった。

1988年
 4月、live album「HEARTLAND」
 初めからCDとレコードが併売された。

1989年
 6月、オリジナル6作目「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」
 後にテレビドラマの主題歌となる「約束の橋」収録。「サムデイ」と並んで一般の人でも知っている数少ない元春曲。

1990年
 5月、single select album「Moto Singles 1980-1989」
11月、オリジナル7作目「TIME OUT!」
11月、著書「ハートランドからの手紙」スイッチ書籍出版部 発表。
12月、著書「AS 10YEARS GO BY」ロッキング・オン 発表。

 著者:佐野元春の新書「ハートランドからの手紙」は難解だった。佐野さんはいつもこんな難しいことを考えて生きてきたのか。その要素を我々ファンにはデフォルメして伝えていたのか。佐野さんの奥深さは底なし沼に思えた。

 当時、速読を体得していなかったため、この1冊を読むのに数ヶ月取り組んだ挙句、ギブアップした。この秋16年ぶりに挑戦してみたい。

|

2006年10月19日 (木)

皇室の本を売る営業

 僕はあるとき皇室の本を売る営業だった。
 数万円する豪華本は堅調に売れていた。
 僕自身は美術に造詣はなく、皇室の知識も皆無。
 なので、興味がある人が買っていくというだけだった。

 ある時、1万円を切る価格での廉価版を出すことになった。
 こればかりはある程度、数を売らなければ建て部数がはけない。

 馴染みの書店の社長に相談すると
「生長の家なら買ってくれるっちゃないと?」
 という。僕はその組織の名前しか聞いたことが無かったが、その総本山が担当していた長崎県にあるのだという。

 今ならば、図書館で10冊や20冊は文献を紐解いてから臨むところだが、何せその頃は読書の習慣がない。何かをしらべるならば本を読む。この当たり前のことを当時は気づかなかった。

 生長の家に営業に行くと言うと、先輩がこれを持って行けと言ってロッカーからごそごそと何やら出して渡してくれた。

 件の社長がアポイントをとり、社長と二人で訪問した。
 本は発売前だったが、理由を言って出来たての一冊を送ってもらった。

 部屋に通される。先方は三人ほどの方が応対してくださった。皆さん、初対面にも関わらず、にこやかだったのを覚えている。

 いよいよ本の紹介にはいる。緊張の一瞬
 僕は、両手で大事に抱えてきた紫の風呂敷包みを、ゆっくりとテーブルに置く。そこでスボンの右ポケットから白い手袋を出してはめる(軍手ではない)
 風呂敷の紐を解き、白手袋の手で本を相手に示し

「こちらになります」
 と言ったかどうか、後はほとんど覚えていない。
 職域で本を売る時は「回覧」という方法をとる。実物に「帯」を巻き、その帯の指名記入欄に買いたい人は名前を書く。
 後日、回覧本を回収に行く。

 販売冊数はまずまずのものだった。絹の白手袋は、今も後輩へと引き継がれているだろうか。

|

2006年10月18日 (水)

5行で書くマラソンの歴史

 マラソンの定義は「公道を42.195km走る陸上競技」

 日本では幼稚園から大人まで、長距離を走る競技をマラソンと呼ぶ。42.195kmの競技は他の "マラソン" と区別するためにフルマラソンと表記される。

 日本では市民参加型の "マラソン大会" が、ほとんどすべての日曜日に開催されている。ただし、42.195kmの大会はその1割にも満たない。本物の"マラソン" を走りたい人は大会を見つけるのに苦労する。

 こどもの会話では「42キロも走れっこないよ」と誰かが言えば「42.195だよ」とツッコミが入る。
 野球の投球プレートとホームベースの距離、弓道の射場と的の距離は誰も言えないが、マラソンの42.195は円周率に次いで、日本ではよく周知された数字である。

■42キロ+195mという半端な距離になった理由。
 ロンドン五輪、当初スタート地点はウィンザー城の門外だった。これをベランダからスタートを見たいと思った王族の意向で門内に変更。この伸ばした距離が195mだった。

*参考文献「きみも走れる42.195km」宇佐美彰朗 自由国民社 1994年9月

5行で書くマラソンの歴史

BC490年
マラトンの戦いで、ギリシャ軍の勝利を伝えるために伝令がマラトンからアテネまでの39.909kmを走り、勝利の報告後絶命したことが起源。
1896年
第一回五輪ギリシア大会 マラソン(37km)が行われギリシアのルイスが優勝。
1908年
第4回五輪ロンドン大会 初めて42.195kmで行われる。後にこのレースの距離が正式ルールに採用された。
1924年
第8回五輪パリ大会で 競技規則の距離が42.195kmとなる
1984年
ロサンゼルス五輪より女子マラソンが競技に加わる。



マラソン講座

|

2006年10月17日 (火)

ピザリッチの実験

 ピザリッチにはチーズの塊がない。視覚で確認できる ピザポテトとの違いは 等間隔に引いたチーズラインだけ。どこがピザ "リッチ" なのだろうか?

 そこで、ピザポテトとピザリッチを買ってきて、目隠し実験をおこなった。

実験参加者
佐藤さん(仮名)男性 スナック菓子を食べて30年のベテラン
鈴木さん(仮名)女性 スナック菓子はよく食べる

方法
A、Bと書いた紙に1枚ずつ乗せ、A→Bの順で食べてもらう。
予見を与えないために菓子名、趣旨は一切話していない。
二人が互いの意見に捕らわれぬよう、それぞれ違う時間帯に実施

回答方法
「Aの方が美味しかった。AはBに比べて**である」
という文脈で回答を求めた。

 まずは佐藤さん
「この2つ全然違うよ。Bが美味いね。Bのほうがこってりしてるかな」

 つづいて鈴木さん
「Aは味が薄い!Bはチーズがいっぱいかかっているって感じ」

 つづいて、僕も試したが同意見だった。

 Aがピザポテト、Bがピザリッチだ。
 ピザリッチは十分リッチだったのだ。

 だが、全国のピザポテトファンのうち、いったい何%の人が、この実験を設営するだろうか。一部のファンが「なんだカルビーは、あざといぞ」と誤解してしまうならば甚だ残念だ。

 ピザリッチの疑いは晴れた。
 しかし、スナック菓子が美味しいと思えない気持ちは停められない。
 スナック菓子を食べるのは、もうよそう。
 そう決めたある日、僕は この期に及んでスナック菓子を美味しく食べる方法を見つけてしまった。
 これは、スナック菓子界に一石を投じるかも知れない。
 きっかけは、セブンイレブンにあった。

10/24「スナック菓子のおいしい食べ方」につづく

|

2006年10月16日 (月)

ピザポテトの歴史

 スナック菓子が年々、美味しく感じなくなっている。食べ始めはよいが、あとは惰性で口に放り込んでいる。

 2000年代のスナック菓子ではカルビー「ピザポテト」が一番美味い。
 他のお菓子とは思い切りが違う。作り手の「美味しいお菓子を食べて欲しい」という心意気が伝わってくる。

 発売以来、セブンイレブンの定番を守っている。店によっては一時期定番を外れることはあっても、また復活してくる。
 トッピングを増やして進化を続けている点において、スナック菓子としては異色の存在だ。

 そんなピザポテトにちょっとした事件があった。
 それを「ピザポテトの歴史(2000年以降)」で振り返ってみよう。

2000年春
ジェノバ風が発売されたが3ヶ月ほどで姿を消す。
2000年春
チェダーチーズ、ゴーダチーズの2種チーズ体制になる。
2000年
10月31日、つぶつぶトマトフレークを追加
2001年
10月22日、チーズパウダーを追加、パッケージをリニューアル
2002年
4月、ジェノバ風バジルとガーリック発売 80g448Kcal
2004年
2月、ホット&スパイシー発売。80g447Kcal
2005年
11月、NEWピザポテトと表記される。説明書きには「パルメザン&チェダーのWチーズをとろ~りトッピング」とある。80g434Kcal。カロリーは110円のかっぱえびせん(100gで486Kcal)とほぼ同じ。標準価格150円、実勢価格138円。
2006年
10月9日、ピザリッチ発売(関東地区コンビニ限定) 65g361Kcal 実勢価格158円 味はピザポテトと変わりない。等間隔にチーズラインが引いてあるが、ピザポテトのように一極集中でチーズがかかった部分が無く、チーズ量はピザリッチの方が少ないくらい。全然リッチではない。

 発売日にピザリッチをコンビニで見た時は、ピザポテトの「食べきりサイズ」の位置づけだと思った。でも、分量は少ないのに値段はピザポテトより高い。ピザポテトの特徴であるチーズの塊も見あたらない。しらべるに "リッチではない" と書いた。

 ただ、翌日、読み返してみて、ピザリッチだけを食べての独断はキケンだと考えた。カルビーのウェブサイトでリリースを見た。しかし、ピザポテトとピザリッチの違いは書いてない。

 そこで、実験を行うことにした。(17日につづく)

|

2006年10月15日 (日)

東海テレビでデコ

 2005年5月、僕は愛・地球博の会場にいた。
 滞在時間は4時間。有効に使おうと思い、事前にコースを調べておいた。
 大阪万博の「月の石」に匹敵する目玉が「マンモスの標本」これを見なければ愛・地球博に行ったのだと自分を納得させられない。
 開門と同時にマンモスに直行。走ると注意されると聞いていたので、全速力の早歩き。 その甲斐あって待ち時間なし。人が立ち止まらないよう動く歩道が設置されており、マンモスとの対面は数秒だったが目標は達成。
 ひとつくらいパビリオンに入ろうと、大好きなリニアモーターカーが展示されているJR館をチェック。

 それでも時間が余ったので、欧州で好きな国 オランダ館とスペイン館へ。
 スペイン館にはFCバルセロナが1991年に獲得したビッグイアーのレプリカがあった。
 後にデコに渡すことになるロエベのピンバッジを買ったところで時間切れ。
 このとき、あの国のことは頭になかった。

 その数日後、デコファンサイトに情報が寄せられた。
 2005年6月13日、デコが愛・地球博を訪れ、ポルトガル館前で即興のサイン会をしたという。メールにはその模様が紹介されたニュースの動画が、東海テレビのウェブサイトで見られるとあった。

 「ポルトガルのデコ選手がポルトガル館を訪れました」
 Tシャツを着たデコが姿を現すと、ナゴヤのおばちゃん達が群がっている。デコを知っているわけがないおばちゃん達。とりあえず有名人には群がっておこうというところか。こういう時「でこ~」は呼びやすい。

 デコがサインしたユニフォームは愛・地球博1,000万人めの入場者にプレゼントされるという。

 これに当たった人は確かにうらやましい。
 ただ、サインとは「本人と会ったこと」「書いてもらっている時の情景」「物理的なサイン」の3点セットに価値がある。
 サインといえども所詮はマジックペンの跡に過ぎない。

|

2006年10月14日 (土)

松井の歴史

 野茂は三振を取りに行った。
 イチローはヒットを打ちに行った。
 松井は何をしに行ったのか。

 恩師長嶋の気持ちを裏切る苦渋の決断をしてまで「連続試合出場の鉄人」
「フォアザチームの好青年中距離打者」と呼ばれたかったのか。

 誰もがわかっている。彼が何のために米国に渡ったのか。
 そう、松井はMLBで本塁打王を取らなければならない。


1974年
6月12日、石川県生まれ 小学5年より野球を始める。
1992年
8月16日、夏の甲子園明徳義塾戦で5打席連続敬遠される。
11月、ドラフト1位(4球団競合)で巨人入団。
2度めの監督就任直後の長嶋監督が1位指名を伊藤智から松井に変更、自ら引き当てた。
1993年
オープン戦1軍帯同 打率.083、開幕2軍スタート。
同年移籍入団の長嶋一茂は.375で一軍スタート。
5月1日デビュー、同日プロ初安打(ヤクルト西村から)。一ヶ月間2軍に置いたのは11年在籍させるための策だったのか?(FAは1軍150日登録×10シーズンで取得できる。松井がFA権を獲得できたのは11シーズンめ)
5月2日、プロ初本塁打(ヤクルト高津から)。
1994年
10・8 ナゴヤ決戦で優勝。この年西武を破り日本一。
1996年
リーグ優勝 セリーグMVP
1997年4月27日
100号本塁打(広島山崎から)
1998年
本塁打王 打点王(共に初めての打撃タイトル)
1999年
 7月27日、オールスター戦で左脇腹肉離れ。連続出場記録を続けるために数試合は途中から守備のみ出場。
9月21日、200号本塁打。
初めて本塁打40本台(42本)を打つがヤクルトのペタジーニに破れ無冠。
2000年
この年、初めてシーズンを通して4番を打つ。7月12日、札幌円山球場で1,000本安打
135試合4番打者で出場。本塁打王(42本)、打点王、日本一、シリーズMVP、リーグMVP、初のゴールデングラブ賞。
2001年
チーム選手会長就任。
4月12日、1,000試合出場
5月3日、1,000試合連続出場(5人め 最高は衣笠祥雄の2,215)「いずれ正選手を追われる時が来るだろうけど、その時まで続けたい」とコメント。巨人に残るつもりだとファンは期待を寄せた。
5月5日、長嶋監督は朝日新聞に「松井よ、君は残って欲しい」という書面を寄稿。トップ選手がMLBを目指す潮流は理解するが、松井だけは日本球界に残って欲しいというメッセージを送る。
打率.333で初の首位打者、ベストナイン、ゴールデングラブ賞。
オフ、6億1,000万円(日本人選手最高)で契約更改。
2002年
テレビ金沢制作シーズンオフ企画番組「巨人松井の極めつけ!加賀金沢食いだおれ旅」で「お世話になったわけですから、今年FA権取得できるけれど、それ以降もYGにお世話になろうかなと・・ローカル局ならではの発言ということで残さしていただきます」と発言。
4月13日、FA権取得
7月9日、出場1,200試合めに300号本塁打(広島黒田から)
8月1日、4番での連続出場日本新363試合
10月30日、巨人での最終打席。日本シリーズ第4戦9回表二死 投手西武豊田 ファーストゴロ。
10月31日、FA権行使MLB移籍を公表。この日に備え松井ホームランカードをつくり、松井好みの事業を展開してきた読売新聞の努力は松井を引き止めるため。松井の選択は日本全体にとって「組織よりも個人」という価値観の転換ポイントになるだろう。
松井在籍11シーズンで巨人はリーグ優勝4回、日本一3回。日本での通算成績は1268試合 打率.307 安打1,390 本塁打332 打点889 盗塁46。連続出場1250試合。
12月、ヤンキース入団。背番号55。
2003年
4月、開幕戦5番レフトで先発出場。初打席初球を安打打点。
4月8日、本拠地デビュー戦 本塁打(満塁)。開幕から7試合連続安打。
4月27日、初めて4番を打つ。
5月22日、初めて2番を打つ。
6月5日、初めて7番降格。4号本塁打。初の1試合4安打。
7月15日、オールスターファン投票選出(リーグ外野手2位)で出場。2打数1安打。
シーズン成績~163試合全試合出場。打率.287、16本塁打、106打点
10月、ワールドシリーズ出場。1本塁打。第5,6戦は4番。2勝4敗でフロリダ・マーリンズに敗れる。
11月、新人王は逃す(記者投票で僅差の2位)。
2004年
3月31日、東京ドーム開催デビルレイズ戦で今期1号。
自分に言い聞かせるような語尾上げの「ん」が口癖となる。
シーズン成績~31本塁打
2005年
シーズン初めて打率3割を超える。
 シーズン成績~打率.305、116打点 巨人時代からの連続出場は1737試合
11月、契約更新~4年およそ60億円 松井巨人復帰せず。
12月、石川県にベースボールミュージアム オープン
2006年
5月11日、守備で左手首を骨折 4か月間欠場

|

2006年10月13日 (金)

佐野さんの切符を岩田屋で買う

 当時は貸しレコード屋ができる前。アルバムを手に入れるためには2,500円を出さねばならず、一枚一枚のレコードはとても貴重だった。

 先輩に頼まれた「HEARTBEAT」をテクニクスのDD(direct drive)プレーヤーに乗せる。針を落とすと始まったのは「ガラスのジェネレーション」
 五十嵐浩晃かと思った。
 聴きやすい曲だな、僕の分も録音しておこう。
すべてはこの曲から始まった。

 それから3ヶ月、貸しレコード屋ができたので、デビューアルバム「BACK TO THE STREET」も録音して毎日のように聞いていたある日。
 シティ情報ふくおかに佐野元春コンサート「ハートランドへようこそ」の告知が出た。
 コンサートというものに行ったことがない。一度行ってみよう。チケットは7月最後の日曜日発売。プレイガイドという所に行けば買えるらしい。
 8月の最初の日曜日、僕は岩田屋デパートのプレイガイドにでかけた。

 「佐野元春のチケットなんですけど」
 お店が開店してから数時間、お昼時。カウンターは閑散としている。
 要請を受けて妖精のようなお姉さんがB4サイズの座席表を出してくれた。いくつかの席がラインマーカーでピンクに塗ってある。それがこのプレイガイドで取り扱う席であり、その上から×がついている席はもう売れたのだという。

 前から7列め、ほぼ中央の場所が2席残っていた。
 その半年後、佐野元春2度目の福岡入りのときは、チケット発売日の開店1時間前から並んで、前から14列めだった。ここの半年が今で言うならば"ブレイク"の端境だったのだろう。

1982年
 5月、3rd album「SOMEDAY」リリース。

1983年
 1月、著書「Scratch」CBS・ソニー出版 発表。
 4月「NO DAMAGE」発表。NYへ出発。

1984年
 4月、初の12inch single「TONIGHT」
 5月、4th album「VISITORS」
 6月、伊藤銀次ハートランドを脱退。

 「VISITORS」は当時、酷評を受けたことになっている。
 売上が伸びなかったのは「SOMEDAY」までについていたファンが離れたのだと理解されている。
 「ニューヨークのヒップポップを日本に持ち込んだ第一人者」と持ち上げられるのは、後世の話。
当の佐野さんが「ビジターズを初めて聴いた時どう思った?」と気にしていたくらいだから、酷評は切実だったのだろう。

 だが、当時はパソコン通信もない時代。
 元春ファンの友達は周囲にいないし、日常で元春の話ができる場所は無い。誰がどこで何を言っていようが聞こえてこない。

 僕は都久志会館の夜を境に、この人にずっと着いていこうと決めていた。
 井上陽水→QUEEN、5年区切りで遷移してきたアイドルがその日、佐野さんに代わった。
 ビジターズは確かに僕が大好きな「HEARTBEAT」とは全然違ったが、佐野さんの楽曲であることに変わりなく、血液が沸騰しそうなくらいかっこよかった。

 「佐野さんがたとえ、クラシックや演歌に転向しても、楽しんで聴けたと思いますよ」
 と言ったら佐野さんはきょとんとしていた。


Welcome to the HEARTLAND TOUR 「東から来た男」もくじ

|

2006年10月12日 (木)

寝る前のチョコは痩せる実験結果

 ちょうど一年前の今日「寝る前のチョコは痩せる」という記事を書いた。
 今年の8月にその実験を行ったので、結果を紹介しよう。

■仮説
 就寝時は、脳が日中に収集した情報のバッチ処理を行う。
 寝る前にチョコを食べることで脳がさらにエネルギーを消費する。
 結果的に痩せる。
 2005年10月12日「寝る前のチョコは痩せる」

■方法
 時間:22時過ぎ~就寝
 内容:カカオ75%、88%、99%のチョコレートを1枚(2×5cm程度)

■検証
 A,B2つのデータを比較した。

 A 2005年 帰郷から帰京した1週間の体重変動
 B 2006年 帰郷から帰京した1週間の体重変動

■結論
 AよりもBの方が、800g体重の減り幅が大きかった。
 つまり、寝る前にチョコを食べた2006年のほうが、食べなかった2005年よりも、800g体重の減り幅が大きかった。

 言うまでもないが、この話をどう捉えるかは自由である。

|

2006年10月11日 (水)

東京マラソン結果通知

 東京マラソンの結果通知メールは10月5日(木)10時頃から送信開始された。
 そして、お昼過ぎ 僕にもやってきた。

=====================================================================

   ◇◇ 東京マラソン2007 抽選結果(落選)のお知らせ ◇◇

=====================================================================
**** 様
受付番号:*******

このたびは東京マラソン2007にご応募いただき誠にありがとうございました。
お陰様をもちまして定員を大幅に上回る申込があり厳正なる抽選を行いました
ところ、誠に残念ながら今回はご意向に沿えない結果となりました。
今後、参加料の未入金が多かった場合には、追加当選者を出すことがございます。
11月中旬頃に再度『東京マラソン2007追加当選のお知らせ』にて通知させて
いただく予定です。
つきましては、下記に記載される『追加当選のスケジュールについて』を
ご一読ください。なお、追加当選の状況に関する問い合わせには対応できません。
また、追加当選に該当しなかった方には再度の通知はお出ししませんので、
何卒ご了承ください

---------------------------------------------------------------------
       追加当選のスケジュールについて
---------------------------------------------------------------------

◆10月上旬  当選者の決定通知 および 参加料入金のご連絡
       (10月末日までに入金)
 ※未入金者が少ない場合は、追加当選者を出さない場合もあります。

   ↓↓↓

◆11月上旬  抽選(落選者を再度抽選し、追加当選者を決定します)

   ↓↓↓

◆11月中旬  追加当選者決定通知 および 参加料入金のご連絡
       (12月上旬までに入金)

【ボランティアの募集について】
10月中旬より募集を開始。
問い合わせ先 東京マラソンボランティアセンター:03-3580-5926
インターネットによるお申込は11月より開始予定http://www.tokyo42195.org/
※ボランティアに申込された方が追加当選され、ボランティアを辞退する場合
にはお手数ですが、ボランティアセンターへご連絡をお願いいたします。

  -----------・-------------・-------------・-------------

 東京マラソン落選通知を受けた52,000人のうち、春マラソンを目指す人の代替レース候補は「湘南国際」と「荒川」

 荒川は例年1月20日頃がエントリー締切。
 2007年に第一回を開催する湘南国際は10月31日締切。

 荒川は2006年に走ったので、走るならば初モノの湘南と思っていた。
 5時間40分という制限時間は、ほどよいハードルの高さ。何よりあの「荒川の風」はもう御免だ。

 だが、通知メールを見て考えが変わる。
 東京マラソンの追加当選発表が11月中旬だという。
 ここで湘南の可能性は消えた。

 完走1回の実績を最後に、マラソンはお仕舞いにするという選択肢も考えた。
 でも5秒で消えた。
 半年間、脚力を落とさぬよう運動を続けてきたことがもったいないということはない。

 ただ、これからの暮らしで運動の習慣がなくなることを考えたら怖くなった。

|

2006年10月10日 (火)

会社にLANがやってきた頃

 今から8年ほど前に職場にLANがやってきた。
 ヨコに平べったいプラグが付いた線が机にきた。
 僕は さらにその8年前から自前のノートパソコンを使っているので、やっと来たかという感じだったが、周りのみんなにはパソコンがない。

 

 「motoくん、これ入らないよ」

 電話機に挿しているおじさんがいて、
 「もういやこんな生活!」
とは言わずに、根気強く説明する。

 
6極2芯と6極4芯の違いがわからない人に10ベースTを説明するのは骨が折れた。

 


 経理処理の変更に伴い、複数のデスクトップパソコンが導入された。
 その時点で8年使っていたので、パソコンは「1人1台」で使うものだということがわかっていたが、僕が「1人1台化」を提唱すると、周りはバカじゃないの?という目で見た。

 


 「一日じゅう使うわけじゃないから」
 「40代以上の人はもう無理だよ」
 「だから、5人に1台でいいよ」

 

 今、書くと笑えるが、当時はこれが日本人の標準的な考えだったのだ。

 パソコンというものには女性の方が積極的だと言うことは、この頃にわかった。
 時間さえあれば、5人に1台しかないパソコンを占有しているのは事務のおばさん。

 異動で職場も変わった3年後、この頃パソコンを教えてあげた50代のおばさんが退職する時、メールをくれた。

 「20年勤めましたが、この会社に勤めてよかったなと思うのは moto さんにパソコンを教えてもらったことです」
 とあった。

 

 もちろん「5人に1台」のパソコンを、男性営業マンが昼間から占領していようものならば「なに遊んでいるんだ?」と、どやしつけられただろう。

 当時はパソコンは遊び道具と思われていて、会議にノートパソコンを持ち込みメモをとっていると「誰だ会議中に遊んでるのは?」と言われたものだ。

 

 こうして"OA化"された会社で変わったこと
・事務のおばさんの自主的残業が増えた。
・最終退出時間が遅くなった。
・とりあえず「取り残されまい」という危機感、存在感を示そうという「アピール」の絶対量が増えた。

 

 支店長が、朝礼の訓示で事務のおばさんに
「パソコンなどを使って戦略的事務ができない人は辞めて下さい」
と言ったけど、誰1人辞めなかった。
 それはそうだ。おばさんたちは
「戦略的じゃないのはどっちよ?」
と心で思っていたからだ。

 


 その頃、僕が会社に導入して最もヒットだったのはエクセルでもワードでもなく、9:00、12:00、17:00などセットした時間にチャイムが鳴る掛け時計。

 大会社は放送設備でチャイムが鳴るが、地方の貸し事務所ではチャイムは鳴らない。
 それ以前は「ケイコちゃんはお昼休みを2時間取っている」などと、女性どうしの中傷合戦があったが、とりあえずそういう次元のことがなくなっただけでも、会社の雰囲気はよくなった。

 

 改革はできることの積み重ね。
 夢のようなノウハウ、魔法のようなベストプラクティスは機能しない。

|

2006年10月 9日 (月)

会社が辞めさせようと狙う人

 会社都合退職リストに挙がる人の特徴。

■地位や給料が高い人

■なんでも会社の言うとおりになる従順な人

■会議で活発に発言したり仕事もやり自分の考えを積極的に述べたりするけれど、これという具体的な成果がなく資格もない「中途半端」な人

■コンピューターを自ら遠ざけている人、会社のシステム化に協力しない人

■自分の殻に閉じこもり自分の領域だけこなしている人

■人事部の社員と音信がない人

労働組合に入っていない人

■労働組合で、役員など目立った活動をしていない人

*参考文献~「会社をやめる父から会社に入る息子・娘たちへ」東京管理職ユニオン日本労働弁護団編 教育資料出版会 1994年1月初刷



しらべる

|

2006年10月 8日 (日)

日本のテレビでデコ

 今週はデコが日本のテレビに登場した記録を振り返ろう。

 まずは仄聞から。
 僕がデコファンになる8ヶ月前、ポルトからバルセロナに移籍したデコは契約直後の日本ツアーに参加していた。
 暴漢とのトラブルで怪我をしていたため試合には出ていないが、日本のサッカー番組に出演したらしい。デコが日本のテレビプログラムに出演したのは、恐らくこれが最初。

 ちょうどアジアカップで日本が優勝した直後。
 日本の抗議で審判がPKのサイドを替えたVTRをみて「こんなことは初めてみた」とコメントした。

 僕がファンになってから、日本のテレビで接したはじめてのデコは
2005年3月5日(土)テレビ朝日「SmaSTATION-4」

 小野伸二 2005年7月バルセロナに移籍か?
 のニュースを受けてゲストの加賀まりこが
「わたしデコ選手が好きなんですよ」

 それを受けて香取くん
「お詳しいですねぇ。小野とロナウジーニョ見たいですねぇ」

 おい、デコはどこいったんや!
 思わずテレビに向かって、関西弁でつっこんでしまった。
 あそこで「デコと小野は守備位置かぶりませんかねぇ」と言えばかっこよかったのに、恐らくこのとき、香取君はデコを知らなかったのだろう。

 つづけて加賀まりこ、スタッフをチラッと見やりながら
「最近それが見れるほかの局(WOWWOWのこと)がやってるBSいれたんです」
とやったが、香取君、こちらは当然スルー・・

 だが、肩透かしを食った翌朝、しっかりデコが出た。
 3月6日(日)、CX「UEFA CHAMPIONS LEAGUE MAGAZINE」
 冒頭4分弱、デコのインタビュー。CL決勝トーナメント1回戦チェルシー戦に向けての意気込みを語る。
 欧州サッカー選手は強気と相手への敬意を両立させる。「勝つことしか考えていない」「やるしかない」という言い方はせず、勝つことの可能性があるように、負ける可能性がある、十分な準備をしたいという展開でまとめる。
 慣れてくるとくそ面白くない、いつものコメントだが、この時は、初めて聞く欧州サッカー選手のコメントに、サッカーの歴史の重みすら感じた。

 デコはFCポルト時代の恩師モウリーニョ監督について「勝つことを教えてもらった」と最大限の敬意を寄せた。
 今は袂を分かったかつての教え子デコに「がんばれよ」とクールに肩をたたくモウリーニョの姿が映し出された。

 その3ヵ月後、デコは日本ツアーで来日する。
 デコのテレビ出演は意外な場所、意外な展開で訪れた。

|

2006年10月 7日 (土)

松井巨人移籍せず

 一年前の今日「松井 巨人移籍」という記事を書いた。

 ヤンキースとの3年契約が終わり、松井が次の契約をどの球団と結ぶのかが注目されていた。実際にはヤンキースと何年契約を結ぶのかというところにメディアは焦点を当てていた。
 どのメディアも、報知新聞も「松井巨人移籍」とは書かなかった。
 結果を正確に予測していたのだろう。

 だが、スポーツ界の移籍情報は、政界のポスト争いとは趣が違う。移籍話しには遊びがあっていい。移籍情報を誤報しても購読者は目くじらを立てない。
 情報そのものが "ネタ" なのだから、1%でも可能性ある限り「松井巨人移籍」と書いてもよさそうだ。
 巨人ファンならば、嘘でもその新聞は買う。
 どんな嘘が書いてあるのかだけでも興味がある。

 それほど、巨人には松井が必要なのだ。

 巨人は2002年の日本シリーズで西武を4勝0敗と完膚なきまでに叩きのめして勝った。西武球団創設以来、1980年代、巨人は西武にまったく歯が立たなかった。1994年に10・8を制した長嶋巨人が初の一矢を報い、2002年は就任1年めの原巨人が完勝。
 第4戦、代走鈴木が浅いレフト前ヒットで二塁から生還。いったいどこまで速いのか?という快走に、かつて クロマティの緩慢プレーの隙をつかれた借りを返したと、巨人ファンは溜飲を下げた。

 そのシーズン50本塁打を打った松井は、日本シリーズの完勝後、巨人を去った。
 「裏切り者と言われるかもしれないけれど」
 記者会見で松井が語った言葉に、センチメンタルに肩入れしたコメントが紙面を埋めた。
 権利だから堂々としてよい。松井にその一言を言わせた方が悪いという論調。辟易した。

 どう考えても、裏切り者以外の何者でもない。
 それほどファンも讀賣新聞社も松井に命運を賭けてきたのだ。松井好みの施策をうつ讀賣新聞社の姿は健気だった。

 一家の大黒柱の父ちゃんが「俺には夢があるから一人で米国に行く」と言ったら、家族も親戚も一斉に裏切り者と叫ぶだろう。
 松井にFA権があるように、父ちゃんには基本的人権がある。権利の行使は裏切りではないという定義が通るならば、世の中はずいぶんと違ったものになるだろう。

 巨人には松井が必要だった。
 それは松井という戦力が必要なのではない。
 巨人を去った松井というピースが、元のパズルにはまることが必要なのだ。

 松井は最後のワンピースだった。2005年オフまでは。
 そのピースが埋まらない巨人パズルは迷走を続ける。
 ただ、このまま永久に優勝しないようではファンは困る。

 まず55を誰かにつけさせる。
 讀賣新聞の松井コラムを中止する。
 ムードを壊しているメジャー行きたい病の選手は不要。

 巨人は松井が出て行くまで、駒田の例外を除けば
 来るものは拒まず、去るものは追わず
 という堂々とした球団だった。

 強い球団は誇りに満ちている。
 野球は個人技の総和ではない。心にくすぶるものを取り除かねば勝てない。
 坂本に55を与え、サード二岡をチームリーダーに据える。

 2007年は誇りを取り戻した巨人を見たい。

|

2006年10月 6日 (金)

佐野さんとの出会い

 1980年3月、シングル「アンジェリーナ」でデビューした佐野さんは今月でデビュー以来26年と7か月を迎えている。

 2006年12月、佐野元春デビュー25周年記念オフィシャルブック
「MOSTLY MOTOHARU-WE WILL BE WITH YOU-」が出版される。
 元春の歴史、ライブリストから最新インタビューまでの豪華本。

 ん、25周年・・
 まっ気にしない気にしない...

【 しらべるが把握している佐野さんの歴史 】

1956年
 3月13日、東京都生まれ

1973年
10人編成バンド「バックレイン元春セクション」結成

1974年
立教大学入学。

1978年
ヤマハポプコンで「Do what you like」が最優秀作詞賞

1980年
 3月「アンジェリーナ」でレコードデビュー
 4月、オリジナルファーストアルバム「BACK TO THE STREET」リリース
10月、バンド名「ハートランド」に決定

1981年
 2月、セカンドアルバム「HEARTBEAT」リリース
 4月、NHK「サウンドストリート」月曜日DJを担当
 秋「ハートランドへようこそ」初めて東京以外の都市でライブ

 佐野さんはこの頃のライブについてこう話してくれた。
「この頃、誰も上手いねと言ってくれなかったけど、皆すごいねと言ってくれた。ステージの上で死んでもいいと思っていた」

 僕にとって生涯初めてのライブ(コンサート)は1981年10月、福岡市は都久志会館で行われた佐野さん九州初上陸のライブ。

 佐野さんとの出会いはその6ヶ月前に遡る。

 「motoくん、これまた録音しといて」
 学食でオムライスを食べようとバイクのヘルメットをテーブルに置いた時、ミニコミ編集部で一学年先輩のあつこさんから一枚のLPレコードとカセットテープを手渡された。
 下宿にレコードプレーヤーがない あつこさんはいつも生協で新しいレコードを買っては、僕に録音を頼む。

 タイトルは「HEARTBEAT」佐野元春
 も・と・は・る? 初めて聞く名前だ。
 ジャケットをひっくり返すと、パントマイム?の若い兄ちゃん。
 なんか変なやつだな・・

 その後、僕に訪れるインターネットを巡る様々な出来事は、この瞬間に起因している。

10月13日につづく



Welcome to the HEARTLAND TOUR 「東から来た男」もくじ



|

2006年10月 5日 (木)

ISO?ベストプラクティス?

 IT業界人がITIL(あいてぃる)について話すとき、彼らは必ず "ベストプラクティス" という言葉を使う。
 これは「勝ち組、負け組み」と同じくらい嫌な言葉で、もし相手が親戚だったら説教したくなる。
 何が嫌かというと、自分が努力して積み上げたことでもなければ、その目で現場を見たことわけでもない。それを、さも見てきたようにワンフレーズで片付けてしまう尊大さ。虫ずが走る。

 自分で知恵を出して試行錯誤し、数々の失敗を経てようやく仕事の形ができた。そうして汗を流した人は、自分の努力の記録を「ベストプラクティス」と言いはしない。

 そういう他人の努力をまとめて "いただく"のであれば「好事例を体系化して、システム化しました」という程度の堅実な表現が似つかわしい。

 それをITベンダーの営業マンは「間違いないです。ベストプラクティスですから」と涼しい顔で言い放つ。たかが好事例に過ぎないのに、それがすべての会社に当てはまるという認識は誤解だ。

 ただし、その営業マンはベストプラクティス病にかかっているので、自分の誤りに気づかない。

 ITILの認定資格である ISO20000 は 資格と規格が大好きな日本人に受け入れられるだろう。

 営業の立場から言って「あいてぃる」では押しが弱い。
 「また、売りつけようと思って難儀な欧米のものを持ち込んで・・」という目で見られるのが関の山だ。
 だが、ISOは違う。ISOは有名だ。
 日本人ならばJISにもっと畏怖を抱いて欲しいが、実際にISOは説明要らずで受け入れられる。
 なぜか、皆「はは~っ あいえすおー様 」と畏れている。

 IT利用による業務改善への興味もセンスもないが、権威に弱いヒラ社員。
 カネは使いたくないが、外圧に弱い管理職。 こういう人種には ISO の名前でプレッシャーがかけられる。

 IBMはITIL創成期より、これに深く関与している。
 IBMのコンサルが入ってくると ITIL を強く薦める。
 だが、薦めている方も、薦められた方も、ITILの話をしている時は、お役人みたいな難しい顔になり、活き活きとしなくなる。笑顔が消える。

 日本人は法治と人治の中間スタンスをとる民族。
 元々、契約、条文で縛りあう風土がないのだ。

 ITIL、ISOを推進して、自分の会社はハッピーなのか? 導入によって、誰が得をしているのかを 一度立ち止まって考えるとよいだろう。


|

2006年10月 4日 (水)

青梅 東京 荒川 湘南

 2007年2月に開催される 東京マラソン2007の募集定員は25,000人。これに対しておよそ77,000人が参加を申し込んだ。

 東京では毎年3月、荒川市民マラソンが開催されている。
2006年まで、関東の春マラソンは荒川しかなかったため、定員15,000人はいつも埋まっていた。

 東京マラソンの前身、東京国際マラソンは、例年2月の第二日曜に行われていたが、2007年はその日が建国記念日と重なる。十分な警備態勢がとれないという理由で、第三日曜の開催となった。同日は青梅(おうめ)マラソン(※1)の開催日だった。

※1 青梅マラソンは30kmの長距離レース。しらべるでは42.195kmのレースだけをマラソンと表記している。

 青梅、荒川は東京マラソンの動向に影響を受ける。
 特に同日開催となる青梅の主催者は日本陸連に抗議したが、受け入れられなかった。その後、第41回青梅マラソンの開催日は2週間繰り上げて、2007年2月4日に変更されている。

 競技人口が一定と仮定すれば、東京マラソンを走る25,000人分、青梅と荒川はランナーを失うことになる。
 東京マラソンが呼び水となってマラソン人口が増えると仮定すれば、現状は維持できると予測する。だが、いずれにせよ今以上の活況を呈すとは考えづらい。

■2006年のパイ
 青梅 16,000人
 荒川 18,000人
 合計 34,000人

■2007年の定員
 青梅 15,000人
 東京 25,000人
 荒川 15,000人
 湘南  7,000人
 合計 62,000人

 東京マラソンの抽選発表は「10月上旬」申し込みメールアドレス等に通知される。
 申し込んだおよそ77,000人のうち52,000人が落選する。女性ランナーの申し込みが少ないと想定されるので、52,000人はほとんど男性ランナーとなるだろう。

 この52,000人のうち、どれだけの人が「冷やかし」なのかはわからない。マラソンランナーであっても「東京じゃなきゃ走らない」という人もいる。そうしてある程度目減りしたとしても、大勢のランナーが行き場を失う。

 その受け皿となるのが荒川、そして「第一回 湘南国際」だ。
 湘南国際は東京マラソンがメディアに盛んにとりあげられるようになった頃、発表された。
「東京マラソンを走りたかったけれど外れた。せっかく練習しているのだから、代わりに出られるレースはないかな?」という神奈川エリアのランナーが集まりそうだ。

 それぞれのレースの締切日を以下にまとめた。

 6月18日「東京マラソン」受付開始
 8月 1日「湘南国際マラソン」受付開始
 8月18日「東京マラソン」申込締切
 9月 1日「青梅マラソン」受付開始 先着順15,000人

10月上旬「東京マラソン」抽選結果通知
10月31日「湘南国際マラソン」申込締切
11月30日「青梅マラソン」申込締切

*荒川は例年1月下旬に申込締切

 来週水曜の「しらべるが走る!」の時には、もう東京マラソンの当選発表が出ているだろう。そこから一気に77,000人が動き出す。



マラソン講座

|

2006年10月 3日 (火)

ITIL

 【 あいてぃる 】 IT Infrastracture Library
 コンピューター・システム運用の好事例集。

 英国商務局がまとめたコンピューター・システム運用の模範的なガイドライン。「サービスサポート」「サービスデリバリー」の2冊を核とする7冊にまとめられている。初版1989年。

 英国ではBS15000として規格化されていて、2005年には ISO20000として国際規格として発行された。

 ITILは以下のそれぞれの立場について規定している。
顧客 =クライアント
ユーザー =エンドユーザー
マネージャー 各部門責任者
サービスプロバイダー 開発部署
サービスサプライヤー 運用部署

 ITILの7冊
サービスサポート(通称 青本)
サービスデリバリー(通称 赤本)
セキュリティ管理
ビジネス展望
ICTインフラストラクチャ管理
アプリケーション管理
サービス管理の導入計画立案(通称 緑本)

 ITILの解説本を読むよりも、ITIL の青本、赤本、緑本を読んだほうがわかりやすい。それが理解への最短距離。

 もしあなたがIT業界人の知り合いに 「ITILってなに?」
 と尋ねたら、九分九厘次の答えが返ってくるだろう。

「ITIL? そりゃ、ベストプラクティスの教科書だよ!」

5日につづく


|

2006年10月 2日 (月)

デコの誕生日

 デコの誕生日は1977年8月27日である(現在29歳)
 だが、デコ本人から聞いたわけではないので確実な情報ではない。

 デコ公式サイトがあれば、8月27日には「Happy Birthday」の文字でも躍って、それをもってその情報は確実と断定できる。だが、デコ情報はどこにも断定の材料を提供してくれる場所がない。デコ自伝にも誕生日についての記述が見当たらない。

 ポルトガル戦のファインゴールをテレビで見た人はインターネットで「デコ」を検索する。実際にやってみると「アール・デコ」や見知らぬキャラクターの「デコ」情報に埋もれてデコ本人情報にたどり着くのは難しい。
 そこでキーワードを増やして「デコ ポルトガル」とやってみる。
 するとデコ本人情報が並ぶ。そこには不肖デコファンサイトも並ぶ。だが、公式情報サイトはなく、どこを開いても断定には至らない。

 デコの誕生日は、確認できているもので2通りの情報がある。
 デコファンクラブ仲間がそれぞれに持ち寄ったものは以下の通り。

●1977年8月27日と記述

■FIFA発表、2006年W杯出場選手リスト
■ユーロ2004</a>決勝マッチプログラム
■WORLD SOCCER GRAPHIC 2005年6月号
 株式会社ぴあ
■ワールドサッカーマガジン 2005年5月5日号、5月19日号
 週刊サッカーマガジン 2005年3月1日号
 いずれもベースボールマガジン社
■WOWOWのウェブサイト
■FTChapmsデコのブリスターパックに封入されたプロフィール。

●1977年9月27日と記述

◆EUROPEAN SOCCER Liga05/06 メディアックス
◆ワールドサッカーダイジェスト 2005年4月7日号、4月21日号、5月19日号
 「2004-2005 EUROPEAN SOCCER BEST100」2005年5月11日刊
 いずれも日本スポーツ企画出版社
 2006年3月現在も、スポーツ企画出版社は一貫して9月27日表記で貫いている。
◆ワールドサッカーキング 2005月4月7日号、9月1日号 朝日新聞社

 FIFA、ユーロマッチプログラムの情報が一致していることで、デコファンサイトでは8月27日と判断している。だが、断定には至らない。
 いつかデコ本人に聞いてみたい。

 デコブログは今後も 毎週(日)に連載!

|

2006年10月 1日 (日)

しらべるが走る!

 2007年2月18日
 東京の目抜き通りを走る市民参加型レース「東京マラソン」の第1回が行われる。
 新宿の都庁をスタート、皇居を半周して銀座、品川、浅草を回り、お台場の東京ビッグサイトにゴールする。

 TOKYO BIG MARATHON FESTA
 「東京国際マラソン」と「東京シティロードレース」を統合。
 日本陸連と東京都が共同主催。
 この大会はトップアスリートのレースでもあり、高記録を出すために標高差のあるレインボーブリッジはコースから外された。

 2005年
 12月12日、第一回開催日を正式決定 制限時間7時間、定員3万人と報道された。
 2006年
 4月10日、開催要項発表。
 6月18日、エントリー受付開始 2ヶ月でおよそ8万人が応募

 2007年
 2月18日(日)第一回開催

 しらべるでは、2005年暮れにふと思いつき、2006年3月にマラソンを完走した。歩き始めて4ヶ月、走り始めて2ヵ月半、いかにして42kmを走りきったか。

 「しらべるが走る」と題したWebページを本日公開した。
 このブログでは、水曜日に「しらべるが走る」を連載していきます。また、読みに来てください。

*10月1日分デコブログは10月2日に掲載します。



|

« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »