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2018年6月 5日 (火)

2006年 中田英寿のW杯

中田英寿の経歴(つづき)

2000年3月25日
「nakata.net98-99」新潮社 出版
自らのホームページ nakata.net に掲載したファンへのメッセージをまとめた本

2000-01シーズン
9月、シドニー五輪サッカー準々決勝米国戦でPKを外す。
10月、五輪前から軸足を痛めていると言われシーズン開幕からカップ戦要員に回る。
当時「2002年の日本W杯までヴェルディへレンタル移籍」と報知新聞が伝えた。

5月3日、イタリアサッカー協会特別裁定委員会がEU域外出場枠(ベンチ入り3人)を撤廃したが、その後も常時出場とはならなかった。

6月4日、コンフェデ杯準決勝、雨中FKを決める。
準決勝の試合前 nakata.net で書いていた通り、決勝開催日はスクデットのかかるローマに戻ったが、ローマでの出番はなくチームも優勝を決められなかった。

2001-02
7月5日、セリエAのパルマに移籍。
移籍金33億円
ユニフォームナンバー10

2002年1月
湘南ベルマーレのスポンサード撤退を発表

2002年6月
2度めのW杯出場(1得点)
一次リーグチュニジア戦でW杯初得点

2003-04
7月、東ハトのCBOに就任
12月、ボローニャへレンタル移籍
5月~両足付け根の故障でセリエA、日本代表戦をすべて欠場

2004-05
7月、パルマ事実上の破産により、フィオレンティナへ移籍
移籍金2億円
(移籍金は5.2億→18億→33億→2億円と推移)

9月、セリエA開幕第2戦から復帰
11月、国際エイズデーチャリティマッチに世界選抜の一員として先発出場。1得点を挙げる

2月、FIFAオールスタースマトラ沖地震チャリティマッチに世界選抜MF右サイド(左はデコ)で先発出場
一流プレーヤーと組めば創造的なサッカーができることを証明した。

3月~6月、2006年W杯予選出場、練習からプレスの効いたチーム作りに貢献し本戦出場権を得た。

2005-06
8月、プレミアリーグボルトンへ1年のレンタル移籍
ユニフォームナンバー16
12月、引退を決意

2006年6月
W杯ドイツ大会でW杯3度めの出場

バルセロナの一件でデコと出会った僕はポルトガルを応援していた。
もちろん日本代表も応援していたが、率直に言ってフィーゴ、ロナルド、デコがいて「優勝も夢ではない」ポルトガルに比べ「グループリーグ3連敗」もあり得る日本代表への期待度は低かった。

「グループリーグ3連敗」もあり得るは、当時、悲観的なサッカーファンならば誰もが想っていたことで、その証左として挙げられたのが、ゲームを選手個々の能力に委ね「何もしないジーコ」だった。


グループリーグ1敗1分で迎えたブラジル戦
日本がベスト16に進むためには「2点差以上の勝利」が必要
玉田のゴールで幸先良く先制したものの、1-4で敗戦

中田英寿は試合終了後ピッチで涙した。
判定に異議を唱え試合後もピッチに居座った選手はいたが、敗戦後ピッチに寝そべった長さはギネス申請すれば公認されるのではないか。
中田英寿はこのシーズンで現役引退。ブラジル戦が現役最後の試合となった。


1998年、朝日新聞の一件が発端となり、Jリーグ在籍時は中田がサッカーを勉強していない記者の「ど素人質問」に辟易した態度をとったことで「性格が悪い」「生意気」という印象がメディアにより作られていた。
ところが、セリエAペルージャでイタリア人に高い評価を得た途端、手のひらを返したようにメディアは好意的になり、それ以降、現在までその姿勢が続いている。

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