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2009年7月の31件の記事

2009年7月31日 (金)

島流しのよそ者が、五島で受け入れられた瞬間

 完全調査!魚目町名字ランキング
 小学生の社会科の時間の発表としては、それだけでも十分なものに思われた。
 僕とハラ君が毎日役場に通っていることは、先生にも言ってあるので、既にネタはばれている。

 僕らの発表の順番が来る。
 黒板に模造紙を張り出す。
 「それでは、魚目町の名字ランキングを発表します」

 (一同)
 お~っ

 でも、それだけだろう。
 驚きはあるけれど、感動まではいかない。
 僕はあと一ひねりして、皆の感動する顔が見たかった。

 発表は明日である。
 もう日はとっくに暮れている。
 それでも僕にはまだ秘策があった。

 僕は、父の許可を得たうえで、高校の社会科教諭 タハラ先生の自宅に向かって、自転車を出した。
 長崎県の教諭は新任の頃、必ず一度は離島勤務を経験しなければならない。
 教頭以上の役職に就くときは、さらにもう一度。
 合わせて二度の離島勤務をすることになる。
 女性教諭の中には離島に行くのをいやがり、となりの佐賀県の教諭になる人もいる。
 彼は、新卒で上五島高校にやってきた。

 タハラ先生は時々、僕のキャッチボールの相手をしてくれた。
 納屋のような一軒家に住んでいて、ふらっと訪ねると、気さくに話し相手にもなってくれた。
 木訥な性格に温厚な人柄で、話もおもしろい。
 現在は出世して、長崎県有数の進学校で校長をしている。
 長崎県教委は人を見る目があるようだ。

 模造紙を広げて、僕は切り出す。
 名字ランキングを調べたんですけど、なにかこう今ひとつもの足りなくて・・

 すると、タハラ先生はいつにも増して、優しい顔つきになり、
 君はすごいな。さすが**先生の子供だと言って 抱きしめて 褒めてくれた。 君は将来、大物になるよと言われ、いや僕もそう思うんですと心の中で同意したのだが、彼に人を見る目はなかったようだ。

 彼は特に姓名の専門家というわけではないが、地理を専攻していることもあり、初任地についてもそこそこの知識を持っていた。

 ハラという姓が多いのは、きっとかつての藤原という大名から、ひと文字をいただくという形で名字を付けたんだと思う。
 明治に入って名字を名乗ることが許された時、人々はその土地の君主・・もちろん尊敬している君主だけどね。その名字からひと文字をもらうということがよくあったんだ。

 彼は名字だけでなく、地名についても話してくれた。
 新魚目町は似首、丸尾、榎津、浦桑の4つの郷に分かれている。
 なかでも、似首(にたくび)は珍しい地名だ。
 僕は引っ越して来た時から、この地名が苦手だった。
 なんだか得体の知れない気味悪さを感じたのである。
 4つの郷はいずれも海に面しているが、似首は特に海に向かう急な傾斜のうえに町があり、町はずれにはとなり町を隔てる切り立った崖があった。
 僕の予感は当たっていた。

 似首だけどね、昔似首の崖の上には刑務所があったと言われているんだ。そこから処刑された・・
 今も住んでいる人がいる町なので、ここでやめておきます。

 そこは遠慮のない小学生。
 そんな露骨な地名の由来も含めて、僕は熱弁する。
 僕の発表に聞き入っていた五島の友達は、話し終えると一斉に スタン 拍手を送ってくれた。

 一人だけぽっちゃりしていて、夏はひとり色白。
 佐世保に帰ると言って、ペーロンにも出ない。
 ソフトボールでは張り切りすぎて浮き上がる。
 そして、いずれは父の「島流し」(長崎の教諭たちは離島勤務をこう揶揄する)が終われば、本土へ帰っていく友達。

 そんな「よそ者」の僕が4年間で、最も皆から受け入れられた瞬間だった。

次回、この話の最終回



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2009年7月30日 (木)

たかしの味噌まんじゅう、買わなかんがや

【 河村たかしを追っかけるがね 第15回 】

 7月7日
 河村たかしが出した「市民税10%減税」条例は、成立しなかった。
 「財源が明示されておらず、十分な議論ができない」というのが理由。
 今回の議案は財源を明示することが間に合っておらず 「2010年度から減税します」という目標だけの条例。
 財源を明示した実行案は 2009年11月議会での提出をめざしている。
 今回は廃案ではなく、継続審議。
 減税公約が頓挫したわけではない。

 7月12日
 名古屋市議 港選挙区の補欠選挙で、民主党が推薦し、河村たかしも応援に入った新人 安井伸治が当選した。
 もちろん、安井議員は 河村市長が推進する革命に一枚噛んでくれることだろう。

 同日、前任の県知事が、飛行場そばの木を切ってもらうために辞任した後を受けた静岡県知事選挙が行われた。
 当選した海野徹のマニフェストは「日本一税金の安い県」
 3か月前、河村たかしが名古屋市長選で掲げた「日本一税金の安い街」のぱくりである。

 同日、東京都議選では民主党が大勝。
 いよいよ、民主党の政権奪取が確実となった。

 7月13日
 河村たかしは、2007年に発覚した名古屋市役所の裏金、2億円の裏帳簿を公開した。
 名古屋市がこれまで開示を拒み続けていた文書。
 今回、市長自らその判断を覆した。
 こうなってくると名古屋市民の間に
 「政治は生活と連動するものだ」
という実感がわいてきているはずだ。

 7月17日 「でぇら たかしの味噌まんじゅう」が、JR名古屋駅や東海地区の高速道路サービスエリアで発売された。
 価格:12個入りで630円
 販売元:名古屋市中区大須の「ベル・シャポー」
 包装紙には、河村たかしに似たキャラクターが登場。
 「めざせ!日本一税金が安い街名古屋!」と叫んでいる。

 この夏に敢行する「高速道路で行く東京-九州の旅 すべての県でSA・PAに寄る!」に、またひとつ楽しみが増えた。
 東名高速、伊勢湾岸道ではすべてのSAに寄って、味噌まんじゅうをゲットしなければならない。

販売している高速道路のサービスエリア
 伊勢湾岸道 刈谷ハイウェイオアシス(中央棟)
 東名高速道路 上郷サービスエリア(上り)

 8月30日の総選挙では、民主党が政権を取ることが確実となっている。
 既に民主党議員は、次の参議院選挙を「与党で迎える参院選」と発言している。
 民主党が政権をとれば民主党の党首が、総理大臣になる。

 民主党に籍を置く河村たかしは、自称「総理をめざす男」
 河村たかしは、2009年3月までは衆議院議員だったが、今は名古屋市長である。
 総理大臣は国会議員から選ばれるので、この9月に総理大臣になることはできない。

 総理を目指すならば、一般的には、国会議員でありつづけた方がよかった。
 だが、河村たかしは、ずっと民主党の党首になれなかった。
 民主党の党首選挙立候補には、国会議員20人以上の推薦が必要なのだが、これまで一度も20人を集められなかったのだ。
 そこで今はまず、地方政治から革命を起こそうとしているのである。

【 河村たかしを追っかけるがね 】 は、毎週木曜日に掲載しています。

河村たかしを追っかけるがね 目次


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2009年7月29日 (水)

中1で筋トレをした結果

 女子たちは「ひ弱な坊や」と僕を馬鹿にした。
 そこで僕は「冒険王」に広告が出ていた日焼けマシーンではなく、ブルワーカーを買うことにした。
 お盆に下関の親戚に行った時、それまではひ弱だった兄弟が揃って、精悍な体つきに変わっていたからだ。
 なぜか、母も話しに乗ってきた。
 ママさんテニス大会で全国優勝するために、上腕を鍛えようと思ったのだろうか。

 五島に帰ると、真新しいブルワーカーが届いていた。
 それまで、雑誌の広告で買ったものといえば、
 ミルマスカラスのミニマスク、ガイコツバンク、オバケ面・・(個々の説明は割愛)
 いずれも期待はずれに終わっていた。

 だが、こいつだけは違った。
 広背筋(脇の下の筋肉)を鍛えて、ポーズを決めるとボディビルダーのような逆三角形になる。
 ただ、当てもなく筋肉のついた造形美に憧れる時期がある。
 それが、たまたま中学1年の夏だった。

 そして、背が止まった。

 結論と実体験から言う。
 背が伸びているうちは、どうしても背を停めて低い目線で世の中を見たい人でない限り、筋トレをしてはいけない。
 そう言うと誰もが、そんなこと常識だよという顔をするが、誰一人として事前に教えてはくれない。

 ダイエットに精を出していた「みっちょか」時代は過ぎ、中学に上がると、体が引き締まってきた。
 それと同時に、背が伸び悩む連中は僕に対してちょっかいを出さなくなった。
 「かっこつく、おとこんきーた」事件の後、屋上に僕を呼び出してリンチにした二人連れは、僕との身長差が10cmになる頃には、ネコのように喉をごろごろ鳴らして
「motoく~ん」とすり寄ってきた。
 僕はもういじめに遭うこともないと安堵すると同時に、世の中はちょっとしたことで状況が変わるのだという発見をして嬉しかった。

 僕が住んでいた頃、その町では「原」という名字が一番多かった。
 なぜ、断言できるかと言うと、町役場に1週間通い、全世帯の名字を調べたのである。
 オトナになってから、住民票の閲覧にはお金がかかることを知り、その後は、個人情報保護という小難しい時代になった。

 それが「社会科の発表で、どの名字が一番多いかを調べたいんです。先生の許可も得てきました」とやってきた一見の小学生に台帳を見せてくれたのである。
 なんと、すてきな町だったのだろう。
 公務員はこうでなくてはいけない。

 調査仲間の名字もハラ君。
 なにせ、クラスはハラだらけ。
 学校帰りに役場に上がり込み、事務机を占領する。
 世帯数などというコトバは知らなかったが、人口1万人弱の町なので 3,000弱の世帯はあったのだろう。
 台帳を見ながら「正」の字を書いていく。

「よ~がんばったなぁ」
「最後までつづくとはおもわんかったバイ」

 調査最終日には、名残惜しんだ役場の人が くす玉を割って
ファンタオレンジで慰労してくれた。
 僕はやり遂げた達成感と、オトナの皆さんの暖かさに、思わず目が潤んだが、男は人前で泣くものではないと頑なに信じていたので、こらえた。

 明日は発表の日。
 できあがったランキング表の1番上は「原 55軒」
 模造紙に書き込んだ成果物をみて、僕は物足りなさを感じていた。

7/31につづく



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2009年7月28日 (火)

みそ汁に入れると美味いということは?

 まぁそげん、おちこまんと。
 文字にすると微妙な励ましをしてくれたトモコの家は魚屋だった。
 ほとんどの家が漁業に従事しているが、魚は魚屋または、となりまちのスーパーで買うのである。
 イルカを大量と殺した日、その肉を切り分けてバケツいっぱいに入れて配給するのも、トモコの店の仕事である。

 トモコの魚屋は学校帰りにあり、僕はそこを通るのが楽しみだった。
 お店の脇にコンクリートでつくった生け簀があったからだ。
 そこにはいつも、売り物の魚が包丁でさばかれる順番を待っていた。

 はこふぐ(五島ではかっとっぽ)は、おかしな形をしたフグで、気持ち悪かったが、味噌汁にすると美味いと大人は言っていた。
 赤い体をしているのはアラカブ。
 子供はたいてい煮魚が嫌いである。
 唐揚げやカツ、天ぷらといった揚げ物の香りがすると、生きていてよかったと思うが、煮付けた醤油の臭いが台所から漂ってくると、ウチは貧乏なのだろうかと憂鬱な気持ちになった。
 アラカブも煮付けや味噌汁に入れると美味いと、やはり大人が言っていた。

 だいたい「味噌汁に入れると美味い」というのはどういうことだ?
 そのままじゃ、とても食えないということではないのか。
 大人がそんな決まり文句を言う度に、僕はそんな味噌汁は食わなくていいと、心で毒づいていた。

 ある日、トモコの生け簀に伊勢エビがいた。
 十数年来、穴が開くほど図鑑で見続けたアイドル。
 その本人が、目の前にいる。
 僕は興奮した。
 雨上がりの初夏の午後、魚たちも疲れているのか、誰もが動きを止めていた。
 伊勢エビも生け簀の右端の日影に陣取って動かない。
 五分ほど、見続けていた時、僕は思った。
 伊勢エビって、どんなふうに泳ぐんだろう?

 少しは動くかも知れないと、体を左右に動かしてプレッシャーをかけてみたが、カレも恐竜のようにでかい僕が怖いのだろう。図鑑に写っていた通りの直立の姿勢を保って動く気配がない。

 仕方がない・・
 お店の中をのぞきこんだ。
 幸い、トモコの両親は店を開けて、居間に引っ込んでいる様子。
 チャンスだ。

 傘だ。
 おもむろに持っていた傘を生け簀にツッコミ、伊勢エビに振りかざした。
 すると、伊勢エビはそれまでの鈍重なイメージを覆し、生け簀の左端に瞬間移動した。
 伊勢と名前がつくから、不思議な神通力でも持っているのかと思うほど速かった。
 「はやっ」
 今ならばそう言っただろうが、その時は畏敬の念と心を込めて「はやい」と声に出して賛辞を送った。
 それは、ジャイアント馬場がジャック・ブリスコを押さえ込んでNWAを奪取した瞬間
 「馬場、世界一!」
 とテレビに向かって叫び、母から「わざとらしい」
と言われた時に似ていた。

 世界中の悲劇を背負った気分の一週間が過ぎ、僕の顔は元に戻った。
 「アワビに当たってから、余計、顔がゆがんじゃったよ」
 という新ネタを得て、僕の生活も元に戻った。

 だが、一つだけ違っていたことがあった。
 あれだけ大好きだったエビが、食べられなくなっていた。

 エビ・カニを食べるとじんましんが出る。アワビやサザエ、貝類は怖くて食べる気になれない。
 でもカキフライは今も好きで、かっぱえびせんとナゴヤの「ゆかり」は食べられる。
 魚は今や肉より大好き・・・
 一杯のアワビが、どうしてこんなご都合主義の魚介類アレルギーを引き起こすのか、その謎は依然として解明されていない。

つづく



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2009年7月27日 (月)

まぁそげん、おちこまんと

 お弁当生活は、給食よりもマシという程度だった。
 前の学校では、月間献立表でカレーシチューやカレーうどんを指折り待った。だが、毎日の給食はそれほど楽しみではなかった。
 弁当になっても、状況は変わらない。
 専業主婦の母は、子どもの栄養価を考えて、おひたし、煮物、野菜をたくさん入れてくれた。
 だが、親の心子知らず。
 僕は卵焼き、ウィンナーソーセージがそのまんま、どーんと入った弁当が食べたかった。

 田舎には雑貨屋がある。
 田舎には雑貨屋しかない。
 スーパーは隣り町の青方まで行かなければない。
 食品、雑貨、お菓子・・いわゆるコンビニの昔版。それが雑貨屋。

 雑貨屋にはいつも、近所のおばちゃんがたむろしていた。
 漁師の母ちゃんは豪快だ。
 「今日はお前んとこは、なんか?うなぎ?また、なんばすっとか?」
 「おばば、おいに、ちんぽばくれれ がはは」
 *おばさん、私にこの赤いウィンナーソーセージを売ってちょうだい ほほほ

 僕はいたたまれず、仮面ライダースナックを買うのを諦めて、店を出た。
 ちんぽばくれれと言ったのは、空手を習っているジャイアンの母ちゃん。
 ジャイアンの弁当は、クラスでただ一人ランチジャー。
 お昼になると、教室に棟梁が迷い込んだようで、格段に浮いていた。

ミッキーの弁当箱
イルカを食べたことがある

 五島列島は、当然だが、四方を海に囲まれている。
 しごく当然だが、海の幸が豊富である。
 なにせ、ひざまで海に浸かればウニが食べられるくらいだ。

 子供の頃から、一日何時間でも図鑑でえび・かにを眺めて暮らしていた僕にとっては、楽園の・・・
はずだった。

 父は高校で教諭をしていて、その生徒の大半は漁師の子供である。
 すると、近所のご父兄が
 「先生、キスん釣れたよ」
 「先生、サザエんとれたよ」
 などと言って、とれたての魚を持ってきてくれる。

 その日、父兄から持ち込まれたのはアワビだった。
 アワビはウニよりも深いところに住んでいるので、潜れない僕は獲ったことがない。
 ずいぶん後にそれは贅沢品であるということ、香港ではアワビでぼったくる業者の方がいることを知るのだが、初対面のアワビを見て、美味しそうだとは思えなかった。

 悲劇は翌朝に起きた。
 いつも通り、歯をみがき顔を洗って顔を上げた時だ。
 顔がエレファントマンになっていた。
 それは後に観た映画だが、記憶を総合すると、鏡の中にいたのはエレファントマンそのもの。
 あるいは田中角栄のようでもある。
 かつての総理大臣、田中角栄により「顔面神経痛」という病気が、世の中に周知されていた。

 「顔が田中角栄になったから、今日は休みます」
 というわけにもいかない。
 これは一時的なものであり、お昼には治っているかも知れない。
 そう思って登校したが、下校する頃になって、洗面所の鏡を恐る恐るのぞくと、やはりそこにはエレファント田中がいた。
 そのとき、13歳。
 左右非対称のこの顔で、僕はこれからずっと生きていくのか。
 人並みに恋をすることも、もう叶わないだろう。
 まだ、なに一つ楽しいこともしていないっていうのに・・
 僕の心は、深い海底に沈んだ。

 ただ、不思議に歪んだ顔をネタに、虐めてくるヤツはいなかった。
 女の子たちは、たいがい見て見ぬふりをしてくれた。
 「いやぁ、アワビ食べたら、腫れちゃって」
 自虐的に言う僕に、となりの席のトモコは、
 まぁそげん、おちこまんと。 
 じきになおるよ。
 と励ましてくれた。

つづく

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2009年7月26日 (日)

デコにオファーしたクラブとは?

 7月10日、デコの移籍交渉がまとまらぬうちに、チェルシーのプレシーズン・キャンプが始まってしまった。
 デコは依然としてチェルシーの選手であり、チェルシーのキャンプに参加する。

 デコがポルトガル紙「ア・ボーラ」にこう語っている。
*出典 The Goal

 「いくつかのクラブからオファーを受け取った。でも、もしもチェルシーに残るとしたら、いくつかのことが変わるのが重要だ。去年は気に入らなかったからね」

 ここにきて、チェルシー残留の可能性に言及したデコ。
 インテルとの移籍交渉が難航していることがうかがえる。

 同日、インテルのモウリーニョ監督は、獲得交渉が思うように進まないデコとリカルド・カルバーリョについて、語っている。

 「私のチームじゃない選手については話したくない。
 レベルの高いトップ下とDFが加われば満足だが、どうやら難しいようだ。
 今は2カ月前に私が夢に見ていたチームではない。
 だからこそ、目標はチームの現状に即したものとなるだろう」

 デコとカルバーリョに対する獲得資金を出し惜しむインテル首脳に対する痛烈な皮肉である。
 要求どおりの選手が揃わないならば、現状の戦力での目標は "現実に即したもの"
 つまり、スクデット(セリエAのトロフィー)は獲れたとしても、欧州CLはムリだからね。
 呆れてモノが言えないということだ。

 デコが言う、オファーをくれたいくつかのクラブとはどこか・・
 その可能性を想像してみる。
 まず、真っ先に思い浮かぶのは、古巣のFCポルト。

 2006年9月、ポルトガルリーグ「スーペルリーガ」は経営不振のため開幕できなかった。
 結局、スーペルリーガから2チームを減らして16チームでスタート。
 ブックメーカー(賭けごとを仲介する業者)企業の bwin を冠スポンサーに迎えて「bwinLIGA」として開幕にこぎ着けた。
 お世話になったポルトガル・フットボール界の地盤沈下に心を痛めたデコは、2006年10月に「現役生活をFCポルトで終えたい」と語っている。

 FCポルトに移籍する時は、デコが引退時期を決めた時。
 まだ、その選択はあって欲しくない。

 2番めに思い浮かぶのは、レアル・マドリー。
 かつてFCバルセロナに在籍中のデコに対して、100億円前後のオファーを出したことがある。
 レアル・マドリーはバルセロナの敵対クラブ。
 かつて、バルセロナから直接レアル・マドリーに移籍したフィーゴ(国籍:ポルトガル)は「金の亡者」と言われ、カンプノウ(FCバルセロナのホームスタジアム)に試合に来た時には、ブーイングだけでは済まず、豚を投げつけられている。
 もちろん、デコはこのオファーを一笑に付した。
 だが、2009-10シーズン、C・ロナウドとカカ(共に攻撃的MFタイプの選手)を獲得し、ゲームメーカーの人材を求めているレアル・マドリーがデコに白羽の矢を立てても不思議ではない。

 全盛期だったフィーゴは「裏切り者」と呼ばれたが、戦力外となってレアル・マドリーに移籍したサビオラは、そう呼ばれなかった。
 グラディオラ監督に「戦力外」と明言されたデコの場合、裏切り者と呼ばれる筋合いはない。
 ただし、デコは今でもFCバルセロナを愛しており、可能性は低い。

 プレミアリーグのチェルシー以外のクラブという選択肢は考えづらい。
 デコは「プレミアへの適応に問題を抱えた。そして故障した」と語っている。
 プレミアリーグは、これでもかというくらい走り回るリーグ。
 FCバルセロナ在籍当時、走る量では常にチームトップだったデコも、90分間走りきることは難しいと推察する。

 デコが密かに望んでいるのはFCバルセロナへの復帰だろう。
 だがそれは、グラディオラが監督である限り難しい。
 就任時「ロナウジーニョ」と「デコ」を名指しして追い出し、ようやく今年最後の「エトー」を追い出すことにこぎ着けている。
 そのグラディオラがデコを呼び戻すことはあり得ない。

 現実的には、デコにオファーを出したクラブは、ポルトガル、スペイン、イタリアのいずれか。あるいは、中東でCL制覇を夢見るお金持ちクラブというところであろう。



デコファンクラブサイト

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2009年7月25日 (土)

かっこつーく、おっとこんき~たっ

 ソフトボール大会準優勝の翌日。
 本来ならば晴れがましい気分の朝になるはずだが、校門をくぐる足は鉛のように重かった。
 昨日の僕の張り切り過ぎが、どんな虐めを呼ぶのか。
 あるいはそれは杞憂に過ぎず、いつもと同じ月曜日が始まるのか。
 その結果は、教室に入った途端に出た。

 僕が席に着くが早いか、スタンバイしていた連中がお囃子に合わせて近づいてくる。
 「かっこつーく、おっとこんき~たっ」
 *格好ばかりつける男が、やって来た

 「かっこつーく、おっとこんき~たっ」
 事前に練習したのだろうか。
 学芸会並に、手拍子と足並みが揃っている。
 誰かに洗脳されたかのようだ。気味が悪くて、朝食べたアゴがのど元まで上がってきた。
 歌詞を考えたのは、いじめのシナリオを書かせたら右に出る者がいないキダであろう。
 あまりに、統制がとれたお囃子だったため、何十年経った今でも、鮮明に思い出せる。

 浦桑のチームメイトは助けてくれなかった。
 浦桑の捕手を務めたジャイアンは、キダの求めに応じて
 「ちょうし、のんな」
 と机を蹴りに来た。空手を習っているジャイアンの蹴りで机がひっくり返りそうになるのを、慌てて僕が支えた。
 ジャイアンは、どうだ。俺はやったぞと狂気の表情をつくっている。
 彼の空手をもってすれば、クラスじゅうの男子を倒せる。何も畏れるものはないはずだが、如何せん気は小さいのである。

 だが、ジャイアンを責める気など毛頭無い。元々助けなど求めちゃいない。
 妙な助け船を出されれば、話に筋が立ってしまい、長期化の畏れが出てくる。
 単純な「気に入らない」というレベルの子どものいじめだ。
 時が過ぎれば、やがて嵐のように去っていく。

 今はじっとして、時をやり過ごせばいいのさ。
 目一杯悲しげで、なおかつ、調子に乗りすぎたことを心から悔いているという顔を作りながら、僕は心の中で、そうつぶやいていた。

 こういう時、女の子たちは、虐めに加担しない。
 五島では、男と女の間には厳格な一線があった。
 男が女を虐めるということも、ほとんどない。
 女はただ、男どもの姿を見守っているだけだった。

 これは、一週間はつづくな・・
 そう諦めていた日の放課後、下駄箱に待っていた男がいた。
 シナリオライターのキダである。
 きょろきょろとあたりを見回し、周りに誰もいないことを確認すると
 「気にすんな」
 と一言だけ言って走り去った。

 アメとムチで僕を統制にかかっているのである。
 おいおい、おまえが首謀者だろう・・・
 少しはそうツッコンだが、そうは言っても地獄で仏。
 一日中、クラスじゅうの合唱を聞いてすさんだ気持ちには、そんな戦略的な優しさでも嬉しかった。

 山口に住んでいた時までは、一点の曇りもない少年時代だったが、五島での4年間は大しけの海に放り出されたようだった。

 いくつもの挫折があった。
 その一つがダイエットだ。
 ダイエットに挫折したのではなく、ダイエットに追い込まれたと言うことだ。
 小5で、生まれて初めてのダイエット。
 当時、ダイエットという言葉は無かったので、日記に記されているコトバは「減量」である。

 「足のみっちょかとよなぁ」
 男子だけでなく女子までが、そう言って僕をからかった。
 "みっちょか"には、可愛いという意味もあるのだが、要は足が太くてぱんぱんであると言いたいらしい。

 なにせ、五島の子どもは細い。
 毎日、魚ばかり食べているからだ。 \^^)オイオイ
 かくいう自分も、毎日肉ばかり食べてきたわけではない。むしろ、その逆で山口の盆地に住んでいたのに魚ばかり食べていた。
 魚の方が肉より安かったからだ。
 時代は変わり、今となっては、魚の方が高級品だが、当時は逆だった。

 ところが、五島に来てから食卓に肉が並ぶ日が増えた。
 公務員の父には"離島手当"がつくようになり、手取りが増えたのだ。

 
 豪華になったおかずをみすみす残すことはできない。
 僕のダイエットの矛先は「ごはん」に向かった。
 それまでは、1日1膳。おかずが好きなものの日は2膳。
 それを茶碗半分に減らした。

 転校して一ヶ月が過ぎた5月の身体検査。
 僕の体重は、前月比 -1.3kg を記録。
 なぜか、身体検査の結果表をみながら講評をする担任のフクダは、
 「moto~ 今日から茶碗 2杯食え~」
 とやって、クラスじゅうが爆笑した。
 僕は心の中でガッツポーズをとりながら、にこにこしていた。

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2009年7月24日 (金)

ずっぴ争いを制したのは浦桑

 ソフトボール大会が始まった。
 優勝候補は丸尾。対抗が似首。榎津そして我らが浦桑は、最下位争い。誰もがそう見ていた。
 抽選で決まった1回戦の組み合わせは
 丸尾ー似首
 榎津ー浦桑
 なにせ、当時は「シード」などという上等な考え方がない。
 いきなり1回戦で優勝候補同士が当たってしまった。

 第1試合の丸尾ー似首は激戦の末、丸尾が勝ち決勝に駒を進めた。
 つづく第二試合、ずっぴ*1 争いの榎津-浦桑は1点のビハインドで、最終回5回裏、浦桑の攻撃を迎えた。1点差といえども我ら浦桑の貧打は致命的で、5番の僕から始まり下位打線に回る攻撃では敗色が濃厚だった。

 僕は球技になると、つい本気を出してしまう。
 というより、本気を出しすぎてしまう。
 「へいへい、ピッチャーはいらんで」
 一球ごとに相手を野次る。
 「しまってこー」 「ないすせん」
 味方には大声で声をかける。
 打席に入れば、バントの構えで投手を揺さぶる。
 「しょんなかねぇ。ストライク入れろさ」 そんな顔をして。
 そして、ほんとにセーフティバントもする。
 塁に出れば必ず3塁まで盗塁する。
 テレビで見たことがあるプロの行いは、すべてやらないと気が済まない。

 僕のバントの構えに制球を乱した相手投手は、最終回という緊張も手伝い、いきなりの3連続四球。
 無死満塁となった。
 ここで、元社会人ソフト選手のヒラタが取る作戦は、100人中100人に見え見えの2連続スクイズである。

 8番打者への第一球、サインはスクイズ。好スタートを切った僕は難なくホームインして、まず同点。
 つづく、9番打者のところで、代走に足の速いアイツが起用された。
 つづくサインは、またも初球スクイズ。

 3塁ランナーのアイツがスタートを切った。
 僕らはボールを追っていたが、後で写真を見ると、投手が投げる前に3塁のアイツは、もうスタートしていた。
 ソフトボールでは、これは「離塁アウト」といって、ランナーアウトである。
 だが、五島には離塁アウトというコトバはまだ輸入されていなかったらしい。
 3塁塁審の役場のナカグチさんのお咎めなし。
 慌てた一塁手がバント処理をお手玉。ボールはホームに返ってこなかった。口をあんぐり開けて立ちつくす捕手のヨコを、アイツが滑ることもなく、ホームを駆け抜け浦桑がサヨナラ勝ち。決勝に進んだ。

 絵に描いたような劇的な勝利。
 ゲームセットの整列が終わると、僕らは手を取り合って喜んだ。3位決定戦の間の昼食タイム。両親と弁当を囲みながら、試合を何度も振り返り、勝利の余韻に浸った。
 だが、その喜びは決勝が始まるや、恐怖に変わる。

 まともに守れる選手が他にいないため、僕は左利きなのにショートを守っていた。
 そのショートから真正面に丸尾の応援席が見える。
 3位決定戦、似首に大差で敗れた榎津の面々が、丸尾の応援席に陣取っていた。

 キダはいつも、陰湿ないじめの中心にいる男だ。
 日頃は人がよさそうにニコニコ笑っているのだが、一旦いじめモードに入ると、かなりえげつないことを平気でやる。
 そのキダが番長格のフジタの横に陣取り、こちらを指さしながら、なにやらご注進に及んでいる。

 オレは調子に乗りすぎた・・
 丸尾ベンチを包む不穏なムードでわかる。榎津敗戦の因をつくった張本人として、怒りが僕に集約されていることは明らかだった。
 もうそうなると、試合どころではない。
 もしこれで、丸尾を破って優勝しようものならば、どんな作戦が決行されるか、考えただけで怖い。
 僕はひたすら地味なプレーに徹し、存在を消そうと必死になった。
 試合が9-7で丸尾の勝利に終わった時、心からほっとした。
 そして、嵐は次の朝やってきた。

つづく

*1 ずっぴ=どべ=最下位

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2009年7月23日 (木)

不一致のどこが悪いんかね?

【 河村たかしを追っかけるがね 第14回 】

 6月26日、名古屋市議会6月定例会
 自民党の東郷哲也議員が「公立図書館の運営を民間に開放してはどうか」と質問した。

 河村たかしが市長に就任して以来、名古屋市議会の雰囲気は一変している。
 質問に立つ側は、この市長ならば、わかってくれるのではないか?
 山は動くのではないかと、嬉々として議会に臨む。
 もちろん、それを苦々しく見ている議員もいる。

 図書館サービスを民間委託するのは、今や常識である。
 東京都大田区では、2003年4月1日から図書館サービスは民間が担っている。
 元々、接客態度がよかったので、実感しづらいが、今や緊張感のない職員はいない。
 依然として公的運営している別地域の図書館に行くと、その差は歴然とする。
 概して「公」のほうが棚が荒れている。コンピューター端末で検索して図書記号を調べても、棚がその通りに並んでいないので、本を探すのにとても難儀する。棚が荒れると風紀も荒れて、書き込みや紛失が増える。
 目の前で貸出客の行列が伸びているというのに、知らんぷりをして「自分の仕事」をしている職員もいる。民間ならばすぐに「お待ちの方、こちらにどうぞ」と言って窓口を一つ開けてくれるところだ。
 「俺は受付とか、そういう仕事の人じゃないのよ」
 と顔に書いてある。それなのに、利用者の冷たい視線に怯えているのが伝わってきて、可笑しい。

 質問に対して、教育長は「他地域をよく研究して、検討したい」と、 実質的には「やりません」という答弁。
 だが、河村市長は 「公共サービスを公務員しか担ってはいかんというのは幻想」として、積極姿勢をみせた。

 これを、市議やメディアは
 「市長と職員の不一致」
 「一致していないのは、問題」
 というのである。

 既成概念に埋もれた人は、世界中から「不」という言葉を一掃する必要があると、勘違いしているようだ。
 理想的な賢者の政治が行われていない限り、政治家と官僚が不一致なのは、当たり前だ。
 それが一致しているから「族議員」が問題になっているのだ。

 真っ当に生きていると、たくさんの問題に気づき、解決に当たれば、人とぶつかる。
 ぶつかることから逃げれば、世の中は何も変わらない。

 河村たかし行くところ、不**は付きものだし、その足跡には、うようよと問題が生えてくるのである。

 6月30日、河村たかしに 101万円のボーナスが支給された。
 この金額は在職日数に対する日割りであり、満額ではない。
 ただし、河村たかしは「自分の年収を 800万円に減らしてちょ~」という条例案を出しているので、それが可決された場合は、8月の給与から減らして調整する。
 名古屋市一般職員の、この夏のボーナスは、一人あたり平均 80万円である。



河村たかしを追っかけるがね 目次

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2009年7月22日 (水)

対岸のガンダム、貸し切り

 2016年に東京に五輪を招致するために、アイツが立ち上がった。

 船の科学館、フジテレビのすぐそば、お台場の潮風公園にすっくと立ったのが、世界中のオタクの憧れ、ガンダムである。

 こうなると、五輪招致委員に、何人オタクが紛れ込んでいるかで、勝負は決するだろう。

 巨大なアイツを写真に収めたい。そう思うのが人情ってものだ。公開は8月31日までであり、悠長にしてはいられない。かと言って、芋を洗うような人混みには、出かけたくない。

 そこで、作戦を練る。

 潮風公園の位置をネットで検索すると、公園が海べたにあることがわかる。海を隔てた最短距離の場所は、入国管理局がある品川埠頭である。巨大なアイツのことだ。対岸からでも、その勇士は際だっていることだろう。

 さっそく、車に望遠レンズと三脚を積み込み、港区港南をめざす。海岸に車を停めれば、そこは特等席。誰にも邪魔されない。

 脳内には早くも、お台場にそびえるビル群に、忽然と現れたあいつの絵が浮かんでいる。

Gunhtb

画像は脳内イメージです。

 車は目的地にたどり着いた。
そこには、人っ子一人いない。
やった!ガンダム貸し切り!

G0

だが、そこには埠頭の施設があり「立ち入り禁止」の看板。
海岸線までは、まだ1区画分、距離がある。

車を降りると、さっそく準備にとりかかる。
立ち入り禁止の看板のヨコに三脚を立て、望遠レンズをとりつけた一眼レフをセットする。
たった一人で、港湾施設に向けてカメラを向けていると、テロリストに間違われはしないだろうか。
スナイパーと思われて、撃たれるのではないか。
佐世保の暮らしが長い人は、海べたの施設に向けてカメラを向けたら、撃たれそうな気がするのである。

アイツの姿を探す。
いた。

G1

想定した通り、海べたにその勇士を誇っている。
障害物はない。
港湾労働者のおじさんが、自転車でこちらに向かってきたが、まったく無視された。
恐らく、このあたりには、日頃からスナイパーが出没するのだろう。

望遠レンズで、最大限に拡大して、アイツの勇士に迫る。

G2

飛行機を迎撃するアイツ

G3

巨大な舟に体当たりするアイツ

G4

水上バスを踏みつぶすアイツ

G5

そういえば、さっきから、アイツはずっと、向こうばかりみている。

おい、ガンダム、こっち向いてくれ!

何度、呼びかけても、アイツの反応はない。

これ以上粘っても、状況は変わりそうにない。それなれば、スナイパーに長居は無用だ。

早々に、機材を撤収して、任務を完了とした。

G6

 後で写真を確認して初めて、足下の白い物体が、アイツの信奉者の皆さんだとわかった。

 それにしても、この作戦は消化不良だ。このままでは終われない気が、しないでもない。

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2009年7月21日 (火)

ペーロン除隊の理由

 僕の岩場は、海の幸の宝庫でもあった。
 僕にはムリだが、素潜りすれば、すぐそこにアワビが見えていた。
 そして、膝上まで足をつける浅いところにはウニがいた。
 ウニを獲って、その場で割る。
 黄色いところだけを指でより分けて、口に運ぶ。
 生まれて初めて食べるウニ。
 塩水を吸ったウニは水っぽく、すするように飲めた。

 夏には、学校から帰ると、ランドセルを置くやいなや、マイナスのドライバーを一本持って、岩場へ行く。
 ウニは僕のおやつ代わりとなった。

 後に瓶詰めのウニを食べた時は、固くてとても美味しいとは思えなかった。
 今も回転寿司に行けばウニは外せないが、あの日、五島で食べたウニのようなみずみずしさは望むべくもない。

 ペーロンは長崎県に伝わる伝統行事。
 手こぎの舟に、太鼓を叩く係りが1人、あとはこぎ手が乗り、速さを競う。
 新魚目町では、毎年お盆にペーロン大会があり、町内対抗戦をおこなう。
 女子は乗っていなかったと思うが、男子は全員参加だ。

 舟がこげる海だから、当然深い。
 足が届くようなところはない。
 こぎ手はライフベストなど着たりしないので、泳げない僕には生命の危険が伴う。

 五島の子供達にしても、生まれながらに泳ぎが達者なわけではない。
 「ペーロンで海に落とされて、そいでだいでん泳げるようになっとばい」
 (ペーロンの練習で海に落とされて、それで誰でも泳げるようになるんだよ)

 これが、僕にペーロンに乗るように勧めるトークだった。
 そんな、危ない話を聞いて、誰が乗るかっての。も乗らないだろう。

 幸い、本土(五島の人は本州・九州などをこう呼ぶ)から来たウチの家族は、お盆には墓参りで佐世保に帰るという行事があった。

 どげんしても、お盆は佐世保にいかないかんたい。
 結局、五島にいた4年間、これを口実に、ペーロンを除隊してもらった。
 だが、それが僕に対して風当たりが強くなる一因でもあった。

 僕への反感が決定的となる出来事は、五島に来て2年目の9月30日に起きた。
 「少年ソフト大会」
 新魚目町は、浦桑・榎津・丸尾・似首の4つの地域から成る。
 それぞれの地域の小学生選抜チームによる、地域対抗ソフトボール大会だ。

 大人達がお金を出し合ったのだろう、僕らは皆、お揃いのユニフォームに身を包んだ。今でこそ、子どもが野球のユニフォームを着ていても珍しくないが、当時は、ユニフォームを着るのは、プロ野球と甲子園の選手だけだと思っていた。
 ただし、ユニフォームは9枚に限られていて、レギュラー以外の選手は、魚目小学校の体操服を着て出場する。
 ストッキングはお揃いだが、アンダーシャツはなく、靴と帽子は自由。
 誰もが無地の白いキャップをかぶっているのに、僕だけは「H」のワッペンがついた帽子をかぶり、明らかに浮いている。
 なぜ「H」だったのかは、よくわからない。
 恐らく、姉が山口の時に通っていた「豊田東中」の帽子で、それで「H」なのだろう。

 夏休みが明けると、代表選手が招集されて、一ヶ月にわたる練習が始まった。
 僕は浦桑の選手に選ばれた。

 ペーロンは出らんとに、ソフトはずっとや
 (ペーロンは出ないのに、ソフトボールには出るんだな)
 そんな皮肉を言うものは、浦桑にはいなかった。
 僕は、浦桑で2番めにソフトボールが上手かったからだ。

 浦桑の指導者は、魚目小の体育教師ヒラタだった。
 カレは社会人ソフトボールの選手だったらしい。
 全校朝礼で、着任挨拶に立ったヒラタはこう切り出した。

 皆さん、僕の顔を知っていますか?
 わからないかな。
 野球帽をかぶったら、わかるかな。

 田舎の子どもたちは、色めき立った。
 まさか、プロ野球の選手?いや、そんなわけはない。だとしたら、甲子園のスターか。 後で、社会人ソフトボールと聞き

 そんなもん、わかるか!
 田舎をなめるな!
 と思ったが、周囲の子供達は、そういうことはあまり気にしないようだった。

7/24につづく



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2009年7月20日 (月)

フグと泳ぐ海

 五島の家は、たいがいの家が狭かった。
 玄関の土間から見える畳の部屋には、布団が敷かれているのが見えた。
 布団はもっこりと盛り上がっている。
 そこにハラが寝ているのだろうが、布団をかぶっていて、顔は見えなかった。

 この度は本当に申し訳ありません。
 寄りによって、石を投げるなんて・・
 ハラ君のお具合はどうですか?

 いや、あんまりよくないみたいで、帰ってからはずっと寝てますよ。
 もう、ほんとに、気をつけていただかないと

 山口弁の母と、五島弁のハラの母が標準語で、すべった会話をしている時、ハラの弟が肩越しに、目ざとくケーキの箱を見つけた。
 すると、弟は兄の病床にスライディングして駆け込んでいった。
 
「兄ちゃん、ケーキ!ケーキ!」
 兄が少し動いたように見えたのは、きっと僕の気のせいだろう。

 ハラはそれ以降、僕を畏れるようになった。
 たまに、僕を怒らせるようなことを言った時は、
 あ、頼むから石だけはやめてよ
 と付け加えるので、僕は複雑な気持ちになった。

 五島の夏、唯一の娯楽は海で泳ぐことだ。
 海水浴などという優雅なものではない。
 自宅から海パンで駆けだして、ガードレールのない道路から海に飛び込む。
 その海には、食べられないフグが大量に泳いでいて、フグと海を共有するのである。
 飛び込めるくらいだから、いきなり深い。
 足が届かない。

 そして、僕は泳げなかった。
 遠浅の砂浜ならば、1m限定の平泳ぎでお茶を濁せるのだが、足の届かない海に入ったら命が危ない。
 山口にいた時、泳ぎが達者だった友達が海で死んだ。
 足に藻が絡んで溺れたのだと聞いた。
 だから、余計に海は怖かった。

 夏休みにはいると、友達がいなくなった。
 全員が泳いでいるからである。
 泳ぎに行かないのは、僕ひとり。
 すると、初めての登校日が悲惨だった。

 クラスじゅうの生徒が黒いのである。
 そこに、ただ一人、美白の少年がいる。
 女子も例外なく、黒かった。
 黒い女子に珍しそうな眼差しで見つめられて、僕はいたたまれなくなった。

 それからというもの、僕のくろんぼ作戦が始まる。
 浦桑のみんなが泳いでいるフグの海に行けない僕は、町外れの海にある岩場に通うことにした。
 そこで、海パン一枚になると、岩の上で寝るのである。
 10分も寝れば、すぐに真っ赤になるので、体を冷やす必要がある。
 潮水の中で目は開けられないので、水中メガネをつけ、岩につかまって海にはいる。

 岩場はまるで別世界だった。
 青や黄色の魚、そして僕が大好きなエビが目の前に現れた。
 食べたい・・
 そう思った僕は、蚊を叩くように両手で捕らえようとしたが、エビは難なく足びれで上にシフトして、僕の手をかいくぐった。
 滅多に食卓に乗らない高級品を、この手でゲットできるチャンスを逸した僕は、うちひしがれながらも、夕暮れ迫るまで、甲羅干しと、水遊びを繰り返すした。

 しかし、問題はペーロンだった。

つづく

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2009年7月19日 (日)

デコと冬のジャケット市場

 6月23日「コッリエレ・デッロ・スポルト」

 デコは必要以上に隠すことをよしとしない男だ。
 インタビューに答えたデコは、インテルへの入団を強く希望していることを認めた。

 そして、チェルシーへの不満も語っている。
「チェルシーでは満足できなかったし、ハッピーでもなかった。できることならば、インテルに行きたい」

 そして6月26日には、批判の矛先はクラブのオーナーに達する。
「アブラモビッチの決定は、ディレクターの決定の上をいくことがある。
 スコラーリの解任は、軽率だったと思う」
 チェルシーは特殊なクラブだ。
 ひとりのオーナーからなる特殊なクラブで、それは彼のおもちゃなんだよ」

 最後の一言は、本当にそう言ったのならば、かなりきつい。
 この一言で、デコの覚悟を察したので、チェルシーのスタジアム・ジャケットを売ることにした。

 2006年冬、CWCで来日したバルセロナの選手が着ていたのが、ナイキのミッドフィルジャケット。
 ライトブルーにオレンジのパイプラインが映えて鮮やか。
 決勝で敗れたのにMVPに選ばれてしまったデコが、明石家さんまのインタビュールームにやって来た時、羽織っていたジャケットだ。

 デコファンは一目みて、このジャケットに恋をした。
 しかし、このカラーは選手専用。
 一般販売されたのは、濃紺に赤のパイプライン。
 ナイキジャパンに、選手仕様を販売する予定がないことを確認して、そちらを買った。
 結果として、このジャケットは買ってよかった。
 今でも、バルセロニスタは冬場はこれを着るべきたらいいと思う。

■ ミッドフィルジャケット「紺色」
 品番178748/410
 2006年冬当時、実売価格14,500円

 カイロが仕込んであるのではないか?と思うほど暖かった。
 ファスナー沿いにマジックテープが付いているので、ファスナーを上げなくても前を開け閉めできる。
 襟は折れないので、あごに当たって邪魔だったのは、玉に瑕。
 手首に袖を束ねるマジックテープが付いており、丈が長くても手を露出することができる。これはナイキならでは。アディダスにはない工夫だ。

 ナイキのミッドフィルジャケットは総じて、防寒具としての完成度が高い。その割には手頃な値段がついている。
 ナイキと契約している主要クラブのモデルが出ており、インテルのそれも発売されている。

 2009-10の冬は、再びナイキのミッドフィルジャケットが着たい。

デコファンサイト

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2009年7月18日 (土)

場違いなケーキ

 僕の石のつぶて攻撃を受け、ハラはその場に崩れ落ちた。
 いじめの相棒、ユカワが叫ぶ。
 「わぁ、先生に言いつくっぞ!」
 おいおい、そっちかよ。
 友達を心配しろって

 一瞬、死んだか・・ とは思わなかった。
 ハラが、オーバーなやつだと知っていたからだ。

 そういえば昔は、冬に着る防寒着をオーバーと言ったが、最近めっきり聞かなくなった。
 と思っていたら、今年の春先、デニーズでおばさん二人が話していた。

「先週の金曜、寒かったよね~」
「私なんか、オーバー出しちゃったわよ」

おーばぁ?
僕は、飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
ただ、言いたかっただけだが・・

 だいたい、ハラの倒れ方が不自然だ。
 意識が飛ぶような激痛ならば、受け身もとれず、地面に頭を打ち付けそうなものだが、しっかり手を着いて、その手を枕にしていた。

 ハラは同じ浦桑に住んでいるので、ソフトボール大会では同じチーム。
 とても口は達者だが、運動のセンスがまるでない。
 それでも足だけは速いので、出番はいつも代走。
 だが、タッチアップとかいう難しいルールは、記憶領域に入りきらないようで、犠牲フライを外野手が捕球した時には、もう半分くらい走っていて、僕らをがっかりさせた。

 彼が倒れたというか、僕が倒した現場は、浦桑の町の入り口。
 計ったかのように、そこから20m先に、新魚目町ただ一軒きりの町医者があった。
 大丈夫か?
 と大丈夫なわけがないハラを立たせて、病院に連れて行った。
 ハラの後頭部には、ぱっくりと傷口が開き、それは、ウニの底みたいだった。

 「それかね、そりゃ、すぐ謝り 行かんと、いけんね」
 ハラに怪我をさせたことを、涙ながらに報告すると、下関生まれの母は、山口弁でそう言うが早いか、財布をにぎって僕を引き立てた。
 ここで、一緒に謝りに行くという発想が、迷わず出てくる親はたいしたものだ。
 人は誰でも、できれば、面倒な現場には立ちたくない。
 こういうのが、キモが座っているというのだろう。

 手ぶらというわけにもいかないので、お見舞いを買おうと雑貨屋に立ち寄った。
 しかし、そこは田舎の雑貨屋である。
 今時のコンビニに常備されているような、菓子折セットは置いてない。
 ウィンナーソーセージでも買っていけば、ハラは喜ぶだろうなと思ったが、反省していないと思われるので、口に出すのはよした。

 店内を物色していると、明らかに場違いな一品があった。
 クリスマスケーキだ。
 12月に入って間もないその日。クリスマスケーキの予約をとるための見本として、白いバタークリームで塗り固められたケーキが1つ、ショウケースに鎮座していた。

 今思えばフシギだ。
 なぜ、見本が実物だったのだろう。
 日持ちがしないから、クリスマスまでに何度も見本を取り替えなければならないだろうに。

 「これ、売ってくれる?」
 母は店のおばちゃんに尋ねる。
 僕も、これならば、怪我を負ったハラも機嫌が直るだろうと思った。
 これは、今日入ったばかりの見本だから、売り物じゃないんだけどと言いつつ、お見舞いでどうしても欲しいという母の粘りに折れて、包んでくれた。

 雑貨屋からハラの家までは徒歩5分。
 年頃の僕は母と並んで歩くのが少しだけ、恥ずかしくて、ちょっと距離を置いて歩いた。
 「ごめんください」
 母が開いていた玄関の土間から、ハラの家をのぞきこむと、
 「きたきたきた・・」
 というひそひそ声と、慌ててどこかへ駆け込むような足音が聞こえた。
 声の主はハラの弟だ。

7/20へつづく

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2009年7月17日 (金)

五島のいじめ

 山口ではいじめっ子だった僕にとって、五島の暮らしは楽ではなかった。
 僕はいじめっ子と言っても、ただ一人で女の子にいたずらを仕掛ける。
 まさか、これくらいでと思うようなことで、女の子は泣く。
 それを、取り巻きが職員室に通報する。
 放課後の「反省会」で僕が糾弾される。
 「もう、しません」
 僕がそう言って、一日が終わる。
 その繰り返し。
 それでも、フシギと女の子から避けられたという記憶はない。

 ところが、五島の子供達は気性が荒い。
 山口の盆地でほたるを眺めて育った子どもと、父親がイルカに銛を突き立てるのを眺めて育った子どもの間には、大きな差があった。

 些細なことですぐ、諍いが起きる。
 冗談が通じない。
 しかも、徒党を組む。
 いじめ方が陰湿なのは都会っ子と相場が決まっていたが、五島の子どもも負けてはいない。

 その日は僕がいじめられる番だった。
 校門を出て家路につくと、後ろから五人組が着いてきた。
 「足んみっちょか~」=足が短い
 「ペーロンにのらんでずるかー」=説明割愛
 「かっこばっかつくんな」
 代わる代わるの罵詈雑言が背中を刺す。

 いったい、どういう順番で、台詞はどのように決まっているのか、聞いてみたい気がしたが、バカは相手にしないという主義なので、先を急いだ。
 僕の家は学校から2番目に遠かった。
 榎津で3人が隊列を離れ、後を託された2人が、引き続き、僕をなじり続ける。
 しかも、その2人は下級生のハラとユカワだ。
 2人はさすがに上級生相手では、気が引けたのか
 「ば~か」と言いながら、走って僕を追い越していった。

 僕はノーコンだった。
 キャッチボールは相手の胸を目がけて投げろ!
 そう何度言われても、ボールはとんでもないところへいく。
 狙った的には当たらないという、絶対の自信があったので、咄嗟に足下にあった石を拾って、2人を目がけて投げた。

 浦桑へ向かう長い下り坂
 石は糸を引くように水平に飛び、道が下っている分、ハラの後頭部のど真ん中を捕らえた。
 石が手を離れて、ハラを捕らえるまでわずか1秒。
 1秒といえば、セシウム133原子の基底状態の二つの超微細エネルギー準位の間の遷移に対応する放射の91億9263万1770周期の継続時間である。
 いや、ちょっと言いたかっただけだが・・

 ハラがその場に倒れて動かなくなった。

まだ、つづく

森永ジャンボ(五島で見たプロレスの話)

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2009年7月16日 (木)

秋の名古屋をみといてちょーよ

【 河村たかしを追っかけるがね 第13回 】

 6月19日、名古屋市議会の6月定例会 開会
 この定例会の焦点は、河村たかしの選挙公約「市民税10%減税」条例となる。

 河村たかしの所信表明演説の要旨

・市民税10%減税は日本中から注目されている。

・民間はより良いものをより安く売る、厳しい競争の中で生き抜いている。行政もより良いサービスをより安く提供する努力を!

・地域のことは市民自らが決定する「地域委員会」を創設し、地域の医療や子育て、介護など社会保障のあり方を抜本的に変える。そして「都市内分権の進んだ街」をつくる。

 6月22日、愛知県定例議会では、神田真秋県知事が、河村たかしを批判。
 愛知県として推進してきた木曽川水系連絡導水路事業について、その地元名古屋市長の河村たかしが撤退表明。河村がその根拠を示していないとした。

 これに対して、河村たかしはメディアに対して「無礼がないよう、定期的に話し合いができるようにしたい」と殊勝な態度を示した。
 ただし、同事業の本年度負担金、1億6千万円の支払いをやめるのは、自分の判断でできるという判断は譲らなかった。

 6月24日、市議会で、初めての代表質問をうける。

 各会派の代表は、10%減税条例について「財源が示されていない」と批判。
 河村たかしは「全額、行財政改革で賄う」と答弁した。

 具体的な道筋が不透明とする批判には、行財政改革の具体的内容、減税実施方法を盛り込んだ条例案を遅くとも11月市議会に提出するとした。

 11月といえば、総選挙が終わり新内閣が招集する臨時国会(必要に応じて、臨時に召集される国会)が開催されている頃。
 民主党が政権をとっていれば、脱官僚政治の仕組みをつくる法案が論議される国会。
 もし、そこで新法案が出せないならば、いきなり公約違反であり、出ることは間違いない。
 そうなれば、日本の政治は一気に熱くなる。

 そうした背景の中、中央での報道はかすむかも知れないが、名古屋の10%減税など、やって当たり前という市民の空気が生まれていると推察できる。
 そして現在、名古屋市議会の最大会派は「民主党」
 まさか、民主党の仲間、河村たかしの足を引っ張ることはない。

 市民の追い風、最大会派は出身母体。
 河村たかしの改革は秋には、いきなり大きな実りを収穫する。
 ・・・かどうかを、ぜひ、名古屋市民と、民主党支持者の皆さんは注目してもらいたいものだ。

河村たかしを追っかけるがね 目次


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2009年7月15日 (水)

自転車運転免許試験会場にて

 「うんが昨日、自転車に乗っ取るとば、見たとぞ」

"うん"は五島弁で「おまえ」である。
 どうやら、自転車で公道を走ったことが、いけなかったらしい。
 その叱責の言葉は容赦が無く、黙っていたら軍法会議にでもかけられそうな勢いだ。

 魚目小学校の規則では、公道を自転車で走るには、免許証が必要なのである。
 転校してきたばかりなんだから、もうちょっと優しく言ってくれてもよさそうなものだが、なにせ、田舎だから事件がない。
 彼らだって生活に変化が欲しい。
 そこに、やってきた転校生が、校則破りの無免許運転とくれば、彼らが興奮して気色ばむのもわからないでもなかった。

 しばらく、自転車に乗れない日々を過ごした後、自転車免許試験の日がやってきた。
 放課後に受験者が、各々の自転車を持って校庭に集まる。
 今になって思えば、免許を持っていない校友のほとんどが、自転車持参だったのが変だ。

 試験管は学校の先生たち。お巡りさんが来るわけでもない。
 1年生から6年生までが、まったく同じ試験を受ける。
 ほとんどの生徒は、低学年の時に免許を取得済みで、同級の5年生は数えるほどだった。
 試験は実技4種目。筆記試験はない。

 最初の種目は、一本橋。
 一本橋といっても、石灰で 50cmほどの幅に引かれた2本の線。距離はおよそ10m。
 それをはみ出さないように、走り抜ける。
 自転車運転歴3年の僕に、これは朝飯前。
 試験管の採点は、1種目20点満点。
 手渡された採点表には「20」の数字が書き込まれた。

 続いてはクランク。
 これも問題なく、20点を獲得。

 3種目めは、8の字スラローム。
 8の字をなぞるように、1周するだけのことで、これもわけなく終わろうとしていた時だ。
 4年生の女の子 二人がコースを横切った。
 彼女たちは、試験なんてお構いなし。放課後の校庭を駆けて遊んでいたのだった。

 慌てて急ブレーキをかけて停車。
 女の子は、あっと一瞬ひるんだものの、すぐに黙って、駆けていった。
 ここまでパーフェクトだったのに・・
 人生はなにが起こるかわからない。それも仕方がないことだと、最後まで試技を終えて、採点表を受け取る。
 すると、そこに記載された点数は「20」
 「とっさの判断、止まり方がよかった」と、試験管に褒められた。

 止まり方がよかった・・って、ふつー止まるだろ
 と心の中でツッコンだが、いやぁ感激です、神様は見ているんですねという純真な笑顔をつくった。

 最後の種目、横断歩道のある交差点の試技も難なく20点。
 なにせ、信号機がない町なので、海に落ちさえしなければいいのである。

 翌朝、試験結果が職員室の前の廊下に貼り出された。
 6年生の女の子が一番右に書いてあり、僕はそのとなり。
 80点満点をマークしたのは、二人だった。

 自転車免許証は厚紙に輪転機で刷ったもの。それを、プラスチックのパスケースに入れてくれた。
 それを、こんなふうにして、webで発信できる時代がくるとは思わなかった。
 写真の1枚でも撮っておけばよかった。

7月17日につづく



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2009年7月14日 (火)

魚目小学校

 僕はある時、魚目小学校の生徒だった。
 魚目中学校にも通っていた。

 ぎょもく小学校ではない。
 うおのめ小学校である。

 両親から転校先の町の名を聞かされて、子ども心にショックを受けた。
 魚の目と言えば、足にできるいぼではないのか。
 ラジオのコマーシャルで、ウオノメに効くという**コロリのCMが頻繁に流れていたこともあり、他では言わないことにしようと心に誓った。

 だが、過ぎてみれば、そんな風変わりな名前の町に住んでいたことすら、嬉しく思われる。今や秘密どころか、積極的に宣伝したいくらいだ。

 町名は「新魚目」だが、校名には「新」は付かない。
 魚目小の校舎は3階建て。
 体育館と呼ぶにはあまりに小さい講堂があった。
 花壇には季節の花、小屋にはうさぎ。
 でも、いきものがかりはいなかった。

 魚目小学校は新魚目町で唯一の小学校。
 1学年は2クラス、70人をちょっと超える生徒数。
 ここは漁師の町であり、大半が漁業に従事する住民。
 当然、級友も大半が漁師の子どもだった。

 初めて登校した日。
 僕は級友に取り囲まれた。
 いきなり、ぼこぼこにされたのではない(後にはされたが)
 皆が、もの珍しそうに寄ってきて質問攻めにするのだ。

 かねてから、お調子者の僕は、その期待に応えようと、手持ちのギャグをフル動員して皆を笑いに包んだ。
 小学校は榎津(えのきづ)という町にあり、誰かが
「ここはえのきづって言うとぞ」
 と言えば、きょろきょろと見回し、壁にかかった絵を指して
「でも、絵にきずはないね」
と返す。書きたくもないようなダジャレは、当時のアイドル堺正章譲りだった。

 初日の学校は半日で終わった。
 4時間めが終わった時、級友が弁当を広げ始めたからだ。
 前に住んでいた山口県の小学校は給食だった。
 だから、弁当を食べるのは遠足の日だけと決まっている。

 今になって思えば、事前に学校側に確認しておけば済むことだが、昼になれば給食センターから給食が来るということは、お日様が東から昇るのと同じくらいに、疑う余地がなかった。

 あ、弁当なんだ・・
 そう思うが早いか、僕は荷物をまとめて職員室に向かい、担任のフクダ先生に
「今日はこれで」
と言い残して、さっさと学校を後にした。
 学校を出て、しばらく歩いてから、家までの帰り道を知らないことに気づいたのだった。

 なんとか家に帰り着くと、僕はマイ自転車に乗り、近所を散策にでかけた。
 大きな道路は海辺に一本だけ通っていて、海べりだというのに、ガードレールもなかった。つまり、気をつけて走らないと、そのまま海に落ちるのである。
 道幅も狭く、路線バスと車が離合できないため「離合場所」が数カ所あった。
 バスが向こうからやってくるのが見えると、クルマは離合場所でバスが通り過ぎるのを待つのである。

 そして、迎えた登校2日め。
 歓迎ムードの初日とは一転、今度は不穏な空気が僕を包んでいた。
 窓際で息巻いていた連中の一人が、仲間を従えて僕の席へ来た。

「おまえ、昨日、自転車乗ったろ?」

 は?
 それがなにか?
 僕には、なにがなんだかわからなかった。

つづく



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2009年7月13日 (月)

均一で滑らかなものが尊い

 ウルトラマンAタイプを知っているだろうか。

 ウルトラマンA と表記する場合、それはウルトラマンエースを指す。

 ウルトラセブンの放送が終わってから、帰ってきたウルトラマン(通称 ジャック)の間にはブランクがあったが、ウルトラマンエースは 帰ってきたウルトラマンの後、すぐに始まった。だが、あまりのかっこ悪さに、子供達は引いてしまった。

 ウルトラマンAタイプは、ウルトラセブンよりも前 「ウルトラマン」の第1回放送に使われていた ウルトラマンの着ぐるみを指す。

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 アイスクリームを食べているのが、Aタイプである。

 一般的にウルトラマンの顔として認識されているのは、着ぐるみとしては3代めのCタイプ(写真下) 顔がつるっとしている。

 ウルトラマンの例に倣い、後には仮面ライダーが、旧1号から新1号へ、明るく美しい造形へと変わっていった。

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 日本は1970年代半ばから、2000年代半ばまで、均一で滑らかなものが尊いと思われてきたのだ。

 だが、時代は変わった。

 今や、職人が一つ一つ、手作りで仕上げた 無骨さがいいのである。

 先日、発売された 「RAH DX 仮面ライダー旧1号Ver.3.5&サイクロン号」では、撮影時についた泥はねが塗装で再現されている。

 そして、6月末に発売された「京本コレクションNEO ウルトラマンAタイプ ビッグサイズソフビフィギュア」は、驚くほどグロテスクな仕上げが施された。

 この商品は京本コレクションウルトラマン~Cタイプ~から20年の時を超えて発売される、ウルトラマンAタイプのソフトビニル製フィギュア。ソフビなので、関節は動かない。

 「京本コレクション」とは、コレクターであり、俳優の京本政樹が監修して制作する、バンダイのソフビフィギュアシリーズ。
 このAタイプは、京本コレクション復活第1弾! 京本コレクションNEO と銘打って販売される。

■高さ:50cm
■2009年6月25日発売
■メーカー:バンダイ




amazon 販売ページ 9,400円 送料無料



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2009年7月12日 (日)

デコの長い6月

 2009-10シーズンを前にしたオフは、デコにとって久しぶりに時間が長いオフになっている。

2003-04オフ
 5月にCL優勝後、6月はユーロ(2004)に初出場。終了後、FCポルトからFCバルセロナへ移籍。即、日本ツアーへ参加。ただし、暴漢との諍いによる怪我のため、試合出場は無し。

2004-05オフ
 バルセロナの日本ツアー
 それも6月と7月に2度来日。

2005-06オフ
 ワールドカップ(2006)初出場
 バルセロナの米国ツアー

2006-07オフ
 日本ツアー参加予定だったが、奥さんが出産のため、急遽来日をとりやめて、ブラジルへ。

2007-08
 ユーロ2008出場
 ユーロ決勝翌日にチェルシー移籍を発表。

 そして、2008-09オフ
 6月は、ポルトガル代表の大きな大会もなく、チームのツアーも無し。

 しかし、ただ呑気にバカンスを楽しむオフではない。
 次の所属チームを早く決めなければならない。

 イタリアのビッグクラブ、インテルは2008-09シーズンも優勝し、これでセリエAを 4連覇した。 *2005-06は、上位チームのポイント剥奪による優勝


 2008-09シーズンから監督に就任したモウリーニョは、セリエAと欧州CLのニ冠制覇を宣言していたが、CLは優勝からはほど遠い位置で敗退している。

 2003-04シーズン、デコがFCポルトでCLを制覇した時の監督がホセ・モウリーニョ。
 CL制覇の肩書きを背負い、モウリーニョは英国プレミアリーグのお金持ちクラブ「チェルシー」に移籍した。
 その際、DFリカルド・カルバーリョも、道を同じくして、チェルシーへ移った。
 モウリーニョはチームの「10」番を背負う司令塔デコにも、同行を求めていたが、デコはすんでのところで、チェルシーを袖にして、あこがれのクラブバルセロナを選んだ。

 それから4年後、モウリーニョが去った後のチェルシーにデコは移籍した。
 バルセロナ新監督のグラディオラから、就任会見の席で「戦力外」と発表されてしまったのだ。
 いったい、デコの何が悪いのかは知らないが、在籍4シーズンで、リーガ(スペイン国内リーグ)優勝2度、欧州CL優勝1度に貢献した選手に対して、ずいぶんな物言いである。
 デコはそのような敬意のない人間を快しとしない。
 いくら、憧れのクラブバルセロナと言えども、そこまで言われて残ることはできなかった。

 デコはバルセロナから、モウリーニョが監督になったばかりのインテルへ移籍するという選択肢もとれたはずだ。
 だが、かねてから、一度プレーしてみたいと言っていたプレミアリーグ。
 2003年には、ブラジル代表歴がなかったデコを、ポルトガル代表チームに誘ってくれた、スコラーリからの誘いという2つのポイントで、行き先はロンドンになった。

 ここで、デコは峠を越えるまで、しばしの栄華を極めるはずだった。
 だが、自身の故障、スコラーリに対する一部選手の不協和音が重なり、スコラーリ派と思われているデコは、次第に立場が悪くなる。
 そして、スコラーリが解任された時点で、事実上、今シーズンは終わってしまった。

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2009年7月11日 (土)

月の満ち欠け弁当

 今年の七夕、満月が夜空に輝いた。
 ただし、一部の地方は除く・・

 七日に十五夜というのは、なんだか納得がいかないが、月を見上げて人類の歴史に思いをはせていた。

 もしも、月がなかったら・・
 人類は誕生せず、地球は荒野のままだったかも知れない。

 「ジャイアントインパクト説」は、モンスター・ロシモフ(後にアンドレ・ザ・ジャイアント)が国際プロレスにデビューした時に、あまりに強すぎて、ビル・ロビンソンに衝撃を与えたという説ではない。

 地球に巨大な天体が衝突して、その破片が固まって月ができたとする仮説。
 月の誕生についての仮説のひとつである。

 まず、巨大な天体が地球に衝突。
 衝突時に飛散した破片が、同じ軌道を回るうちに、長い年月をかけて1つにまとまったというものだ。

 もしも月がなかったら、地球は8時間で自転して、
 強風が吹く殺伐とした環境となる。
 月と地球という関係ができたことで、潮の満ち引きが生まれ、多種多様な生物が生まれた。

 「もしも月がなかったら」
 このテーマは、2005年初夏から秋にかけて開催された愛・地球博の三菱未来館で取り上げられた。
 そして現在、そのソフトは、長崎ハウステンボスに引き継がれており、園内で観ることができる。

 もしも月がなかったら、
 人類は生まれていなかったかも知れない。
 僕らが日頃何の気なしに、見過ごしている月の満ち欠け。
 それは、人類の営みを支えてきた。

 そんなメッセージを風呂敷で包み、作ってみよう お弁当
 「月の満ち欠け弁当」

Tsuki

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2009年7月10日 (金)

谷中を散歩

 谷中は日本人よりも、世界の日本ファンに有名な下町。

 雷門の浅草、寅さんの柴又は知っていても、谷中を知らない人は多い。

 かくいう自分も、ついこの間まで、知らなかった。

 どこか、散歩に行こうと思い、図書館で読んだ本でみつけた。

 「たになか かぁ・・ 今度、いってみよ」

 後日、友達から 「motoさん、やなかですよ」 と注意された。

 危うく、全国の読者に向かって 【 たになか 】 と書くところだった。

 谷中はJR山手線の駅「日暮里」が最寄り駅。

 新宿方面から来たならば、西日暮里でもよい。

 谷中は、日暮里駅の南西に広がる一帯。

 日暮里駅の南口を出ると、ちょっと注意が必要だ。

 改札を出てすぐ左側にある地図で、現在地と谷中一帯の位置関係を把握してから、歩き出す。

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喫茶店「あずま家」は、黒糖をつかった あんみつが美味しい。

左が「アイスクリームあんみつ」 右が「白玉あんみつ」

ちょうど、予約してきた団体客が、そろって「アイスクリームあんみつ」を食べていた。

丼物や、オムライスなどの食事もできる。運ばれていく、細めのオムライスが、いかにも昭和の風情で美味しそうだった。

あずま家を出ると、次は、夕焼けだんだん方面へ進む。

特に「夕焼けだんだん」方面はこちら!といった、標識は出ていない。

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しばらく行くと、視界から急に道が消えている。

そこには、急な高低差をつなぐ、階段があった。

一見、なんの変哲もない階段。

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ところが、だんだんを降りて、見上げてみると・・・

やっぱり、なんの変哲もなかった。

なにか、あるに違いないと、もう一度、登ってから、やり直す。

階段は36段。 特に段数にも、こだわりはなさそうだ。

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その先は、谷中ぎんざの商店街

右手に、メンチカツが有名な「すずき」がある。

ちょうど、誰も並んでいない。

メンチカツだけがガラスケースの中になかった。一瞬、売り切れか?と戦慄が走ったが、揚げたてが奥にあった。

まさに、ハンバーグをそのままカツにしたようなもの。立ち食いも悪くないけれど、やはり、ごはんのおかずで食べたい。きっと、カレーに乗せたら美味しいだろう。

メンチカツを半分くらいかじったら、ボランティア観光案内だという方が、いつのまにかヨコにたっていた。

「いつもは、20人くらい、並んでるのよ~。ラッキーねぇ」

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江戸千代紙の いせ辰

千代紙、扇子、ハンカチなどが並ぶ。

風呂敷(小) 50cm×50cm 525円を買い求めて、風呂敷デビューしてみることにした。

風呂敷は風呂の脱衣場に敷き、脱衣をくるんで持ち帰るのに使ったから、風呂敷と名が付いた。今時、風呂には敷かないが、エコバッグ代わりに、スーパーで使ってみたくなった。

後日、さっそくスーパーで使ってみたが、買い物には、少し小さかった。

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2009年7月 9日 (木)

政治家はふってーことやらなかんて

【 河村たかしを追っかけるがね 第12回 】

 則竹勅仁(のりたけくにひと)は、名古屋市議会議員である。
 名古屋市の一部の人以外には、ほとんどその名は知られていない。
 今日、このブログで初めて名前を見たという人が大半だろう。

 則竹がここまで歩んできた政治家人生は、なかなかドラマチックである。

■則竹の略歴

1965年
7月20日、名古屋市中区生まれ。もうすぐ44歳を迎える。

1989年
名城大学卒業

1999年
河村たかしの秘書になった。

2003年
名古屋市議会選挙、3,980票を得て初当選。

2007年
6,079票を得て、2期目当選、現在に至る。
現在、名古屋市議会議員として「民主党クラブ」という会派に属している。
しかし、民主党には「民主党」という会派があり、則竹以外の民主党議員は、そちらに属している・・・

 則竹は初当選した 2003年の選挙では「費用弁償の廃止」を公約に掲げた。
 費用弁償は、そもそも議員がまだ報酬をもらっていなかった時代に、本業を休んだ「弁償」として支給されていたもの。現在では、交通費の意味合いが強い。

 名古屋市議会議員は、報酬 1,550万円+政府調査費660万円+費用弁償 80万円で、年間およそ2,290万円を受け取る。

 費用弁償は一人あたり、1日につき 1万円が支給される。
「なにも、そんなこんまいことゆーとらんで、政治家はもっとふってーことやらなかんて」というのは、間違っている。
 1日は1万円だが、年間で一人80万円。議員は75人いるから、年間6,000万円。任期は4年なので2億4千万の瞳ではなくて、円が税金から出て、議員の懐に入るのである。

 則竹は、2003年4月に初当選し、早速、初めてもらう費用弁償の受け取りを拒否した。
 すると、民主党は即座に、則竹を全会一致で民主党会派から「除名」した。

 地方議会は「政党」ではなく「会派」ごとにチームを組んで動いている。
 異なる政党、無所属の議員らが、政策を通すためにタッグを組むのが「会派」
 会派に入っていなければ、条例ひとつ通せない。

 会派を除名されれば、選挙における「公認」も消える。
 そうなれば、世襲でもない議員の政治生命はそこで終わる。
 ただそこは、民主党愛知県第1区総支部責任者である河村たかしが、反対して「民主党クラブ」という会派を名乗ることで、民主党に止まることができた。

 則竹は就任以来、費用弁償の受け取りを拒否し続けている。

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2009年7月 8日 (水)

仮面ライダー旧1号Ver.3.5&サイクロン号

 6分の1サイクロン号が発売された。
 2008年12月に予約受付を開始して、6ヶ月待ち。
 ようやく、現物が我が部屋にやってきた。

 これまでにビッグサイズのサイクロン号は、次の2度発売されている。

【 1 】 1997年 コトブキヤ仮面ライダー1号&サイクロン号 ガレージキット 1/6 38,000円

【 2 】 2002年 レインボーマスターワークス RMW010 仮面ライダー旧1号&サイクロン号1/5スケールリアルスタチュー 塗装済み完成品 1/5 47,000円
 限定販売数が少なく即完売。その後、10万円前後のプレ値で取引されている。

 【 1 】はガレージキット(色が塗ってなくて、組み立てられていない)だから、素人には手が出せなかった。
 と言っても、実際には手を出したのだが、サンドペーパーで面取りして、サーフェーサーを吹いたところでギブアップした。

 だから【 2 】がでた時は悔しかった。わずか9,000円の違いで、サイズが大きく、しかも、彩色済み完成品が出るとは・・
 悔しいから手を出さなかったら、すぐ売り切れ、やっぱり買おうと思った時には、プレ値がついていた。

 そして今回は【 3 】度目のビッグサイズ・サイクロン。
 実際の映像に近い塗装が施された6分の1サイクロン号の模型と、仮面ライダー旧1号の関節可動フィギュア。
 【 2 】はキレイな塗装で面白みには欠ける。しかもライダーは固定されていて、動かない。

 メディコム・トイ RAH DX 仮面ライダー旧1号Ver.3.5&サイクロン号
 メーカー価格 48,000円

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 サイクロン号は全長34cm、ハンドル、車輪、センタースタンドが動く。
 マフラーの塗装むら、カウルの泥はねなど、汚しの塗装が嬉しい。

 仮面ライダー旧1号フィギュアは高さ30cm、間接可動。
 立ちポーズ、サイクロン号にまたがったポーズそれぞれに対応するようレザースーツは伸縮性がある素材を使用。いろいろなポーズを決めるために、グローブ4種、ブーツ3種が付いている(プレス資料ではブーツは2種となっている)
 バイクに跨った姿勢に応じて、角度の違うブーツが入っていて、そこまでやるか!とツッコンだ。

 発売予定日の2009年6月25日に、予定通りに出荷された。
 ネット市場では、40,000円前後で売られている。

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 【S.I.C.】魂コレクターズ HERO SAGA Vol.1:脱出で、箱のでかさには免疫があったので、今回は驚かなかった。

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Amazon のメディコム・トイRAH DX 仮面ライダー旧1号Ver.3.5&サイクロン号 販売ページ

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2009年7月 7日 (火)

元春、来年30周年

 元春のライブに初めて行ったのは1981年10月の都久志会館。
 Welcome to the Heartland tour
 元春にとって初めての、関東を離れたライブツアーだった。

 

東から来た男

 

 それ以来、今回の COYOTE TOUR まで、すべてのツアーに参加してきた。
 足かけ29年。
 その間に、元春から離れていった仲間もいる。
 CDは聞いているが、ライブには足を運ばなくなったという仲間もいる。
 でも、それ以上に僕らファンにとって寂しいのは、10代や20代のファンが根付いていないことだ。
 ロックキッズの中には、元春をリスペクトするやつらがいるのだが、一般の男女には、音楽どころか、名前すら知られていない。

 

 先日、秋葉原のメイドカフェで、こんなことがあった。

 

あやめちゃん(仮名)
「ご主人様、この会員カードの名前はなんとお呼びするんですか?」

 

motoです。

 

あやめちゃん
「えぇ~っ、どんな由来があるんですかぁ~っ?」

 

うーん・・2秒悩む
佐野元春っていうミュージシャンがいるんだけど・・
知ってるかな?

 

あやめちゃん
「うーん、歴史上の人物ですかぁっ?」

 


 元春に言わせれば、別にメイドカフェのあやめちゃんに、何て言われようが関係ないぜということだろうが、僕らはあまりの世代間ギャップに大ウケてしまった。

 


 元春は 1956年生まれ。現在53歳。
 確かに高年齢のロッカーではあるが、高齢だからティーンエイジがついてこないということはない。
 井上陽水、小田和正は既に還暦を過ぎている。
 いわゆるJポップの2人と、ロッカー元春の知名度に差が出るのは仕方がない。
 ただ、世の中すべての音楽ファンにとって、元春を知らないで音楽人生の齢を重ねるのは惜しいと思う。

 


 現在、ツアー中の COYOTE TOUR
 アンコールは「元春クラシック」
 元春が20代の頃、周囲の人は元春を誰も上手いとは言わなかったが、誰もがスゴイねと言った。
 COYOTE BAND には、下手ではないが、スゴイ
 元春を20代に引き戻す力がある。

 


 「ヤングブラッズ」のイントロをカットギターが刻んだ時、僕らのネジが飛んだ。
 そして、僕らが元春を大好きすぎて、狂いそうだった頃の気持ちを再起動した。

 

 元春、来年デビュー30周年。
 彼がいう「みんなが喜ぶようなドカーン」という企てを、今からとても楽しみにしている。

 

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2009年7月 6日 (月)

佐野元春全国ライブツアー「COYOTE」

 COYOTE BAND を従えた、元春のライブツアーが始まった。

 元春はステージの上から言う
「ここから皆を見回してみると・・
 みんなオトナになった」

 場内爆笑

 ライブを聴きに来たファンの平均年齢が高いということを揶揄したジョークだ。

 COYOTE BAND はアルバム「COYOTE」のレコーディングメンバー。
 初日が、元春ファンの前に出る初舞台だ。
 バンドの連中の心中を察する。

 これが、佐野さんのオーディエンスなのか
 初日だからって、下手は打てないな。
 目一杯いってやる。
 この日のために、死ぬほど練習してきたんだ。

 COYOTE BAND を従えての初ライブは赤坂ブリッツ。
 元春の心境を察する。

 ハートランド、ホボキングバンドとやってきて、僕には新機軸が必要だ。
 確かにホボキングバンドを今も支持してくれるファンはいる。
 でも、そうじゃない、何かもっと something new を求めているファンもいるんじゃないか。
 僕に「安住」という言葉は似合わない。

 元春の心中を察する

 どうだい、COYOTE BAND のボーイズたち。
 これが、僕のファンさ。
 なかなか、いかした奴らだろ?
 ちょっと年齢層高いけどね。

 元春は、かつて Welcome to the Heartland tour で見たような、スライディングを何度も試み、Visitors tour から始めたハイキックも1回やった。
 その運動能力について、コメントは控えるが、笑った。
 彼のトリックスターの魂が、今も息づいていることに笑った。

 アンコールでは、元春クラシック
 ブラスが入らないこのバンドでは、元春の歌詞がよく聞こえる。
 この構成は好きだ。
 デビュー以来、ブラス付きの編成を29年聞いてきたファンにとって、新しい。

 ロックを聴き始めた頃の、血が逆流する感覚がよみがえる。

佐野元春最新ライブ情報(MWS)
http://www.moto.co.jp/live/live_info/info_top.html




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2009年7月 5日 (日)

ポルトガルが出ないW杯なんて・・・

2009年6月6日、ポルトガルは、アルバニアを破り勝ち点を9としたが、同じ日、グループ首位のデンマークは勝ち点を16に伸ばした。
これで、ポルトガルの1位通過は絶望的となった。

欧州予選は、9組の1位 9チームが、まず出場権を獲得。
つづいて、全9組の2位のうち、勝ち点が多い上位8チームがプレーオフに進む。
2位に入らなければ、W杯出場はノーチャンスだ。

2位は13点のハンガリー。
ポルトガルは、2位のハンガリーと消化試合数が並び、勝ち点差は「4」の3位。

予選は2009年9月に再開される。ポルトガルは残り4試合。

9月5日
 away デンマーク

9月9日
 away ハンガリー

10月10日
 HOME ハンガリー

10月14日
 HOME マルタ

 残り4試合というのに、首位のチームとのawayを1試合、2位のチームとの直接対決が2試合と、厳しいカードばかりが残った。
 デンマークには、ホームで負けている。
 当面の敵ハンガリーと2試合残しているということは、考えようによっては、直接たたける幸運が残っているとも言える。
 いずれにせよ、徳俵から半分足が出て、朝青龍にのど輪で押されているような状況には違いない。

 もしも、ポルトガルが W杯に出場できないということになれば、2010年の南アフリカでは、全盛期を迎えたクリスチアーノ・ロナウドを見ることはできない。

 デコにとって、2010年は33歳。
 これが、最後のW杯になる可能性もある。
 デコのW杯が 2006年ドイツのたった一度きりなんて、あってはならないことだ。

 FIFAランキング30位台の国が、楽々予選を通過する中、10位前後の国が出られないとなれば、大会の興味は薄れる。
 そうなればW杯は、サッカーが強い国の大会ではなく、6大陸対抗 親善試合だ。

 残り4試合、なにか新しい試みが必要だ。
 チェルシーを追われたスコラーリが戻ってきてくれれば・・
と思っていたが、ウズベキスタンのクラブチーム「FCブニョドコル」の監督に就任してしまった。

 遠いアジアにいるデコファンは、ただ、サッカーの神様に祈るしかないのである。



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2009年7月 4日 (土)

あっそう 麻生 二人の麻生

 麻生太郎は、衆議院(福岡8区)選出の国会議員。

 

 1940年 9月20日、吉田茂の初孫として生まれた。
 2009年の誕生日で69歳。

 

 1963年 学習院大学 政経学部卒業
 1979年 39歳の時、衆議院 初当選。 国会議員になってからは30年。

 

 1985年には、九州工業大学情報工学部を、地元飯塚市に誘致。
 九州大学と九工大の関係は、レベルは違うが、東大と東工大のようなもの。
 九州内に留まりたい理系の学生にとっては、最高峰である。
 国立大学が情報工学部を創るのは、日本で初めてだった。

 

 1996年 国務大臣経済企画庁長官
 1999年 11月には「日本が動く時」長野祐也編 ぎょうせい の中で「相続税率が70%なんて正気の沙汰ではない。一律10%くらいがいいのでは」と発言。
 相続税は、2003年1月に引き下げられた。

 

2003年 9月、小泉内閣で総務大臣
2005年 10月、総選挙大勝後の内閣で外務大臣

 

2006年 自民党総裁選挙落選。全党員の得票数は安倍、麻生、谷垣の順だった。

 

2007年 6月、著書「とてつもない日本」を記す。
 メディアの悲観的な報道姿勢に疑問を呈し、地方と国の潜在能力を明らかにしている。

 

2007年9月、自民党総裁選で福田康夫に敗れる。
同年「国際漫画賞」の創設に尽力。実行委員長を務め、日本が誇る漫画文化の育成と権威づけに貢献した。

 

2008年 9月、自民党総裁選3度目の出馬で当選。内閣総理大臣就任。

 

 麻生の特長は、明快でわかりやすいこと。
 わかりやすいが故、歯に衣着せぬ物言いに、反感を抱く人もいる。
 また、その漢字読解能力をもって、総理の資質を疑問視する人がいる。

 

 偏り、阿りがなく、軸が決まっていて、なおかつ親しみやすい。
 アイデアを法律に変えていく実行力は実証済み。
 なぜに、これだけメディアに蔑まれるのか?
 なぜ、自民党議員は、総理の首をすげ替えようとするのか?
不思議な政治家である。

 

 

 麻生哲朗は、たぐい希な才能を持つCMプランナー。

 

1972年、神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学(理工学部建築学科)から電通にすすみ、
1997年、岡泰道、川口清勝、多田琢と共にTAGBOATを立ち上げた。
同社は、カロリーメイトCM「がんばれワカゾー」篇など、ユニークなCMを多く手がけている。

 

2002年7月、CM作品集「TUGBOAT 1999.07~2002.05」を発表。
2002年11月、「夢さがしエトセトラ」では、一足先に道を選んだ30人の一人として取り上げられ、次世代の子供達にメッセージを送った。
真摯な人柄がうかがえて、好感の持てるインタビューだった。

 

2004年3月、映画「ホテルビーナス」の原作「ビーナスブレンド」を発表。

 

「ホテルビーナス」は、草彅剛主演。2004年春 松竹が公開した映画。

 

 ロケ地ウラジオストック、名優の配役、絶妙な音楽。
 それは質の高いポップアートであり、ドラマでもある。

 

 それまでに見たことがない緊張感に引き込まれた。
 そして、また観たくなる映画。
 リピーター割引として半券を持っていくと、一般1,800円が1,000円になった。
 原作本「ビーナスブレンド」は映画と違和感がないストーリー。
 映画の後に読むことで、物語の深みがさらに増す内容だった。

 

麻生の持つ可能性は、CMプランナーという枠をはみ出していた。

 

「ビーナスブレンド」以降、目立った活動の情報が見つけられない。
どうしたのか、麻生。
彼が書く独自の世界観を、また読みたくて、首を長くして待っている。

 

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2009年7月 3日 (金)

1996年 携帯電話 5000円

 ある日、僕は携帯電話のセールスマンだった。
 と言っても、本職ではない。

 取引店の新規開拓で名古屋市を回っていた時のことだ。

 その会社に行くのは、楽しみだった。
 いつもならば、一回りも、二回りも年上の怖そうな顔をした社長さんを相手に、全然びびってませんよという顔をして営業をしなければならなかったが、タケダ社長は僕より1つ年下だった。
 会社に商談に行くと言うよりは、遊びに行くという感覚で、当時、集めていたナイキの靴やG-SHOCKの話で盛り上がった。
 自宅におじゃまして、タケダ社長がハワイで買ってきたというナイキのフォームポジットを見せてもらったこともある。
 宇宙人の靴みたいで、一目惚れした。
 3ヶ月後、日本で発売された日に、榮のビースクエアで買った。

 本業は役務商品の販売なのだが、その社長はあらゆるものにアンテナを張り巡らせていた。

 ある日、いつものように遊びに行くと、タケダさんがチラシを作っていた。

「デジタルムーバ 5,000円」

 僕は1年前に携帯電話を買っていた。
 神戸で震災があり、携帯電話の購入に後ろ盾ができてすぐ。
 ドコモのお店で、総額は96,000円だった。

 その会社が売っている役務商品がおよそ 20万円。
 恐らく、その会員特典として廉価販売するのだろう。

「違いますよ、motoさん。ほんとに5000円で売るんですよ。
 ただ、半年間は解約できませんけどね」

 当時、携帯を解約するなんて発想すらない。
 10万円の大枚をはたいて買ったものを、解約してどうする。
 半年で解約する人なんて、いるわけないじゃないか!

 そういう時代だった。

 僕はそのチラシを1枚コピーしてもらい、会社に持ち帰った。
 何台くらい売ってもらえますか?と、タケダ社長に販売可能な枠を尋ねると
「何台でもいいですよ。5台売ってくれたら、1台motoさんにもあげますよ」

 そんなものは要らない。既に持っているし・・
 それよりも、同僚が びっくらこく顔が見たかった。

 僕の電話は飛ぶように売れた。

 「ほんとに、いいの?ほんとに 5,000円?」
 「絶対、裏があるに決まっている」
 「お前がバックマージンをもらうんだろ?」

 ナゴヤの人は疑り深い。
 そんなナゴヤ人を尻目に、転勤族の男連中が、俺も俺もと申し込んでくる。

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 いつ届くの?
 届いたら、motoにも、一杯おごらんといかんな。

 1996年4月、携帯電話を持っているのは、個人事業主ばかりで、一般のサラリーマンにはまだまだ高嶺の花だった頃。
 これで、自分もイカしたサラリーマンの仲間入り。
 誰もが、遠足を待つ少年のような目をして、納品を待った。

 1年後には、NECが折りたたみ式の携帯電話を発売する。今ではそれが標準だが、初めは誰も見向きもしなかった。
 その当時の携帯はすべて、このトランシーバースタイル。
 一斉に届いた翌日、誰もが、空いた手で受話器を作り、声を電話機に押し込んでいた。

 そんなことしなくても、声入るんですけど・・

 あれから13年。
 当時、僕から買って携帯デビューした15人は、そんな出来事を忘れているだろう。
 先日10年ぶりに東京で会ったタケダ社長は、昔とは全然違う商売をしていた。
 お揃いだった僕らのフォームポジットは、7年程度でダメになるナイキの靴には珍しく、今も現役を続けている。

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2009年7月 2日 (木)

なに、ねむてゃーこと、ゆーとりゃーす

【 河村たかしを追っかけるがね 第11回 】

 2009年8月か9月に行われる見通しの総選挙。
 愛知1区の公認候補者は、地元と民主党本部の間で、人選が難航していた。

 6月23日、候補者に選ばれたのは、現役の愛知県議会議員 佐藤夕子。
佐藤は、河村たかしの元・秘書。
 この人選は民主党にとって、ヒットである。

 佐藤夕子は2007年の愛知県議会選挙で初当選。
 議員になる前は、平凡な主婦だった。

 佐藤が掲げた公約は2つ。
1、政務調査費の領収書を1円から公開する
2、費用弁償を受け取らない

 政務調査費は愛知県議会の場合、毎月50万円、年間600万円が支給される。
 事務所の家賃、車のリース代を払ってもよいし、家族を秘書に雇い、給料を支払うこともできる。
 本来は、必要経費という性格のものだが、事実上の給与と言える。

 愛知県議会では、3万円以上の領収書だけを公開すればよい。
 例えば、29,999円の壺を買っても、29,999円で焼き肉を食っても、公開しなくてよいのである。
 佐藤はそれを「1円から公開する」ことを公約にして、当選した。

 公約を守るのは、政治家の責務である。
 だが、民主党は、佐藤が公約を守ることを認めようとしなかった。
 費用弁償を受け取るように説得し、圧力をかけたのである。

 これが、嫌がらせをしたのが他党の議員というならば、話はわかる。
 だが「公約を守ってはいけない」と言っているのが、所属政党なのだから、なんともやるせない話だ。
 どのような圧力があったかは、河村たかし著「この国は議員にいくら使うのか」角川書店 に詳しいので、読んでいただきたい。

 それでも、党籍を除名されることはなく、県議会議員をつづけていた佐藤。
 愛知県と名古屋市、立場は違うものの、河村たかしの同志としての活躍を祈っていたところ、 なんと「衆議院」に声がかかった。
 民主党は、佐藤起用によって、河村たかしが守ってきた「愛知1区」を防衛する公算が高まった。

 庶民に受ける公約を言わせて、議席を得たら、手のひらを返して、公約遵守を妨害。
 そうやって、干した議員を、政権交代が見えてきたら、今度は衆議院の手札に使う。
 その手腕は見事だ。

 来る衆議院選挙、河村たかしファンとしては、一番の注目選挙区は愛知1区。
 佐藤はどんな公約を掲げるのか。
 そして、その公約が主婦目線のものであれば、当選後、それを実行できるのか。
 あるいは「なに、ねむてゃーこと、ゆーとりゃーす」と言いたくなるような、ぬる~い公約でお茶を濁すのか。

 そして、佐藤の公約遵守を民主党が妨害した一件と似たようなことは、名古屋市議会でも起きていた。

河村たかしを追っかけるがね 目次

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2009年7月 1日 (水)

31年前の今日、夏のお嬢さんが・・・

 今から31年前の今日、あなたは何をしていただろうか?
 まだ、生まれていなかったという人も、いるだろう。
 そう。普通の人ならば、覚えているわけはない。

 記憶とは、記銘→保持→想起から成る脳の機能。

●感覚記憶 ・・脳に送られた情報。1~4秒しか覚えていない。
●短期記憶 ・・最大15秒の短い記憶。
●長期記憶 ・・記銘→保持→想起というプロセスを通る記憶。

 人はすべてのことを脳に「記録」しているが、すべてのことを「記憶」していない。
 それは、脳の一部である海馬が、記憶にランク付けをしているからだ。
 些細なことがらは、脳にとどまっているものの、想起しないようになっている。

 ただ、世の中には、膨大な情報があり、昔のことを言われた時、そもそも知らなかったということの方が多い。
 今日の話は、その1つである。

 31年前の今日、昭和53年 1978年7月1日(土)
 榊原郁恵の代表的なヒット曲「夏のお嬢さん」が発売された。
 世界初の携帯音楽プレーヤー「ウォークマン」が発売されるのは、この1年後。1979年7月1日である。
 歌謡曲ファンは、テレビ、ラジオから流れる「夏のお嬢さん」を聞き、榊原ファンは、45回転のEP盤を買うか、ラジオをエアチェックして、カセットテープに録音した。

 歌謡曲ファンは、軽快なリズム、少年の恋心を歌う切ない歌詞、そして郁恵ちゃんの愛くるしい笑顔に酔った。
 ピンクレディほどの、忙しい振りはついていなかったが、小学生は、道ばたで振りをつけて歌っていた。
 もし、当時カラオケボックスがあれば、中高生が歌う今週のカラオケトップ10にランクインしたことだろう。

 ただ、この曲は スージー・クアトロのシングル曲「The Wild One」と、フレーズが酷似していた。
 スージークアトロの曲は 1974年発売なので、スージーが真似をしたのではない。
 かと言ってカバー曲でもない。
 スージー・クアトロ人気が日本でピークを迎えたのは、1977年「Roxy Roller」の頃。
 1974年に出た "原曲" を知る人はほとんどいなかった。

 1980年に発売された 八神純子のヒット曲「パープルタウン」
 これは、1980年に日本でも発売されていた レイ・ケネディの「YOU OUGHTA KNOW BY NOW (邦題ロンリー・ガイ)」のサビを盗用したのではないかと当時、話題になった。
 原曲を初めて聴いた時 「パープルタウン」をレイ・ケネディがカバーしたのかと思ったほど、サビだけと言わず前奏からそっくりである。

 「明星」や「平凡」などの、芸能界御用達メディアは、確証もなく盗作だとは書かない。
 当時はインターネットがない。
 当然、掲示板もない。
 誰かが「似ているな~」と思ったとしても、それは、独り言で終わる時代だった。

 人の記憶は不思議である。
 「夏のお嬢さん」の発売年月日は知らなくとも、その情報を得ると、脳内に眠っていた関連情報を、呼び起こすことができる。
 あなたは、何か思い出しましたか?



7月の「この日何の日」

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