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2007年10月の31件の記事

2007年10月31日 (水)

ハロウィン

 【 Halloween 】 キリスト教の祝日「万聖節」の前夜祭。
 All Hallows even(万聖節の前夜)が縮まって Halloween と呼ばれるようになった。

 

 元々はキリスト教とは関係なく、ケルト民族が1年の終わりの日(10月31日)に悪霊に取り憑かれないよう魔女などの扮装をしたのが始まり。

 

*参考文献「カントリードールNo.24」学研 2004年10月

 

 10月31日の夜、かぼちゃのお化け(ジャック・オー・ランタン)や魔女などの仮想をした子どもたちが、近所の家を回り
「 Trick or Treat ! (お菓子をくれないと、いたずらするよ)」
と言うと、家の人は「 Treat. 」と答えて、お菓子を渡すのがお約束。

 

 そのお菓子を持ち寄って開くのがハロウィンパーティ。
 日本の子供達は、近所の家を回っても誰もお菓子をくれないので、自分の親からもらったお菓子を持ち寄ってパーティだけを開く。

 

 小学校では2002年度の新学習指導要領で始まった「総合的な学習の時間」でハロウィンに仮装大会をやる学校がある。
 黒い布を羽織り帽子を被るだけと、準備が楽な「魔女」の仮装が最も多い。
 ジャック・オー・ランタンが縮まって児童には「ジャコランタン」と呼ばれている。
 本当にジャコランタンという名前だと思っている人も少なくない。
 Googleで「ジャコランタン」で検索すると、2002年10月には500件超がヒットした。
 5年後の2007年10月にやってみると、24,100件に増えていた。
 Googleの情報収集能力が高まったのか、ブログ普及のせいなのかはわからないが、ハロウィンは2000年代にはいり、急速に認知度が高まった。文科省の「ゆとりの教育」が一役買ったのかも知れない。

 

 日本人はクリスマスと言い、ハロウィンと言い、他国の文化をアレンジして楽しむことに長けている。サンジョルディが根付かなかったのは、本をもらって喜ぶ男が少なかったのだろう。

 

 今日はお菓子を買って帰り、えっと合言葉はなにかな?
と言ってみましょう。
 一人暮らしの場合、一人二役で。

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2007年10月30日 (火)

長崎へ旅する人へ

 これから長崎市へ旅する人へ
 長崎市の攻略ポイントをまとめました。

■ツル茶ん
1925年(大正14年)創業。
トルコライスは、バターライス+とんかつ←カレー+ナポリタンスパ。他にテキトルコ、チキントルコ、シーフードトルコなど6種類。
油屋町店本店は路面電車「思案橋」電停から徒歩2分。十八銀行のところから鍛冶屋町通りに入り1本めの角を右に曲がってすぐ左。
トルコライスは昭和30年頃長崎市で生まれたと言われる。
北海道の根室には同様のものが「エスカロップ」という名前で喫茶店のメニューにある。

■江山楼 こうざんろう
新地中華街でちゃんぽんが美味い店。上チャンポン、炒飯が特に美味い。
二人で行けばこの二品、三人で行けば皿うどんを含めた三品を頼んで分け合うとよい。
さだまさしが毎年8月6日に開催していた無料コンサート「夏・長崎から」の出演者に無償で料理を提供し続けてきた。


■五三焼き カステラ
卵黄五個に対して卵白を三個の比率で使い、砂糖も多めに使って焼く長崎カステラ。大半のカステラ製造元が発売している。1本2000円前後。
カステラは玉子、小麦粉、砂糖、水あめで焼く和菓子。ポルトガル人が伝えた「カストルボル」という菓子が原型。
1624年福砂屋が創業
1681年山口屋、現在の松翁軒が創業


■原爆資料館
1996年に全面改装された。それ以前はガラスショーケースに資料が並んでいるだけだった。改装後は地形模型での被爆当日のシミュレーションや、長崎投下原爆「ファットマン」の裁断模型などより視覚的になった。


■長崎の原爆
1945年8月2日、原爆投下実行命令 第一目標広島、第二目標小倉、第三目標長崎
8月6日、広島にウラニウム爆弾「リトルボーイ」投下。
8月9日、作戦進行が遅れ小倉の有視界が確保できず長崎に変更。長崎も有視界確保できていなかったが、燃料の都合で重たい原爆を沖縄基地に持ち帰ることもできず、海に捨てるよりはどこかに落とそうという判断で10時58分、プルトニウム爆弾「ファットマン」投下。11時2分着弾。

ど素人!長崎県講座

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2007年10月29日 (月)

江の島から出た第二回湘南国際マラソン

 湘南国際マラソンの大会事務局から第二回開催のパンフレット、宿泊の案内が郵送されてきた。

 第2回は第1回とは大きく2つの点が違う。
 1,マラソンではなく30kmレース。
 2,江ノ島スタート・ゴールではなく、大磯スタート・ゴール。

 同封されていたあいさつ状によると、
 30kmに短縮された理由~「安全のため、台風9号による西湘バイパス陥没部分をコースから除いた」
 発着を大磯に変更した理由~「より大きな大会をめざすため」

 コース図が同封されているが、折り返し地点は江ノ島の手前5~6kmのところに設定されている。
 「ここに6kmあるじゃん」
 地図を見てつっこんだ。
 江ノ島を折り返しにすればあと12km、合計42.195kmは確保できるだろう。
 "より大きな大会を目指す"のであれば、第3回で42.195kmの大会に戻してからでもよいはず。規模を維持しておこなう第2回を大磯発着にする理由としては弱い。

 これら2つの苦しい言い訳を読むと、この大会が江ノ島から出なければいけない理由があったのではないかと推察できる。

 距離は12km短くなったが、参加費は8,000円で第1回のマラソンの時と同じ。
 もちろん「29%距離が短いから、5,680円にしました」と言っても、ランナーの心には響かないだろう。

 制限時間は30kmで4時間(第1回のマラソンでは、第3関門31.3kmの制限時間が4時間3分だった)
 これはほとんど変わらないが、第一回同等の道路封鎖時間をとれば、制限時間は延ばせるはず。
 もちろん「30kmと距離は短いですが、制限時間は去年と同じ5時間40分です」と言っても、ランナーの心には響かない。

 同日の3月16日に第11回荒川市民マラソンが開催される。
 こちらは本当のマラソンで、参加費は5,000円。

 湘南国際のエントリー締切は12月22日。
 第1回は10月31日締切だった。締切が東京マラソン二次抽選発表の前だったため、東京マラソン落選組を拾えなかった。

 2008年4月のかすみがうらマラソンが終ったところで、東京マラソン10万人の落選者がどう動いたかを検証したい。

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2007年10月28日 (日)

因縁のアンリ

 2006年7月5日
 ワールドカップ準決勝 デコのポルトガルはアリアンツ・アレナフランスと対戦。

 前半29分、ペナルティ・エリア内でフランスのアンリとカルバーリョが競り合う。
 アンリはこぼれ球を拾うより、尻餅をついたカルバーリョの足にひっかかることを選択。
 主審ラリオンダさんはこれをPKと判断。
 33分、ジダンが決めてフランス先制。リカルドは読み切って(キッカーからみて)左に飛び、かすかにボールに触れたがゴール。

 このせこい1点が決勝点となり、デコとポルトガルのワールドカップ優勝がなくなった。
 36分にはペナルティ・エリア内でクリスチアーノ・ロナウドが押されたが、主審ラリオンダ(国籍:ウルグアイ)さんはPKをとらなかった。

 この一件以来、デコファンはアンリを快く思っていない。
 2006-07シーズンではCL決勝でバルサと当たり、審判のせいで負けたとぶーたれたアンリ。
 勝者のバルサに敬意を表さなかったアンリ。
 そして、その2ヵ月後、今度はせこいプレーでポルトガル優勝の芽を摘んだ。

 デコファンにとってみれば、アンリは腹が立つ奴だ。
 デコはフランスに負けた後、こう語っている。
「決勝進出が夢だったのでチームは悲しんでいる。フランスはブラジル戦で素晴らしいプレーをしたので今日の試合が厳しくなることはわかっていた。
 足りなかったのはディフェンスを突破してゴールを決めることだけだった。フランスは我々より強かったわけではない。フランスは得点を決めた後、後に下がって守り、アンリを使ったカウンター攻撃を狙うだけだった」

 自らも驚くような跳躍力でダイブしてファウルをもらうことが多々あるデコ。
 アンリのせこい姿勢について、なにも言及していない。
 だが、そのせこい1点のお陰で「守りのチームフランス」の勝ちは決まった。

 それから1年後の2007年6月25日、FCバルセロナはティエリ・アンリ(8月で30歳)との4年契約を発表。

 デコにとって波瀾万丈のシーズンオフが開幕した。

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2007年10月27日 (土)

日本シリーズを巡る幸せの順番

 2006年ワールドカップドイツ大会
 準決勝でアンリのせこいPKにより0-1で敗れたポルトガルのスコラーリ監督は、
「この数日後に3位決定戦を戦うのは酷だ」
 と言った。
 FIFAに2チーム分の銅メダルを作る予算がないわけでもないだろう。
 3位が2チームあっても、何もおかしくはない。
 ただ、日程もあるし、選手も拘束してある。とりあえずカネになるからやろうという存在価値が低い試合。

 さて、NPBのクライマックスシリーズ~日本シリーズはやはりダメだ。

 中日・落合監督
■2007年ペナント・レース前の談話
「日本シリーズは去年で終ったな」
■巨人リーグ優勝時の談話
「今年の三つのハードルのうち一つ目を越すことができなかったが、チャンスが残っている。悔しさをそこにぶつけたい」

 クライマックス・パでは勝者のヒルマン監督を胴上げしたが、クライマックス・セでは、中日は落合監督を胴上げしなかった。勝者の盾をかざしてはしゃぐウッズをコーチが制する姿も見られた。

 この時、選手たちはこう言った。
 「全然嬉しくない」
 「日本シリーズに勝たなければ、この勝ちの意味がない」

 一方、巨人上原は優勝を争っていた終盤。お立ち台でこう言った。
 「優勝します。それしか狙ってないです。クライマックスなんておまけみたいなもんだから」

 ペナントレース、クライマックスシリーズ、日本シリーズと続くレギュレーションの中で幸せな順にグループを分類するとこうなる。

 最も幸せ
  ↑
1、ペナント優勝、クライマックス勝利、日本シリーズ勝利
2、ペナント優勝、クライマックス敗退
3、ペナント2・3位、クライマックス勝利、日本シリーズ勝利
4、ペナント2・3位、クライマックス勝利、日本シリーズ敗退
5、ペナント2・3位、クライマックス敗退
  ↓
 あまり幸せではない

 3の場合、東京大学に3年から編入して、主席で卒業しました。
 よく知らない人からは「よっ日本一」と言われるし、「日本一」と言い張れないことはないが、自身には忸怩たる思いが残る。
 といったようなものだ。

 4の場合、クライマックス第1、クライマックス第2、日本シリーズと戦ったのに、結局何の栄誉も残らない。ピエロに等しい。

 このような厳しい精神状態で戦う選手は、それを貴重な経験と前向きに捕らえるだろうか。
 メディアで見る限り、中日の選手はとても集中しているように見える。それは、パターン4になった時の悲惨を思うとぞっとするからだろう。

 日本一という名誉がなくなった今、健康管理と翌シーズンへの準備を考えた場合、選手の本音を言えばパターン2が一番の幸せだろう。
 リーグ優勝が決まれば、あとは「おまけ」のカップ戦がだらだらと続く。いずれファンの興味も薄れる。

 それでも、NPBは「反省もあったが、一定の成果があった」などと言って、来期は「変則日程」をパセ同時進行に修正して、胸を張ってこの制度を続けるかも知れない。

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2007年10月26日 (金)

昔は自律神経失調症

 ある時、焼鳥屋の店員だった。

過度のストレスが原因で体調を崩していたという焼き場の佐藤さん(仮名)が店に復帰した。

 お店の創業以来ずっと続いているという夕方の朝礼で挨拶した。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。
 また出てきましたので、よろしくお願いします」

 当時は自律神経失調症といった。
 自律神経は内臓や血管など人の意志に関係なくはたらく器官を支配する神経。生命の維持に必要な機能を自動的に調整する役目がある。

 自律神経には交感神経と副交感神経がある。
 交感神経=緊張、興奮状態のときにはたらく。
 副交感神経=緊張、興奮状態をおさめてリラックスさせるようにはたらく。

 この両者のバランスが体内の機能を維持している。
 このバランスが崩れるのが「自律神経失調症」。
 頭痛・目まい・疲れやすい・食欲がないなどの症状が出る。

 ただ医学的には「自律神経失調症」という言葉はほとんど使われない。
 ストレスの1つの言い方に過ぎない。

 そんなことを知ったのは、数十年後。この時は神経が削られて失われてしまう?壮絶な病気だと思っていた。この時の佐藤さんの症状は、今で言えば心の不調。それを身体を借りて訴えたものだ。

 さて、もしあなたが偉い人、たとえば社長や店長の職位にあり、佐藤さんの職場復帰の第一声を受け、社員の前でなんと言うだろうか。

 心の調子が悪い人に「がんばれ」という言葉はかけられない。
 周りのみんなに、それをわかって欲しい。
 ただ、その空気が本人に伝わらないよう配慮が必要だ。

 心を病む人は、とりわけ責任感が強い。
 周りが仕事を頼まないよう、頼らないように配慮することは、本人の受け取り方によっては、疎外感を感じさせることになる。

 さて、偉い人の皆さん。自分だったらなんと言うか考えましたか?
 この日、我らが店長さんは、佐藤さんの第一声を受けて、店員にこう言った。

「佐藤くんは、直ったわけじゃないからな。
 佐藤くんは、黙っててもがんばる人だから、
 無理させないように」

 悪気は無さそうな店長の言葉。だが、空気が凍りつき、みなの目が点になった。
 怪我の瘡蓋(かさぶた)が取れるように、心の不調には「直る」という明確な時点はない。
 佐藤さんは慌てて合いの手を入れた。

「いや、もう大丈夫ですから。がんばります」

 ついに言わせてしまった。


ど素人!心理学講座

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2007年10月25日 (木)

落合監督と江川

 50歳になった年、中日と2年契約をむすび、落合は監督になった。
 1998年オフ、日本ハムを最後に現役を引退してからは、5シーズン野球解説を続けており、コーチ経験はない。

2004年
6月、ナゴヤドームの巨人、ヤクルト、横浜戦の使用球をミズノ製から「飛ばないボール」のサンアップ製に替える。味方に長打力が無く、相手の長打を封じたいがための策。
 シーズン後、巨人の
堀内監督は「せこい」とコメントした。
10月1日、巨人がマジック対象の
ヤクルトを破った瞬間にリーグ優勝が決まる。
 コーチ経験がない監督の就任1年目優勝は史上初。(長嶋の初優勝は2年目)同年のパリーグ優勝(シーズン勝率は2位)西武の伊藤監督がこれにつづき2人めとなった。
 日本シリーズではパリーグ勝率2位の西武に敗退。第2戦勝利監督インタビューでの「(所沢で)3連勝するので、名古屋には戻ってこない」が今年唯一外れた予言となった。

2005年
9月には阪神を逆転すると予言。福留は「監督にはそういうところがある」と
暗示にかかっていたが、予言は外れた。

2006年
2度めのリーグ優勝。日本シリーズで古巣日本ハムに1勝4敗で敗退。
オフシーズン中日と新たな2年契約を結ぶ。

2007年
リーグ優勝を最後まで巨人と争い2位。残り7試合でマジック7が点灯「だいじょうぶ全部勝つから」と公言したが成らなかった。

 監督として4シーズンを戦い、リーグ優勝2回。日本シリーズ出場3回はすばらしい実績。
 与えられた予算の中で最高の結果を出したのには理由がある。
 名のない選手を名実伴う指導者が使う時、采配には自由度が高く、人心を一つにしやすい。そこに結果がついてくる。
 私信を捨て、立場を演じることに徹しているから、落合のチームは強い。

 できることならば、空白の一日で命運を分けた2歳年下の江川(2007年で52歳 コーチ経験なし)と監督として対戦するのを見たい。

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2007年10月24日 (水)

落合40歳で巨人へ

 落合はロッテから1-4のトレードで中日に移籍した直後、契約更改で球界初の1億円プレーヤーとなる。
 現代のNPBでは3年ほど一軍にいるだけで、一億円もらうのが当然の権利のように言う選手がいる。だがかつてはONでさえ届かなかった一億円。三冠王3回という金看板をもってして、ようやくその壁は破れたのだった。この功績において落合は球史に残る選手である。

1989年
スポーツ紙が発言を曲げて伝えたため、キャンプ中は報道陣と筆談。

1991年
37歳で迎えたシーズン。セリーグで初めての打撃タイトル、本塁打王を獲得。これが現役最後のタイトルとなった。

1993年
オフ、あと数ヶ月で40歳というところで巨人にたどり着く。
その年に導入されたFA巨人移籍。ロッテ、中日でつけた「6」を篠塚から奪うことを快しとせず「60」をつけた。
1994年
移籍1年目でリーグ優勝に貢献。10.8決戦の一塁守備で負傷し、日本シリーズにはフル出場できなかった。10・8は球史における最も緊迫した戦い。ここで落合が見せた必死の形相は今も脳裏に焼きついている。

 この頃名古屋では、落合が家族で出演するボウリング場のCMが放送されていた。
 落合が自宅に電話をかける。
 長男が電話をとる。
「ふっくん今から出ておいで」と落合が呼びかける。
 そして家族三人でボウリングを楽しむというもの。ボウリングはプロを目指していたほどの腕前。

1995年
前シーズンで篠塚が引退したので「6」をつける。

1996年
オフ、清原が西武からFAで移籍してくるのと入れ替わりに巨人を退団。日本ハムと契約。

1998年
オフ現役引退。現役時代~生涯打率.311、本塁打510、打点1,546。

2001年
4月、著書「コーチング―言葉と信念の魔術」ダイヤモンド社 発表。

2003年
10月、中日監督就任。ニュース番組に出演した際「日本シリーズはすべてホームチームが勝ち4-3でダイエー」と予言。的中させる。

 そしてここから、落合の予言癖が始まった。

(つづく)

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2007年10月23日 (火)

三冠王のコンバート

 江川騒動のために巨人に入り損ねた落合博満は、江川と同期でプロ入りした。 ロッテから中日。そしてFA制度元年(1993年オフ)ようやく巨人にたどり着く。
 その時、プロ入りから15シーズン、江川引退から6シーズンが過ぎていた。

 ただ、希望を叶えて巨人だけで終えた江川と違い、他球団を渡り歩いてきた落合に対する巨人ファンの愛着は薄い。

1980年
前半は怪我。後半57試合で.283、15本、32打点。土肥健二のフォームを取り入れた効果が出た。
*参考文献「週刊ベースボール」ベースボール・マガジン社 1999年2月22日号

1981年
プロ入り3年めのシーズンで首位打者獲得。守備位置セカンド。

1982年
の三冠王。28歳での獲得は史上最年少だった。

1983年
ファーストにコンバート、首位打者。

1984年
山本功児の移籍入団でサードに回る。
三冠王経験者が巨人の控え選手の入団で、守備位置を替わる。チームのためとは言え、それを受け入れるところが落合の懐の深さ。このシーズンはブーマー(阪急)に三冠すべてを明け渡し、無冠に終わる。

1985年
二度目の三冠王 52本塁打(初の40本以上) MVP

1986年
4月、初の著書「なんと言われようとオレ流さ」講談社~発表。
2年連続三度めの三冠王
オフ 巨人移籍を希望していたが、1-4トレードで中日にトレードされる。
 中日は、大打者落合が巨人でスーパースターの道を歩むと言う最悪のシナリオを何とか阻止した。

 中日ファンは中日が優勝すること以上に、巨人が優勝しないことを祈る。
 後に中日を出て、巨人に移籍した落合は、バルセロナからレアル・マドリーに移籍したフィーゴ級の裏切り者としてひんしゅくを買っていたが、今はこうして名監督として頂いている。
 機を見るに敏、変わり身が早く、柔軟なところは特筆に値する。

つづく

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2007年10月22日 (月)

江川の400勝

 新浦の1976年は11勝11敗、1977年は11勝3敗。
 そして1978年は15勝7敗とチームの勝ち頭となる。同時に15セーブを挙げており、名実共に巨人のエースに成長した。

 確かに怪物江川を巨人で見たい。
 だが、ようやく芽が出た現在のエースとの引き換えはあまりに痛い。

 数時間後、巨人ファンの痛みは喜びに変わる。
 交渉の結果、交換要員は小林だった。
 小林は1978年の13勝のうち5勝を阪神から挙げている。だが、チームのエースではない。
 阪神の指名が初めから小林だったのか。新浦指名を巨人が拒否したためなのかはわからない。

 巨人ファンは安堵した。
 未知の怪物江川と、下り坂に入ったと思われた小林。
 悪くない話だ。

 小林が阪神移籍初年度に22勝を挙げたことは、多くの人の記憶に残っているが、その後の印象は薄い。ただ彼は現役生活を終えるまで、大きな故障もなく阪神で77勝を挙げている。
 新浦がその後巨人在席中27勝にとどまったことを思えば、阪神に先見の明があった。

 1981年 20勝6敗 最多勝 最優秀防御率 最多奪三振
 江川が投げる試合は進行が早く、20時を回ってすぐに終ることもあった。
 平和台球場の駐車場整理をしていた時のこと。
 入場車両も途絶えたので、後は江川を見ようとネット裏に入ってみたら、20時5分に試合が終ってしまった。江川の投球を見ることができたのは9回表の1イニングのみ。
 球場係員は早く帰れるので大喜びだったが、江川をじっくり見ようと楽しみにしていた僕は目が点になった。

 入団3年めにして名実共に球界一の投手となったが、期待に反してこれがピークになってしまった。

 1984年、オールスターゲームで9者連続三振を逃す。
 既に球が走らなくなっていたがオールスター戦ではなぜか速球が復活。
 9人めの打者近鉄大石に投じた2-0からの外角カーブを当てられてセカンドゴロ。
 江川は2001年の著書「マウンドの心理学」で "記憶から消し去りたいカーブ" と表現している。

 1987年オフに現役引退。通算135勝。
 かつて迷惑をかけた小林の139勝にあと4つというところで、ユニフォームを脱いだ。

 小林も江川も、それぞれのルーティングを通して、幸せな野球人生を送った。
 ただ、巨人ファンは江川が作新学院から入団して、20年連続20勝の400勝で引退するのを見たかったのである。

つづく

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2007年10月21日 (日)

ポルトガル語圏のMVP

 リーガ最終節でFCバルセロナがシーズン2位となり、デコは所属クラブのレギュラーシーズン5連覇が成らなかった。
 "優勝請負人"デコにとっては、情けない終盤の失速は仲間への大きな失望として、心に広がっていたのだろう。

 無冠に終わった翌日の6月18日
 デコはイベロアメリカ・コミュニティー賞を受賞した。
 「イベリア半島のスペイン、ポルトガルの言語や文化が及んだ中南米地域出身のスポーツ選手として最も輝いたプレーヤー」に贈られるという賞。

 ポルトガル語人口は世界でおよそ2億3千万人。

 ポルトガル語を使う国と地域。
ポルトガル
ブラジル

ポルトガルから独立した5か国
アンゴラ
カボ・ベルデ
ギニア・ビサウ
サントメ・プリンシペ
モザンビーク

東ティモール
マカオ
ゴア


 ポルトガル語圏の各国は1996年に「ポルトガル語諸国共同体(CPLP)」を設立し、政治外交で協調している。


 デコはブラジル生まれなので母国語はポルトガル語。デコはクラブ帯同時はスペイン語を話すが、プライベートではポルトガル語を話す。

 同一国家であれば、連帯意識も生まれようかと思うが、かつて統治と被統治関係にあった皆さんの中から一人に賞をあげますよというのは、ありがたいのだろうか。
 そして実績だけで言えば、プレミアを制したマンチェスター・ユナイテッドのC・ロナウドのほうが上をいったと思う。そこは、プレー以外のなにかが評価されたのかも知れないが、なにせ、聞いたこともない賞の選考理由の裏事情までは、遠くアジアの果てまで伝わってこない。

*参考文献「図と表で整理するブラジル・ポルトガル語文法」田所清克/伊藤奈希砂 国際語学社 2006年2月

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2007年10月20日 (土)

江川卓と小林繁

 江川卓は多くの巨人ファンにとって、今も心残りが大きい。

 1973年のドラフト会議で作新学院の江川は阪急に1位指名された。
 当時は選手が事前に希望球団を公言する風潮はなく、巨人志望であることは一般に知られていなかった。江川は入団を拒否して法政大学に進む。この時慶応に落ちていなければ、今頃巨人の監督をしていたかも知れない。

 巨人ファンが指折りかぞえて待った4年後の1977年
 ドラフト会議で一番くじを引いたのはクラウン。
 当時のドラフトはまず、指名順のクジを引き、その順番に選手を指名していく方式。
 志望球団の巨人が引いたくじは2位。山倉捕手(早稲田大学)を指名した。
 江川は「福岡は遠い」と言って入団拒否、野球浪人に入る。
 後に元木がそうしたが、当時、野球浪人という例は無く、ここに来て江川の巨人熱望が知られるようになった。

 そして今度こそ巨人と願った3度めのドラフト会議。
 巨人ファンは浪人してまで待った江川に幸運が舞い降りることを願った。

 そこで、全国の巨人ファンは驚くことになる。
 クラウンとの交渉期限が切れた翌日でドラフト会議前日(その後「空白の一日」と呼ばれている)に巨人と契約 NPBは契約を受理しなかった。
 ドラフト会議では一番クジを引いた阪神に指名される。

 ここに後の「三冠王」落合が絡む。
 巨人はドラフト会議を欠席。江川に次いで2位指名を予定していた東芝の落合を指名できなかった。
 江川同様、巨人を志望していた落合は3位でロッテが指名。
 1986年オフ、巨人移籍希望を "セリーグ希望"と表現していた落合を、ロッテ(有藤監督)は1対4のトレードで中日に放出。
 有藤監督のコメント「希望通りセリーグだから文句ないだろう」がスポーツ紙に載った。

 「江川問題」は解決を見ぬまま年を越し、キャンプイン前日を迎える。
 1979年1月31日、阪神と契約。その日のうちに小林繁との交換で巨人に入団。
 メディアは一斉に小林を擁護、江川を叩いた。

 18年の時を超えて清酒黄桜のCMで”初対面”した小林と江川。
 現代のメディアは「巨人のエース小林」「何の実績もない江川」と対比して表現している。

 確かに1976年、1977年の小林は、2年つづけて18勝8敗。10の貯金をもたらしており、巨人のエースだった。
 だが、1978年は13勝12敗 2セーブ わずか1つの貯金。
 新浦の1978年は15勝 7敗15セーブ
 誰が巨人のエースなのかは、巨人ファンならば誰もが知っていた。

 コミッショナーが巨人と阪神にトレードを呼びかけたと一報が出た時、大半の巨人ファンは
 「あぁ新浦を持っていかれるのか」
 そう観念した。

(10月22日につづく)

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2007年10月19日 (金)

ボクシングがある

 「今日はボクシングがあるね」

 朝刊でボクシング世界タイトルマッチの中継を知ると、心が躍った。
 テレビは8時までと決まっているので母と交渉に入る。

 「先に風呂に入って、宿題も済ませるし、試合開始まではテレビを見ないから、見せて!」

 こういうといつもOKを出してくれた。
 ボクシングがある日。
 1970年代の家庭では、似たような華やいだ空気がお茶の間に流れていたと思う。

 あの頃、ボクシングはなぜ特別な存在だったのか。

■当時、日本人が世界を相手に戦い、勝利の可能性がある唯一のスポーツだった。

■格闘技中継はプロレス、キックボクシングがあった。
 キックボクシングは週1回。プロレスは週3回ゴールデンタイムに中継があり珍しさに欠けた。
 「プロレスは八百長」という評価が根強く、現代のヴァーリ・トゥードと比べると明らかにシナリオを感じさせるものだった。
 真剣さでは、キックボクシングも肩を並べていたが、相手が東南アジアの選手に限られていた。

 1980年代に半ばショーとしてのプロレスの価値観が認められたこと。
 アントニオ猪木が「格闘技路線」というプロレスの新境地を切り開いたこと。
 1990年代に入りK-1、PRIDEなど真剣勝負の格闘技が他にも登場したこと。
 これらの要因により、ボクシングの価値は色あせた。
 「今日はボクシングがあるね」は聴かれなくなった。

 1998年以降、ワールドカップという世界を相手に戦う舞台を手に入れたサッカーがこれに代わり
 「今日はサッカーがあるね!」
 が家族や友人との会話に登場するようになった。

 「ボクシングがあるね」の時代は終った。
 ボクシングだというだけで、見る人はもういない。
 ダウンが一度も無く、手数や効果的パンチといった「印象評価」で勝敗が決まる上品な格闘技はつまらない。

 僕が興行主だったら、倒さなければ勝敗が決まらないルールに変える。
 僕がすべてを決めてよかったら、殴り合いを見世物にする興行自体をやめる。

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2007年10月18日 (木)

玉を打て 目を狙え は初めてじゃない

「玉を打て」
「目を狙え」

 これをポルトガル語やスペイン語やなじみの薄い国の言葉でセコンドが言ったとしても、誰もわからないし、そこに焦点をあてて取り上げたメディアを知らない。

 これまでに数多く行われてきたボクシングの世界戦で、そういった行為がどれだけ行われていたかは誰もデータを持っていない。

 本来、格闘技ショービジネスに反則は付きもので、それが注目されたことはなかった。
 アブドラ・ザ・ブッチャーがビール瓶でザ・デストロイヤーの胸を刺したとき、さすがに日テレはビール瓶が突き刺さる瞬間にVTRを停めたが、そういう事実をしっかり全国放送した。
 トーア・カマタが馬場に塩を振っても、謎のマスクマンが覆面にベーゴマを仕込んでいても、それを検証した報道を見たことがない。

 ボクシングはスポーツでプロレスはショーだというような区別は、見ている側がそれぞれに思うこと。
 元々、日常社会ではあってはいけないこと(殴り合い、取っ組み合い)を人前でやるという時点で、ボクシング、プロレス共にエンターテインメント以外のなにものでもない。

 あれが「神聖なスポーツ」だというのならば、暴走族の皆さんは大いに取り組まなければならないし、警察の皆さんは「いい汗かいているな、お前たち」と目を細め、暖かく見守っていることだろう。
 ボクシングが上で、プロレスは下といった階層は実在しない。
 スポーツに貴賎はない。

 要は「問題に仕立てたい」理由があるから、言うのである。

 亀田家の放送を独占して、いい思いをしているTBSをみて、隣りの芝生は青いなぁ、芝生が枯れたらいいのにと思っていた人たちが言っているだけのことで、それに乗っかって「処分が甘い」などと感想を述べている人たちの賢眼に目を見張るものがあった今回の「ボクシングの中で起きたレスリング騒動」だった。

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2007年10月17日 (水)

謎の女 菊池桃子

雑誌「Momoco」と共に世に出た菊地桃子(本名:西川桃子)は今年で39歳。
TBS系列で放送中の「山田太郎ものがたり」に出演。
7人の子供を持つ母親役を演じていて、ふっくらした体型が役にはまっている。

1968年5月4日、東京都品川区生まれ。

1983年10月、ニッポン放送「パンツの穴」に出演。

1983年11月1日、月刊誌「Momoco」(学研)創刊。
イメージガールとして毎号のように表紙やグラビアを飾る。
1枚1枚の写真で別人かと思わせるほど表情が違い、15歳の少女と大人の顔を併せ持つ謎めいた印象を与えた。

1984年3月、映画「パンツの穴」主演。

1984年4月、シングルレコード「青春のいじわる」で歌手デビュー。

1988年2月、ロックバンド「ラムー」結成、ボーカル担当。
1stシングル「愛は心の仕事です」発売。
人気が低迷しつつあったため勝負を賭けたのかも知れないが、この謎のプロジェクトにより、築いてきたタレントイメージが平凡なものになってしまった。

1995年5月1日、プロゴルファー西川哲と結婚・入籍。

2002年8月 三菱冷蔵庫「切れちゃう冷凍」のCMに出演。
切れちゃう冷凍はなぜ切れちゃうのかが謎だったが、謎の女菊池桃子はここから主婦タレントとしての地位を確立していく。

 大崩れしないタレント菊池桃子もいいが、40歳を過ぎたら再び謎の存在ぶりを発揮して、ファンをあっと言わせてもらいたい。

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2007年10月16日 (火)

スター誕生ではない

 鈴木保奈美 工藤静香 
 酒井法子 雛形明子 
 西村知美 田中美奈子 
 杉浦幸 畠田理恵 
 志村香 木内美歩 矢部美穂

 割と有名な女性歌手、女優、タレントの皆さん達。
 このメンバーのデビューのきっかけが、皆同じだということを知っていますか?
 「スター誕生!」でも「ホリプロスカウトキャラバン」でもありません。

「Momoco」
1983年11月創刊(1984年1月号)
1993年12月1日休刊(1994年1月号=通刊120号が最終号)

 歌手デビュー前の菊池桃子を前面に出した誌面作りでスタート。
 創刊号の表紙は、ほっぺをぷっくり膨らませてにっこり笑う菊地桃子。
 雑誌名はモモコだが菊池桃子の専門誌というわけではない。

 読者ターゲットは学研の「BOMB!」(ぼむ)の上の年代。
 Momocoはよく売れて、その好調時にはさらにその上の年齢層を狙った「上級生」という月刊誌をスタートさせたが、これは短命に終わった。

 読者が身近にいる可愛い娘の情報を寄せ、編集部が撮影して掲載する「モモコクラブ」は多くのアイドルを輩出。
 素人女性の入浴写真で構成する「バブルシャッター」は後の”読者投稿雑誌”の先駆けとなった。

 冒頭に挙げたメンバーはこのモモコクラブ出身者。
 掲載された女性には通しで「出席番号」が振られていて、ノリピー酒井法子は1482番だった。


人物事典(音楽・芸能・スポーツ・ホビー)



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2007年10月15日 (月)

カリスマに見せる方法

 カリスマであるかのように振る舞うにはこうすればよい。

自嘲気味に謝らない卑屈な謝り方をしない。心の底から謝る。

低くてよく通る声を出す。

礼儀正しくする。

人が笑っている時は笑わず、クールさを装う。
 周囲に「なぜ、この人は笑わないのだろう?」と考えさせる。こうしておくと、いざ笑顔を見せた時の印象が強い。

人が苦い顔の時笑う。
 格の違いを相手の潜在意識に刷り込む。

びしっと決めた後に「なんてね」と言わない。

川端康成やリンカーンなど古人のエピソードを引き合いに出す。
 「あぁそれはリンカーンだね」というように名詞だけ持ち出すのは、雑学くんと思われるだけなので、絶対にやってはいけない。

前置き、言い訳を抜いて本題で話す。

相手に先攻で十分に話させてから、短く自分の意見を述べる。
 論評をくわえない。相手の言ったことを「まとめ」てはいけない。それは単なるずるい奴。

宴会では二次会の前に爽やかに消える。
 謝ったり、言い訳したり、ドロンしますとか言わずに「じゃ私はこれで」と一言だけ残して消える。
 「次はどこに行くのかなぁ?」ととぐろを巻くその他大勢の人は、差をつけられた気分になる。単に二次会に行く金がないだけなのに、周囲には個人の時間を大切にする人なのだという印象を与えることができる。

いい大学を出る。
 東京大学を出ているというだけで、相手は威圧感を感じる。二人の人が黙っている時、東大出の人たちが黙っていると思慮深くみえるが、二流大学の人が黙っていると、アイデアが貧困にみえる。



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2007年10月14日 (日)

僕たちの合意

2007年5月3日 「ワールドサッカーマガジン2007年5月17日号」
デコの辛口ランサメント(第8回)
 デコは重ねてバルサに残りたい気持ちを強調。ポルトガル代表の仲間がバルセロナに遊びにきて、バルサからオファーを受けている話をしたことに触れている。
 ポルトガル代表仲間がクラブに一人でもいれば、何かと心強い。
 ファンとしてはできれば、クリスチアーノ・ロナウドにバルサに来てほしいところ。ただ結局、シーズンオフ、ポルトガル代表選手の移籍加入は一人もなかった。デコはさぞがっかりしたことだろう。シーズンオフ、一連の「デコ騒動」発言の一因はここにもあったのではないだろうか。

2007年6月7日
「ワールドサッカーマガジン2007年6月21日号」
デコの辛口ランサメント(第9回)

2007年7月5日
「ワールドサッカーマガジン2007年7月19日号」
デコの辛口ランサメント(最終回)
 この最終回では6月22日時点のコメントが掲載されている。
 日本での敗戦を境に自信を失った。2か月後(つまり8月のシーズン開幕の頃)どうなっているかわからない。移籍もあり得ると語る。
 確かに最後まで"辛口"な連載だった。

 遠いアジアの端っこで発売される雑誌とはいえ、かなり辛らつな発言をするものだ。
(原典はスペインでも発売されているのかも知れないし)
 こういう思い切りのよいところもデコの魅力だが、ファンとしては
 おいおい、デコ大丈夫か?
 と心配になる。

 ただ、デコファンクラブは、デコがフットボールに関わる間、その属性がどこにあっても応援を続けるという合意で集まっている。8月に青いユニフォームを着ていれば、一斉に英会話の本を買ってくるだけのことだ。

 そして、一ヵ月後、デコが日本にやってくる。
 CWCで敗れ、怒りと悲しみの帰国をしてから8ヶ月。この間はあっという間だった。
 ただ、気がかりなのは、デコの移籍情報。
 もし移籍するにせよ、8月の来日の後に決めてほしい。メンバーは皆そう願っていた。

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2007年10月13日 (土)

アイスに思い出がない

 さよならアイスウィークのラスト3日は、スーパーカップ3種で締めた。

 抹茶、チョコ、そしておおとりはバニラ。
 新参の白桃やマンゴーもうまいが、やはりこの3つを外しては、お世話になったスーパーカップに礼を失してしまう。

 だが、セブンイレブンに売っているのはこのうちバニラだけ。

 7月末に行われたセブンイレブン限定アイスクリーム人気投票を見ると、見慣れぬ名前が並ぶ。ベスト3は一つも食べたことがない。

1位、こだわり濃厚バーアーモンドチョコ 150円
2位、こだわり濃厚カップバニラ 150円
3位、こだわり涼菓盛りだくさんフルーツ白くま 420円

 「スーパーカップ」や「ピノ」のような非限定アイスを含めた人気投票は実施していないので、これら「限定」アイスがどれだけ支持を得ているのかはわからない。
 ただ一つ言えるのは、セブンイレブンは「限定」路線にこだわっていると言うことだ。
 セブンイレブンはもう20年前からそうしている。
 今でこそどこのコンビニでも見ることができるビデオマガジン(当時はVHS、現在はDVD)にしても、当初は学研がセブンイレブンだけに持ち込んだ「限定」商品だった。

 セブンイレブンはそこらのコンビニとは違う。
 そこでしか買えないものがある。
 それがブランドイメージ。

 だが、アイスに限っていえば、非限定の定番点数があまりに少なすぎる。アイスには力を入れていないのかとさえ思う。
 もうアイスはやめるから、どうでもいいけど。

 これは、高品質路線のナチュラル・ローソンにも言える。
 スーパーカップなどの105円カップはとても点数が少ない。

 ではどこに行けばあるかというと「99ショップ」
 いつも利用する店では、スーパーカップだけでもチョコ、抹茶、バニラ、マンゴー、白桃が揃う。それだけでなく、他のコンビニでは見慣れない独自企画のアイスも充実している。
 バニラかと思っていたら下からチョコが出てくるコーンのアイス。
 クリーミーなシロクマなどが99円。
 安くてもきっちり楽しめるアイスがケースに並ぶ。

 スナック菓子であれば、兄弟で秤をにらめっこしながら、分け合った思い出があるが、アイスにはそれがない。

 思い出を辿りながら、締めるはずのさよならアイスウィークは、なんの感傷を想起することもなく終わり、半年間の冬眠に入った。
 果たしてアイスを断つことで体重や体脂肪率に変化があるだろうか。
 いつかまたここでご披露したい。

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2007年10月12日 (金)

歳を取ると、なくなるもの

 歳をとるとなくなるもの、なぁんだ?

 久しぶりになぞなぞです。

 信頼?
 だったら、笑えませんね。

 友達?
 だったら、悲しいですね。

 お金
 老後もつつましい暮らしが楽しみですね。

 髪の毛
 なくならない人もいますよね。

 今日、ご用意している答えは「半月」
 はんつきではありません。はんげつです。
 半月板損傷と言うのをスポーツニュースで聞いたことがありますよね。
 あの半月板は膝にありますが、この半月は膝ではありません。

 半月は、その名のとおり下弦の月の形をしています。
 半月は、爪の付け根の白い部分。

半月の有無と健康は関係ない。
親指の方が大きく小指の方が小さい。
老年にさしかかるとなくなっていく。

 あなたの爪にはありますか?
 加齢と共になくなります。
 親指だけが最後に残り、そしてなくなります。

 さぁ、いかがでしたか?

アンチエイジング事典



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2007年10月11日 (木)

フルーツ牛乳の作り方

 最近、フルーツ牛乳を飲んだのはいつですか?

 あぁ懐かしいな。そういえば飲んでないな。
 どこに売っているんだろう?
 そう思った方は、コンビニか薬局で買ってくる方法があります。

 「一本いっとく?」のアスパラドリンクは、栄養ドリンクの中でもちょっと甘め。
 これに牛乳を混ぜると「フルーツ牛乳」の味になる。

 比率は50:50%がベスト。
 どちらが多くても中途半端な味になる。

 試しに「ファイト一発!」のリポビタンDでもやってみたが、さすがに硬派な味だけに「フルーツ牛乳ビター」的な味にまとまった。

 同様に甘めのチオビタEでも美味いかも知れないが、そこまでコストをかけて作るほどのものじゃないので、まだやっていない。

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2007年10月10日 (水)

荒川マラソン2008

 いつも、この日がくると思う。10月10日は「体育の日」に戻してもらいたい。

 さて、体育と言えば、2008年も荒川マラソンが開催される。

 2008年3月16日(日)第11回荒川市民マラソン

制限時間:7時間
参加費5,000円(2007年大会より5,000円になった)
募集定員:先着順15,000人(前回同様)
申込方法:Web(ランネット)

エントリー:?(前年は14,000人)
フルマラソン完走者:?(前年は11,013人)
申込み締切日:2008年1月21日

 2006年までは、関東地区の春マラソンは荒川だけだった。
 2007年から「東京」「湘南国際」が始まった。

 荒川の第10回(2007年)大会は史上初めて、エントリー者数が前年を下回った。
 東京マラソンの影響と考えられているが、実際のところは2006年大会の風速25mを超える逆風が原因だろう。
 季節的にこの風は避けられない。2007年大会も前年を走っていない人から「強風だった」という感想が出ていた。

 だが、今年は追い風が吹いている。
 5日に発表された「東京マラソン2008」の落選者は102,562人。
 昨年の落選者はおよそ5万人だったので、落選者が一気に2倍に増えた。
 しらべるが事前に予想していたとおり、ボランティアは既に先着順12,000人の枠が埋まり、開催前4ヶ月だというのに、受付を終了している。

 東京を落選した何割かの人は、落胆してそこでトレーニングをやめるだろうが、何割かの人は別の目標を探すはず。
 荒川の同日には第二回湘南国際マラソンも開催が予定されているが、こちらは制限時間が5時間40分。レース経験のないランナーには、少々ハードルが高い。

 荒川の定員は15,000人。先着順なので、お金を払えば確実に出場できる。
 東京は10%水増しで当選者を出したが、荒川はかなり多めにエントリーを受け付ける(2006年は15,000人定員に対して、42%も多い21,371人がエントリー)
 それでも、今年は早めに受付が終了するかも知れない。

 それにしても東京都は、1,025,620,000円(10億)の売上を捨てるなんて、なんともったいない。

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2007年10月 9日 (火)

ノリックに贈ることば

 いつも新聞はスポーツ面から見る。
 昔のスポーツ面は後ろから3枚くらいめくった所にあって探しやすかったのだが、最近のスポーツ面は中面にあり、探すのに手間取ってしまう。

 今日は特に気になるスポーツ結果もないなと思って開いたそこに
「阿部典史さん事故死」
 なんだか随分、昔のことを書いているような評伝がつづく。
 きいてないよ、そんなこと。

(本文記事31面)
 俗に言う三面記事に客観的事実としての事故報道があった。

 川崎区大島一丁目の路上
 その住所をカーナビに打ち込んで、現場へ向かう。

 着いた場所には、それらしき手向けた花もない。道路は三車線。
 新聞には二車線とあった。
 交差する二車線の道へ曲がると、イベントでもやっているかと思うような路駐の車列。植え込みを隔てた自転車道路に無数の花と50人ほどの人垣があった。
 人は、野次馬としてではなく、事故現場に来ることに慣れていない。
 携帯のカメラを当てもなく向けている一人で来た男性
 束にした線香を燃す女性二人組

 手向けられた花束に向けてではなく、ノリックが倒れたであろう道路に向かい合掌する。
 ありがとう、ノリック
 君がYAMAHAに乗ってくれると知った時は 「うそだろう?信じられない」 と思った。
 君はあのままホンダに乗って、世界へ駆け上がるのだろうと思っていた。

 WGPに参戦した君は着実にゼッケンナンバーの数を減らし、近い将来、1をまとったマシンにまたがる日が来るのではないか?と、すべてのレースから目が離せなかった。初めての鈴鹿での勝利。今度こそ、こけないでくれ。親戚の甥っ子が走っているかのように、どきどきした。

 かつて君の監督だったウェイン・レイニーは、その絶頂期にレース中の事故で下半身の神経を失いレース引退を余儀なくされた。何をもって幸せとするかは人それぞれが決めることだが、レイニーには今も家族に囲まれた幸せな生活がある。

 君はまだ32歳。
 命あれば、これから多くのことを学び、多くの人と出会い、そしてその人達を幸せにしたことだろう。
 僕たち生ある者は、命のはかなさを知り、今生きる幸せを感じ、明日も新たな感動に出会うには、自分はどのように未来から来る時間に立ち向かわなければならないかを、日々、考えなければならないと思う。

 最後に君に贈ることばは「ありがとう」
 いつも君は爽やかな好青年で、レースを見るファンをより楽しい気持ちにさせた。

ノリック 阿部典史について

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2007年10月 8日 (月)

尊敬されないホームラン王

 今年のプロ野球の終盤、ある世代交代があった。

 子どもの頃、ホームラン王は毎年、王が取っていた。
 王以外が取ることを知らないので、ホームラン王は王が取るからホームラン王であり、長嶋がとるとホームラン長嶋になるのだろうと思っていた。

 前の日に王がホームランを打ったかが、新聞を開いて真っ先に確認するニュース。成績におごらず、ホームランを打ち続ける王を誰もが尊敬していた。

 だが、日本球界には二人の尊敬を得られないホームラン王がいる。


1996年 山崎(中日 当時監督は星野)

 39本で松井、大豊(中日)を1本リードして迎えた巨人との最終戦。中日は松井を4打席敬遠した。
 中日はこの年が狭いナゴヤ球場最後の年。
 松井が初めて本塁打王を取るのはこの後の1998年。
 広くなる球場、成長してゆく松井。
 山崎は「せこいかも知れないけれど、一度きりかも知れないから」という主旨の感想を述べた。


2007年 村田(横浜

 35本で高橋由伸(巨人)、ウッズ(中日)と並んでいた10月6日のこと。
 引退試合として9回2死10対0でリードの場面で出てきた佐々岡から36号を打つ。
 勝敗ではなく自分のために打った1本。
 しばらく第一線を離れていた投手から「タイトルがかかっていたから」と放った本塁打は、試合後に涙で「辛かった」と語ろうが尊敬されない。
 その2日前のヤクルト戦では、プロ最終打席の代打に立ったヤクルト鈴木健の3塁ベンチ前ファウルフライを捕球せず、粋なところをみせた村田。鈴木健はつづく球をクリーンヒットしてプロ生活に有終の美を飾ることができた。
 2007年のプロ野球で、最もじーんときた一瞬だった。

 だが自分のことになると場を見なかった村田。
 次の打者は途中から守備でライトに入っていた内川。
 続けてヒットでも打たれたら・・
 壊れてしまった佐々岡お別れムードを修復するには、ここは三振しかない。
 そこで、大矢監督は場を見るベテラン鈴木尚を代打に送る。そして見事、空振り三振でゲームセット。なんとか佐々岡の引退に華を添えた。

 村田はこの日打てなくても、翌日以降に3試合を残していた(中日1ヤクルト2)
 中日は35本で並ぶウッズがいるため勝負してもらえないとしても、ヤクルトは違う。鈴木健のファウルフライを落とす計らいをしてくれた村田に対して、ヤクルト投手陣が勝負を避ける理由はない。

 真剣勝負で結果を残してこそ、尊敬は得られる。
 一度、不興を買うとそこから立ち上がるのは難しい。

 山崎は11年の時を超えて、真剣勝負の本塁打王となり尊敬を得た。
 その系譜を奇しくも山崎が不興を払拭した年、村田修一が引き継ぐことになった。

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2007年10月 7日 (日)

カンペオン・デコ

 デコ2冊めの自伝「CAMPEON DECO」」をネット通販で買うと、およそ6,000円。
 前作は4,300円で買えた。それでも十分高く感じていたので、この値段には二の足を踏んだ。


書名:CAMPEON DECO
著者:SERGIO ALVES(デコのマネージャー 1966年生まれ)とFRANCESC AGUILAR
大きさ:30cm×22.6cm
発行元:MUNDO DEPORTIVO
ページ数:オールカラーで100ページ
言語:スペイン語

 幼少の写真は前回の自伝「DECO O PRECO DA GLORIA」と同じだが、モノクロではなくカラーになった。
 「DECO O PRECO DA GLORIA」は2003年出版ということもあってFCポルト時代までだが、FCバルセロナポルトガル代表の写真を多数収録。ポルトガル代表での写真は、W杯のジダンとのマッチアップの写真から始まり、W杯後のブラジルとの親善試合までを収録している。

■内容
 1章 EL BARCA, UN REGALO DE DIOS(バルサ、神の贈り物)
 2章 MI INFANCIA(少年時代)
 3章 LOS INCIOS EN PORTUGAL(ポルトガルでの初期)
 4章 PORTO,UN GRAN PASO EN MI CARRERA(ポルト、キャリアにおける大きな通過点)
 5章 LA COPA DE LA UEFA CON EL PORTO(UEFA カップ優勝:FCポルト)
 6章 LA PRIMERA CAMPIONS CON EL PORTO(CL優勝:FCポルト)
 7章 LA PRIMERA LIGA CON EL BARCA(リーガ優勝:バルセロナ)
 8章 MI SEGUNDA LIGA BLAUGRANA(リーガ2連覇:バルセロナ)
 9章 LA PRIMERA CAMPIONS CON EL BARCA(CL優勝:バルセロナ)
10章 OTRAS COPAS,OTROS LOGROS(その他の優勝杯や成果)
11章 LA SELECAO DE PORTUGAL(ポルトガル代表)
12章 MIS CAMPANEROS,MIS AMIGOS(私の仲間や友人)
13章 MIS ENTRENADORES(私の監督たち)

 もちろん、原書に和訳はなく、ファンクラブメンバーNACさんが翻訳してくれたものだ。

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2007年10月 6日 (土)

森永ジャンボ 105円

 9月24日にアイス冬眠を決めた。
 さぁ、30日までの1週間はアイスさよならウィークだ。

 山口百恵全国縦断お別れコンサート・ツアーのようなものだと思ってもらったら、わかりやすいだろうか。
 九電記念体育館でアルバイトをしていた僕は、コンサートを終えてアンコールの嵐が鳴り止まぬなか、すでにタクシーに乗り込んで会場を後にする百恵ちゃんを見て、現実的な選択に感心したものだった。

 さて、さよならアイス・ウィーク初日
 まずはこれ、セブンイレブンで森永「ジャンボ」
 ジャンボといえば、ジャンボ鶴田

 五島列島に住んでいた頃、町に全日本プロレスが来た。
 それは鶴田が入団して最初の「ジャイアント・シリーズ」
 外国人の目玉はミル・マスカラスだ。

 僕はとても見に行きたかったが、親に「プロレスにつれてって」と言わなかった。
 少欲なこども時代だったのだ。
 月刊プロレスにはボクシングとキックが載っているが、別冊ゴングはプロレス専門。しかし、350円もするその本を買うことはできなかった。一度だけ父と本屋に行った時、
「お、出ている別冊ゴング」
 と言ってみたが、
「我が家では、そういうものを推奨していない」
と一刀両断にされた。

 プロレスの雰囲気だけでも接したい。
 ある秋の日曜日、となり町の体育館に自転車を走らせた。
 僕が着くと、体育館からちょうどフレッド・ブラッシーがでてきた。

 ブラッシーは裸だった。
 ファンサービスなのだろうか。
 (パンツは履いてるからね)
 思いのほか小さい。しかし体が厚い。体が赤い。前座試合でグレート小鹿にチョップでも浴びたのだろうか。

 汗をふきながら歩いていたブラッシーは、五島のおばちゃん達に囲まれると
「五島うどん、アゴさいこう」
とは言わずに、
「おう、たくしー、たくしー」
と愛想を振りまきながら、待たせていたタクシーに乗り込んで行った。
 リングでは、鑢で歯を研いで怖い彼も、テレビに映っていないところでは、ファンにとても優しいのだと知った。

 えっと、なんの話だっけ

 あ、ジャンボだ。
 これはチョコだけでなく、もなかまでがパリパリしていて食感がいい。

 ・・どうやらこのアイスには、固有の思い出がないようだ。

(また、13日につづく)



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2007年10月 5日 (金)

白糸の滝を制覇せよ!

 白糸の滝?に行ったことがありますか?

 今、このネットのどこかで
 「行ったことあるよ」「知ってるよ」
 とたくさんの人が独り言で答えただろう。

 白糸の滝は、恐らく日本で一番「行ったことがある」「知っている」滝だ。
 その理由は・・


北海道足寄町
北海道牧村
北海道福島町

青森県十和田湖市
岩手県陸前高田市
岩手県西和賀町
秋田県北秋田市 *2つ
秋田県大仙市
宮城県栗原市
宮城県大崎市
宮城県仙台市
山形県酒田市
山形県戸沢村
福島県猪苗代町

群馬県長野原町
千葉県富津市

山梨県富士吉田市
山梨県小菅村
長野県軽井沢町

静岡県富士宮市
岐阜県下呂市

島根県隠岐の島町
広島県呉市
山口県秋芳町
愛媛県東温市

福岡県福智町
福岡県前原市
熊本県西原村


 こんなに、たくさんあるからである。
 これだけあると、日本に一人くらい「白糸の滝」完全制覇を目指す人がいそうなものだ。



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2007年10月 4日 (木)

・・ではない

 思い込みと違うこと、必ずしもそうではないことは多い。
 しらべるでは、そんな「ではない」を日頃から書き加えている。

■「ガッツポーズ」という言葉の由来はガッツ石松ではない。
■ 手話は世界共通ではない。
■ 団塊ジュニアは「団塊の世代の人のこども」という定義ではない。
■ B型肝炎はB型の人がなる肝炎ではない。
■ Copyright 1988-2006 という表示は「1988年から2006年の間、著作権で保護されていますよ」という意味ではない。
■ 活断層は活発に動いている断層ではない。
■ 消費税は消費者に払うことが義務付けられているわけではない。
■ PTAは父母と先生が懇親を深め、二次会はカラオケで盛り上がる会ではない。
■ 東京は日本の首都と定義されているわけではない。
■ クリスマスはキリストの誕生日ではない。
■ ファミリーマートが開発した「ボンカレーパン」はボンカレーが入っているパンではない。
■ 大阪の「いかやき」はいかの丸焼きではない。
■ 「からすみ」は博多の名産品ではない。
■ 「無期刑」は生涯出獄できないわけではない。
■ 「ラマダン」は1ヶ月何も食べないわけではない。
■ 「鶴田真由の節電隊」は鶴田真由が会社を回るわけではない。
■ 「ライ麦畑でつかまえて」は、いかした女の子がライ麦畑で彼氏と鬼ごっこして「捕まえられるなら、捕まえてみて~」と戯れる本ではない。
■ ワーキングホリデーは働く休日ではない。
■ 四国アイランドリーグは、力の衰えた元プロ選手の受け皿ではない。

 ”ではない”ならば、では本当はどうなのか?
    ↓
 しらべるの記事「ではない」をご覧ください。

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2007年10月 3日 (水)

失うものがない戦い、得るものがない戦い

 さぁ、あとはクライマックスシリーズ
 チケットが売れて、テレビ放映権もはいるオープン戦。
 讀賣グループの皆さんはさぞ、お喜びのことと思う。
 できれば、G+ではなく地上波で流してもらいたい。

 選手の皆さんは、エキジビションを控えたフィギュアスケート選手のように、結果を問われない晴れ舞台を楽しむだけ。
 これは幸せだ。

 特に巨人は前回優勝の2002年まで、日本シリーズに負けたらすべて吹っ飛んでしまう可哀想なチームだった。
 今年からは、リーグ優勝ですべてが終わっているので、何も失うものがない。

 もちろん、ロッテ、ソフトバンク、中日、阪神という4チームにも何も失うものがないが、彼らには何も得るものがない。
 ロッテの場合、監督が「これから真の勝者を決める戦いが始まる」と言っているので、その気なのかも知れないが、通訳の誤訳であることを願いたい。

 巨人ファンは皆ほっとしている。
 2002年日本シリーズ、かつて4勝0敗で負けた西武に4勝0敗の勝利。
 第4戦、鈴木尚広が浅いレフト前ヒットで生還したシーンに酔ったファンに、その後の4年は想像できなかった。

 松井秀喜が日本プロ野球をぶっ壊した。
 これは歴然とした事実だ。

 Jリーグは欧州と南米の真似をして作った歴史の浅い興業。
 だが、プロ野球は日本を代表するプロ競技だ。
 カズや中田が欧州へ行ってもJリーグは壊れないが、予定調和日本ムラ社会の象徴、巨人の4番が、そのムラを捨てた。

 人々が大切に守ってきたガラス細工のような野球ムラ社会が2002年秋、音を立てて割れた。

(10月10日につづく)

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2007年10月 2日 (火)

おいしい秋のオープン戦

 日本シリーズはNPBパリーグとセリーグの代表が対戦するカップ戦
 2007年大会は、2003年当時の名称をそのまま使用しているが、日本一を決める大会ではない。

 2003年まではNPBナンバー1(日本一)チームを決める野球大会として、パリーグ優勝球団とセリーグ優勝球団が対戦していた。

 第1回は1950年
 NPBがセリーグ8球団、パリーグ6球団に分割した初年の11月。
 パリーグ毎日オリオンズ4-2セリーグ松竹ロビンス

 その後、セリーグは2006年まで一貫して優勝チームが日本シリーズに進むルールだったが、パリーグは興業優先で2シーズン制プレーオフの勝者を日本シリーズに出場させた時期があった。

 2003年まではパ・セ2リーグそれぞれのリーグ戦勝者の対戦だったため、日本シリーズ勝利の価値は各リーグ優勝の上位に位置づけられた。

 パリーグがプレーオフを始めた2004年以降は、その価値が曖昧になった。
 2004年西武、2005年ロッテはいずれも、パリーグ2位のチーム。
 そして、2年続けてパリーグ2位球団が日本シリーズを制した。
 プレーオフで勢いをつけてくるパリーグチームに対して、試合間隔が空くセリーグは「これでは勝てっこない」と泣きを入れた。

 だが、パリーグの「興業さえ成功すればそれでよい」というご都合主義を容認したのはセリーグ。
 そして、2007年からはセリーグもそのご都合主義に相乗りした。

 パ・セ両リーグ共に優勝チーム以外が出場する可能性がある2007年以降の日本シリーズには、かつての権威はなく、秋のオープン戦である。

 かつて、日本シリーズが日本選手権だった頃、選手は優勝を決めた日にも
「まだ後に大きな仕事が待っていますから、喜びは今日で忘れて、明日からはまた気持ちを切り替えて、次の目標に向けて準備します」
 と言わなければならなかった。

 だが、今年からは選手は楽だ。
 後に残っているのが客入りがよく、テレビにも映るオープン戦。
 五輪でいえば、フィギュアスケートのメダリストが決勝翌日にエキジビションを滑るようなもの。

 まずは、その美味しい立場を日本ハムの皆さんが手に入れた。

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2007年10月 1日 (月)

都民の日

 10月1日は都民の日。

 東京都が1952(昭和27)年に制定した。

 目的:東京都民がこぞって1日の慰楽をともにすることにより、その自治意識を高揚し、東京都の発展と都民の福祉増進を図る(都民の日条例第1条)

 学校はこの日はお休み。都内ならば私立の学校も休む。神奈川県民でも、都内の私立に通っていれば、やはり休み。
 都民の日が土曜日だと、学校が休みになる子供たちと公務員の先生は休みを1日損をした気分になる。都民の日が土日と重なった直近の3回は、2005年(土曜)2000年(日曜)、1995年(日曜)。
 今年は月曜日なので、めでたくお休み。公立に通う子ども達は4週連続の3連休となった。

 東京都内の学校が休みになるが、都内にある企業は休みにならない。
 有給休暇をとって子供を上野動物園、葛西臨海水族園(日頃から小学生は無料だが、都民の日は大人も無料)へ連れていくのに好適な日。
 ただし、東京ディズニーランドに行こうと思ったら甘い。ここは日ごろの平日でも、まるで休日であるかのように混んでおり、都民の日ともなるとさらに混む。

東京都の年表

 今日からは、郵政民営化、そして気象庁による地震速報が始まる。
 この情報に触れたとき、どのような行動をとるかを決めておくとよい。



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