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2016年1月14日 (木)

もしもネットの友達が死んだら

もしもネットの友達が死んでも誰もわからない。
ふとした時に「最近、音信不通になったな」と思うくらいだ。

ツィッターのつぶやきがない
FACEBOOKの更新がない
mixiに書き込みがない

でもそれくらいでは、気づかない。
これまでに消えていくネット友だちを五万と見てきた。

でも、黙って消えるような人だったかな
ある日ふと、そう考えるが、すぐに「まぁいいか」と独りごちる。


自分が死んだらそのことは、伝わるだろうか。
もう16年も毎日、ブログとウェブページをアップロードしているから、途切れた時には「なにかあったのか」とわかりやすいかも知れないが、そういう人は世界中に1人しかいないので置いといて、いわゆる一般的なネット住民だったとしてだ。


「最近、音信がないのですが、お元気ですか?」
そう言って自宅に電話するのは難しい。
年賀状をやりとりしていて、自宅の電話番号を知っていることもあるだろうが、だからと言ってかける人はまずいないだろう。
市役所の見守り課の職員じゃないんだから。


ネット仲間で勤務先を知っている人がいたら、それとなく会社に探りの電話を入れてくれるかも知れない。
「サトウさんいらっしゃいますか?」
そう言うだけでいい。

死んでいたら、ありのまま「サトウは去年の12月に亡くなったのですが、どちら様ですか」と言ってくれるだろう。
そうしたら「友人のスズキという者です。最近、音信がなかったので失礼ながらお電話しました」と返せばいい。


こうしてサトウさん死去というニュースが生まれる。
情報提供者のスズキさんは、交流していた「UFO研究コミュニティ(例です)」に書き込む。

「最近、サトウさんがご無沙汰なので、勤務先にそれとなく電話を入れてみたのですが、去年の12月にお亡くなりになったのだそうです。(中略)ご冥福をお祈りします」


こうして、死去のニュースはネットに載った。
「訃報がネットを駆け巡った」という言い方があるが、ここではニュアンスが違う。
駆け巡るかというと、個人の死はツィッターなどで拡散するには馴染まない。
ただ、1コミュニティに「載った」だけである。


ネット住民の「個人の死」という情報を公式に拡散させる場所の候補として「本人ウェブページ」「本人ブログ」そして「FACEBOOK」「ツィッター」の本人アカウントがある。

ただし「ウェブページ」「ブログ」のほぼ全ては、本人以外がアカウントにログインできないだろう。

「FACEBOOK」「ツィッター」もそれは同じだが、コメント、リツイートなどの書き込みで、その情報を載せることはできる。

では、このような他人が勝手に書き込む本人の訃報というのは、どのように受け止められるだろうか?
まず言えるのは、信憑性が低い。
悪意のあるイタズラととれなくもない。

「それって本当ですか?」
「会社に確認しましたから間違いないと思います」
といった本人不在のやりとりを本人が望むか・・
といったことはこの際置いておく。

私はお墓には居ませんと言い張る歌があるくらいだから、本人の気持ちを類推すること自体が不毛だ。


そこで考えることは 「本人の死」という情報の「代理アップ」は目撃する者に、どのような感情をもたらすかだ。

消えていくネットの友だちは、ただ生きている言霊のまま、心に生き続けることを望む人。
あくまでニュースとしての「死」を知りたい人。

この二つの大きな流れのどちらが主流か?
今後、議論になっていくことだろう。


1990年代に入り、NIFTY-Serveで幕を開けた日本のネット社会。
インターネットが世に出て、掲示板ができ、SNS内のコミュニティが栄え、そして廃れた。
その始まりの頃、30代だった人は50代になった。
男性の平均寿命が80歳だから、これから30年のなかで、新たな議論が起き、そして、新たなマナーが生まれると推察する。

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