2009年10月17日 (土)

首位と25ゲーム差で優勝するクライマックス

 日本プロ野球、秋の余興が始まる。

 集客難にあえぐNPBがご都合主義でひねり出した、戦いの本筋から外れた日本シリーズ予選。
 格式に則った競技はリーグ戦で終了して、そこからは秋の余興。

 余興だから、それを見たい人だけで楽しめばよいのだが、困ったことにクライマックスはリーグ戦のルールも変えた。

 クライマックスが始まった2007年シーズンから改訂。
「同率首位が複数チームとなった場合、当該シーズンの直接対戦成績で勝るチームが優勝」
 それ以前は当該チームによる、1試合限りのプレーオフだった。
 MLBは今でもそのルールであり、2009年にはそのプレーオフが行われた。
 クライマックス開催で、プレーオフの日程がとれないためにルールが変わった。

 その影響は2008年シーズンに出た。
 巨人が13.5ゲーム差を詰めて阪神に追いついた時点では、引き分け数に差があった。それでは勝率が同率にはならない。
 ところが10月4日、阪神がヤクルトと引き分けたことで引き分け数が3で並ぶ。
 これにより、シーズン終了時点で2チームが同率首位となる可能性が生まれた。

 2007年に改訂された現行ルールでは、阪神と巨人が同率首位となった場合、2008年シーズンの直接対戦で勝ち越している巨人が優勝となる。
 巨人にしてみれば、1勝をもらったのと同じ。
 この優位は互いの星勘定に大きな影響があった。

【 2007年 クライマックス競技方式 】
パリーグ、セリーグ共に同じ
第1ステージ、年間リーグ戦2位のチーム対3位のチーム(3試合 すべて2位チーム主催試合)
   ↓
第2ステージ、優勝チーム対第1ステージの勝利チーム(5試合 すべて優勝チーム主催試合)
・上位チームのアドバンテージは無い。

 リーグ戦優勝チームは、クライマックスシリーズの結果如何を問わず、優勝チームとして扱われる。これはその後も変わらない。

【 2008年 クライマックス競技方式 】
パリーグ、セリーグ共に同じ
第1ステージ、年間リーグ戦2位のチーム 対 3位のチーム(3試合 すべて2位チーム主催試合)
   ↓
第2ステージ、優勝チーム 対 第1ステージの勝利チーム(6試合 すべて優勝チーム主催試合)
・優勝チームに1勝のアドバンテージが与えられる。

2009年の競技方式は、前年と変わらない。

【 時系列の記録 】

2007年
第1
パリーグ ロッテ2-1ソフトバンク
セリーグ 中日2-0阪神
第2
パリーグ 日本ハム3-2ロッテ
セリーグ 巨人0-3中日

2008年
第1
セリーグ 阪神1-2中日
パリーグ オリックス0-2日本ハム
第2
セリーグ 巨人2+1勝 1敗 1分 中日
パリーグ 西武3+1勝 2敗 日本ハム
左側がリーグ戦上位チーム +1はアドバンテージの1勝

2009年
第1
パリーグ 楽天-ソフトバンク
セリーグ 中日-ヤクルト
第2
パリーグ 日本ハム-第1勝者
セリーグ 巨人-第1勝者

楽天、ヤクルトはクライマックス初出場。
クライマックス進出がかかった去る 10月9日、神宮は満員となった。
巨人戦でもガラガラの神宮がである。
ファンはシーズン終盤になっても、球場に足を運ぶ理由ができた。
優勝以外のチームにも陽が当たるこの制度は成功した。
あくまで、秋の余興として。

優勝した巨人と25ゲーム差のチームがこの後、優勝して日本シリーズに進むと、場当たり的な皆さんが何というか、この秋プロ野球の興味はそこに尽きる。

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2009年10月 3日 (土)

オビスポとイチローとサラリーマン

 ウィルフィン・オビスポ Wilfin Obispo
 はMLBマイナーから巨人に移籍した投手
 1984年9月26日、ドミニカ共和国生まれ
 ヒーローインタビューは、母国語スペイン語で答えている。

 2004年、MLBマイナー在籍時に遊撃手から投手に転向したので、投手歴はまだ5年。

 2007年3月13日、巨人の春期キャンプでテスト合格し育成選手として契約。
 同年6月27日、支配下選手登録 背番号91
 同年8月13日、出場選手(一軍)登録されて、2試合に登板
 しかし、故障のためオフには再び育成選手契約となった。

 このシーズンまで、オビスポは「巨人一の速球投手」
 久しく150kmを投げる投手がいなかった巨人のファンは、オビスポの故障に落胆した。
 オビスポ故障と時を同じくして、横浜からクルーンが入団。
 ”巨人一”の看板もなくなり、このまま忘れ去られるかに思われた。
 ところが、故障が癒えると翌2008年シーズンは、21セーブでイースタン・リーグのセーブ王となる。
 そして2009年シーズン、7月2日に初先発初勝利。
 7月22日、初完投勝利。
 9月23日、優勝を決めた試合に先発して5勝(1敗)めを挙げた。

 かつての巨人を評して、落合監督は「4番ばかり獲ってきてもちっとも怖くない」と言い、事実巨人は松井に逃げられた2003年から長く低迷した。
 WBCには選手派遣なし、オールスターゲームでは原監督推薦の和田・岩瀬出場を拒否した中日。
 それでも巨人が中日を押さえた要因はスカウティングにある。

 山口、松本、オビスポは育成選手上がり。
 坂本は巨人、中日が競合指名でクジを引き、中日が獲得した堂上のハズレ1位である。
 9月中旬から戦力になりつつある中井はドラフト3位だ。
 ヤクルトから獲得したゴンザレスは、4月いっぱいまで2軍にいた。

 プロ野球選手にはチャンスが必要だ。
 そのチャンスを与えるか否か、殺生与奪権は監督が握っている。
 もしも松井やイチローを超える選手がいたとしても、監督が起用しなければ、クビになるしかない。

 先日亡くなった土井正三氏のことを「オリックス監督当時、イチローを使わなかった監督」として認識している人がいる。事実はその通りだ。1~2年めからイチローを一軍で使っていれば、さらにヒットを打ったかも知れない。

 土井氏の生前の話に「川上さんが高田さんに厳しく接したことに重ねた。素質が大きいからこそ厳しく育てた」というものがある。その言葉に嘘はないだろう。

 巨人は明らかに活性化した。
 育成、2軍にいる選手にもチャンスがある。
 現場で見ている中間管理職が、上級管理職へしっかりと情報を伝えてくれる。
 上級管理職は、中間管理職の意見を聞き入れ、チャンスをくれる。
 努力していれば、報われる日がくる。
 選手たちは、そう信じることができたのだ。

 それは、サラリーマン社会ではあり得ない話だ。
 「誰かがきっと見てるよ」
 「見ている人は見てるよ」
 それは、本人のこころの中にある見解であり、他人が言うことではない。

 目の前にいる中間管理職が、自分をよく見ている。
 自分に登用について、上級管理職へ進言してくれる。
 そう思うことができる、幸せなサラリーマンは1割にも満たないだろう。

 ただ、プロ野球と違うのは、サラリーマンの殺生与奪権は管理職が握っていないということだ。
 チャンスは「採用」の時点で、全員に与えられている。
 努力している人、能力が長けている人に対して、管理職が「きみ、クビ」と宣告することは、法律が許していない。

 やるもやらないも、自分が決めることができる。
 誰が見ていようが、見ていまいが、やることをやる人はやるし、やらない人はやらない。
 サラリーマンは恵まれている。



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2009年9月30日 (水)

東京ドームにない、神宮の野球

 神宮球場の楽しみは豚串カツ 250円 具が食べやすく、一口サイズに切ってある。

 球場に着くと、夏は串カツ。
 少し肌寒い秋の日はおでんを買う。
 飲み物は自販機で 250円のペットボトル。
 席にドリンクホルダーがないので、フタが締まるペットボトルが便利。

 バックスクリーン裏側の売店は縁日に似て楽しい。
 席に売りに来るのはアルコール類ばかり。
 以前のようにポップコーンやアイスは来ない。
 春秋の寒い日には、ホットコーヒーを売りに来てくれたらと思う。

 客席の傾斜が急なので、前に座高の高い人が座っても見やすい。
 屋外球場だが、上空に風がある日も客席にはあまり風が吹き付けない。
 センターからホーム方向に強い逆風が吹いていても、ネット裏の席では風を感じない。バックスクリーン上の旗がそよぐのを見て、初めて風だとわかる。

 座席の下には荷物が置ける。
 バッグやリュックが入る大きさのビニル袋を持参して、しまって座席下に置くとよい。
 イニングの間に係員がゴミ収集に回っているが、それほど行き届いていない。
 コンビニ袋を1枚もってきて、ゴミ袋にすると良い。

 2001年に来た頃は女子トイレがとても少なかったが、2009年時点では解消されていた。

 B指定席ではネット裏2階席がよい。
 ホームベースの後ろから見るオールドスタイルの野球が楽しめる。
 しかも屋根がある部分なので、雨が降ってきても傘をさしたりカッパを着込まなくて済む。
 試合終了時に雨がやんでいれば、好天の試合と変わらない。
 ここは内野席よりも傾斜が急なので、大柄な男が前に座っても、毛髪を評論しながら試合が終わることがない。

 ネットのスワローズチケットで、ブロック指定ができるので、B指定席に進み、座席表を見てネット裏ホームベース真後ろあたりを指定する。

 2001年に行った時は、ナゴヤドームのようなおしつけがましい演出はなく好感が持てた。
 ただし、スワローズの選手が打席に立つ時だけは、音楽がうるさかった。
 改装後の2008年に行った時は、スワローズ応援の演出が、派手でうるさくなっており、どこにでもある球場になった。

 レフトスタンドの巨人ファンは試合の間じゅう立って応援している。
 ロックコンサートか・・・
 ある時、レフトスタンドに陣取ってしまい、その試合はずっとスコアボードのリプレーで見ることになった。
 それ以来、外野スタンドには足を踏み入れないことにした。

 スワローズファンのマナーは大変よくて、ビジターチームのファンは安心して見に行くことができる。
 サッカーのように、試合後はサポーターの導線を分けるという必要もない。
 となりにスワローズファンらしくおじさんが座った時だけは、喜びを控えめにする。
 それがビジターファンのマナーというものだ。
 一塁側内野席でオレンジのタオルを振る人には、日本人の粋がない。

 ビニル傘を使った東京音頭の応援は、ヤクルトが得点した時と7回裏の攻撃前。
 「すぐ、よそのファンの真似をする」と悪評が高いチームのファンも、このビニル傘だけは手を出さない。
 それほど、独特な応援であるということだ。
 だが、単に傘を持って歩くのがうざったいのかも知れない。
 傘はコンビニで売っている実用サイズではなく、応援用にあつらえた一回り小さいもの。

 2009年シーズンは、危険防止のために、スタンドにボール(硬球)を投げ入れることを自粛した。
 選手が投げ入れたボールが頭に当たる?
 そんな、ぼーっとしている人がいたということではなく、そのボールを取り合ってけが人が出たり、喧嘩が起きたりしたのだろう。

 東京ドームの試合は、時々、非現実の世界を見ているような錯覚に陥る。
 神宮には現実の野球がある。

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プロ野球用語


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2009年9月29日 (火)

キミは神宮球場を見たか?

神宮球場は空気が心地よい。
とても気分が良く野球が楽しめる場所だ。

明治神宮野球場

住所:東京都新宿区霞ヶ丘町3-1
完成:1926年10月
 2007年オフに全面改修。人工芝を張り替え、外野が広くなった。
 スコアボードがフルスクリーン仕様に変わった。

NPBではヤクルトスワローズの本拠地球場。
東京六大学リーグ戦が行われる。
2008年までは、六大学が行われる春と秋は、ヤクルト戦の試合開始が遅かった。
7月中旬~8月末は6時、東京六大学と併用の春秋は6時20分試合開始だった。
2009年からは、シーズンを通して6時試合開始に統一された。

東京六大学は早慶戦がいわゆる「伝統の一戦」だが、それ以外に特筆すべきカードはない。
早稲田、慶応の学生は早慶戦にこぞって出かけるが、明治の学生はストレスが発散できる東大戦にこぞって出かけている。

スターティングラインアップは、ビジターチームの場合、試合開始20分前にアナウンスされる。
6時20分試合開始の時は、会社が終わってから出てきても、その紹介を聞くことができたが、6時だと串カツを買うにも慌ただしい。

 最寄駅は、東京メトロ銀座線 「外苑前」
 外苑前は渋谷から地下鉄で3分の駅。東京ドームと並んで、神宮は都心のど真ん中にある。
 以前ならば、外苑前に着いたら帰りの切符を買っておいたものだが、PASMOやSuicaが普及して、その必要もなくなった。

 外苑前の駅から地上に上がると、250円~600円でファーストフードや弁当が売られている。
 「球場内は高いよ~」
 というのは、おきまりのセールストークだが、神宮は球場内の売店も安い。

 豚串カツ 250円
 フランクフルト 200円
 アメリカンドッグ 200円
 揚げ餃子 300円
 どうです、そんなに高くないでしょ?
 500ccペットボトル飲料は自販機で250円。これだけは少々高いが、観光地価格と思えばそんなものだ。

 駅からは、大人の足で徒歩6分。走ると3分。
 神宮球場の手前には、秩父宮ラグビー場が隣接しており、ラグビーがある日は、前の人に着いていくと、ラグビーを見ていたということもある。\^^)ナイナイ

 チケットは当日券。
 巨人戦でも、当日で大丈夫。
 両翼ポールから内野寄りあたりの自由席は空いていて、ゆったりと座って見ることができる。

 確実にチケットを手にしておきたい場合のみ、インターネットのスワローズチケットで買う。
 ブロック単位で位置が指定できる。
 受取をコンビニにすると、受取番号と登録電話下4桁で、受け取ることができる。
 カードや特に指定したパスワードは不要なので、待ち合わせの相手にチケット引き取りを頼むこともできる。
 急な用事で行けなくなった時に便利だ。

つづく

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2009年6月30日 (火)

昭和48年 阪神0-9巨人

 子どもの頃のアルバムを見ると、最初にかぶった野球帽はTH。
 阪神タイガースだった。
 シンプルな縦縞は、子供心にとてもかっこよかった。
 TとHを組み合わせた、硬派なロゴマークも心を捕らえて離さなかった。
 授業中、国語のノートの隅っこに TとHのマークを書いて遊んだ。
 YとGのチームは、変な兄ちゃんのマスコットが気持ち悪くて、好きになれなかった。

 阪神タイガースは、大阪のシンボルのように言われている、兵庫県の野球チーム。

 1973年
 巨人V9の年、阪神は一度は優勝に大手をかけた。
 巨人に1ゲーム差をつけて、残りは2試合。
 ここで勝てば優勝というナゴヤ球場での中日戦。
 2対4で敗れた。
 デーゲームで行われたこの試合の途中、東京から大阪に移動する巨人選手が、新幹線で外野の後ろを通った。
 テレビカメラが望遠レンズで捕らえた0系新幹線の窓には、球場を食い入るようにのぞき込むオトナ達の顔が並んでいた。
 「あぁ巨人の選手たちですかねぇ。こっちを見てましたね」
 アナウンサーが実況した。

 シーズン最終戦
 0.5ゲーム差の2位 巨人を甲子園に迎えた。
 ここまでの対戦成績は、巨人の12勝11敗2分。
 巨人の先発はエース高橋一三、ここまで22勝13敗。
 阪神も、エース上田、ここまで22勝13敗。
 いったい、どこまで五分なんだ?
というくらい、両者は拮抗している。

巨人のスターティングメンバー

[左]萩原
[遊]黒江
[中]柴田
[一]王
[右]柳田
[捕]森
[三]上田
[二]土井
[投]高橋一

 長嶋は怪我のため、戦列を離れており、この後の日本シリーズにも出場しなかった。
 V9と言えば、柴田、高田の1,2番コンビという印象が強いが、高田はこの試合に出場していない。
 萩原は1打席立った後、末次に交代した。
 巨人の選手交代は、その一人だけである。

阪神のスターティングメンバー

[遊]藤田平
[二]野田
[一]遠井
[捕]田淵
[右]カークランド
[中]池田
[三]後藤
[左]望月
[投]上田

 両軍の四番、王は4打数1安打1打点。田淵は3打数0安打0打点1四球。
 阪神の5番手には、フラミンゴ投法で子どもに人気が高かった谷村が登板し、7回に1点を失っている。

 試合は初回に2点を挙げた巨人が、5回まで
[2][2][1][1][2]と5イニング連続得点で 8-0 とリード。
 投げては高橋一三が、4安打7奪三振2四死球で完封、自ら三塁打も打って見せた。

 試合時間2時間18分 9対0
 9回裏、最後の打者カークランドのバットが空を切ると、48,000人観衆のうち、阪神ファンは巨人の優勝を祝うために、グラウンドになだれ込んだ。
 巨人選手がベンチに戻ると、甲子園の土を投げてプレゼントしたり、選手を叩いて祝福した。
 結局、この手荒い祝福のために、巨人選手は川上監督を胴上げすることができず、プロ野球史上初、そして恐らく最後の「胴上げができなかった優勝チーム」となった。

 時は流れて2000年代。
 「巨人だけではダメ。大阪が強くならんと、野球界が盛り上がらん」
 と言って中日から移籍した星野仙一が、チームの舵取りを始めてからというもの、阪神は強くなる。
 もう誰もダメトラとは呼ばせない。
 阪神の応援は、いつも大音響。
 その大音響は、相手チームへの共感を倍加させた。
 東京ドームに阪神が来ると、どちらのホームかわからない。
 そのため、レフトスタンドにも巨人応援席を設けて、ビジター応援団の比率を下げたほどだった。

 2005年の球団創立70周年も優勝で飾った。
 あまりに強いので、星野仙一が今度は巨人の監督に就任すると報道されたほどだった。
 巨人は12球団の中で唯一、生え抜き選手以外に監督を任せたことがない。
 その禁を破ってまで星野の力を借りたい。
 2002年オフに松井を失った巨人は、わずか3年で そこまで弱っていた。

 だが、その年の10月、村上ファンドが阪神電鉄の筆頭株主となり、阪神タイガースの上場を提案したあたりから、雲行きが怪しくなった。
 その年、ロッテとの日本シリーズは4連敗。1つも勝てなかった。

 2008年には、優勝祝賀の増刊号が出たほど独走したが、13.5ゲーム差を巨人に逆転されて2位。
 岡田監督が責任を取って、5シーズンで退団した。

 2009年は、真弓監督の1年め。
 6月29日現在で、セリーグ5位。
 首位巨人とは 13.5ゲーム差。

 昨シーズン、巨人の自力優勝の可能性が消えたのは7月9日のこと。
 その時、首位阪神とは13ゲーム差。
 やられたら、やり返す。
 まだまだ、時間は十分に残っている。



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2009年5月20日 (水)

プロ野球 ヒーローインタビュー改革案

「気持ちを聞かせてください」には、いくつかのバリエーションがある。

「今の率直な気持ちを」
「あの場面、どんな気持ちで」
「逆転勝ち、今の気持ちを」
「もう一度気持ちを」

 聞き手は、手を変え品を変えているつもりなのだろうが、聞いていることは同じだ。
 これでは、選手はたまらない。

「今の率直な気持ちを」
そうですね。嬉しいです
しーん

「あの場面、どんな気持ちで」
そうですね。次につなごうと思っていました
わぁ

「逆転勝ち、今の気持ちを」
そうですね。最高の場面で打てましたあっ
わぁ~

「もう一度気持ちを」
そうですね。また打てるようがんばりますので、これからも応援よろしくお願いしまぁすっ
ど~っ

 「そうですね」
 インタビューで、語彙が貧しい選手が、考える時間を稼ぐために使う相づち。

 「そうですね」はプロ野球解説者の著書で、その見窄らしさが取り上げられているが、選手は本を読まないようだ。
 巨人は若手を対象にしたメディア研修をおこない、表現豊かな受け答えを指導しているが、聞き手側が旧態依然としているので、なかなかうまくかみ合わない。その中で唯一、東野だけが「そうですね」を、なんとか言うまいと頑張っていて微笑ましい。それでもつい言ってしまった時の「しまったぁ~」という苦笑いが笑える。事情を知らない人からみると、この青年はなにを笑っているんだろうと?マークが浮かんでいるだろう。

 「わぁ~」
 ヒーローインタビューにおける、観衆のお約束反応。
 教壇で「言ってなかったけど、きょうはテストをやる」という教諭の宣言に対する「え゛~~~っ」の唱和と同様のステレオタイプな反応。

 ヒーローインタビューにおいて、聞き手は「わぁ~」を引き出さなければならないという強迫観念を持っている。
 初めにわぁが取れないと、無気になって、わぁ狙い質問を連発する。

 「今日は、24回めのバースデーっ!」
 「わぁ~」
 グラビアアイドルか・・

 聞き手は、テレビの前で聞いている数万人から馬鹿にされていることに、いつまでも気づかない。

 十年一日のごとく、何も考えないインタビュアー。
 それを容認、あるいは指示しているテレビ局。
 聞かれたことだけ、答えてりゃいいと、自らに限界を設定している選手。
 互いにわかり合えない漫才コンビの漫才が、おもしろいわけがない。

 どちらかが、一歩を踏み出せば、漫才方式ではない、ごく普通のインタビューに生まれ変わるのである。
 簡単なことだ。それを、選手の誰かが始めればよい。

 今日は皆さん、球場に足を運んでくださってありがとうございます。
 雨模様にもかかわらず、たくさんの方が、こうして切符を買って見にきていただいて、1回表に守備についた時、心が熱くなりました。
 まず試合前ですが、相手のサトウ投手を前回打てていなかったので、今日は高めを振らないよう、練習でイメージをつくっていました。何かを前回と変えたくて、いつもより30分球場入りを早くしたのも、よかったかも知れません。ホームランが打てたあの場面は、練習のイメージがあったから、内角のいつもならば見逃してしまうコースを、うまくすくうことができました。もちろん、あの場面、2点負けていて、ファンの方が期待していることも痛いほどわかっていたので、強い気持ちで一発打ってやろうとは思っていました(わぁ~)
 それから、今日はトウノがいいピッチングをしていたのと、前回投げた時に勝ちをつけてやれなかったので、なんとか打って彼に勝ちをつけたいと、チームの誰もが思っていました。今日はいつにも増して彼の投球リズムがよくて、特にホームランの前の守備は、10球でスリーアウトをとってくれたので、よし!いけるという気持ちがチームにみなぎっていました。それが、あの場面、サカモト、マツモトが打ってつないでくれたチャンスになったんだと思います。
 最後に、明日からはロードで甲子園、広島と遠征に出ますが、僕らはよく体調を管理して、負け越さないよう、いい試合をしてきたいと思います。そしてまた、一週間後、ここに戻ってきますので、その時は皆さん、また、お会いできるのを楽しみにしています。今日は本当にありがとうございました。帰り道、お気をつけてお帰りください。

 「お、やるな」と、思わずにっこりしてしまうような、インタビュー。期待してます。

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2009年5月19日 (火)

小笠原人形と録音テープ

 MLB、欧州サッカー、欧州のモータースポーツ、どの衛星中継を見ても、ヒーローインタビューは流れない。

 一方、日本には、ヒーローインタビューがある。
 野球に始まり、サッカー、ボクシング、プロレス。。。
 どんなスポーツにもある。
 プロレスだけはWWFがインタビューを通り越して、リングで寸劇までやっているが、あれは日本でラッシャー木村が始めたマイクパフォーマンスを、ヒントにしているのだろう。

 これは大変よい趣向である。
 応援する側が勝利した場合、ファンの誰もがその余韻に浸りたい。
 お金を払い、会場に足を運んだ人へのサービスとして、そして、選手とファンのむすび付きを高める意味でも、このイベントはすばらしい。
 一方、敗者の側となったファンは、このインタビューをボイコットし、そそくさと席を立つという、無言の抗議ができる。
 もしも、プロ野球にヒーローインタビューがなければ、試合の行方が決した時点で多くのファンが家路を急ぐことになり、場内ビール販売店の経営が傾くだろう。

 ヒーローインタビューは、勝者側のファンにとって本来、至福の時間なのだ。
 ところが、そのインタビューがつまらない。
 東京ドームで観戦した場合、サインボールの投げ入れがなければ、インタビューは聞かずに帰りたい。
 神宮では迷わず、電車の駅をめざす。

 選手が流ちょうに話す欧州サッカーやモータースポーツの会見とは違い、このインタビューは、聞き手の質問に対して、選手の答えは1フレーズどまり。
 「ぶつ切り会話」なのだ。

 巨人小笠原は、年間を通して
 「ありがとうございます」
 「ファンが打たせてくれました」
 「一歩一歩、足下を踏みしめてがんばります」
 ・・この3フレーズを繰り返している。
 これならば、かつてアンジャッシュがやっていた「ピーポくん」ネタ同様、小笠原人形を立てて、録音テープを流しても同じだ。時々、順番を間違えたりしながら・・・
 小笠原は、本来、語彙が豊富で、言葉を大切にする選手。
 しかし、今のヒーローインタビューでは、あれ以外に答えようがない。

 なぜ、日本プロ野球の選手は、こんなに口数が少ないのか。
 その原因は、プロ野球のヒーローインタビューが、漫才を原点としていることにある。
 インタビュアーがツッコミ
 選手がボケ

 いつの頃からか、できあがった漫才方式。
 インタビュアーに言わせれば「選手の口数が少ないから、小出しの質問を次々に聞かざるを得ない」ということになる。
 一方、選手に言わせれば「聞き方が悪いから、あれ以外に答えようがない」ということだろう。

 これは、選手の言い分が正しい。
 次にその論拠となる一例を挙げよう。

「気持ちを聞かせてください」
 ヒーローインタビューの聞き手が、選手を困らせるために繰り返す質問。

つづく

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2009年5月18日 (月)

メジャーの日本人は、なぜ英語で話さないのか?

 猛打賞ということばだけは、他の「プロ野球独特用語」とは異なる特徴がある。
 それは、視聴者であるファンも使うと言うことだ。

 「お、猛打賞」
 レフトスタンドに陣取っていると、ある打者が その日の3安打めを打った瞬間、ぼそっとつぶやく兄ちゃんがいる。
 彼はプロ野球の実況アナウンサーになりたかったのかも知れない。

 MLBには「マルチヒット」という言葉がある。

 マルチヒット
 1試合に2安打以上打つこと。

 2安打で誉めるとは、MLBはなんとゆるいスポーツ団体なのだろう。
 NHK 正午のラジオニュースが「イチローはマルチヒットを記録」というニュース原稿を読んでいる。
 日本では、2本くらいでは誰も褒めないのだ。
 選手を甘やかすと、ろくなことはない。
 ただ、日本のナイター中継でも「マルチヒット」を使うアナウンサーが出始めている。
 日本の選手が堕落する前に、放送自粛用語に指定するなどの手を打つ必要があるだろう。

 同じ、MLBから入ってきた言葉でも、外野手に冠される「レーザービーム」ならば、許容範囲だ。

 レーザービーム
 右翼手から三塁、外野手から本塁への矢のような送球。

 言葉はMLBから輸入したが、選手は輸出してしまった。
 言葉の輸入に見合う選手が、日本にも登場することを願う。

 そして最後に、ナイター中継でもっとも「プロ野球独特用語」が炸裂する場面、それがヒーローインタビューだ。

 MLB、欧州サッカー、モータースポーツのF1、MotoGPのインタビューでは、選手はテーブルを前にして、椅子に腰掛けて話す。
 MLBや欧州サッカーでは、選手は試合を終え、シャワーを浴びた後で会見場に現れる。スーツを着てネクタイまで締めていることもある。

 会見場を取り仕切る司会者が「じゃ、しゃべってみて」 程度に水を向けると、選手は立て板に水のように喋り始める。

 F1とMotoGPでは、公用語=英語で話すことが義務づけられており、英語を母国語としない選手は、たどたどしい英語で一通りしゃべったところで、司会者から「じゃ母国語でどうぞ」のお許しが出る。
 そこからは、使い慣れた母国語で、たった今喋ったことと同じことを、肩の力を抜いて話す。この時の選手のほっとした表情がなんともいい。

 欧州サッカーの場合は、当該リーグの母国語で話すことが義務づけられており、リーガならばスペイン語。プレミアならば英語で話す。
 選手はしっかりと、その国の言葉を習得している。
 異国に渡ることと、語学習得はセットなのだ。

 欧州サッカー報道では、選手が現地メディアにその国の言葉で喋っている映像に字幕がつく。
 MLB報道では、日本のぶら下がり記者を前に、日本語で喋っている映像が流れる。
 中田英寿がペルージャに渡った時、多くの視聴者は「中田英寿はスゴイ。プレーがスゴイだけじゃなく、イタリア語まで覚えている」と礼賛したものだが、それが契約の一部なのだ。
 ぜひ、MLBの日本人選手が、英語でメディアに話している姿を紹介してもらいたい。そうすれば、日本のよい子たちが運動だけでなく、勉強もしなければ一流になれないことを学ぶだろう。

 異国に渡った選手たちは、言葉のハードルがあるからと言って、無口になることはない。
 当日を迎えるまでの準備、競技中の心境、周囲のスタッフの活躍、ライバル競技者についての評価、勝負の決め手、次の戦いへの意気込み・・・
 なに一つ聞かれてもいないのに、実によく喋る。

 ところが、日本プロ野球のインタビューは違う。

つづく

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2009年5月16日 (土)

ナイター中継のプロ野球独特用語

 「さぁ、バッターボックスは、ただいま 売り出し中 のマツモトっ」

 売り出し中
 この言葉を聞いた最古の記憶は、巨人の中畑だった。
 野球中継のアナウンサーだけが使う「プロ野球独特用語」の代表格である。

 
 売り出し中 ~しらべるの定義~
 二軍から上がってきて活躍し始めた、比較的年齢が若い、注目されていなかった選手に使う表現。

 育成枠から一軍入りした選手は、全員「売り出し中」でくくられる。
 打者に使われることが多い。
 打者は打席に入るというイベントがあり、最低でも1チーム1試合27人が打席に入る。
 そこで「売り出し中」というキャッチフレーズがあれば、アナウンサーにとっては、メリハリがついて便利なのだ。
 ほかには 「不動の4番」 「恐怖の8番」 「意外性の男」 などが、打席に入る打者の枕につく。

 星陵高校からはいった松井秀喜
 東海大学からはいった原辰徳
 彼らが、一軍のゲームで活躍を始めた頃 「売り出し中」とは言わなかった。

 それを言うのが「鳴り物入り」である。
 甲子園に出場して、メディアに多く露出してきた選手が、プロ野球入りする。
 入団の時点から「活躍はまちがいない」という目で、ファンが見守っている。
 だから、鳴り物入り。
 注目されていない選手は、入団しただけでは、鉦も太鼓も鳴らないのである。

 足が速い一番打者を「核弾頭」というのは、日本だけだろう。
 日本は、世界じゅうで唯一、核ミサイルの攻撃を受けて、大量に死者を出した国だ。
 野球選手に「核弾頭」という代名詞をつけるのは、巨人のマツモトを「売り出し中のテポドン」と呼ぶのと、何ら変わりない。
 きっと、子供たちも真似をするだろう。
 足が速いというだけで 「行け、ノドン!」などと野次られ、心を痛めている少年がいるかも知れない。
 由々しきことだ。
 しかし、ナイター中継で日常的に使われている「核弾頭」という言葉を、野党が国会で追及したという話を聞かない。

 メディアは、憲法9条改正論には、常に大きく反応する。
 そのメディアが「核弾頭」を連呼して、核ミサイルの高性能を礼賛している。
 そのウィットこそが、日本が平和で、文化的国家である証だろう。

 打者と比べると、投手につく代名詞は少ない。
・サブマリン
 下手投げ投手のこと。
 サブマリンという言葉は、ビートルズが暢気な単語に変えたが、元々は戦争で使う潜水艦だ。
 核弾頭といい、これらの軍事用語を引く人は、心のどこかで戦争を讃えているのではないか。
・守護神
 頼りになる抑え投手。
 この言葉も危ない臭いがする。

 打者の活躍を表す言葉に「猛打賞」がある。
 1試合に3安打以上打つこと。
 スポンサーから、選手に賞品が出る。
 3安打めを打つと「ただいま 猛打賞を記録したスズキ選手には、崎陽軒からシウマイ1年分が贈られます」・・ というように、スポンサー名と贈られる賞品が場内で放送される。
 テレビのスポンサーとは会社が違うので、テレビ放送の集音マイクはその音声を拾わない。

5/18 につづく



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2009年5月15日 (金)

野球は追っかけ再生で30分で追いつく

2006年4月27日、初めて巨人戦が地上波で放送されなかった。
まだ3年前のことなのだが、もうずいぶん昔のことのような気がする。

2006年シーズンはその後、巨人の低迷と共に放送のない日が増え、優勝の望みが消えた9月には、放送がないことが当然となった。
プロ野球が始まって以来 70余年、地上波で誰もが見ることができた巨人戦は、2006年をもって、有料(CS放送G+)で見る番組へと移行したのだった。

2007年
原監督が復帰して2年めのシーズン。
かつて、ニッテレはビジターゲームでも、放送権を買って放送していたが、そういうことはなくなった。
そして、ホームゲームも、他局へ売却することが多くなる。
巨人は2年つづけて4月は首位と好調な滑り出し。
松井が去って以来、裏切られつづけて、はや4シーズンが過ぎた。
それでも、今年こそは・・・と期待してしまうのが、ファン心理。
しかし、テレビの前に座れども、そこに巨人が映らない日が多かった。

2008年
ニッテレ地上波は、ホームゲームさえ放送しなくなった。
巨人戦をすべて見るためには、BS環境を整え、それとは別に CSの G+、フジテレビ739に入る必要があった。

2009年
ホームゲームは、CS放送G+が試合開始から終了まで放送。BS日テレが52試合を放送。
BS、CSの視聴者を獲得するためか、主催試合を地上波他局へ売却することはなくなった。

 野球中継を取り巻く環境が、2006年からの3年で劇的に変わったことが、おわかりいただけたと思う。
 そして、環境の変化はメディア側だけでなく、視聴者の側にも起きた。
 それは、ハードディスクレコーダーの普及による「追っかけ再生」の登場である。

 シーケンシャルな録画装置であるビデオテープでは、録画しながら、巻き戻して再生することはできない。録画して見るには、放送が終了する時間まで、待つ必要があった。
 スポーツは生きている。その「同時間性」が命だ。生で見るのがスポーツの醍醐味であって、録画なんてもってのほか。同時間帯にドラマやバラエティがかぶっていたら、そちらを録画して後で見る。ビデオテープの時代には、スポーツをビデオで見るという発想があり得なかった。
 一方、ランダムアクセスのハードディスクでは、録画しながらでも、録画済みの部分から見始めることができる。
 18時から録画をしておいて、20時に帰宅する。
 録画は続けながら、18時の時点から見始める。
 タイムシフトである。
 自分が、2時間前に戻ることで、同時間性を感じることができるのだ。

 タイムシフトでは、時間を飛び越えることもできる。
 チェンジの攻守交代は飛ばす。
 投手交替の幕間も飛ばす。
 捕手がマウンドに行ったら飛ばす。
 初めはそんなものだが、次第にエスカレートしていく。
 贔屓チームの守備も飛ばす。点を取られるところなんて、見ても全然楽しくない。
 かつての江川のような投手でもいれば、守備もまた見応えがあるのだろうが、現代にはそういう投手がいない。
 贔屓チームの攻撃くらいはゆっくり見るかと言うと、それも黙って見ていられなくなる。
 ファウルを打つと「30秒スキップボタン」で飛ばす。
 ランナーが出た時は、捕手のミットにボールが収まると、飛ばす。
 2009年から「20秒ルール」が始まったため、無走者の時は、30秒スキップボタンだと、1球分行き過ぎてしまう ・・・
 結局、2時間のゲームを 30分程度で追いついてしまう。

 野球中継を取り巻く環境は、大きく変わった。
 だが、この数十年、変わらないものがある。
 それが、野球報道に関わるメディアの「プロ野球独特用語」である。

つづく

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2009年5月13日 (水)

巨人戦ナイターの歴史

 桜が終わり、ツツジが満開。
 夕闇迫る時間帯に吹く風は爽やかで、野球観戦には絶好の季節がやってきた。
 球場に行けば、ビールが美味い。あらびきソーセージが美味い・・・
 といいことずくめなのだが、野球場はちょっと遠い。

 そこで、大半の野球ファンはテレビの前に座ることになる。
 野球中継を取り巻く環境は、この3年で劇的に変わった。

 まず一つは、地上波での中継が皆無に等しくなった。

 2001年、15.7%
 2002年、16.6%
 2003年、14.3%
 2004年、12.2%
 2005年、10.2%

 ニッテレ巨人戦中継の年間平均視聴率である。
 かつて、視聴率の稼ぎ頭だった「巨人」が、二桁を割り込むに及び、ついに日テレも、日本国民を思考停止に追い込むバラエティ重視に移行した。

2002年
ニッテレは、平日の巨人戦中継の最大延長を1時間とした(21:54まで)
球団創設から2001年まで巨人主催試合はニッテレが独占したきたが、初めて、巨人主催試合70試合のうち、5試合をNHKが放送。
試合終了までの完全中継を条件にNHKに5試合の放送権を売却。
TBSは、この条件での申し出を断った。

NHKはBSハイビジョンでも巨人主催試合10試合を中継
(5試合は地上波と同試合、5試合は地上波はニッテレが放送)

ニッテレが、得点経過などを画面上端に横向きで、常時表示し始めたのは、2002年からである。

2003年
ニッテレは土日の巨人戦中継の最大延長を1時間とする(21:54まで)
これで主催試合はすべて1時間延長となった。
主催試合のNHKへの一部売却は引き続き行う。
特に月曜日は、売ることが多い。
「犬夜叉」と「名探偵コナン」を休みたくないのだろうか。

ニッテレは投手の球種表示、投球軌跡分析を始めたが、これは長くは続かなかった。
延長しても、ゲームが終わった途端、ファンにとっては至福のヒーローインタビューの最中にうち切っていた。
インタビューは深夜のスポーツニュースで、十分に時間を割いて放送されていた。

2004年
開幕戦は延長無制限。土日のみ最大1時間延長。
平日の延長は30分まで。
主催試合のNHKへの一部売却は続いている。

2005年
最大延長は全試合30分まで(開幕第3戦は21:54)
主催試合のNHKへの売却は続いている。
NHK以外では初めて、テレビ朝日に1試合を売却した。
(5月21日土曜日の巨人対日本ハム 交流試合)

2006年
開幕カードは最大延長30分、通常も30分。
フジテレビは、最大延長21:09までと短縮した。
シーズン当初、視聴率が低迷した場合、放送を中止するという意向を示していた。

4月27日は地上波での放送がなかった。
2006年4月27日を、しらべるでは「野球放送革命の日」と定義している

つづく

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2009年5月 6日 (水)

今江問題

小関が引退を発表した。

巨人にいた小関である。
西武にいた小関だろう?という西武ファンもいるかも知れない。
だが、最後は横浜にいた小関である。

2006年、原監督が3年間の勉強期間を経て復帰した初めのシーズン。
この年巨人は優勝できなかった。

2006年6月11日
セパ交流試合 ロッテ対巨人
2004年オフの報道で「セパ交流試合」と表記されて以来、2年めとなる2006年まで、交流戦はこう表記されていた。
2007年からは、現在の「セパ交流戦」と表記される。
ただし、いつも「セ」が先である。
日本シリーズでパリーグのチームが優勝しても、翌年はやはりセパ交流戦と表記される。
冠名称に異常なほどこだわる人が多い日本にしては、珍しい扱いだ。

さて、ロッテ対巨人
三回表二死一塁 スコア1-1の場面
李承燁の本塁打で巨人が3-1とリードした。
しかし、次打者斉藤宜之が打席に入ったところで、ロッテ三塁手今江が審判にアピール。

投手渡辺が三塁にボールを送ると、三塁塁審西本が小関の三塁ベース通過(踏み忘れ)を認め、得点取り消し。李承燁の本塁打は単打と記録された。

ゲームは巨人がリードしては投手が打たれて追いつかれる展開。
ご丁寧にも、失った2点があれば勝っていたという2-3のスコアで巨人が負けた。

当日夜、CXすぽるとで小関が三塁ベースにさしかかったシーンのビデオが放送される。
巨人はこの映像を「明らかに踏んでいる証拠」と評価している。
だが「明らかに」と言い切るほど、鮮明に踏んでいるようには見えなかった。

李承燁コメント
「小関さんが走塁ミスをあまり考え込まずに、早く忘れてくれればいいと思う」

翌 6月12日
讀賣新聞朝刊スポーツ面は「走者小関 三塁踏み忘れ」の小見出しを付けた。
巨人は抗議文提出の意向を表明。

原監督コメント
「両チームと当事者の小関、李、アピールした三塁手(今江という実名は挙げていない)のほか、多くの人の名誉と威厳を傷つける結果になりつつあります」

小関コメント
「本塁打でゆっくり走るならともかく、ああいう場面では、ほとんど意識したことはない」
清武代表コメント
「審判の位置はベースから遠く離れており、死角にもなっている。どう考えても誤審だ」

6月13日
讀賣新聞朝刊スポーツ面は「走塁判定誤審」の小見出しを付けた。
巨人が抗議文を提出。
裏を取るまで書かない大手新聞が「誤審」と言い切るには、よほどの根拠があると推察される。
CXのビデオ映像を解析して、ベースが足に踏まれたことで1mm凹んでいる
・・といった結果が出たのか。
その根拠は明かされなかった。

6月17日
CXすぽるとで、今江のコメントが放送される。
今江は穏やかな笑みをたたえながら話す。
「いつも(走者がベースを踏むかは)見ている。振り返った小関さんを見て確信した」

この一件は、これ以上の発展はせず、その後、今江問題にも小関問題にもなっていない。
Googleでのヒット数
"今江問題" 2 ただしこの件ではない。
"小関問題" 153 ただし「ナンシー小関問題」だ。

今江は今もロッテのレギュラーであり、2008年まで4年連続ゴールデングラブ賞を受賞している。

小関はベース踏み忘れの翌年、2007年シーズン終了後、巨人から解雇され、テスト入団で横浜へ入団。
1年で横浜を解雇されて、2009年4月に現役引退を発表した。

この一件から言えるのは、運がいいとか悪いとか、人は時々口にするけど、そう言うことって確かにあると、小関を見ててそう思うということだ。

プロ野球用語事典

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2008年11月10日 (月)

ダイエー王監督と、西武片岡の違い

 野球は戦いである。
 戦争になぞらえて、グラウンドを戦場と比喩する人もいる。
 だが、ゲームが終われば、選手は家に帰り、お茶漬けも食べる。
 自分がいて、相手がいる。
 自分一人では野球はできない。
 できることはせいぜい素振りか、壁にボールをぶつけて捕球するくらいだ。
 相手を野球ができないようにしてしまっては、自分も野球ができなくなる。

 かつて、2000年の日本シリーズ 最初で最後の「ON対決」
 ダイエーホークスは、先発陣よりもリリーフ陣が充実した布陣を敷き、後ろになるほど好投手が出てくる。
 名付けるならば「前より後ろが厚い野球」という新しい価値観を提示した。

 だが結果的に、ダイエーは 2勝4敗で敗れた。
 有利だったはずの福岡ドームの3試合を含めて、つづく4試合では 1つも勝てなかった。

 遡ること2年前の1998年秋、ダイエー球団は 2000年日本シリーズ開催時期の福岡ドームを押さえず、脳神経外科学会大会に明け渡していた。このため2000年の日本シリーズON対決は変則日程となった。

 リーグ優勝後、王監督は「この日程はうちに有利」とコメントした。
 これは、この人らしい立場がわかっていないおとぼけ発言だった。

 試合は東京ドームの1,2戦を福岡ダイエーが連勝。
 巨人ファンは、この見たことがない戦術に、とても歯が立たないと腹をくくりかけた。
 「福岡ドームに来てください」
 城島は余裕綽々でメディアに話す。
 その真意は「こんな狭い東京ドームではなく、我々は広い福岡ドームの野球を知っている。我々はここでも全勝したが、福岡ドームではこんなもんじゃないよ」ということだ。 同じ相浦の人間をあまり悪く言いたくないが、この発言は品がなかった。

2000年 日本シリーズ日程 】
 日付   本来の日程    2000年の日程
21日(土) 第1戦(セ本拠) 第1戦(東京ドーム)
22日(日) 第2戦(セ本拠) 第2戦(東京ドーム)
23日(月) 移動日      
第3戦(福岡ドーム)
24日(火) 第3戦(パ本拠) 
休養日
25日(水) 第4戦(パ本拠) 
休養日
26日(木) 第5戦(パ本拠) 
第4戦(福岡ドーム)
27日(金) 移動日      
第5戦(福岡ドーム)
28日(土) 第6戦(セ本拠) 第6戦(東京ドーム)
29日(日) 第7戦(セ本拠) 第7戦(東京ドーム)

 移動日なしの第3戦を巨人が上原で勝ち、2日間の休み。
 4,5戦を巨人が連勝。東京ドームの第6戦で巨人が優勝を決めた。
 シリーズ後、ある巨人選手は「連敗のあと移動日が空かず、いろいろと考えることなく第3戦に臨めたことは大きかった」とコメントした。

 NPBコミッショナー事務局は日本シリーズ終了後の11月6日、ダイエー球団に対して3,000万円の制裁金を課した。
 また、11月17日に巨人、ダイエー両球団から発表されたトレードは、当初、吉永幸一郎と 大野倫+金銭で進められていたが、巨人が変則日程を快く受け入れたことへの謝意としてダイエー側が金銭を辞する形で1対1となった。

 王監督と城島捕手の2つの談話に欠けていたのは、立場をわきまえた謙虚さ、戦う相手への敬意だった。

 2008年の日本シリーズでは、第1戦、第2戦で西武は4個の死球を与えた。
 小笠原に与えたそれは、その後も運動能力に制限を加えた。
 原監督が「渡辺監督の教えだとは思わないが、いい気持ちはしない」とコメントしてから、露骨な死球はなくなった。

 第5戦、中島(遊撃手)が、4回の打席で脇腹を痛めて戦列を離れた。
 そして、5回の守備からあの片岡がセカンドからショートに回っていた。

 ラミレス激走のあの場面、ショートが中島だったら、笑顔で「ごめん」だっただろうか。
 片岡の笑顔で「ごめん」は、喧嘩野球をスポーツに戻した。

 塁に出る度に笑顔で話し合えとはいわないが、片岡の心に余裕を持って戦う姿は、ほかの選手の手本に値するものだった。

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2008年11月 8日 (土)

片岡の笑顔 ラミレスの当惑

 日本シリーズ第5戦 西武3―7巨人(11月6日 西武ドーム)

 この試合の7回1アウトの時、印象深い出来事があった。
 このことに実況のアナウンサーは一切触れず、メディアのニュースも言及していない。
 主役は巨人ラミレス、西武片岡(ショート)
 脇役は二塁塁審

 巨人が1点を追う7回。
 ここまで巨人を2安打に封じていた涌井の低めのボール球を、ラミレスがセンターに打ち返す。
 涌井のわずか左横を地を這うように通り過ぎた打球が、セカンドベースの右端に当たったことでそれは起きた。

 本来ならば、ボールは勢いよく中堅手の前に到達し、打者走者は一塁で止まる。
 しかし、ベースに当たって勢いを失ったボールは、右翼手の前にのろのろと転がっている。
 打球が死んでいる。
 そう判断したラミレス 「一塁コーチの福王が止めていた」と思ったが二塁へ。

 映像が右翼手とラミレスの相対位置をとらえた時、巨人ファンは凍り付いた。
 ラミレスはまだ一二塁間の中間あたりにいる。
 「暴走だ・・」
 打順から言って、この回に追いつかないと巨人は苦しい。
 8回は下位打線に回り、9回は抑え投手が出てくるだろう。
 さぁ、追い上げだと思ったヒットが、二塁憤死という最悪のケースになれば、いくらなんでも勝負の流れは相手に傾いたかも知れない。

 しかし、走り出してからが速いラミレスは、ここから加速した。

 タッチをかいくぐるために、セカンドベースの左側に回り込む。
 足が先にベースに着いた。
 ボールが後から来た。
 セカンドベースカバーに入ったショートの片岡。
 ラミレスの足に「ぱしーん」とグラブを当て、左手を高々とあげてアピール。
 二塁と三塁を結ぶ線上にいた二塁塁審が、近づきながら両手をさっと広げる。

 審判の裁定を待つまでもなく、悠々とセーフだった。
 巨人ファン、安堵のため息

 と思ったら、加速したうえに左に回り込んだことで、ラミレスの体勢が崩れた。
 ベースから離れようとする右足。
 腹筋を使い必死に踏ん張るラミレス。
 だが、加速していた余力を殺しきれず、わずかに接していた足がベースを離れた。

 それを見た片岡。高々とあげていた左手ですかさず、タッチにいく。
 グラブはセカンドベースとラミレスの右足の間に挟まった。

 少しかがんで目を凝らす二塁塁審
 それを見上げる片岡
 戸惑うラミレス

 一難去ってまた一難。巨人ファン、またも凍り付く。
 今度は固唾を呑んで裁定を待つ。

 審判の両手は、再びゆっくりと両横に広がった。
 特に指さし確認をしたり、言葉で説明したようには見えなかった。

 そして、カメラが三塁方向からのアップに切り替わった時、その瞬間がきた。
 片岡が笑ったのだ。
 「ごめん」と右手一本で拝むジェスチャーで、ラミレスに謝りながら、笑っている。
 ラミレスは真意の読めない当惑の表情を見せている。

 片岡は元々ルックスがいい選手。
 さらに、さわやかな笑顔が戦場に咲いた一輪の花を思わせた。
 完成当時「野つぼ」と揶揄された西武球場(現西武ドーム)に涼風が吹いた。

 この場面について、報知新聞に掲載された渡辺監督のコメントは次の通り
 「相手(巨人)に勢いを付ける好走塁だった」
 実際はどのように話したかわからないが、紙面で見る限り「あれはアウトだ」とは言っていない。

11月10日に続く



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2008年10月11日 (土)

2008年10月10日神宮球場 ヤクルト-巨人

10月10日
昔ならば体育の日
この日、会社に行くことの違和感をもう感じなくなった。

セリーグ優勝が決まると予想したこの日。
阪神が負けて、巨人が勝つという2つの条件が揃わないと、その予想は外れる。著しく可能性は低く感じられる。

しかも、夕方から東京は雨
お昼はあれほど気持ちよく晴れていたというのに。
当然、横浜にも降っているだろう。
どちらかの試合が中止になるという要因も加わった。

外苑前の駅を降りる。
それほど人通りは多くない。
雨は小降りになっている。
横浜の雨はどうだろうか。

今日もとなりの秩父宮ラグビー場では、ラグビーのトップリーグが行われている。
「こちらは秩父宮ラグビー場です。お間違いのないようお願いします」
 前回、神宮に来た日はトップリーグの開幕日。
 神宮球場をはさんで反対側にある国立競技場では嵐のコンサート。

 試合中、ラグビーのトップリーグで数回花火があがった。
 その花火を嵐のコンサートの花火と思った人が多く、観客は「嵐に負けてんじゃねぇ」といい、野球評論家は「アイドルグループのコンサートの花火が緊張感を削いだ」と書いた。
 人々の情報とは、いい加減なものだ。

一塁側内野スタンドは、ほとんど空席。
三塁側は内外野ともに八割方埋まっている。

20分試合開始が早い横浜で、阪神がリード
巨人戦初登板のゴンザレスを打ちあぐねていた巨人にも点がはいる。

後ろの席に座っている小学生。
おじいちゃんと観戦に来ている。
四六時中、しゃべっている。
「今日負けたらどうなるの?」
「阪神が勝ったらどうなるの?」
「グライシンガーは押さえるかな?」
次から、なぜなぜ野球教室は自宅でやっておくとよいだろう。

ゴンザレスはなぜ、打席が回る回の表で替わったのか。
球場で見ていると不可解に見えたが、後でBSフジの録画を見ると、十分に球があれていたことがわかった。

2打点をあげた阿部慎之助が担架で運ばれる。
巨人のリーグ優勝に暗雲が漂う。
二転三転、野球の神様は最後に阪神に微笑んだのか。

すると、その直後に横浜が逆転。
前日、ラミレスを4打席敬遠し、自分は勝負してもらった村田が左翼席に打ち込んだ。
巨人ファンが密かに期待していた、前夜の罪滅ぼしが現実となり、携帯で戦況をチェックしている巨人ファンは「いいぞ村田」と調子のいい賛辞を送る。

いつもならば、終盤の回終了時点で初めて知らされる他球場の経過。
この日はいつもより早く、2回裏から随時ビジョンに掲示された。
「もしかしたら、胴上げみれるぞ」
あちらこちらで、声があがる。
声援の音量が20%上がり、明らかに球場の空気が変わった。

3塁側ブルペンでは、まず林、久保が肩をつくる。
5回を過ぎたところで山口がつくる。
7回には豊田がつくる。
佐世保工業出身の香田コーチが救援投手の後ろに立っている。
高校の頃は、佐世保工業の兄ちゃんとは目を合わせられなかったが、今、彼らはとても味のある大人になっているのではないか。香田さんを見ていてそう思う。
試合中一度も座ることなく、攻守交代の時はシステム手帳にメモをとる。
ブルペンにいる投手のことではなく、マウンドにいる投手について書いている様子。

先発のグライシンガーが崩れる予兆はなく、肩を作った投手はその都度、ベンチへ引き上げていく。
前回の神宮登板では、8回を完封したグライシンガー。
(8点差があり、9回は東野が登板)
この日も失点の予感がしない。

野球教室の少年は「緊張してきた」の言葉を最後に、ぱったりと口をきかなくなっている。

8回はクルーンがつくる
「マーク」「マーク」
ファンが親しみを込めて声をかける。
投げ込みに勤しむこの救援投手は、いつからこんなに人気があったのだろうか。

ヤクルトは木田が投げている。
巨人史上初めて、ドラフト1位入団でありながらトレードに出された選手。
もう随分ベテランの域にあるはずだ。
「打たせろ木田」
そんな声が飛ぶ。はしたないファンがいるものだ。

横浜の雨が強くなり中断。
神宮の試合進行が横浜を追い抜く。

9回裏を終えたが優勝は決まっていない。
神宮ではビジターチームが勝った日も、場内にヒーロー・インタビューが流れる。
だが、ヒーローインタビューではなく、横浜スタジアムの中継が始まった。
ファン・サービス極まれりである。
警備員が外野に並び、ファンの進入に備えている。
元々、おとなしい巨人ファンが進入するとは思えない。
2000年代に入ってすぐの巨人ファンは実におとなしかった。
野球ファン全体の応援スタイルが変わり、ファン層が変わり、今巨人ファンも他球団に負けず劣らず、感情を表に出すようになった。

数分後、横浜の試合が終わり、グラウンドでは原監督の胴上げが行われる。
やたらと回数が多い。
スポーツニュースで確認したら8回。
プロ野球新記録でも狙ったのだろうか。

 勝利監督インタビューの最後、インタビュアーがクライマックスシリーズに水を向ける。
 相変わらずのアホだ。

 143試合を戦って勝ち取った優勝の喜びに浸っている時に、なぜその先の別の大会のことを聞くのだ。
 原監督はその意図には応じなかった。

 五輪で金メダルをとった直後の選手に
「来月の長崎県大会に向けての抱負を」と聞くようなもの。
 プロ野球がまだ純然たる日本シリーズをやっていた2003年までは、ペナントレースを制した者に「この後の大会について」聞く意義があった。

 パリーグとセリーグのリーグ戦が終了した。
 これから、日本プロ野球は秋の余興が始まる。

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2008年10月 8日 (水)

同率の場合、巨人が優勝

10月7日、優勝を争う阪神は、横浜スタジアムで横浜とのナイトゲーム。
1回表に1点を取ったが、そこで降雨ノーゲームとなった。
1点リードの展開でノーゲームというのは、一見、阪神にとって不運であるかのようにみえる。

だが、この日の先発は岩田(1回裏にはいっていないので投球していない)
前回は巨人戦に先発して負けている。
現在の阪神では4~5番手に位置する投手だ。

ノーゲームにならなかった場合、阪神の残り4試合の先発順は
岩田-安藤-下柳-石川。

このノーゲーム分は、恐らく10月11日(土)に組み入れられるので、先発は
安藤-下柳-石川-岩田(リーソップ)

好投手からの順番に、組変わったことになる。
1回表1-0のリードでは、勝負は予断を許さない。
もし、逆転負けすれば、初めて2位転落。
巨人にマジック3を点灯させるリスクもあった。
この接戦では、追い抜かれないことが肝心だ。

またヤクルト4連戦、横浜、巨人という6連戦が、これで一息つけた。
救援陣は、試合中に肩を作ることなく一日休めた。

9月30日の中日戦(10月12日に繰り入れ)につづき、
天はまたしても、追いつかれた方(阪神)に味方したのである。

天に二度助けられた阪神。
だが、ルールは助けてくれない。

 2007年シーズンよりルールが変わり、勝率、勝利数が並んだ場合、当該シーズンの直接対戦成績で勝るチームが優勝となる。
 2006年までは、同率で並んだ場合、当該チームによるプレーオフを行うというルールだった。
 2007年に秋の余興、クライマックスシリーズが始まり、プレーオフの日程がとれないためにルールが変わった。

 余興のために、真の勝負の方が打ち切られるということだ。
 こんな興ざめなことはない。

 NPBスタッフの皆さんは、どちらかが0.5ゲームでも差をつけて勝ってくれることを切望しているだろう。
 このルールについてのメディアの扱いは、口止めされているのかと思うほど、あっさりしていて小さい。

 2008年シーズン、巨人が阪神に追いついた時点では、引き分け数に差があった。
 巨人3 阪神2
 これでは勝率が同率にはならない。

 10月4日、阪神がヤクルトと引き分けたことで、引き分け数が3で並んだ。
 これにより、シーズン終了時点で2チームが同率、同勝利数となる可能性が生まれた。

 新ルールでは、巨人と阪神が並んで首位となった場合、今シーズンの直接対戦で勝ち越している巨人が優勝となる。
 巨人には同率首位を確定できる星勘定で、マジックが点灯する。

 野球解説者がよく、引き分けのことを指して「負けに等しい引き分け」と言うが、10月4日ヤクルト戦での引き分けは、阪神にとって「負けそのもの」だったのである。

 天に味方された阪神、ルールに味方された巨人の争い。
 10月10日(金)には決着がつくと、しらべるでは予測している。

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2008年10月 4日 (土)

天は追いつかれた方に味方する。

セリーグの優勝争いの話である。

今から14年前のこと。
1994年 9月中旬のある夜、僕はナゴヤ球場の入り口に立っていた。
懇意にしていた業者さんが、中日-巨人戦のネット裏指定席の招待券をくれた。

名古屋駅から電車を乗り継いで、ナゴヤ球場に着く。
雨は降っていないが、台風が近づいていて風が生暖かい。
人影はまばら。
指定席の入り口までいくと「本日中止」のカンバンがあった。
招待券は振り替えが効かない。
雨は早くにあがっているから、試合はできると思えた。
だが、観客の足や安全を考慮して中止となった。

1994年はシーズン序盤から巨人が首位を独走。
8月にも優勝が決まるのでは?と言われていた。
ところが、夏場から巨人が失速。
中日が追い上げ、この日は最後の直接対決。
いわゆる天王山

追い上げる中日
息絶え絶えの巨人
そこに台風がやってきた。

この日の中止は、10月8日に組み入れられた。
長嶋監督はシーズン終了後、こう語っている。
「あの中止に救われた。チーム状態がどん底にあった9月に対戦していれば、高い確率で敗色が濃かった」

巨人は中日に同率首位には並ばれたが、一度も逆転を許すことはなかった。
長嶋監督は追い抜かれなかったことで、士気が下がらなかったと述べている。

14年の時が流れ、今度は阪神に巨人がおいついた。
だが、巨人は一度も追い抜いていない。

9月30日、雨の横浜スタジアム、巨人が3-0で勝った日。
甲子園の阪神-中日は中止となった。
この中止は、10月12日に組み入れられた。

中日はクライマックスシリーズ出場権を得るために、カプーと3位を争っている。
10月4日、5日、その中日と戦う巨人
その時点ではまだ、中日はまだ真剣モード。

だが、中日が阪神と戦う12日はセリーグ日程の最終日。
3位の行方は見えているだろう。
中日は本気モードではなく、クライマックスか、あるいは来期に向けての調整モード。

9月30日に戦うよりも、阪神が1勝を得る確率は格段に高い。

天は追いつかれた方に味方する。
という後日談が語られるか、そんなの全然関係ない。
ということになるか。

いずれにせよ、勝負の値打ちがない余興試合(クライマックス)の前に、真の戦いが白熱することは喜ばしい。



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2008年10月 2日 (木)

20年ぶりの横浜スタジアム

 横浜スタジアムに行ってきた。

 20年ぶりのことだ。

 前回は5月の連休明け。

  「そうだ、きょう横浜で巨人戦、いこう」

 と京都に行くような軽さで思い立ち、ハワイから帰った足で、半袖のアロハを着て球場へ向かった。

 初めて降りた関内の駅から、球場がどえらい近かった。

 当時、巨人戦と言えば切符はプラチナ。紙でできているがプラチナである。

 ふらちな悪行三昧・・ではなく、ぷらちなである。

 プラチナなチケットを売り込む、ふらちなダフ屋に耳を貸さず、ひとまず入場券売り場に行くと、切符はたくさん余っていた。

 時は流れて20年

 3塁側のチームが優勝を争っているという、この時期でも、やはりチケットは「十分にあります」とウェブページに書いてあったが、仕事が終わって、球場入りするのが試合開始ぎりぎりなので、指定席を買った。

 一番安い外野指定席だけが売り切れていた。

 もし残っていたとしても、外野はごめんだ。2年前、神宮で目の前の「8」と「24」のユニフォームを着た物体が、1回から9回まで立っていて、スコアボードで試合展開を観戦したことで、外野は懲りた。守備の時くらい座ればいいものを・・

 次に安い内野指定席B 3,500円

 これがなかなかよかった。選手の顔をみて嬉しい世代ではないので、場内を俯瞰できる絵の方が嬉しい。席は3塁ベンチの後ろ、きりたったスタンドの頂上あたり。

 スタンドにしっかり、角度がついていて、グラウンドがコンパクトに見渡せた。

 それにしても、落ち着かない観戦だった。

 ビールの売り子である。

 ひと昔前の「びーる いかがっすか~」と連呼するだけだった売り子はもういない。

 にこにこ笑って、まるでピチレモンのモデル・オーディションみたいに、くねくねと歩いてきたかと思うと、ぴたっとたちどまり、パラパラでも踊り出すのか?というように右手をかざして、

 「氷結いかがですか」

 そして、じっと目をみる。

 へたに手をあげたら、もう逃げられない。頭もかけない。あくびもできない。

 いかにして、目を反らすか・・・ そればかり気になって、いい暇つぶしになった。 

 あれは、振り付け師でもいて、みんなで練習するのだろうか。それとも、先輩から受け継がれる、不文律のワザなのか。

 あいにくの雨で、ビールは買えなかった。

 来年の初夏には、再び訪れて、にっこり目を合わせて

 「ビール1つね!」と言う、楽しみができた。

 片方のチームが優勝を争うこの試合で、入場実数は 8,900人

 来年も、ふと思いついて、来ることができるだろう。

 それにしても、ギモンだ。

 神奈川県の皆さん、野球は興味ないですか??



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2008年7月16日 (水)

戻り道

「7番アイアンっていつ使うの?」【 18 】

 プロゴルファー杉原輝雄が本を出した。
「ゴルフ人生50年、いまだ道なかば」学研 2008年5月

 タイトルを見て、おいおい50年で道半ばはないだろうと思った。
 日本初のプロゴルファー杉原と言えば、大変に成功したゴルファーであり、50年もやってきて道半ばでは、後に続く人は途方に暮れてしまう。

 東京大学の合格通知をもらった人が、今の感想を聞かせてくださいと尋ねられ「ようやく、今生まれ落ちた赤ん坊の気分です」と言うようなもので、そんな人が目の前にいたら、はり倒したくなる。

 だが、杉原を張り倒す気にはなれない。
 本の副題に「がん克服」とあるからではない。

 書名というものは、売るために、極端に象徴的な言葉を選ぶものだ。この「道半ば」という言い回しも、杉原は文中で使っていない。

 杉原は、まだ夢は続いており、向上心を持ち続けていることを書いている。
 よく有名な実業家や作家が「夢は諦めなければいつか叶う。諦めればそこで終わり」という。
 一般人からみれば、既に夢を叶え向こうの世界に行った人が、余裕をかまして言っている言葉である。

 「諦めればそこで終わり」は間違いないが、諦めなければいつか叶うは嘘だ。「叶う人もたまにいる」が正しい。

 杉原の人柄に惹かれる理由は、その謙虚さにある。
 杉原はこの本でここまでの成果を率直に喜び、幸せだと言っている。
 現状を幸せだと思うことは、よい未来をたぐり寄せるために、とても大切な心がけだ。

 「夢はきっと叶う!」という自己暗示を推奨する人は、信用できない。
 それよりも、今が幸せだと感じ、夢はそのうち叶うかも知れないな。でも、叶わないのかも知れないな。と思う程度が、ちょうどいい。

 20代の頃「40代で身につけるゴルフのマナー」の本を読み、いつもゴルフ場のトイレでは、置いてあるおしぼりで洗面台を拭いていた。
 ゴルフ場に向かって、クルマを走らせている時は、とても楽しかったが、帰りのクルマは、概ね自分に怒っていた。

 ゴルフに求めていたものは、紳士の称号か。好スコアという虚栄か。
 あるいは、何も求めてはいなくて、上達のプロセス、希に出る好打、自然の散歩が楽しかったのか。

 長くゴルフを離れていると、この次に戻った時には、とてつもなくうまくやれる気がする。
 その理由は、あれだけ多くのミスショットをしながらも、ゴルフを嫌いにはならなかったからだ。

 人は飽きることがある。事情により離れることもある。
 だが、嫌いにさえならなければ、またいつか、そこに戻ってくる。

(終わり)

「7番アイアンっていつ使うの?」もくじ


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2008年7月 9日 (水)

素人は「叩いた」とは言わない

「7番アイアンっていつ使うの?」【 17 】

 ゴルフでは、打数は自分でスコアカードに書き込む。
 自分だけではなく、あとの3人の分も書き込む。
 お互いがズルしないよう、監視し合っているのだ。

 1ホールを終えて、グリーンを離れたところで、あとの3人にただ今のスコアを口頭で申告する。
 結果が悪いから内緒にすると言うわけにはいかない。

 素人にとって「12」とか「15」を数えるのは容易ではない。
 「え~っと あそこで池に入れて、あそこで空振りして、パットを4つ打ったから・・うーん ・・・14!」
などと言うと怪しくて仕方ない。そういう人はゴルファーとして信頼されない。
 そこで、素人に必携なのがカウンター。ゴルフ用品店で500円で売っている。
 グローブにはさんで留めておき、一打うつごとに「ぷちっ」と押す。桁数は1-0の数字がラウンドする1桁のみ。1と11と21を間違う人はいないので、1桁でも用が足りる。
 これならば、自分で数えなくて済むので、プレーに集中できるし、嘘を申告することがない。

 一人ずつ順不同でスコアを申告する。
「パー」 +0
「ボギー」 +1
「ダボ」 +2
「12」

 パー+3打を「とり」=トリプルボギーという略称が最大で、パー+4打を超えると、その実数で言う。
 「叩く」とは、実力者がダブりボギー、トリプルボギーを打つこと。それ以上打つと「大たたき」という。
 ど素人が少々打ったとしても、それが実力であり「叩いた」とは言わない。
 素人がトリ(+3)で「いやぁ、叩いちゃいました」と言うのは、謙遜にはならない。それは不遜とか、僭越という言葉に近い。
 「君の腕なら、トリでも上出来だろう」と、誰もが思っているからだ。

 素人は、好打には大袈裟にならぬ程度に喜び、ミスには淡々として、少し苦笑い。これくらいがちょうど良い。

 ラウンドした後のスコアカードは、机の引き出しにしまっておくとよい。
 次に同じコースを回る機会があった時は、前回どのホールをいくつで上がったかが参考になるのだ。
 2度同じコースを回ると、自分の得手、不得手のホールがわかる。
 前回よいスコアのホールでは、いいイメージが湧くし、前回大叩きをしたホールでは、せめて1桁で留めようと慎重なプレーを心がける。
 過去データがないと、同じ失敗を何度もくり返すことになる。

 一日のラウンドを通して、ど素人が、玄人ゴルファーに勝ることが一つある。 それは歩数、移動距離。
 ティーグラウンドからホールを結ぶ最短距離を進む玄人。
 その中心線の周りを折れ線グラフのように進む素人。

 距離は長いが、所要時間は同じだ。
 ということは、距離が長い分、走っているか、動いている時間が長いということになる。
 当然、消費カロリーが高い。
 大半の素人はそれを風呂上がりのビールでチャラにしてしまう。
 このチャラビールを控えれば、ゴルフはかなり負荷が高い健康維持活動である。
 万歩計で歩数を測っている人もいる。
 これからは、フォアアスリートなどのGPS腕時計をして、距離やカロリーを測る人も増えるだろう。

 一ラウンドの移動距離がわかれば、折れ線ゴルフも、楽しくなりそうだ。



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2008年7月 2日 (水)

成功するゴルフコンペ幹事の秘密

「7番アイアンっていつ使うの?」【 16 】

 ゴルフ場の朝。
 着替えてトイレを済ませると、まずキャディマスター室に向かう。

 キャディマスター室の前には、スコアカード、ボールマークが置いてある。
 グリーン上にボールが乗り、他のプレーヤーのパットの道筋にボールがある場合、ボールを拾い上げる。その際、ボールがあった位置の目印として、ボールマークを置く。

 そのゴルフ場のエンブレムなどがデザインされており、毎回2~3個持って帰る。自分で回ったコース数だけ、ボールマークがたまるのが楽しい。

 ボールマークは、ゴルフ場備え付けのモノを使うというルールはない。
 自分で持ち込んで使ってよい。今川焼きでは、他の人のボールが止まってしまうが、コインならば問題ない。
 「自分は、海外旅行に行く人なのだ」
 ということを自慢したい人がよく、外貨を使っている。

 ある日、ボールマークとして 500円玉を使っていた時のことだ。
 さて、パットを打とうと思ったらボールマークがない。
 仕方なく、ボールがあったと思われる位置から打った。

 次のホールに向かって歩きながら、その話をしたら「あ、あれって君のだったの?儲けたと思ってひろっちゃったよ。紛らわしいことするなよ」といいながら、同組のナカノさんがポケットから500円玉を出した。
 ナカノさんとのゴルフは、この日が最後になったのは、言うまでもない。

 ゴルフコンペの幹事となると、キャディマスター室では2つの質問をする。
「気をつける、ローカルルールが何かありますか?」
「ドラニアはどこがいいですか? ドラコン2回、ニアピン2回やろうと思ってます」

 ローカルルールはそのゴルフならではのルール。
「14番ホールのウォーターハザードは、無罰で手前から打ち直す」
といった、特別な決めごとのこと。

 ドラコンは、ティショット(第一打)を遠くに飛ばす(driving)ことを競う(contest)
 ティーグラウンドからみて、フェアウェイの見通しがよく、その距離が長いホールで行う。
 ロングホール(パーが5打のホール)で行うのが一般的だが、ロングホールのフェアウェイがドッグレッグしている(曲がっている)場合、ミドルホール(パーが4打のホール)が推薦される。
 遠くに飛ぶことを競うが、フェアウェイを外した場合、失格となる。
 すべての参加者がフェアウェイを外した場合は、持ち越して、その後のホールで行うとよい。

 ニアピンは、ショートホール(パーが3打のホール)で、第1打がピンに近い(near)ことを競う。
 すべての参加者がグリーンを外した場合は、持ち越して、その後のショートホールで行うとよい。

 幹事はこれらの情報を収集したら、集合時間に皆を集めて朝礼を行う。

「おはようございます。今日は日頃の皆さんの行いがよいため、絶好のゴルフ日和になりました。」
とまず、天候の話題から入る。
 ここで「昨日、長崎で起きた玉突き追突事故は」といった時事ネタや「最近、すっかりメタボが気になり始めた佐藤部長の発案で開催する今日のコンペは・・」というような、楽屋ネタから入ってはいけない。

「では、早速ですが、ニアピンはアウトの13番、17番、インの5番、8番。ドラコンはアウトの14番、18番、インの3番、9番でおこないます」
 それを聞きながら、参加者はスコアカードのホールNo.に○をつけていく。
 ○つけが追いつかないような、早口で言わないようにしよう。

 あとは、特殊なローカルルールがあれば、それについて触れて
「それでは、今日一日、ゴルフを楽しみましょう!」
とにっこり笑って、爽やかに締める。
 お通夜のような辛気くさい顔をして「まぁ、せいぜい怪我して入院しないよう、気をつけてください」などと言ってはいけない。

 朝礼が終わると、残された幹事の仕事は、表彰式の司会くらい。
 表彰式では、優勝(実打数からハンディキャップを引いた打数が最も少ないゴルファー)、準優勝、ベスグロ(ベストグロス=最も打数が少ないゴルファーに贈る賞)以外に、次のようなお楽しみ賞を設ける。

・当日賞(20日ならば20位)
・大波賞(前半9ホールの打数-後半9ホール の数が最も大きい ただしマイナスはダメ)
・小波賞(前半9ホールの打数-後半9ホール の数が最も小さい ただしマイナスはダメ)
・BB (ブービー ブーのB つまり最下位の1つ上位)
・BM (ブービーメーカー つまり最下位)

 これらは、客観的に決まる賞だが「珍プレー賞」のように主観的に決めるもの、決めうちで贈りたい人がいる場合の「遠来賞」など、コンペの各賞は幹事が自由に発案できる。

 ゴルフの幹事は、とても楽しい。
 限られた予算で、参加者が笑顔になるような、賞品を発掘するのも楽しい。
 妻帯者が多いコンペでは「お父さん、やったよ!」と家族に自慢できる「食べもの」が喜ばれる。

 それなりに準備には時間をとられるが、一度経験してみるとよい。
 料理や酒の追加、部長のカラオケの好みまで、気を配らなければならない宴会の幹事と比べれば、楽なものだ。

 朝礼が終わると、個々の好敵手同士が「にぎり」の交渉にはいる。
 にぎりとは、賭けゴルフのこと。
 互いにハンディキャップ無しで「にぎる」場合は「スクラッチ」
 片方が1ホールにつき1打のハンディを与える場合「エブリワン」
 片方が1ホールにつき2打のハンディを与える場合「エブリツー」

 エブリツーで賭けるのは希。
 エブリスリーは聞いたことがない。
 1打につき、いくら賭けるのかは、賭けたことがないのでわからない。

 ゴルフコンペ参加者全員で賭けることを「総にぎり」と言う。
 総にぎりでは、ど素人は数万円単位の負けを背負うことがある。
 ゴルフ場のプレーフィー、食事代、会費だけでも数万円。さらに負けゴルフで数万円では、悲惨な気持ちになる。
 洒落にならないので、夢見るど素人ゴルファーのためにも、総にぎりはやめてもらいたい。

 って、賭けてるじゃん(笑)



「7番アイアンっていつ使うの?」もくじ


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2008年6月25日 (水)

プレイングフォー

「7番アイアンっていつ使うの?」【 15 】

「いやぁ、いつも谷にボール落とすんですよねぇ」
と口に出して言うと嫌われる。

 山岳コース(山にあるゴルフ場)には谷、小川、池、崖、林があり、海辺のコースには、海そのものがある。それらはハザード、あるいは(OB区域を省略して)OBと呼ばれる。

 「ゴルフは自然との戦い」と言う。
 僕は言ったことがないが。
 ヘビとマングースのように、誰も実際に戦ってはいないのだが、自然のせいでスコアが悪くなるので、戦いと言うことにするようだ。

 そこに谷があり、ボールが落ちるかも知れないことは、見れば誰だってわかる。
 ただ、左脳でそう考えれば、そのイメージが右脳に入力されて、ボールは谷底へ転がっていく。
 だから、誰もが谷のことを忘れようとしているのだ。

 それを「谷!谷!谷!」
 と連呼されると 「ママでも金か?」とつっこみたくなる。

 ラウンドでは「不安」と「反省」を他人と共有しようとしてはいけない。
 不安を声高に叫び、失敗をうじうじと嘆く人は、ただ単に迷惑なだけだ。

 理想的なのは、不安を持たず、一切反省をしないこと。
 不安はそのまま結果となって現れる。
 反省は次の悪い結果を誘発する。反省は家に帰ってスコアカードを眺めながら、ゴルフ日記に書くとよい。

 コースの途中に深い谷があると、素人は永遠にその谷を越えられない。
 そこで、ゴルフ場が編み出した秘策が「プレイング4」
 ゴルフを始めた頃、この言葉が大好きだった。
 この言葉に、ゴルフ愛を感じる人が他にもいるようで、何度かこの名前を冠した喫茶店や、スナックを見かけたことがある。

 プレイングフォーとは、ティーグラウンドから打ち出した第1打がOBとなった時、あらかじめ決められた前進位置から第4打として競技を継続すること。

 ゴルフ本来のルールはあるがまま。すなわちOBになれば、その場所から打ち直さなければならない。
 元の位置からの打ち直しが、ナイスショットになる保証があればよいが、素人にはムリ。いつまでも前に進むことができず、後続のゴルフ客がプレーできなくなる。
 そこでどのゴルフ場も、独自のルール「ローカルルール」を作る。
 その一つがこの、進行を早めるための「プレイングフォー」

 ティーグラウンドの目の前が谷になっているホールでは、みすみすボールを谷底に捨てるのがもったいない。
 こういう時のために、ゴルフショップで中古の安ものボールを用意しておく。
 ゴルフショップに行けば、いろいろな銘柄の中古ボールが10個パック1,000円くらいで売っている。どうやって、これらの中古ボールを集めるのかは、公表されていない。
 これらのボールを買ってきて、マジックで 「谷用」とでも書いておけば、仲間が笑ってくれるかも知れない。

 だが、得てして、谷のホールにやってきた時には、1個400円くらいする高いボールしかなかったりする。
 谷の向こうには、前進4打の打ち出し場所が見えている。
 「ぼく、プレイングフォー」
と、幾度か打つ前に申告したが、一度も許してもらえなかった。きっとゴルフ場が中古ボール業者と、裏で組んでいるのだろう。

「7番アイアンっていつ使うの?」もくじ


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2008年6月18日 (水)

右脳ゴルフと左脳ゴルフ

「7番アイアンっていつ使うの?」【 14 】

ボールを打つ動作に入ることをアドレスという。
このアドレスに入った時、何を考えているかで、ナイスショットになるか、ミスショットになるかが決まる。
つまり、打つ前に勝負はついているのだ。

「さっきの球は右に曲がったから、右膝の送りが早いのかも知れない。今日はトップ(ボールの頭を叩き、ボールが地面を這うように転がること)が多い。テークバックの時に左の肘が曲がっているのかも知れないから、肘を曲げないようにしよう」
こうして、複数のチェックポイントを掲げていると、結果は畏れていた通りのものになる。

 打つ前に考えるのを止めれば、まだよいのだが、調子が悪い時は、自分に技術指導しながらスイングをしている。これでは体は動かない。

 こういう人のゴルフを「左脳ゴルフ」という。
 左脳は論理を司る脳。
 入社試験や、センター試験の受験会場では大いに活躍してもらいたいが、スポーツの最中には向かない。
 運動している体は、左脳の論理に負けて、自由を制限されてしまう。

 左脳ゴルフでは、持っている力さえ出し切れない。
 ただでさえ素人なのに、さらに輪をかけて、運動レベルが下がるのだから、結果がよいはずがない。

 下手なのは仕方がない。しかし、
 下手が、上手くなろうというのは、練習場でやってくること。
 下手が、上手くやろうというのは、間違いである。
 下手は下手なり、現状の100%を発揮することを、考えるとよい。

 そこで、1980年代に登場した言葉が「右脳ゴルフ」
 右脳はイメージを司る。

 強い弾道で遙か彼方へ延びていくボール。
 クラブがボールの芯を捉えた音。

 アドレスで、こうした好結果を想像する。
 想像できたら、間髪を入れずにスイングにはいる。
 もちろん、ゴルフ理論は考えない。

 右脳ゴルフで結果がいいとは限らない。
 だが、実力以上に悪くなるわけではない。

 もちろん、ゴルフはなにも考えなくてよいのではない。
 体を動かす時以外、書籍や映像でゴルフ技術を研究している時は、しっかりと左脳ゴルフをする。
 学んだことを手帳に書き留めておいて、練習場で打ってみる。

 すると、いい球が打てる。
 その記憶をゴルフ場に持ち込み、右脳ゴルフを展開するのだ。



7番アイアンっていつ使うの?もくじ


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2008年6月11日 (水)

2~3本持って走れ!

「7番アイアンっていつ使うの?」【 13 】

その日、最初にゴルフをするホールをスタートホールという。
一般的なゴルフ場は18ホールで構成されており、9ホールずつの「アウト」と「イン」に分かれている。
アウトについたホール番号は1~9
インについたホール番号は10~18

通常はアウト→インの順番で回るのだが、そうすると午前中はインがガラガラになってしまい、もったいない。
そこで、アウトスタートの組とインスタートの組をつくる。
そうすれば、18ホールに最大限のお客さんを入れることができる。

打つ順番は、スタートホールでは、占い棒のようなくじを引いて決める。
次のホールからは、前のホールの打数が少ない人から順番に打つ。
打数が同じ場合は、さらにその一つ前のホールで打った順番に倣う。

ゆえに、ど素人は4番めが指定席。
野球ならば超一流の順番だが、ゴルフでは最低の順番である。
たまに、諸先輩を差し置いて1番になろうものならば、宴席で部長の上座に座ってしまったような、居心地の悪さを感じる。

第一打がナイスショットの場合は、打ち終わってから、歩いてよい。
小鳥のさえずり、聞き放題。
仲間との優雅な会話、し放題。

しかし、左右に大きくボールが曲がったり、チョロした場合は、クラブを"2~3本持って"全力疾走しなければならない。
この"2~3本持って"が、重要な心得だ。
初めのうちは、これがわからなくて、次打用のクラブを1本だけ、キャディバッグから抜いていこうとする。そこでベテランゴルファーからの指導がはいる。

「2~3本持って走れ!」

キャディさんは1組に1人しかいないので、4人分の面倒を見なければならない。
4人のキャディバッグを積んだ電動カートは、ボールがきちんと前に飛ぶ人たちの近く、標準的な位置にある。
カートはキャディさんが運ぶ。
キャディさんがど素人の世話でカートを離れる時は、残り3人の誰かが、代わりにカートを押すのがチームワーク。
少々、上達すると、この"代わりに押すカート"すら、誇らしい。

ボールの頭を打って、ボールがすぐそこに転がることを「チョロ」という。
チョロを打つような人は、その次もチョロを打つ確率が高い。

ゴルフで一番恥ずかしいのは、ショートホールの第一打、次の組が見ている前でのチョロ。
ショートホールでは、渋滞のため、次の組が追いついて、見物していることがある。もうちょっと、茶店でゆっくりしてくればいいのにと思う。

そこでチョロをやると、2~3m前方に転がった球を、あるがままの状態で打たなければならない。

ゴルフは "あるがまま" の状態でのプレーが基本。
ただし、ティーショット(第一打)だけは、ティーアップできる。
ティーはゴルフボールのスタンド。ティーを地面に挿して、その上にボールを置くことをティーアップという。中古車買取センターの会社名ではない。

上級者はアイアンで打つショートホールのティーショットは、ティーアップせずに打つ。
だが、ど素人!は少しでも打ちやすいよう、ティーアップする。
しかし、チョロした後の第二打では、もうティーアップできない。

次組の見知らぬ人の冷たい視線の中で打つ、第二打は辛い。
結果はどうでもいいから、とにかく、ボールを前に進めて、その場を離れたい。
ある時、そんな一心で打った無心の第二打、7番アイアンがボールを芯で捕らえた。
ボールを最後まで、しっかり見て打った。
その行方を追い視線を左に向けた時、140ヤード先のグリーンでワンバウンドしたボールが、カップに消えるところだった。

ショートホールのティーグラウンドから1打で入れば、普通ならばそれはホールインワンという。
このど素人め!と思って見ていたギャラリー(見物人の総称)は一瞬どよめき、見知らぬど素人!のホールインツーに、拍手を送ってくれた。

チョロの次打がナイスショットならば、その次は7番アイアンでいいかも知れない。
だが、次打もまたチョロの場合、5番アイアンが必要かも知れない。
次打がバンカーに入ってしまえば、SW(サンドウェッジ)が必要になる。

3通りの結果によって、カートまでクラブを取りに行っていたのでは、タイムロスが大きすぎる。
ゆえに、ど素人は"2~3本持って" ボールの位置へ急行する。
「お金を払っているのは俺だ」
と思ってはいけない。ゴルフは紳士のスポーツだから。
キャディフィーは4人が払っていることを、忘れてはならない。
キャディさんには、余計な手間を取らせないようにしなければならないのだ。

ど素人!の2~3本とは、7番アイアン、9番アイアン、PW(ピッチングウェッジ)が基本。
7番アイアンを持ってきたのに
「やっぱり、ここは10ヤード足りないから6番が欲しいな」
と思ってはいけない。

今あるもので、できることをする。
これが、ど素人ゴルフの基本。ゴルフ全般に言えることだ。
しかし、ゴルフにはまっている時は、これができない。

タイガーの目の覚めるような弾道
ハニカミ王子の豪快なスイング、
無いものをねだり、身にもついていない無理なスイングで、さらに泥沼にはまっていくのである。

「7番アイアンっていつ使うの?」もくじ

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2008年6月 4日 (水)

戦略的に配置される茶店

「7番アイアンっていつ使うの?」【 12 】

 キャディさんはいろいろなことを知っている。
 そのゴルフの攻略法ならば、キャディさんでなくとも、何度か同じコースを回れば誰でもわかる。
 しかし、キャディさんだけが知っていることがある。

 それは、その日のピンの位置。
 グリーンのホールに立ててあるのがピン。
 正確に言えばホールの位置だ。

 ホールの場所は、毎日変わる(変わらないゴルフ場もある)
 場所が変われば、攻め方も変わる。
 100を切る程度のレベルになると、ピンの位置をキャディさんに聞くようになる。
 120前後のゴルファーが「今日のピンは?」と聞くことを、日本では僭越という。
 ピンの位置はキャディ・マスター室が管理している。キャディ・マスター室には、18ホールそれぞれのピン位置を図示した紙が置いてあることもあるが、欲しくてももらえない。

 ゴルフコースにはハザード(障害物)と総称されるバンカー、池、小川などがある。
 コースの攻略を難しくすることで、ゴルフ上級者はプレーが楽しくなる。
 ど素人にとっては、余計なお世話以外の何者でもない。
 ハザードについて、メディアは「戦略的に配置されている」という形容をする。

 戦略的といえば、忘れてはならないのが茶店だ。
 プロツアーのテレビ中継では茶店が映らない。
 だから、ゴルフをテレビで見るだけの人は、茶店のドラマを知らない。

 茶店は、次がショートホール(パーが3打のホール)で、前の組がつっかえて、待ち時間ができる地点に戦略的に配置されている。
 ほどよく喉が渇いたゴルファー、朝ご飯をしっかり食べて来なかった人は、
「おぉ、茶店、茶店」
 と喜々として駆け込んでいく。
 おでんを食べる人、ポカリスエットを飲む人、ビールを飲む人。

 ゴルファーは財布を貴重品ロッカーに預けているので、コース内では現金を持っていない。
 茶店の決済は、スコアカードに記されたナンバーと、自著のサインでおこなう。

 「ここは、これにつけて」
 4人のうちの年長者や気前のいいスポンサーが、こう言うまで、サインするのは待った方がいい。
 茶店に入る前にトイレに行く、手を洗う、注文するのを悩む。
 こうした戦略的遅延行為により、スポンサーの出現を待つ。

 「あと、キャディさんに何か」
 茶店に寄ったら、キャディさんに付け届けするのがゴルフ界のしきたり。
 スポンサーが代表で、ナンバーカードを出すと茶店の店員が、じゃこれをと言って、ポカリスエットなどを渡してくれる。
 この時なぜか、冷蔵庫からではなく、後ろの棚から出すことが多い。
 パチンコ屋の景品みたいに、あとで換金するシステムなのだろうかと、いつも不思議だったが、一度もそこはつっこめなかった。

 店員さんから渡されたポカリスエットを、番頭格の若者がキャディさんに渡す。
 ここではスポンサー自ら、プレゼンターになることは、みっともないということになっている。

 「えぇ、これは、年長者で皆から一目置かれている、スズキ部長からです」
と言った余計な講釈をしてはいけない。自分が払ったわけではなくても
 「よかったら、これ、どうぞ」

 キャディさんは、こちらが一から十まで話さずとも、まるっとお見通しなのだ。

 ある時、ありがとうと ポカリスエットを受け取ったキャディさんが、その場で缶を開けて飲んだことがあった。
 換金疑惑を頭に描いていたので、呆気にとられた。
 あぁそれならば、冷えたのをもらってくればよかった。
 飲み干したキャディさんの笑顔は、とても爽やかで可愛かった。

 プロツアーのテレビ中継でも
 ジャンボ尾崎が、ハニカミ王子に
 「おぅ、ここはこれで」
 とやって、ポカリスエットをおごるシーンを映してもらいたい。

ジャンボ「おでんも食うか?」
王子「はいっ 玉子 大好きなんで」
ジャンボ「マスターズ ・・ 頼むぞ」

 こんなドラマがあれば、今日からゴルフも泣ける物語だ。



「7アイアンっていつ使うの?」は毎週水曜日に連載しています。
ここまでの全話の目次がこちらにあります。

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2008年5月28日 (水)

7番アイアンっていつ使うの?

「7番アイアンっていつ使うの?」【 11 】

 ゴルフバッグに入れられるゴルフクラブは14本まで。
 重量制限が決まっているゴルフ場もあり、規定の重さを超えると超過料金をとられる。
 1,000円~1,500円程度だが、ばかにならないので、使わない道具は入れないようにする。
 バッグの計量は、朝ゴルフ場に着いてすぐ行われるので、靴をバッグに入れておくと靴の重量がカウントされる。靴は手荷物として、スポーツバッグに入れておくとよい。

 たいていの人はウッド3本、アイアン10本、パター1本という構成にしている。ルール的には、パター14本でもよいが、それではゲートボールになってしまう。
1番ウッド=ドライバー
3番ウッド=スプーン
4番ウッド=バフィ

 数字が大きくなるほどヘッドの容積が小さい。
 飛距離は落ちるがボールを捕らえる確実性が上がる。

 ドライバーは、そのホールの第1打を打つティーグラウンドで使う。
 ティーグラウンドとホールがあるグリーンを結ぶ芝生の花道=フェアウェイでは、スプーンやバフィを使う。

 フェアウェイを外れた枯れ芝=ラフでは、ボールが芝に沈んでいるため、ウッドでは芯に当たりにくい。だが、ヘッドの底面=ソールに溝を切って、ラフでもボールを捕らえやすくしたウッドが1980年代後半から売られている。そういうクラブをゲタ底という。

 ウッドはさらに大きい数字のものもある。
 女性で 7番までウッドを入れている人を見たことがある。
 筋力が弱い場合、そのような選択もある。

 ホールに立っている棒=ピンまでの距離が残っていない時は、ウッドではなくアイアンの出番だ。

 男性の場合、残り200ヤードを切ったら、アイアンで打つことが多い。
 人によって、ウッドが得意、アイアンが得意と得手がある。
 どこまでもウッドで打つ人、1打目=ティーショット以外はすべてアイアンという人、様々だ。

 アイアンを10本入れる場合、3456789の7本と、PW=ピッチングウェッジ(通称ピッチング)、SW=サンドウェッジ(通称サンド)、あとはPSなどと呼ばれるピッチングとサンドの中間を入れる。

 3~9番アイアンはウッドと同様、数字が大きくなるほど距離は落ちるが、ボールを捕らえやすい。
 また数字が大きくなるほど、ボールに対する面が地面と織りなす角度が大きくなる。

 目の前にバンカーや池があり、それを越えたところにボールを落としたい。
 そういう時は、数字の大きいアイアン、あるいは PW,SW を使う。

 距離に応じてどのクラブを使うかは、決めておく。
 5番アイアンは170ヤード、6番は150ヤード、7番は140ヤードという具合。
 これを決めておかないと、ラウンド中に毎回考えなければならない。
 ただでさえ、素人は頭が真っ白になるので、練習場で各クラブを打って、決めておくとよい。

 「7番アイアンって、いつ使うの?」
 最近、ゴルフを始めた友達にこう聞かれた。
 それが、この連載のきっかけになっている。

 ゴルフのど素人には、この「7番」の意味がわからない。
 人によっては、7番ホールで使うものと考えるかも知れないし、第7打で使うと考えるかも知れない。

「7番アイアンっていつ使うの?」は毎週水曜日に連載しています。

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2008年5月21日 (水)

ジャック・ニクラウスもボギーだった。

「7番アイアンっていつ使うの?」【 10 】

 「ご迷惑をおかけすると思います。今日一日、一生懸命走りますからよろしくお願いします」
 まず、初めにそう言えと、先輩からアドバイスを受けていた。

 いやいや、こちらこそよろしく。
 年の頃 57歳。
 小柄でにこやかなスズキ専務。
 偉い割には、腰が低くていい人そうだなと思ったが、まだその頃は、人の本性をみる洞察力が備わっていなかった。

 キャディさんにも挨拶する。
 「ど素人なので、一生懸命 走ります。よろしくお願いします」
 この習慣はゴルフをやめる日まで続いた。

 この挨拶をした時に、キャディさんの人柄がわかる。
 人は鬼ではないので、真摯な態度で接する人には好感を持つものだ。
 だが、真摯な態度にも心を鬼にする人は、少なからずいる。

 「はい、はい。いいんですよ。がんばりましょう」
 と笑顔で言ってくれるキャディさんだと、その日はずっと楽しい。

 「はあっ?下手だったら コース出るなよ」
 と顔に書いて、露骨にぶすっとするキャディさんだと、悲惨な気持ちになる。

 肝心なことは、キャディさんがどんな人であっても、自分が怒りんぼしないということだ。怒ってうまくいくスポーツはない。
 怒ってうまくいくこともあるのは、子育てと恋愛の駆け引きだけだ。
 ただ、いずれにせよ、怒りを駆け引きに使うのは、人後に落ちる。

 その日の第一ホールのことを、スタートホールと言う。
 スタートホールで打つ順番は、上手い順ではなく、くじで決める。
 ティーグラウンドの脇に「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と昔の占い師がやっていたような、金属の棒が4本立ててある。

 誰かがこの棒を手に握り、メンバーに 1本ずつ取るよう促す。
 この時の「誰か」は誰でもよい。一般的にはその組のお世話役、あるいは番頭格が棒を握る。
 ただ、ど素人の下手くそがいきなり、この役目を買って出ると、皆がびっくりする。

 棒を引く順番も特に決まっていない。近くにいた人から順に引く。
 3人が順番に1本ずつ棒を取る。
 棒の下のほうに溝が切ってある。
 溝が1本だと1番め。4本だと4番めに打つ。

 1人が1本引くごとに「はい3番ね」と確認して、棒はすぐ返してもらう。返してもらった棒を混ぜると3番が2人になってしまうので、混ぜてはいけない。

 最後に残った1本が自分の分。
 真っ先に自分が引いてはいけないという決まりはないが、そんなことをしたら、皆がびっくりする。

 複数の組で回るゴルフコンペの場合、第1組の1番めは、注目度が高くとても緊張する。ど素人にとって、是非とも避けたいところだが、だいたいそういう人に当たるようになっている。

 真夏の宮崎の太陽は過酷だった。
 この日のスコアは177 恐らくこれは名門フェニックスのコースレコードだろう。
 17番ショートホール par3 では、ゴルフを始めて以来初めてのボギー。
 ゴルフでは規定打数と同じ打数でそのホールを終えることを「パーをとる」という。
 1打多いボギーについては「ボギーをとる」とは言わず「ボギーを打つ」「ボギーを叩く」という。一流ゴルファーにとって、ボギーは劣悪な結果であり、そういう結果に終わることを「叩く」と表現する。

 かつて、ダンロップフェニックスオープンでジャック・ニクラウスがボギーを叩いた17番で、ニクラウスと並ぶボギーを取った。
 このネタをその後、10年語り続けたのは言うまでもない。

 18ホールを終えて、その日のゴルフを終えることを「ホールアウトする」「上がる」という。
 ホールアウトしてお風呂に入る。
 素人ゴルファーにとって、この風呂と、風呂上がりのビール以外に、楽しいことは何もない。

 「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
 初めはにこにこしていたスズキ専務だが、もうお風呂では口をきいてくれなくなっていた。

 だいたい、日焼け止めを塗った真っ白な顔が気持ち悪かった。\^^ オイオイ
 世の中はまだ、オゾン層も紫外線も話題になる前。
 ただ単に、日焼けして「仕事をしていない」と言われるのを嫌ったのだろう。

 ゴルファーを見分けるポイントは、右手と左手の色。
 左手だけにグローブをはめるので、右手に比べて左手が白い。
 スナックでもてるために、営業車を走らせる時、いつも左手に軍手をはめている人がいたくらいだ。

 頼まれたからコンペに出たのに、2万円以上払ったうえに、怒られたのでは割に合わない。
 だが、ぺーぺーの身ではそんなことはおくびにも出せない。
 この日を境に、さらにいっそう、ゴルフが嫌いになった。



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2008年5月14日 (水)

メンバー制とパブリック

「7番アイアンっていつ使うの?」【 9 】

 ある時、業界の年次総会が宮崎で行われることになった。
 ホテルはフェニックスリゾート。
 まだ、シーガイアはなかった頃。

 ホテルの窓からは、波高く遊泳禁止の太平洋が眼下に広がる。
 海の手前には防風林が広がり、そこにフェニックスゴルフコースがある。
 秋にはダンロップオープンが開かれる名門コースだ。

 総会の翌日はゴルフコンペと聞いていた。
 もちろん、出るつもりはない。
 業界のお歴々と地元の名士がこぞって出場するコンペ、しかも名門コース。
 もし出たいと言ったところで、向こうからお断りが出るだろう。

 ところが、総会を1週間前に控えた時、地元の会長から、上司に電話がはいる。
 「キャンセルが相次いで、困っている。組数は減らせないので、最低あと一人出してくれ」

 ゴルフコースにはメンバー制とパブリックがある。
 メンバー制は、そのコースのゴルフ会員権を持っているメンバー本人と同伴者、または、メンバーの紹介者だけがプレーできる。
 パブリックは誰でもプレーできる。

 ゴルファーのほとんどは会員権を持っていないので、パブリックに集中する。ゆえにパブリックの予約はなかなか取れない。

 メンバー制のコースも、名門になればなるほど、プレー資格が厳しく、メンバーの同伴がないとプレーさせない。

 ゆえに、名門コースで組数の多いゴルフコンペを開催するには、大きな責任が伴う。
 いったん押さえた組数を「やっぱり、参加者減ったから」と言って、減らすことは、後の信頼関係にヒビが入る。

 幹事は必死。まさに「溺れる者は藁をもつかむ」状態。
 「会長がそう言っている。仕方がない・・お前出ろ」
 あっさり、藁はつかまれてしまった。

 ゴルフは1組4人でコースを回る。
 5人以上で回ることはない。
 3人以下で回ることはある。
 ただし、複数組で回るゴルフコンペの場合、2人で回ることはない。

 あるゴルフコンペの参加者が12人で、3組の枠を押さえていたとしよう。
 各組の人数は 4-4-4
 そこに2人のキャンセルが出た。
 その場合、4-4-2 とはせず、4-3-3 で組む。
 3人のキャンセルが出たら、3-3-3
 ただし、4人キャンセルが出たら、もう3組は維持できない。
 1組の枠をキャンセルして、4-4の2組にするのだ。

 年次総会は、ほとんどの組を3人にしても、さらに人が足りなかった。
 他の会社からも同様の理由で藁が集められた。
 たださすがに、200を切れるかどうかという藁は他にいない。

 せめて、組合せは配慮してくれと会長に頼み、仲よしの青年部会のサトウさんと同じ組にしてもらった。
 だが、そこはお歴々の年次総会。あと一人は業界最大手企業のスズキ専務がはいった。

 あとは、初対面のスズキ専務なる人が、温厚な人であることを祈るだけだ。


「7番アイアンっていつ使うの?」もくじ



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2008年5月 7日 (水)

買い戻されたビンテージクラブ

「7番アイアンっていつ使うの?」【 8 】

「これってどうやって打つんですか?」

目の前には、ゴルフセットが置かれている。
年季のはいったバッグに、年季のはいったクラブ。ウッドはパーシモンだ。
などというのは後に思うことで、その時は生まれて初めてみるゴルフクラブに戸惑っている。

どっちに向かって打つかくらいは素人にもわかる。
前後の林や、今出てきたばかりのクラブハウスにボールを打ち込む競技でないことは察しがつく。

だが、クラブを構えて見ても納得がいかない。
こんな凸凹の面でボールがまっすぐ飛ぶのだろうか?
反対側の平らな方で打った方が、いいのではないか?

渋々、一度素振りをする。
そこで、周囲が騒然とした。

「おまえ、左利きなのか?」

そうですよ。僕は生まれながらの左利きですよ。
お箸と鉛筆は下関のおばあちゃんが厳しく母親に言ったから、直しましたけどね。
と言っている場合ではない。
ソフトボールのバットはいつも、左から右に振っているし、棒状のものを右から左に向けて振ったことは一度もない。

なんだよ、左利きなら、そう言えよ
という先輩に、ゴルフだったらゴルフだと、前日に言えよ
というツッコミは心に仕舞う。

四の五の言っても始まらない。
ゴルフ場の貸し靴でティーグラウンドに踏ん張り、生まれて初めて棒を右から左へ振った。

すると、芯を食った(=真芯をとらえた)ボールは、風を切る音を残して、300ヤード彼方で弾んだ。
わけがなく、ぽくっ という鈍い音を残して、5m先に転がった。
皆が笑い転げている。
今思えば、なぜボールに当たったのかが、わからない。

ゴルフ場での記憶はここまで。
つづきの記憶映像の中の自分は、その数時間後、ハーフで上がって(=1ラウンド18ホールではなく、9ホールでやめて)山口駅のホームで、九州へ帰る電車を待っていた。

先輩が用立ててくれたゴルフクラブは、おじいちゃんからのお下がりだという。
お前にやると言われたが、いい大人がタダでもらうのはかっこがつかないので、1本あたり千円×14。キャディバッグ(ゴルフクラブを入れるバッグ。キャディさんが持って回るのでこう呼ぶ)千円。合わせて15,000円で買い取った。

しかし、数ヶ月後、ビンテージで値がつくクラブだということがわかったらしく、5千円プレミアをつけて、2万円で再び、先輩の元へと帰って行った。

 その後、4年間、ゴルフはどうしても断り切れないコンペ以外では、一切しなかった。

「7番アイアンっていつ使うの?」もくじ

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2008年4月30日 (水)

動きやすい格好とは?

「7番アイアンっていつ使うの?」【 7 】

 林由郎は、レッスンプロの元祖とも言える人。

 これまで実際の指導を受けたレッスンプロには、
「今のスライスボールは右の足の裏が見えるくらい、早く足を返しただろう?それが原因だよ。次は右足をべたに付けたままで打ってみて」
 というような指導をしてくれた人はいない。

 手足をこう使えば、ボールはこのように飛んでいくと言うことは、プロならば体で覚えているのだが、それを鏡のように他人に投影して話せる人は少ない。
 林由郎のビデオはそこがわかりやすい。

 林ビデオで自学自習していた頃は、自宅でVHSのビデオを見ては、ポイントをメモ帳に控える。
 それを持って練習場に行き、実際に打ってみる。という繰返しだった。
 今ならば、DVDドライブ付きの小型ノートパソコンが出ているので、練習場でDVDを見ながら、その場で打つことができそうだ。
 技術の進歩はこういうところでも、人の暮らしを楽しくさせている。

 林ビデオは基本的なフォーム云々よりも、ここをこう治せば、いきなりスコアアップという実践的なヒントが中心だ。

 素人にとって、とても多い局面は前足上がり。
 つまり、スライスで打ち込んだ土手の枯れ芝に埋まったボールを外に出す作業だ。
 普通のフォーム、普通の足位置では大きく左にひっかけてしまう。

 左足下がりの場面も多い。
 これはまずボールの芯に当たらない。当たっても大きくスライスしてしまう。

 こうした難局が、林ビデオを見たことで、いとも簡単に打てるようになった。
 特に左足下がりなどは、フラットよりもうまいのではないかと思うほどだった。
 僕が難しいライ(ボールが置かれた状態)から、みごとなショットを繰り出すと、皆が
「ナイスショット」
「今のは、うまく打ったね」
と褒めてくれた。
今のは・・ではなく、いつでもあれくらいは打てるのだと言いたかったが、100も切れない素人が言うことではないと飲み込んだ。

 それまで110さえ切れなかった時、林ビデオと教え方のうまいレッスンプロのおじちゃんに出会い、2度3度と100を切ることができたのだった。
 この時、初ラウンドから 6年が過ぎていた。

 その初ラウンドは山口県のゴルフ場だった。
 翌日は山口で会議という日、先輩が来てこう言った。
「動きやすい格好してこいよ。襟がついたポロシャツがいいな」

 動きやすい格好ですか?
 会議に行くのに、おかしなことを言うものだ。
 当時はまだ、営業にノーネクタイという風潮はない。
 社内の会議なので、リラックスした服装で臨むということだろうか。
 学生の頃、FUTATAで買った一枚きりのポロシャツを旅行バッグに詰めて、山口にやってきた。
 会議は2日間と聞いていた。でもなぜ、仕事なのに休みの土曜日に会議をやるのかはわからない。それほど、厳しい情勢とも思えなかった。

 そして、山口に来て2日めの日、生まれて初めてゴルフクラブを握ることになる。
 そこは、ゴルフ場の1番ホールティーグラウンドだった。

「7番アイアンって、いつ使うの?」は毎週水曜日連載です。



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2008年4月23日 (水)

ゴルフのアイデア集とヒント集

「7番アイアンっていつ使うの?」【 6 】

 ゴルフ上達方法最後の一つは「3,自学自習」
 飛んでいった球筋をみて、フォームのどこが悪かったのかがわからなければ、スコアは伸びない。

 球がスライス(極端に右に曲がっていく)する時は、腕が球の外側から入っている、右膝の送りが早い。
 球がフック(極端に左に曲がっていく)する時は、フェースがかぶっている。
 といった理屈を知っておくとよい。

 その理屈がわかっていても、コース場でフォームを変えるのは至難の業。
 理屈がわかっていないと、さらに悲惨なことになる。

 よく、目標よりも大きく左に向かって打っている人がいる。
 「右に曲がるから、左に打たないと」
 というわけだが、そういう時に限って、球は素直にまっすぐ飛んで、左の林をとらえるもの。

 そんな、みっともないゴルフをしていては、見た目が貧しいし、自分が楽しくない。

 自学自習のポイントは、こうしたフォームだけではない。
 大切なことは、状況に応じたテクニックをたくさん覚えることだ。

 そして、これはとても楽しい。
 なぜならば、他人が何度やっても上手く打てないような難所でも、そのケースでの打ち方を知っていれば十中八九、うまく打てるのである。

 それは、見ている人にはわからない。
 ゴルフ場では、他人のテクニックを「見て盗もう」なんていう殊勝な人はいない。
 わぁ、上手い上手い、ナイスショット!
 たまたま上手く打てたんだな。で終わりである。

 なかなかゴルフ場で人に教える機会はない。
 ゴルファーは、教えられることを嫌うからである。
 ただでさえ、てんぱっているのに、本番の最中におかしな理論をレクチャーされてはたまらないと、皆が思っている。
 だが、こうしたテクニックは習ってすぐ効果が出る。
 それは、練習を重ねてようやく身につくものではなく「アイデア集」「ヒント集」のようなものだからだ。

 こうした「アイデア集」の塊のようなレッスンプロが教えてくれるレッスンラウンド(=習いながら、本番のコースでプレーする)があれば、それこそが最高の上達方法だ。
 ただし、テレビのように何度も同じ場所で打ち直すことはできない。
 もし、お気に入りのレッスンプロが見つかったら、レッスンラウンドをやっていないかを聞くとよい。費用は割高だが、その費用対効果はとても高い。何より、そのラウンドはとても楽しい。

 では、優秀なレッスンプロに巡り会っていない人は、どうやってアイデア集を学ぶのか。
 それは「林 由郎(はやし よしろう)」である。
 はやし よしろう と言っても、山口県の元・衆議院議員ではない(そちらは林 義郎)

 1922年(大正11年)生まれ
 キャディからプロゴルファーとなり、競技者として峠を越えてからは、青木功、ジャンボ尾崎、福島晃子らを指導。
 日本プロゴルフ協会の役員を務めたためか、webで林由郎を検索するとやたらと「日本ゴルフ界の重鎮」という言葉に出くわす。
 林由郎のレッスン風景を映像で見た人ならば、重鎮という言葉がいかに彼に馴染まないかがわかるだろう。



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2008年4月16日 (水)

教え方がうまいゴルフレッスンプロ

「7番アイアンっていつ使うの?」【 5 】

 ゴルフ練習場に所属するレッスンプロの経歴は2通り。

1,トーナメントプロ崩れ
2,ゴルフが上手な人

 ゴルフ練習場を経営しながら、自分が教えているという人は1,2の両方にいる。
 ただし、狭い練習場は勧められない。
 雑居ビルの1階にゴルフショップがあり、その一角にネットを張った練習場を設けている所がある。
 打席から的までは5mほど。
 こういう所では、いろいろなケースに応じた打ち方を習えない。

 自分に合ったフォームを固めるまでならば、こういう狭い練習場もよいのだが、やがていろいろな打ち方を練習する段階にきた時、先生を連れて行くわけにはいかない。
 また、そこで新たな先生と、一から関係を築かなければならない。

 それに、狭い場所では気分が憂鬱になり勝ちだ。
 びしびしと芯に当たればよいが、そうでない時、狭い部屋で汗をかいていると、とても気分が沈む。

 それでは、どんなレッスンプロにつけば、上手くなるかを解説しよう。
 それは「教え方の上手いプロ」につくことだ。

 では、教え方が上手いとはどんなことかというと、次の4つになる。

・ど素人にわかりやすい言葉を、たくさん知っている
・スモールステップで改善、矯正する方法、そのアイデアの引き出しが多い
・愛想がいい
・褒めて育ててくれる

 「そこで、ぎゅっといけ」とか「ぱっとはたけ」と長嶋監督みたいなことを言われても、素人にはできない。
 ボールの頭を叩いている(=トップする)のに「芯でとらえろ」と口で言われてもムリだ。

 あちゃ~、おまえ、ゴルフやめたほうがいいよ
と顔に書いてあると萎縮して、ますます体は動いてくれない。

 口数が少ない玄人風の人は、何を考えているかわからない。
 怒っているんじゃないだろうか?と心配しているうちに、レッスン時間が終わってしまう。

 しかし、ほんの些細なことでも褒めてくれると嬉しい。
 「右足がよく残っているね」
 「今のは球に力があったね」
 そして、何より大きな声で「ないしょっ( nice shot! )と言ってくれると嬉しい。

 たいした当たりでもないのに、ないしょっと言われると、ついハニカミおじさん(おばさん)になってしまうが、心の中には明日が見えてくる。

 トーナメント崩れの豪打者には、この知恵がない。
 一流選手、必ずしも、一流指導者とはなり得ずである。

 ゴルフスクールでは、一度ついた先生は替えてもらえない。
 だが、レッスンプロの場合、気に入らなければ、次から指名しなければよい。
 その練習場に一人しかプロがいない場合は、練習場を変えればよい。

 人数でいうと5人のプロに習ったが、教え方がうまいプロは 1人だった。
 確率で言うと20%。
 地方都市では次から次に練習場を変えるほど、練習場がないが、政令市であれば、お気に入りの1人を見つけることはできる。

 ゴルフ人生の中で、初めて100を切ったのは、この先生と出会って半年の時だった。
 明るく、優しい。
 色が黒いという以外は、どこにでもいる風情のおじさんが、最高の師匠だった。
 もう十数年会っていないが、今もその笑顔をはっきりと思い出せる。



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2008年4月 9日 (水)

ゴルフ上達3つの方法

「7番アイアンっていつ使うの?」【 4 】

 ゴルフ上達の方法は3つある。

1,ゴルフスクール
2,個別レッスン
3,自学自習

 まだ一度もゴルフクラブを握ったことがないというあなたは、
1→2→3 と進むとよい。

 ある程度ボールが前に飛ぶようになった人ならば、
2→3 と進むとよい。

 長くゴルフはしているが、100を切ったことがないという人は3しかない。

1,ゴルフスクール
 一斉指導である。
 指導要領の定めにより、小学校は40人に一人先生がつく。
 ゴルフスクール運営法はないので、決まりはないが、およそ10人に一人先生(レッスンプロ)がつく。

 一度に教えられるのは一人なので、常に9人は自習になる。
 先生が巡回してきて、アドバイスを送る。
 そのアドバイスを元に、ひたすら球を打つ。

 ゴルフスクールはおおむね、打ちっ放し(練習場)で開設されているので、生徒が勤勉に球を打てば打つほど、スクールは儲かる。

 「ちょっと貸して」
 時折、先生が自分のクラブを握って、自分の打席で球を打ち模範を見せる。
 この時「たくさん打たないでね。もったいないから」と思う生徒はいない。
 先生が自分だけに見せてくれる華麗なスイングをうっとり見つめる。

 しかし、先生が他の生徒に行ってしまうと、また自習が始まる。
 打っても、打ってもボールが芯に当たらない時は、学習塾で算数の問題が解けない落ちこぼれの気分になる。
 先生にも放っておいて欲しいと思う。

 うまくなりたくて、ゴルフスクールに来ているのに、惨めな思いをして、早く帰りたいと思う。
 これでは、本末転倒だ。

 一度もコースに出た(=ゴルフ場でプレーした)ことがない人が、クラブの振り方を学ぶのならば、ゴルフスクールもよいが、そうではない場合、ゴルフスクールは勧められない。

 学習塾がそうであるように、一斉指導よりも個別指導のほうが、成績はよくなるのだ。

2,個別レッスン
 レッスンプロによる、1対1の個別指導である。

 レッスンプロは街でナンパするのではない。
 レッスンプロは、打ちっ放し(練習場)にいる。
 そう。ゴルフスクールと同じ先生なのだ。

 違うのは10人を教える先生を、あなた1人で独占できること。
 当然、高い。
 時間は15分、20分程度と決まっている。
 値段はそれで、2,000円~3,000円程度。

 受付で「佐藤先生のレッスンお願いします」と頼むと、佐藤先生が手の空いた時に、ふらっとやってくる。
 時には「昼飯 食うヒマもなくて」と、もぐもぐ口を動かしながら来る。

 マンツーマンなので、個別レッスンがいいに決まっている!
 かというと、実はそうではない。



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2008年4月 2日 (水)

ウォーキングとゴルフの関係

「7番アイアンっていつ使うの?」【 3 】

 練習場は寒々としたひなびた所もあれば、瀟洒なものもある。
 ひなびた練習場では、ボールの下に敷いたマットが固いことがあり、肩を壊しそうになる。

 瀟洒な練習場は、全自動でボールが上がってくるのはもちろん、ロビーもゴルフ場のように豪華で、受付のお姉さんがブレザーを着ている。
 日曜日の夕方などはとても混んでいて30分、1時間待ちということも珍しくない。
 そんな時、ゆったりとしたソファに座り、雑誌を読んで、コーヒーを飲めば、少しは気も紛れる。
 練習場を舞台にしたコミュニティが生まれるかも知れない。
 ・・というところを狙っているのだろう。

 だがここでの1時間待ちは、ボウリング場の1時間待ちとは訳が違う。
 ここは練習場なのだ。
 本番のための練習に、1時間待つなんてどうかしている。
 ボウリング場でいえば、練習ボール専用レーン(実在しない)に1時間待つようなものだ。
 そんな時間を費やして平気な人は、日頃、他人のペースで時間を使われて働いており、待たされることに疑問を持たなくなっているのだろう。

 待っている間は、受付から声が届くところで「順番をお待ちの佐藤 様ぁ~」という声を聞き逃さないよう、緊張を絶やせない。
 お休みの日に、練習を待つために緊張するという修行は、本当にその人が求めているものだろうか。

 愛知県のある練習場では、時間待ちの客に 専用のポケベルを持たせるところがあった。
 これがあれば、喫茶コーナー、打席で先に打っている友達のところ、何処にいてもよい。自家用車にこもって本を読むこともできる。

 練習場で1時間待つならば、そこらを1時間走るか、ウォーキングしたほうが、よほどゴルフのスコアは上がる。
 ジョギングもウォーキングもしたことがないゴルファーは一度、やったうえでラウンド(ゴルフ場でプレーすること)してみると、2ホールめに向かう時に、その違いがわかる。
 大地を踏みしめる感触がいつもと違う。

 「自分は下半身ができている」
 この実感は、その日のゴルフを支える自信になる。

 クラブ(ボールを打つ道具)を使い、技術向上に直接つながる練習はするけれど、体力を上げるトレーニングをしたり、食事に気を使ったり、酒を控えたりする人がほとんどいないのも、このスポーツの特色だ。

 ゴルフ場では 飲酒しながらプレーする人がいることが表しているように、他の娯楽スポーツと比べて、ゴルフ人口には、横着な人が占める比率が高いと言うことだろう。

 横着と言われると、何を言う。そんなことはないと言う人が大半なので、ここに横着かどうかを判断する基準を示したい。
 それは、ゴルフ場で地面に唾を吐いているかどうか。
 めくれた芝をクラブで押さえたり、ディボットを直す傍ら、その地面に唾を吐く人は、ただ外見を取り繕い、紳士を気取っているだけだ。

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2008年3月27日 (木)

開幕!やり直しの利くスポーツ

 2008年8月17日(日)に開かれた夏期五輪 女子マラソンは、25度を超える猛暑。30kmを過ぎて、早くも優勝は3人に絞られた。

 野口みずき(前回五輪優勝)
 クラウディア・ドレハー(東京マラソン2008優勝)
 ポーラ・ラドクリフ(世界記録保持者)

 33kmで一旦野口が前に出るが、すぐにラドクリフ、ドレハーが着く。
 39kmでは今度はドレハーがスパート。ラドクリフはここで離れるが、野口は追走。
 二人のデッドヒートは競技場までもつれ込み、ラスト200mで再加速したドレハーが優勝、野口は2位。10秒遅れでラドクリフが3位に入った。

 ここで、館内に放送が流れる。

「60分後に上位3選手によるポストレースを行います。距離は5km地点折り返しの10kmです。本戦を1位通過したドレハー選手には3分のアドバンテージが与えられます」

 そう。今回から導入されたポストレースの始まりだ。
 本戦で1位でも世界一は確定しない。
 ただし、1位の選手が本戦の優勝者という記録は残る。
 議論の末、ポストレースでは 1位の選手だけにアドバンテージが与えられた。

 そして迎えたポストレース。
 まず、号砲と共にドレハーがスタート。
 3分経過の合図で、野口とラドクリフが追走にはいる。
 一児の母となって以来、驚異的な速さが影を潜めたラドクリフは、5km手前で野口に後れを取る。

 野口はポストレースを見込んで、タッチアンドゴー、つまり長距離を走った後の高速短距離走対策に時間を費やしていた。
 長距離では粘りをみせるドレハーだが、この距離ではなかなかエンジンがかからない。1位で月桂冠をかぶせてもらった時点で緊張が途切れたのかも知れない。

 それはそうだろう。
 本来ならば、今頃月桂冠ではなく、金メダルを胸に国歌を聴いている頃だ。なんでまた、こうして走らなければならないのか。
 事前にわかっていたことだが、実際にその立場に自分が立つと、腑に落ちない腹立たしさで目の前のことに集中できない。

 野口は60分の間に気持ちを切り替えていた。
 四の五の言うのは、すべてが終わってから。
 とりあえず、今できることをやろう。

 そうした二人の気持ちの違いは、明らかに走りに現れた。
 8kmで野口に並ばれたドレハーは、野口の背中を追うこともなくジョギングに切り替えた。
 ラドクリフは 7kmでレースをやめていた。
 ドレハーはチームスタッフから、ラドクリフのDNFをきくと、カタチだけの 銀メダル確定ゴールを目指す。

 競技場に一人で入ってきた野口。
 だが、そこには大歓声はない。
 ゴールテープを切った野口は、五輪に敬意を表してお座なりな笑顔を見せた。
 表彰台に立ち、二大会連続の金メダルを胸に「君が代」を聴く。

 お盆明けの日曜日。
 この日を指折り数えて待っていた日本人の多くは、野口が本戦で2位だった時点で、ハードディスクレコーダーの録画ボタンを押して、街へでかけていた。

 野口がメディアの代表インタビューを受ける。
「結果として金メダルを手にできて嬉しいです。できることを精一杯やることができ、心身両面で支えていただいた監督、チームスタッフの皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです」

 笑顔ひとつ見せず、かと言って、誰かに対して申し訳ないといった、面倒な感情にはこの際触れず、奥歯に物がはさまった会見を終えた。

 現地から日本のスタジオに映像が切り替わった。
 「やりました、二大会連続金メダル!」
 キャスターは、弾けんばかりの笑顔で叫び、スタジオ中に拍手がわき起こった。
 だが、録画で見ていた視聴者は、ここで停止ボタンを押した。

 これは、架空のストーリーである。
 実際の五輪マラソンは、本戦の一発勝負。
 スポーツとはそういうものだ。

 だが、実話としてこれを地でいくスポーツが今年も始まっている。
 しかもそれは、お客様からお金をとって見せるプロスポーツだと言うから、びっくらこいてしまう。
 やり直して「あなたが日本一」と言われて、心から嬉しい人がいったいどこにいるのか。

 そこに集う選手の皆さんも、自由移籍権利取得年数の短縮などと呑気なテーマで戦っていないで、就業定員が先細りになる前に、その変てこルールを何とかしてくれと戦った方がよいと思う。



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2008年3月26日 (水)

ゴルフは紳士のスポーツ?

「7番アイアンっていつ使うの?」【 2 】

ゴルフには「打ちっ放し」という練習場がある。

野球にはバッティングセンターがある。
テニスにはオートテニスが・・あった。
でも、それくらいだ。
これだけ練習産業が全国 津々浦々で営業しているのはゴルフだけだ。

地方都市の打ちっ放しは広い。
ネットまでの距離が300ヤードを超えることも珍しくない。
そういう打ちっ放しでは、ゴルファーは必死になってドライバーを振り回している。

打ちっ放し練習場の周囲には、ボールが外に飛び出さないようネットが張り巡らされている。地方の広い練習場では、天の部分にネットがなく、プロ崩れの強打者がネット越えを楽しんでいる。

ネットには300、200 というように 距離がヤード表示されている。300の表示にボールが突き刺されば 「やった300ヤードだ!」と思うところだが、一階席で打った場合と、二階席で打った場合では、おなじ300でもその意味は違ってくるので当てにはならない。

練習場は打席数を稼ぐために 2階、3階をつくる。ただ2階以上では距離感がおかしくなるので、1階で練習するのが望ましい。現実のゴルフ場では、2階や3階から打つことはないからだ。(希にスタートホールのティーグラウンドが2階にあるゴルフ場がある)

ドライバーというのは運転手のことではなく、一番ウッドのことだ。
競技では、ゴルフバッグに入れられるゴルフクラブは14本までと決まっている。グリーンで球を転がしてホールに入れるパターも含めて14本。

ゴルフボールを引っぱたくクラブは13本。
どんな種類のクラブを何本入れるかは自由。
7番アイアンを13本入れてもよい。

一般的にはウッド3本、アイアン10本を入れる。
ウッドとはヘッドがもっこりしていてボールを遠くまで飛ばすクラブ。昔はヒッコリーなど材質が木だったのでウッドという。現代においてはほとんどメタル=つまり金属。

1980年代にセイコーがS-YARDという1本8万円もするチタンヘッドのドライバーを大流行させて以来、チタンを使ったウッドが普及した。
チタンは軽くて反発力が強い。カーボンも反発力は強いのだがコストが高い。
軽いと言うことは同じ重さで容積を大きくできる。
いわゆるデカヘッド。

バットでボールを打つのと、ラケットで打つのではどちらが当たる確率が高いかということだ。
素人はデカイほど嬉しい。見下ろしたヘッドがデカイと、いかにも当たりそうで安心感がある。
素人にとっては、まず当たるか当たらないかが勝負だ。

ちなみにゴルフでは空振りも1打にかぞえる。
プロの試合で空振りというのはないので、見るだけの人にはわからないが、素人ゴルフでは日常茶飯事。
ゴルフ場でもしょっちゅうやる。

空振りすると
「今の素振り?素振り?」
とツッコミが入る。
ツッコミがはいれば、いやぁやっちゃったよ。と空振りを認めて1打として申告しやすい。
だが、周囲が見てはいけなかったものを見てしまった・・と凍り付いた時、いかにも素振りでしたという素振り(そぶり)をする人がいる。

これをやった人は、3年くらい人間見られる。
人間性の挽回は容易ではない。

ゴルフは紳士のスポーツと言われるからだ。
紳士はウソつかないということだ。
だが、最近の紳士はそこのところが怪しいので、ゴルフはインディアンのスポーツと言った方がいいかも知れない。

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2008年3月19日 (水)

7番アイアンっていつ使うの?【 1 】

 【 ゴルフ 】
 ティーグラウンドから、ホールまでの打数が少ないことを競うスポーツ。
 1日でアウト、イン9ホールずつ合計18ホール=1ラウンドを回る。
 ゴルフに没頭して、周囲がみえなくなっている時には1日で27ホールを回ることもある。

 打数基準のことをパーと言う。
 ゴルフ場は18ホール合計パー72で設計される。
 なかには例外があり、パー70、パー73というひねくれたコースもある。

 プロの試合は男子4日間、女子3日間の合計スコアが最少の選手が優勝。
 オフシーズンは12月~ 1月のわずかな間で、ほとんど年中プロの試合が行われている。
 すべてのプロが戦うレギュラー・ツアーとは別に、50歳以上のプロだけが参加できるシニア・ツアーが催される。

 よほどの運動能力のある人でない限り1ラウンド 100を切るスコアを出すには、かなりの練習と実戦を積まなければならない。
 90を切るとそれを維持することに主眼が移り、80を切ってそれを維持するためには、完全にゴルフ中心の生活をしなければならない。

 ゴルフの先輩が教えてくれた格言がある。

「90を切ると友達をなくす、
 80を切ると家族をなくす、
 70を切ると皆戻ってくる」

 最近は勝てなくなったある男子ツアープロの父親が言っていた。
「あいつが子供の頃、サンドウェッジを替えた時は、同じものを15本買った。練習で削れてバランスが変わるから、試合ように新品をとっておくんだ」
 それくらい投資したのだと言いたかったのだろうが、確かツアーで2、3勝したきり、名前を聞かない。

 ゴルフとマラソン、この2つのスポーツには共通点がある。
 それは、歳を取ってからでも始められ、歳をとってもやめなくてよいということ。
 そして、心の安定が問われる。心と体のバランスにおいて、心の占める比率が高いことだ。

 プロ競技の場合、飛距離が落ちるとレギュラー・ツアーでは勝てなくなるが、素人競技ではそこまでシビアな戦いはない。

 打ちっ放しの練習場は、左右の足が平坦になるように設計されている。
 だが、本番のゴルフ・コースを完全に平坦にすることはできない。
 日本において平地は工業と商業の地域であり、そんなところにゴルフ場を作るには莫大な土地代が必要だし、そもそも工事の認可が下りない。

 ゴルフでは、第一打を打つティーグラウンドを除いては、完全に平坦な場所で打つことは滅多にない。
 左足下がり、左足下がり、前足上がり、前足下がり、この組合せはほぼ無限。
 よいスコアを出すには、ゴルフ・コースでプレーした経験の量が問われる。

 ゴルフでは、経験が長い方がスコアがよい。
 体力の衰えを経験がカバーできる。
 年齢と同じスコアでラウンドすることをエイジシュートと言い、72歳を超えた人でこれをライフワークにしている人が散見される。

 エージシュートに興味はないが、もし達成しようと思ったら130歳くらいまで生きなければならない。いや、その頃はさすがに体がへたっているだろうから、200歳くらいか。

7番アイアンっていつ使うの? は、しばらく毎週水曜に連載する予定です。



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2008年3月 6日 (木)

育成選手

 育成を目的としたプロ野球の契約制度。

 2005年11月時点では「準支配下選手」という仮称がついていたが、正式に育成選手と呼ぶことになった。

 プロ野球の支配下登録選手枠は1球団あたり70人までだが、それとは別枠で選手契約ができる。
 経済的にゆとりがある、あるいは低い投資金額で生え抜きの選手を育てたいという球団はこの制度を活用している。
 育成選手は100番以上の背番号を着ける。

対象となる選手
 育成ドラフト(二次ドラフト)指名選手
 プロ野球を自由契約になった選手

最低年俸保証:240万円(支配下選手は440万円)
ファームの試合出場は可能(1球団5人まで同時出場できる)
一軍の試合には出場できない


 2005年
 10月21日、プロ野球実行委員会で承認された。
 巨人はこの制度を使い、一旦2005年オフに解雇したばかりの平岡政樹、横川雄介と再契約した。
12月1日、育成ドラフト開催

 2007年
 中村紀洋は2006年オフにトレードを直訴してオリックスを自由契約から自由契約を勝ち取った。しかし各球団は獲得に二の足を踏む。日本球界には、ある球団と契約でごたついたり、社会的な問題となった選手には球界をあげて声をかけないという空気がある。ただ1球団を除いては。

 中村は春季キャンプ途中に中日が育成選手として契約。207の背番号を与える。
 その時点で充分に想像できたことだが、開幕前には支配下選手登録され、結果的には年間を通してレギュラーとして主軸を打った。
 中日が育成選手として契約したことで、中村に手厳しく接しているというイメージが生まれた。春先にはその契約を訝しむ報道は見られなかった。

 このことは、別に契約違反でもなんでもない。
 中日球団は育成選手制度の精神に則って検討し、実力に大きな疑問符がついたから育成選手として契約したのだろう。
 初めからクリーンアップを打たせるつもりならば、育成選手としてではなく支配下選手として契約するものだということはプロ野球に身を置く者ならば誰にだってわかる。
 ところが、中村を実際にプレーさせてみたら、思いの外実力はさび付いておらず、慌てて支配下契約に踏み切った。そう考えるのが自然である。

 5月9日
 巨人の山口投手が、育成選手からプロ契約した投手として勝利。

 2008年
 巨人 隠善智也がオープン戦で一軍に帯同して好成績を収めており、開幕までに支配下登録される見通しとなっている。


 育成選手で契約したところが瓢箪から駒、あっと驚く大選手が誕生した。
 育成選手の生い立ちには、そんなドラマが待たれていたはずだ。
 2007年、晴れてその育成選手からクリーンアップを打ち「日本一」に貢献するというストーリーが生まれた。
 それなのに、晴れがましくそれを語り合うファンはいない。

 「育成選手」の価値をねじ曲げてしまった人たちについては、これからも大きな声で語られることはないだろう。

 そういう白黒のつかない責任は有耶無耶にしなければならない。
 また、次の世代の教材が一つ生まれた。





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2008年1月22日 (火)

日本の弓道(二〇)

 森の声が戻ってきた。
 森にあるジョニー・デップ小屋には、小鳥が住んでいて、その歌声は今も変わらず、地上の周波と同期していた。

 止まっていた音が動き出す。
 僕はただ、か弱い少女のような気持ちになって、裁定を待っている。

 恐れていたうめき、叫び、怒号
 なにも耳に届かない。

 空から矢が降ってきたというのに、この世界は何事もなかったかのように、さっきまでと同じ時を刻んでいる。

 その時、森の小屋に向かい、獣道を下ってくる足早な音を聞いた。
 最悪ではないが、悪い知らせには違いない。

 被害者の葬儀
 被害者の補償
 警察の取り調べ
 職員室の呼び出し

 だんだんと自らの罰則を軽くしていく。
 軽いとはいえ、職員会議の議題にはなるだろう。
 公務員を父に持つ家に生まれた僕としては、この罪は大きい。
 公務員はバイクを電柱にぶつけただけでも、進退伺いを出さなければならないと、かつて父から聞いたことがあった。

 「路頭に迷う家族」
 一家の主ではなく、養われし者が発端となる貧しい暮らし。
 立ちつくす父の姿をみた。

 足音の主は小屋の引き戸を開けるのではなく、小屋の横をすり抜けて矢道へと現れた。
 小屋の構造をよく知る者のルートだ。

 シルバーのジュラルミンを左手に持った、上下ジャージ姿のスズキだった。

「なんしよっと~ びっくしたぁ。
 歩きよったら、急に矢の落ちて来るっちゃもん」

 課外クラブはサッカー部に入っているスズキが、教室へ戻ろうとしたところ、5m前方に矢が落ちてきた。
 彼は瞬時にすべてを理解し、駆け寄って矢を拾うと辺りをきょろきょろと見回した。
 陸上部は、トラックを4分の1周過ぎた所にいて、背を向けて走っていた。

 彼はサッカー部で居残って、リフティングで遊んだ後、一人で歩いていた。
 幸い、その矢に気づいた者は一人もいなかった。

 オイゲン・ヘリゲルは長く技巧としての弓道から脱することができずにいた。
 的に中てるには、中てようとしなければ中らない。
 そう言い張った。

 そんな、ある日のこと。
 阿波研造師範はヘリゲルを自宅の道場に招く。

 阿波研造は真っ暗闇の中、射場に立つと、
 甲矢を的の中心に。続く乙矢を甲矢の筈に中てて見せた。

 この奇跡的な事実に接したヘリゲルは、師の言葉を盲信することに答えがあったことを見いだす。
 その後は、理屈を唱えず、一心不乱に稽古を積み、やがて阿波研造師範から、師範として認められた。
 免許皆伝だ。

 中てようとするうちは中らない
 人は誰も志半ばにして、師のことばを疑う

 師のことば
 あるいは自らを師とするならば、みずからの信念
 それを盲信する
 疑わない

 そうすれば軸がぶれることはない

 「だまされたと思って・・・」
という助言のしかたがあるが、人はなかなか騙されると思っていては、行動に移せない。

 信じるものに従う
 その暗示を自らにかける者が道を開く

 ただ、誤った道を選ばないようにする。
 そのために必要なものが、幾多の経験である。
 経験なくして、直感も判断もない。

 2007年の夏、ジョニー・デップの小屋はまだそこにあった。
 安土は痩せて崩れ落ちていたが、ヤブ蚊が多いのは変わらない。
 野球部が着替えに使っているのか、ユニフォームやソックスが散乱していた。
 100m離れた場所には立派な弓道場。

 ミクシィの母校コミュで遠い後輩が言うには、ここ数年は団体で全国大会にも出ているという。
 なんちゃって弓道部は今や立派なスポーツ弓道部になったようだ。

 だが、スポーツ弓道と弓術はかけ離れている。
 高校・大学では試合があり、チームから結果を求められる。そして何よりも自らが強く結果を求める。それはスポーツとしての弓道。

 かつてオイゲン・ヘリゲルが求めた弓術は、酸いも甘いも噛み分けた大人の時間にこそ、あるのではないか。

 いつかもう一度バイクで走りたい。
 いつかマラソンを完走したい。
 いつか日本の隅々まで旅をしたい。

 人生の後半にさしかかり、人は心の底に沈んだ夢を掘り起こそうとする。

 かつて高校、大学で弓道を修めた人の心に、今眠っている弓術への憧憬。
 やがて一人、そしてまた一人とそれを現実に変えていくのかも知れない。

(終わり)

 長い間、読んでいただきありがとうございました。
 書籍化のお誘いをお待ちしています。

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2008年1月21日 (月)

日本の弓道(十九)

 小学校の頃、住んでいた盆地の町で僕らは毎晩、遅くまでソフトボールで遊んだ。
 その時、一学年上にイケダ君がいた。
 小学生ながら、高校生でも通用しそうな背丈をもつ彼は、左打席に入ると、ピッチャーが投げるすべての球をホームランにした。

 その3年後、漁港の町に転校していた僕にイケダ君が右目を失明したという話が伝わった。
 中学で野球部に入ったイケダ君は、早くもプロのスカウトが見に来るほどの活躍をしていた。
 ところが、ある日近くで素振りをしていた同級生のバットが目に当たったのだという。
 その後、イケダ君に会う機会があった。彼は昔と変わらず泰然自若として、心を乱していないように見えたが、同級生はそれ以来、ずっと嘆き続けていると聞いた。

 世の中には悪気があって人を傷つけてしまう人がいれば、本当に悪気はなかったのに、不幸にして悪い結果を迎える人もいる。
 特に小さい子どもに言うのは酷かも知れないが、それは想像力の欠如に他ならない。

 この次に何が起こるかという予測。
 この行為が引き起こす可能性のある幸不幸。

 あの時、もう少し想像力があれば。
 そう思うときは、いつも後の祭り。
 また、そこから出直すしかない。

 肝心なことは、その経験に学べたかどうか。

 つい今し方、マツモトの射た矢から逃げまどった記憶が、引きしろではなく、方向をわずか数ミリ狂わせた。
 ジョニーデップ小屋を運動場から目隠ししている林を超えて、僕のジュラルミンはその先に消えた。

 陸上部のランニングが始まっている。
 イチニという男女の入り交じったかけ声でわかる。
 小屋からトラックの位置までは距離があるが、この矢がどこまで流されるかは、風に聞かなければわからない。

 どんなことも想像できた。
 だが、何も想像できなかった。

 子どもの頃、母から「仰向いて唾吐くな」と教えられた。
 仰向けで唾を吐けば、その唾は自分に降りかかる。
 自分でまいた種は自分で刈り取らなければならない。
 自分でまいた災いの種は、いずれ自分に戻ってきて降りかかるのだ。

 天に向けて射た矢は、いずれ地上に戻って来る。
 降下し始めた矢から目を切らず、僕は見ていた。
 僕は心にその声を聞いた。

 悶絶する呻き
 恐怖の叫び
 騒然とする怒号

 観念して、耳をそばだてる。

 その一瞬、陸上部員を縦に貫くジュラルミンの絵が見えた。
 見えたものはそれだけだった。

 秋の風は止まっていた。
 もう矢は地面に突き刺さった頃だ。

 佐世保駅で見送った親戚が、東京に着いたよと電話をしてくるくらいの間があった。
 もう着いた自分なのに、無事の連絡もない。
 おかしい。
 そんなはずはない。途中でどこかに寄り道でもしているのか。
 それとも何か不測な事態が起きたのか。
 ふと、そう考えて、慌てて打ち消す。
 いやいや、便りが無いのは無事の知らせというじゃないか。

 風は止まったまま、陸上部のかけ声は続いていた。
 矢が地面に落ちた音さえ聞こえなかった。

 わぁっ
 と言ったきり、マツモトも僕も全く動けない。

(明日最終回)

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2008年1月18日 (金)

日本の弓道(十八)

 何の余韻も残らない地味な弓道の後だというのに、女子二人はニコニコしてそこにいる。
 イタリア人ならば、電話番号を聞かないのは失礼だと思ったかも知れないが、僕は九州の西のはずれの田舎者なので、なぜ、帰らないのかが不思議だった。

 クラブは終わったんだから、早く帰って欲しいなと、顔に書いていたら、何かをあきらめたかのように「ありがとうございました」と言って帰って行った。
 「足下に気をつけて」
 森のジョニーデップ小屋から校舎へ戻る道は、ちょっとした獣道だが、僕はまだそんな気の利いた言葉を持っていなかった。

 まだ、弓道部の後輩たちは顔を見せていない。
 小屋を目隠ししている林の向こうから、グラウンドでアップを始めた陸上部のかけ声が聞こえてきた。
 ふつうの運動部には準備運動、アップなるものがあるが、僕らの弓道部にはない。
 後にまともになった弓道部では「逆さか」という伝説のしごきがあったらしいが、僕はその意味すらわからない。腕立て伏せの体勢で階段を逆に登るのだろうか。

 矢立てから、かつての盟友を抜き取る。
 試合用に温存していた甲乙の2本も、あちこち羽根が欠け落ちている。

 安土から矢を取ってきたマツモトが矢道を戻ってくる。
 右手には彼が駆使していたグラスファイバーの弓。

 ここにはマツモトと僕の二人きり。
 そして僕は長く後悔することになる、最後の一射を放つことになる。

 「いやぁ参った。あんた 本番につよかね」
 高体連最後の4立ちを終え、僕は惜しくも届かなかった5割を惜しむ気持ちと、早気の割にはよくやった方だという安堵の気持ちを交錯させながら、帰り支度をしていた。

ヤマダ3
僕 3
サトウ4
マツモト2
スズキ5

 エースとしての活躍が期待されたマツモトは2中。5人のなかでは最低の結果に終わった。
 僕は決して「本番で実力を発揮するタイプ」などという気持ちの悪い人間ではない。
 だが所在なげな彼の言葉には、あえて反論せず「そんなことないよ」とだけ答えた。

 結果は自分の実力ではない。ただ大舞台に弱かっただけだ。
 彼は心の中で、そうやって自分を慰めていたのだろう。

 課外クラブも2学期になる頃には、すべてのクラブ員を的に向かわせる。
 「一度弓道をしてみたかった」という運動万能な人は、この学校にはいないようで、矢が的に中ることはなく、その大半は安土を大きく超えて森に消えるか、矢道に落ちた。

 いくつかの矢を森で見つけ、矢道に落ちた矢を拾う。
 僕もつっかけを履いて矢道に降りて手伝う。
マツモトが提案した。

 「上に打ったらどうなるかいな」

 矢道から見上げると、かたや山に繁る林、もう片方はグラウンドを遮る林。
 両側からせり出すような林の間に、夕暮れの弱々しい空が見えた。

 かつて先輩たちが、バッティングセンターよろしく、一人が射た矢を、もう一人が安土の前で箒で打ち返して遊んでいた。
 この人たちはいかれている・・・
 危なっかしくて見ていられなかった。

 天に向かって打つならば、矢はその場所に戻ってくる。落ちてくる前に逃げれば、それほど危なくない。僕は止めなかった。

 マツモトはグラスファイバーの弓に練習用の矢をつがえ、弦をほんの少し引いて離した。
 それでも16キロの弓から放たれた矢は勢いよく空に舞い上がる。
 天空の頂上に到達すると、矢はUターン。素直な軌道で真下に進路を向けた。

 やべ、やべっ
 大げさに逃げてくるマツモトと一緒に僕も走った。
 矢は間もなく、彼が立っていた場所に真下を向いて突き刺さった。

 へぇ、真下にきちんと落ちるんだ。
 よし、次は僕の番だ。
 それは、強いられたわけでもなく、自然な成り行きだった。

 僕の弓はグラスファイバーよりも4キロ弱い竹でできている。
 この弓で彼の高さに肩を並べるために、少しだけ大きく弦を引く。
 フォームは八節ではないので、早気も関係ない。

 山とグラウンドの二つの林の中間、ぽっかり空いたど真ん中に狙いをつけると、僕は弓道人生、最後の離れを迎えた。

 弱々しく天をつかもうとする僕のジュラルミン。
 それでも、引き加減の計算は頃合いも良く、高い位置をつかんだかに見えた。

 その時、上空に風が舞った。
 次の瞬間、矢がグラウンドの側に流されるのをみた。

つづく





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2008年1月17日 (木)

日本の弓道(十七)

 弓道では左利きが有利。
 弓を押す左手は弓手(ゆんで)というが、弓を押す手と書いて押し手ともいう。
 人が日常的に使う言い回しは「弓を引く」だが、弓は引くものではない。弓は押すものであり、引くのは弓ではなくて弦(つる)である。
 押し手が弱いと矢の軌道は安定しない。
 キロ数が重い弓を押すためにも、左腕の力が強い左利きが有利というのが、僕らの定説だった。

 プロゴルフのテレビ中継を見ると、ギャラリーがティーグラウンドの両側に所狭しと並んでいる。
 映像の錯覚もさることながら、ギャラリーはティーの目の前にいるように見える。
 もしプロがシャンクしたら、ボールは至近距離からギャラリーを直撃し、怪我人がでるだろう。
 いやプロに限って、そういう可能性はゼロに等しいという信頼関係あってこそなのだと独りごちる。

 だが、ここにいる弓道家の場合、恥ずかしながらその信頼には耐えない。
 もし矢こぼれしたまま、右手を離していたら・・
 今頃、矢道の両脇に並ぶギャラリーの列に矢が飛び込んで、怪我人が出ていたかも知れない。
 よく、あんな危ない場所で見ていられるものだと、こっちが怖くなるが、まさか「フォアー」と叫びながら打つわけにもいかない。

 練習中、二度ほど弦を引きすぎたために矢が弓につっかえたことがある。
 一度は師範が駆け寄り、矢を定位置に戻してくれた。
 一度はそのまま離してしまったが、矢はその場にカランカランと音を立てて落ちた。
 実際には、取り落とした矢はそうは遠くに飛びはしない。

 解説書によると、こういう場合、矢が折れて体に刺さることがあると書いてある。
 その点からも、高校生の僕らにはジュラルミンが好適だったと言える。

 甲矢を○にしてこれで、7射3中。
 乙矢に夢の5割がかかる。

 1立ち× 地獄
 2立ち◎ 天国
 3立ち× 地獄
 4立ち○ 天国

 めまぐるしく地獄と天国を往復してきたが、不幸にも8射めの乙矢を前にして、僕はまた3立ち目と同じ「神さまからのプレゼント待ち受けモード」に入ってしまった。

 高校生活最後の一矢。
 結果を怖れず、求めず、虚心坦懐、無我の境地で臨む。

 わけがない。
 無心と言う言葉は知っていたが、その入り方は知らなかった。
 心を静めることが無心の入口だと、この時は思っていたが、実際には無心はそんな方法論では手に入らない。

 「どうかお願いです。高校生活を夢の5割で終わらせてください。どうか中りますように。そうすれば支えてくれたお母さんにもいい報告ができます」
 この際だから、いろいろな人を動員して祈る。

 ただ、ただ幸運を祈った。
 そして高校生活最後の八節。
 早気が突然治るわけもなく、大三からほんの少し引き分けたところで、*手は弦を離した。

 祈った 狙った  外れた

 あっと声が出た。
 僕の矢はゆっくりとした放物線を描く。
 あっと言い終わって、しばらくしてから的の右上15cmほどの安土に突き刺さり、僕はもう早気と戦わなくてよくなった。

 ジョニーデップ小屋が紅の葉に包まれ始めた頃、
 水曜日の6時間め、僕らはいつもの場所にいた。

 週に一度の「課外クラブ」
 いつもの部活とは違うものを経験させようということなのか、趣旨のよくわからない50分。
 全校生徒は、運動部と文化部の中から興味本位で1つを選び、それを1年間続ける。

 顧問のイシイが弓道の素人ということもあり、素人クラブ員の指導は弓道部員が交代で立つ。
 その日はOBの僕とマツモトにお鉢が回ってきた。

 2年間使っていたジュラルミンの矢は、練習用として道場に寄贈していた。
 寄贈というのは、おこがましいぼろぼろになった矢。
 それでも、練習用の矢は多ければ多いほどいい。
 練習用の矢を買う学校予算は一円もないのである。

 水曜日は放課後に職員会議が行われる。
 大人の会議というものが、どんなものかを知らなかった。
 今思えば、あの職員室のレイアウトでは、話が通り辛かっただろうと思う。
 一方的に教頭や教務主任がしゃべっていたのか。

 チャイムが鳴ると、ホームルームはなく、クラブ員はそれぞれの部活や帰宅へと散っていく。
 最後まで二年生の女子が二人残っていた。
 一人は通学のバスで毎朝隣りのバス停から乗ってくるから、よく見かける顔だ。
 二人とも何を話すでもなく、手持ちぶさたですと顔に書いて、佇んでいる。

つづく

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2008年1月16日 (水)

日本の弓道(十六)

 何が夢の5割だ。
 残りは2本とも中てなければならんじゃないか。
 神さまからの頂き物、果報は寝て待て、棚からぼた餅、他力本願・・
 それらの悠長な考えに浸り、二射を無為に費したことが悲しかった。
 いったい、どこをみているのか。

 学生だった僕にうまく愛は語れなかった。
 と歌うのは甲斐バンドの「バス通り」だが、
 学生だった僕に、他を見ず、自分の心と向き合うという思考はなかった。

 「最後は勝ちたいという気持ちが強かったほうが勝つ」
 「勝ちにこだわる」
 「楽しみたい。すると結果がついてくる」

 現代ならば、メディアが奏でるこうしたスポーツ訓に、さらに頭が混乱するところだが、学生だった僕に
 「開き直る」
 という言葉しか浮かばなかったことは、結果的に幸いした。

 午後の時間の流れは速い。
 人生の後半になると、人は時間の流れを速く感じるようになる。

 子どもの頃は新たな経験が、未来から過去へ怒濤のように流れてくる。
 逆上がりができないで延々と地面を蹴る時、
 次から次にスケジュールされる試験に立ち向かう時、
 その時間は永遠に思われた。

 だが、多くのことが経験済みとなった大人の時間では、ほとんどの出来事は日常となる。
 相対的に、時間は速く流れるように感じられる。
 午前で一日の流れに身体が慣れた午後、四立ちめは瞬時に訪れた。

 四立ちの甲矢(はや)
 引き分けたところで矢がこぼれた。
 妻手(右手)のひねり具合、取りかけの深さ具合が悪いと、矢が弓手(左手)から落ちてしまう。
 弓道の初級者にはよくあることだ。

 矢を床に取り落としてしまうと、それは失として扱われる。
 残りは2射、もう1つもおろそかにできない。

 こういう時、弓道家は顎で矢をしゃくり、妻手のひねりを使って弓手に乗せる。
 落ち着いて対処すれば、なんということはない動作。
 だが、早気の僕にとっては一大事だ。
 こぼれた矢を上げる動作が難なくできるのは、両手が会の位置に降りて、矢が頬の前に納まってこそ。

 ところが、僕と来たら引き分けの最中にも、いつ妻手が弦を離すかわからない。
 矢がこぼれたままで妻手が離れたら・・

 あの体育館裏のできごとが繰り返される。
 矢は床を転がり、メガネが飛んで矢道に落ちる。
 ギャラリーはざわめき、競技が中断される。
 メガネを拾うために、審判が下駄を履いて矢道に入るだろう・・

 矢が的に届かない女子をみて、苦虫を噛んでいた思いを、一堂に会している長崎県高校弓道選手の皆さんに味合わせてしまう。

 頬で矢をしゃくれる位置まで必死で引いた。
 幸い僕の顎は、人よりも少しだけ角張っている。
 この顎は後にアントニオ猪木の物まねで役に立った。

 弓道では的は右目で狙う。
 弓の左側に半円で見える的を、弓に近い側にある右目を主眼として狙う。
 ただし、これは後に弓道解説書で知ったことで、指導者のいない僕らの弓道部では主眼などお構いなしだった。

 ようやく顎に当たる位置に降りてきた矢を弓手に乗せると、早気の僕に残された時間は少ない。

 すかさず的を探しフォーカスを合わせる。
 とりあえず、ここだ

 これはあとから合成した記憶であり、その時、左脳は停止していた。
 事なきを得て、空を飛んだ矢はハエが止まるような放物線を描いて的の中心からやや上に当たり"ぼすっ"という音を立てて、何重もに張られた的紙を貫いた。
 僕は左利きだが、目は右利きだったのだ。

つづく





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2008年1月15日 (火)

日本の弓道(十五)

 弓道部の一つ上の学年では、男女の主将どうしが微笑ましい関係にあった。

 小学生のうちは好き合っていることは隠すものだが、高校になるとそれがステータスに替わる。

 つきあい始めると、堂々と一緒に下校したり、これ見よがしにいちゃついてみせるカップルが多いなか、この二人はつかず離れず、ジョニー・デップ小屋では好きあっているという素振りもみせない。
 それが傍で見る者には、八重歯の可愛い女子主将の一方的な片想いなのかとさえ思われた。
 豪快な性格とワイルドなルックスを持つ男子主将は、僕が少しでもそのことに触れると
「後輩にバカにされよるばい」
と細い眼をさらに細くして、ふてくされて見せた。

 この二人を「美女と野獣」に例えるならば、ミヤタと僕は「美女と珍獣」くらいにはなれるかも知れない。

 「ミヤタさん、日本史のノートいつも真面目に書きよるよね。おいあんまりとっとらんけん、一日貸してくれん?」
 「うん、よかよ」

 僕の心にバレンシア・オレンジが飛び散る映像が流れた。
 当時テレビでそんなCMをやっていた。
 バレンシアがスペインはバルセロナに近い海辺の都市名であることは、数十年経って知ったが、この時以来、バレンシアと聞くだけで前向きな気分になる。

 だが、ミヤタは意外な行動に出る。
 僕がしめた!と心で拳を握った瞬間、ミヤタは右手に消しゴムを握った。
そして、ダッシュでノートを消し始めた。

 あんた、なんば、するとね
 とつっこめるはずもない。
 まったく意味不明な行動だが、あのノートを一日分析すれば、その謎も解けるはず。
 僕は数分間、消し続けるミヤタを見ない振りして、黙祷を捧げていた。

 分析の結果わかったのは、ミヤタは授業中、陸上部のタカギのことを考えていたと言うことだ。
 タカギは男も惚れるいい男。ルックスの良さもさることながら "あいつを嫌いなやつはこの学校には一人もいない" と言われるほどの、人間性を持っていた。   「ナイスラン」
「**くん、ファイト!」
 少女の儚い恋心が、白いノートの罫にうっすらと残っていた。

 美女は珍獣でなく、美男を求めていたのだ ・・・

 そうした、心のかすり傷を瞬時に過去に置き去り、僕らに次の出番が回る。
 そして、お昼過ぎの3立ちを終えた時、僕らの弓道部にはほとんど会話がなくなっていた。

*3立ち6射終了
ヤマダ 2
僕   2
サトウ 3
マツモト1
スズキ 4

 主将のサトウ、2階建て打法のスズキがそれぞれ1中を得たのみ、1、2、4番の掲示板に×が書き込まれた。
 この時点で団体戦上位進出の可能性は消えた。

 団体戦といえども、弓道は個人のスポーツ。
 敵となるチームの状態に左右されることはないし、相手との駆け引きも心理戦もない。
 屋内競技であるため、天候に左右されることもないし、立ち順による運不運も限りなくゼロに等しい。

 誰かのせいにできる要素はどこにもない。
 ただ、僕らに力がなかった。

 奇跡はつづかなかった。
 相も変わらぬ早気フォームから射た甲矢(はや)は的の遠く右上、乙矢もまた同じ安土に刺さった。

 なんだ?中んないじゃん
 乙矢が僕の意に沿わぬ場所に収まったのを視認した時、なにかに裏切られたような気持ちが通り過ぎ、それは間もなく強い焦りに替わった。

つづく





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2008年1月11日 (金)

日本の弓道(十四)

 「やりましたね」
 立ち位置を替わってくれた気のいい後輩、ヤマダが声をかけてきた。
 彼はここまで4射2中と好調を維持している。

 一年前の高体連、僕は部内の競射では4位につけたが、その時は「3年生優先出場ルール」があり、この舞台を踏むことはなかった。
 ただ一人、二年生でこの舞台を経験したヤマダが、この経験を来年につなげて欲しい。
 などとは微塵も思わず、団体入賞のために、もっと中ててくれればと思っていた。

 27校すべての2立ちが終わった時点で、団体戦は同点5位につけた。
 後半に上位入賞、あわよくばインターハイ出場への夢をつなげる好位置だ。

 この時、2立ち目を◎にして途中交代の悪夢を払拭した僕に、今度は「5割」の夢がちらつき始めていた。

 我がなんちゃって弓道部では、皆が「5割」にステータスを置いている。
 自身、これまでに出た部内の競射、年間4度の公式戦、西高との練習試合を通じて、一度も5割の壁を破っていない。

 高校弓道最後の大舞台を夢の5割で終わる。
 伸び伸びと弓を引き高く評価された時代から一転、途中退部や、早気のリハビリという紆余曲折を経た、我が弓道人生も終わりよければすべてよし。

 残る2立ち4射で2本を的に中てれば、それは現実になる。
 お母さんと呼びかけ、殊勝に弓を引いて数分も経っていないのに、僕は欲望の渦中にいた。

 「残り4射のうち2本も外せる」
 この時、そう考えていた。
 「残り4射のうち2本も中てなければならない」
 そうは考えなかった。

 早気の僕には中りこそが奇跡であり、その奇跡を4回のうち2回も起こすと考えると具合が悪い。
 あとの2中は、狙いにいくものではなく、神様からの頂き物のような感覚があった。
 それは◎を記録した乙矢が的に突き刺さった時、感じたもの。
 あと、2中・・

 競技は間断なくつづいている。
 各校は空いた時間で、思い思いの場所に陣取って、弁当を広げている。
 僕らの弓道部は、3立ちの出番までの時間で昼食をとる。
 旅館であつらえた弁当はおにぎりとタクアン、そして魚フライ。マヨネーズはついていなかった。

 スポーツドリンクもペットボトル飲料もない。
 水やお茶にお金を出すという価値観のない時代。
 僕らは水道の水を飲んで、胸焼けを押さえた。
 ほっとひと息をつくと、今朝までの追い詰められた気持ちは何だったのかと思えた。
 予想外の不振で口数の少ないマツモトを除いては、皆の顔もゆるんでいる。

 天才少女ミヤタは、途中出場できないことが確定した補欠タナカのことを気にしていた。
 「出してあげたらいいのに。タナカくん、よく中てるのにね。」
 僕の耳にも充分届く大きさの声だったが、僕は聞こえない振りをした。

 タナカはお世辞にも弓道が上手くはなかった。
 もし3年生優先出場ルールを堅持して、彼を起用したとしても、今よりよい結果が望めるとは誰も思っていなかった。

 なぜ、ここに来てそんな理の通らないことを言うのか。
 議論で負けることはことの他、嫌いだったが、その疑問は飲み込んだ。
 大事な試合中に、互いの心を乱すべきではない。
 と思ったのではなく、彼女はとても可愛かったのだ。

 2年の時は同じ授業で日本史を習うことがあった。
 密かに彼女を慕っていた僕は、ある日、彼女からノートを借りる作戦に出た。
 その申し出を快く彼女が受けてくれれば、それは何かの始まりになるような気がしたのだ。

つづく





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2008年1月10日 (木)

日本の弓道(十三)

 大三から少し引いたところで離す弓は変わらない。
 高い位置から山なりの放物線を描いた早矢は、的の中心から右上に突き刺さった。
 つづく乙矢は、的の中央やや上寄りに刺さった。

 捉が記録された時、どよめきが聞こえた。
 「あの型で中ることがあるのか・・それも連続で」
 それは弓道の体を成していなかった。ただ結果だけを求めて脳が計算し、両腕に出した指示の産物。
 この◎は早気を患った後、初めての捉だった。

 前夜、これでつかんだと思えたのは、こういうことだったのか。
 ここまで来たら、一夜にして早気が治るわけでもない。
 総ドスで終わるくらいならば、型へのこだわりを忘れて、的に向かうしかない。

 射場から出てきた僕に、控えていたタナカが声をかけた。
 「やったじゃん!すごい、すごい」
 彼は口でそう言いながら、無邪気に飛び跳ねている。
 まるで、自分のことのように喜んでいるように見える。

 ありがとうと応えたが、僕には彼の言葉が不思議だった。
 僕が総ドスを食らえば、替わりに自分が出られるかも知れない。
 僕がタナカの立場だったら、できれば外して欲しいと願っただろう。

 確かにそれを、言葉にはしない。
 そして、捉を出した正選手に、やったな、おめでとう
とは言えても、身体は飛び跳ねるのを拒否するだろう。

 二立ち20射を終えて的中10。
 我が弓道部は俄然、上位進出への勢いを得た。
 5番に立つスズキは4射3中で個人優勝への可能性をつないでいる。
 ただ一人、本来ならば稼ぎ頭になるべきマツモトが計算外だった。

 最も強い弓を駆り、最も直線的な軌道を描くマツモトの矢は、一度外れ始めると修正が効かなかった。
 どれも的枠のわずか5cmほど右下に集まる。

 「それだけ一か所に打てるのなら、5cm左を狙えよ」
 顧問のイシイがそう言った。チームメイトの僕らも、同じことを言いたかったが黙っていた。
 それができない弓道というのもあるのだ。

 マラソンはメンタルのスポーツだ。
 言葉でもなんとなくわかるが、実際にやってみると、その意味がよくわかる。 だが、メンタルが強い、メタボリック症候群の人が、練習もせずに42kmを走れるかというと無理だ。
 正確に言えば「マラソンはフィジカル7割、メンタル3割のスポーツ」なのだ。

 弓道もメンタルのスポーツだ。
 そして正確に言うならばフィジカル3割、メンタル7割のスポーツ」なのだ。
 傍で観ている人が言うように、矢を射る毎に信念を曲げることができたら、それを賢い弓道というかも知れないが、求道の半ばにある者として、それはできないというこだわりもある。
 人はそれを「頭が硬いだけだ」と言うかも知れない。
 そして、その通りかも知れない。

 だが、バカが死ななきゃ治らないように、頭の固さもそうは簡単に治らない。頭の固さを乗り超える時間というものが必要なのだ。

 前半の二立ちを終え、最も成績が悪いのが、最も期待の高いマツモトということもあり、指揮官のイシイは言った。
 「今日は交替なしでいこう。団体戦もいけるぞ。スズキはミヤタみたいに個人でインターハイにいけ」

 そのまんまやないか!

 というツッコミは当時まだ、この世に存在していなかった。
 ただ、もしそれがあったとしても、それを言えるほど、僕らには信頼関係がなかった。

 前年には、2年生でインターハイに進んだ天才少女ミヤタは、今年は女子の主将。だが、半数近い矢が矢道に落ちるメンバーを引き連れての心労がたたったか、冴えない中りに終始していた。

*2立ち4射終了
ヤマダ 2
僕   2
サトウ 2
マツモト1
スズキ 3

つづく





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2008年1月 9日 (水)

日本の弓道(十二)

 僕らがお金を出し合って見る番組は、多数決でナイター中継に決まった。
 試合は在京の贔屓チームがリードしていた。
 このまま勝ってくれれば、明日の競技に勇気が湧く。なんとか逃げ切って欲しい。
 だが、長崎県で野球が好きと言えばもうこのチームしかないわけで、結果がどっちに転んでも、誰かが有利になるといったことではないのだと、見ているうちに気付いた時、エースが外人に逆転ホームランを打たれ、そこでアナウンサーのナレーションとは異なる意思をもったテロップが流れ、番組は終わった。
 長崎は「一部の地域」だったのだ。

 100円玉でテレビが映る時間いっぱいまで、僕らはエンドロールを見ることはない映画を見ていた。

 映画が終わると、僕らは枕は投げずに、6つ並んだ布団の上で口々に明日の意欲をぶつけ合った。

 「残り全部中てる」
 「5割は任せて欲しい」
 「明日は中る気がする」

 いつ「メンバー替わるか?」とイシイ顧問に言われるかわからない。
 中間の4射が終わるまでは、誰も心の中にある不安を表に出せない。弱音は吐けないのである。

 僕も何か強気なことを言いたかった。
 だが、あと6射で3つは中てるといった口約はできない。

 「今日で、つかんだ」
 何年もやってきて、今さら何をつかむのか知らないが、少なくともその時僕はそう思っていた。

 最後の一人が喋らなくなるのを確認すると、僕らは眠りに落ちた。
 翌朝、長崎は快晴だった。

 運命の二立ち。
 温存してきた早矢と乙矢に声をかける。
 「たのむぞ」
 もちろん声に出した時点で、おかしくなったと思われるので、無言で語りかける。

 頼むぞと言われて、金属製の物体が頼まれるわけがない。大人になった今ならば、もっと増しな声のかけ方を知っているが、この時はもう矢に思いを込めることしか思いつかない。

 初日は1本を中てた先頭のヤマダが外した。
 団体戦では、前の矢が安土に届いてから、次の射手が打ち起こしにはいる。
 一定の制限時間を超えた時だけ、同時に射ることが指示される。

 つづいて打ち起こしに入る瞬間、矢に頼むだけでは足りなかった僕は、思わず小声で呼んだ。
 「お母さん」
 そう言った瞬間、瞼が滲んだ。
 父の命令で退部した後も、毎晩帰りが遅い僕に、母は一度も理由を質さなかった。
 弓でメガネを吹っ飛ばした時も、すぐに同じタイプのメガネを買ってくれた。
 途中からは、父も気付いていたはずだ。
 だが、無断で部活に戻ったことは、あれから長い年月を経た今も、一度も話題にのぼっていない。

 母にこの矢を捧げると思っていたわけではない。
 力を借りたかったのだ。
 この時は、ただ結果が欲しかった。

 ここまでやって来た弓道生活の締めくくりを、××で途中交代にはしたくなかった。

 我が弓道部の二立ちめが終わった時、掲示板の二番にはがはいっていた。

つづく





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2008年1月 8日 (火)

日本の弓道(十一)

 僕らの弓道部は学生ズボンの上に、学校名が入った白いトレーナーという、いつもの出で立ちで長崎の弓道場に立った。

 二年生のヤマダが一番前に立ち、つづいて僕、主将のサトウ、怪力のマツモト、二階から打ち下ろすスズキと並ぶ。
 競射の順でいけば5番めの僕が、先頭に立つところ。
 だが、目の前には神棚と座敷があり3人の審判が鎮座して、こちらを睨んでいる。

 早気の僕が目の前で打とうものなら、注意を受けるかも知れない。
 その位置だけは勘弁だ。
 ヤマダは遠足コースになっている佐世保市を見下ろす山から毎日下りてくる、とても気のいい男で、快く場所を替わってくれた。

 初日は1立ち2射のみ。
 途中交代は通常4射を終えてからだが、それが明文化されているわけではない。
 もし一人だけ×を食らえば、いつも動物園のワニのような目で何を考えているか読めないイシイ顧問が、交替を求めてくるかも知れない。
(二本外した時の表記は×印になる。二本中てると◎)

 それでもこの時、僕は弓道家だった。
 神聖な射場に立ち、精一杯、弓道の型を試みた。
 おかしな型で的に中てては申し訳ない。
 弓道生活の最後に、納得のいく型で終わりたい。

 この時の僕をサッカーに例えるならば、ゴールを目の前にしてキーパーと1対1になったセンター・フォワードが
 「さぁここで右膝を10度折り曲げて、0.2秒で右足を70度外に開いて、ボールをインサイドに捕らえたら、左45度の方向に秒速2mの速度で振り抜こう」
 と考えながら、シュートしているようなものだ。

 左脳でフォームを気にしながら結果が出るスポーツはない。
 応援に来ていた他校の女子高生から
 「わっ!もう打った」 「なに、あれ?」
 と顔を見合わせるなか、僕の早矢は的より1mほど高く、乙矢は1m右に外れた。

 ×を食らったのは僕だけではなかった。
 あと一人、ポイントゲッターであるはずの、怪力のマツモト。
 彼はこの試合がまだ2度目の公式戦だったのだ。
 彼の口からいつもの大口が消えていた。

 僕はこわばった顔をつくり、心で しめしめ と思っていた。
 団体戦では10射4中という可もなく不可もないスタート。
 もしも他の4人の調子が一斉に揃い、初日を終えて上位を窺う位置にいたら・・イシイは僕に交替を告げたかも知れない。

 一本中てていれば・・
 晴れぬ心のまま、弓と矢筒を肩にかけると、僕らは路面電車に乗り、繁華街からは遠く離れた旅館をめざした。

 これが修学旅行ならば、しばしの自由時間を得て浜の町に出る。
 好文堂で立ち読みして、松翁軒のカステラを買い、ツル茶んのトルコライスは腹に溜まるから諦めて、夕食会場の中華街「江山楼」に向かう。こってりスープのチャンポン、濃厚な味に焼けた炒飯・・・

 だが、僕らは学校の予算で試合に来ている。
 マヨネーズをかけた魚フライがメインの夕飯を食堂で食べ、二人がやっとの風呂に交替ではいると、皆でお金を出し合いテレビをつけた。
 NHKニュースを見るほど、僕らは国のことを思う高校生ではなかった。
 民法は2つしかないが、僕らは民法が4つある県があることを知らなかった。
 大人の干渉をうけず、チャンネルを選択できることに、僕らは大きな自由を感じ、少し大人になった気がした 
(わけないだろ)

つづく





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2008年1月 7日 (月)

日本の弓道(十)

 例年、高体連には3年生が優先で出場するという慣例があった。
 だが、僕らはあえてその特例を廃し、全員参加の一発勝負で5人を選ぶことにした。
 上位3人の力が高いレベルで安定しており、うまくいけば団体入賞が狙えると考えたからだ。

 競射は県北大会で個人5位にはいったスズキ、怪力のマツモト、主将のサトウが頭一つ抜け、それを二年生のヤマダが追う展開。
 的に中てるどころか、満足に弓を引くこともできない僕も、泣き言を言ってはいられない。
 今日初めて弓を引いた人が射るとこんな感じだろうという、引きの浅い型でなんとか的を狙う。
 結局、6位の2年生を僅差で制して、5位にすべり込んだ。

 選手登録は5人と補欠1人。
 補欠登録されたのは、ただ一人落選した3年生。僕を「練習せんでも高体連に出れるばい」と誘ってくれたタナカだった。

 試合ではいつも、前半の4射を終えた時点で成績の悪い者が、補欠と交替することになっていた。4射を終えて0または1中ならば九分九厘、前半でお役御免となる。
 男子の個人優勝者は8射8中か7中で競っていたが、僕らのなんちゃって弓道部では「5割」が夢のライン。
 8射で4射中てられれば、その試合はとても充実感を持って終えることができる。
 しかし早気持ちの僕には5割どころか「全どす」野球でいえば4タコの可能性が最も大きい。

 イケダ師範は一向に早気が直る気配のない僕に、いつもと変わらぬ暖かい笑顔で接してくれた。
 6月の高体連まであとわずかとなった日、その師範から意外な言葉を聞いた。
 「来月には、今勤めている会社をやめて、田川の会社に移ることになりました。
 君たちが高体連を終えて報告に来る頃には、もういません。
 頑張ってください。応援しています」

 田川は井上陽水が育った所だということは知っていたが、その地名を聞いてその町をイメージできなかった。
 田川は「青春の門」の舞台。
 もしこの時に読んでいたら、大学は早稲田に行きたい、東京に出たいと強く思っただろうが、その本を手にしたのは、福岡での大学生活にどっぷり浸かった後だった。

 親方日の丸の公務員を父にもつ僕には、イケダ師範の言葉が意味するところがよく飲み込めなかった。
 仕事というのは一度就いたら、変わらないものだと思っていた。
 会社勤めの人は、年をとってからも会社を変わるものなのかと訝しんだ。
 イケダ師範はいつもと同じように笑っていたが、心なしか淋しそうにも見えた。
 僕はどんな言葉が適当なのかがわからずに、そうなんですか淋しくなりますというのがやっとだった。

 今思えば、経営難で大幅な人員整理を行っていたその造船会社のことだ。ある程度の年齢に達していたイケダ師範は、再就職口の斡旋を条件に、肩を叩かれたのかも知れない。
 リストラという言葉が登場したのは、まだまだ後のこと。
 高校生の僕はただ、我が心に寂しさを感じるだけ。相手の気持ちを思いやるには至らなかった。

 その年、高体連の弓道は長崎市の街中にある道場で行われた。
 会場は競技によって県内の持ち回りで行われる。

 試合は初日に1立ち(2射)。2日めに3立ち(6射)が行われる。
 27校が8射ずつならば、1日で終わる競技だが、長崎県は離島が多い。
 教職員は若い頃に一度、管理職に上がる時にもう一度、離島勤務を経験しなければならない。女性の中には離島勤務を嫌い、隣りの佐賀県に勤める人もいる。
 離島からの船は、長崎または佐世保まで片道3時間。便数も限られる。
 一日で8射を終える競技だと、離島の学校は前後泊で二泊しなければならなくなる。
 27校の中に離島の高校があったのかを覚えていないが、全競技で横断的に日程を組むため、僕ら弓道部も旅の恩恵にあずかることができた。

 佐世保市開催の場合、二日間家からの往復になるところだが、僕らの弓道が一泊せざるを得ない遠い街で行われることを神に感謝した。

つづく





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2008年1月 4日 (金)

日本の弓道(九)

 弓道生活は残り少なくなっていた。
 高体連が6月、前哨戦となる県北大会が5月。
 そのための選手選考は4月末。

 いつまでも早気のリハビリをしてはいられない。
 早く的に向かわなければ。僕は焦った。
 メガネをすっ飛ばして以来、素引きさえも怖かった。

 何の確証もお墨付きもないまま、素引き生活を2月ほどで切り上げると、再びジョニーデップ小屋に戻り、的に向かった。

 矢と矢筒だけは自分で買うが、かけ(右手につけるグローブのような装具)と弓は学校の備品を使う。
 先輩が引退する頃には、お目当ての弓を狙ってお座敷取りとなる。
 「俺の弓はおまえに譲るぜ」
 「お前にはこの16kgは無理ばい」
 中には「この弓は記念に俺がもらう」などと言う先輩もいて、僕らを呆れさせた。
 僕らの弓道部では、先輩が後輩に禅譲するのは伝統でも誇りでもなく、この弓だけだった。

 3年生が引退して主将となった僕の希望は最優先で扱われ、グラスファイバー製16kgの弓を引き継いだ。
 当時まだグラスファイバー製の弓は学校に1本しかなく、誰もが憧れていた。 16kgというのは弓の重量ではなく、しなりの強さを表している。キロ数が上がるほど反発力は強くなるが、筋力も必要である。

 強い弓から打ち出された矢は直線に近い軌道で飛ぶ。
 弱い弓から打ち出された矢は山なりに飛ぶ。
 高い確率で的に中てるには強い弓が有効だ。
 だが、弓は力まかせに引けるものではない。
 言葉にして言うならば、力を抜いて引かなければならない。

 大きな力を必要とするのに、力を入れてはいけない。
 そこには高い技術を要する。

 だが、指導者もなく論理を語るアドバイザーを持たない高校2年生はそんなことは知らない。
 スポーツとしての弓道をやっていた僕は、これだけ中っているのだから、さらに強い弓を引いて、たくさん中てたいと考えた。この選択が早気へとつながったのだ。

 リハビリに入る時点で16kgの弓は、怪力と言われていたマツモトに譲っていた。
 主将になった時、帰宅部だった同級生3人を入部させた。団体戦を戦うには僕とタナカ、そして1年生だけでは心許なかったからだ。

 怪力のマツモトは16kgの弓を操り、まさに矢のような弾道?で中てまくった。
 長身のスズキは弱めの弓を使ったが、二階から打ち下ろすような放物線で手堅く中てた。
 僕が休部という扱いとなった後、主将を任せたサトウは、身体こそ小さいが論理に長け、物理学を弓道に持ち込んでいるのかと思うほど、無理のないフォームでよく中てた。
 最も弓歴の浅いこの3人が、あっという間に弓道部の実力ベスト3となった。

 僕は一般的な女子が使うのと同じ12kgの弓で射場に立つ。
 かつて使っていたものよりもさらに弱い弓から放たれる矢は、まるで手で投げたグライダーを見るかのように頼りなかった。
 竹を合わせてできたその弓は、寝ていても引けるほどの弱いしなりだったが、僕の早気はまったく治っていなかった。
 それどころか、日に日に状態は悪くなる。ひどい時には大三の位置からほんの少し引き分けたところで離してしまうことさえあった。

 そうなるともう弓道の体を成さない。
 心身ともに型が崩れているのだから、我が矢が的を射るわけもない。

 3年生、最後の高体連に向けた部内選考の時がきた。
 僕らの弓道部の伝統で、選手選考は競射のみの一発勝負。
 調子が悪かったとか、風邪を引いていたいった、泣き言は一切通らない。もちろん、僕のほうが型がキレイだとか、僕の方が級が上だという言い分も通らない。

 僕の弓道は今も二級止まり。まだ伸び伸びと引いていた時期に、二度試験をうけた。そろばんは8級からだったが、弓道は3級から。試験でよい型を見せ、しかも的に中てれば、飛び級もあるのだが、二度ともひとつも中らなかった。

 僕は本番に弱かったのだ。

つづく

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2008年1月 3日 (木)

日本の弓道(八)

 早気を患った射手にとって、長くもった会、無心の離れ、残心は憧れ。
 かつて、伸び伸びと弓を引いていたイメージに戻りたい。

 ただでさえ手狭なジョニー・デップ小屋では、的にも巻藁にも向かわない素引きの射手は肩身が狭い。日々、腕を上げていく仲間を尻目に、的に向かうことができない惨めさを否が応でも感じてしまう。
 そんな時に見つけた一人きりの練習場は、かつてのイメージを思い起こさせてくれた。

 緩やかな動作で八節が進んでいく。
 大三からがいよいよ問題のステップだ。
 右肩から先の力を抜き、弦を肘で引いていく。

 野球でバッターが実際には腕で打っているのに「腰で打つ」と言う感覚と同じで、弓道の指導者は腕で引くのではなく「肘で引く」という言葉をつかう。

 ランナーズハイという言葉は、ほとんどのマラソン・ランナーは本に書いてある幻想の言葉だと知っているが、この日の僕には天からまさに「弓道ハイ」といえそうなイメージが降りていた。

 晴れやかな心で弦をいっぱいに引いた。
 その手を離すと、矢は素直な心を映すようにまっすぐに28m先を目指し、36cmの的の中心を射る。
 力を解きはなった弓は、左手を軸にきれいに返り、弦は左手の外側に収まる。

 ばちっ

 すごい音がして右耳がしびれた。
 瞬時にガラスが粉々に割れる音がした。

 2秒ほど全身が固まった後、すぐ辺りを見回した。
 誰も見ていなかっただろうか。
 目撃者がいないことを確認すると、痛む右耳を押さえながら、飛んだものを回収する。

 かけていたメガネが体育館の壁に当たった後、地面に落ちていた。
 初めてのメガネは3年使った。
 まだ一年しか使っていないスチールフレームのメガネは、レンズが割れ落ち、フレームはぐにゃぐにゃになった。

 あの時と同じだ。
 小学3年の時、下りの坂道で止まりきれず自転車でこけて大けがをした。
 傷んだ左足よりも、曲がったハンドルよりも、まず最初にきょろきょろと辺りを見渡した。
 誰も見ていないことを確認すると、あまりの痛さに涙が出た。

 親に連れられて駆け込んだ外科で、先生に言われた。
「誰も見てないと思ったら、安心して泣きたくなっただろ?」
 読心術者かと思ったが、先生は病院の屋上で休憩していて、一部始終を見ていたのだった。

 こんな細かい心理描写が心に焼きついたのは、それをなぞって解説した人がいたからだ。
 恩着せがましくてはいけないが、言葉を持たない子供には、その心理描写を大人が替わりにしてあげるのがいい。

 番えていない矢の替わりに、弦は耳からメガネを弾き飛ばして、きれいに弓返りの位置に納まっていた。
 2500円の小遣いではメガネの弁償もままならない。
 母は喧嘩じゃなかろうね?とだけ確認すると、替わりのメガネ代をくれた。

 
 高校生活最後、そして弓道生活最後の、快心の会がこれだった。

 結局、半年を過ぎても早気は克服できぬまま、僕は高校3年生の春を迎えていた。

つづく

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2008年1月 2日 (水)

日本の弓道(七)

 弓道のフォームは八節と呼ばれる基本動作で構成されている。
定位置についてから矢を射終わるまでの8段階の動作それぞれに名前がついている。

第一節 足踏み 
定位置に足を決める。

第二節 胴造り 
麺作りではない。下腹に力を込めて土台を固める。

第三節 弓構え 
「ゆがまえ」と読む。左脇に抱えていた弓を両手で持ち、体の前に構える。

第四節 打ち起し 
弓を両手で上に上げる。この時はまだ引いていない。

第五節 引き分け 
左手で弓を支え、右手で弦をいっぱいまで引く。この動作の途中には大三(だいさん)というステップがある。正面に打ち起こした弓を平行を保ち的に向かって移動させる。この時右手は若干、弦を引いている。大三をしっかり停める型、ほとんど停めない型があるが、僕らは大三をしっかり停めるほうを習った。

第六節 会 
いっぱいに弦を引いた状態。

第七節 離れ 
弦を握っている右手を開く(矢が飛び出す)

第八節 残心 
矢を射終えて、両手がまっすぐ左右に伸びた状態。このポーズを何秒保持しなければ減点とか、そういうルールはない。弓道では昇段試験は八節の内容を問われるが、競技では的に中った結果だけが問われる。

 「弓を引く」と言うが、実際に引いているのは弦である。
 弦をいっぱいにひいた時、右手の位置は的から見て、右耳にほぼ重なる。
 その右手を離すのだから、物理的には一定の確率で弦が耳に当たる。
 だが、そこには矢が番えられているため、弦は右耳をかすめて外側を遠回りする。
 弓を支える左手の力が弱いと、弦が耳をかすめる。
 女性は弦の通り道に胸が突起しているため、上級者を除いては、胸当てをつける。

 フォームが悪い時は、よく耳に当たった。
 冬場は耳がかじかんでいるので、当たるとたまらなく痛い。
 そんな時は鉢巻きを耳に引っかけて巻き、的に向かった。

 矢をつがえないで八節の動作を練習することを素引きという。
 素引きでは矢がないので、弦を引いた手を離そうものなら、弦は耳どころか顔面を直撃する。
 素引きでは弦をいっぱいに引く「引き分け」の動作を終え「会」に入ったところで、弦を握った右手を開かず、初期の位置に戻さなければいけない。

 その日、ジョニー・デップの小屋を出て、体育館の裏にいた。
 そこは、不良が善良な生徒を呼び出すのに好適そうな場所。人通りはなく、誰から見られることもない。
 その進学校は荒れた学校ではないので、もちろんそういうよからぬ用途には使われていない。
 僕は一人、誰から見られることもなく、八節の素引きを繰り返していた。

つづく

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2007年12月29日 (土)

日本の弓道(六)

 的に当たった矢は的から、外れた矢は安土から抜いて回収する。
 中には安土まで届かない矢もあり、矢道の芝生にはいって取りに行く。
 回収した矢はぼろ雑巾で安土を拭き取る。この作業は後に経験した焼鳥屋で串を洗う作業に似ていた。
 雨の日は小鳥の羽根が濡れて肌に貼り付くように、矢の羽根もそぼ濡れて痩せる。
 木の矢は湿気を吸い傷みが早い。師範たちは木を使っていたが、学生の大半は耐久性が良いジュラルミンを使っていた。

 他校の選手は矢を拾うついでに、僕の矢をしげしげと見ていた。
 細工がしてあるのではないか?と疑っているわけではなく、木なのかジュラルミンなのか、羽根の具合はどうかを見ていたのだと思う。
 僕の矢は、ご多分に漏れずジュラルミン製。
 矢は4本セットで売っていて、それを引退まで2年間使った。使い込むうちに、羽根は欠けてきてぼろぼろになる。
 試合では1立ち2本を持てばよいので、4本の中から羽根の状態がよい2本は、練習ではできるだけ使わないように気をつけた。

 3年生が引退し、主将として最高学年を迎えた頃、僕を病魔が襲った。
 身体ではなく、心の病。
 原因は慢心と虚栄心。
 それは数十年経った今、そう言えるのであって、当時は技術的な問題が何処にあるのかを探すのに躍起だった。

 弓道の病に「早気(はやけ)」がある。
 心の迷いでパターが打てなくなるゴルフのイップスのように、心が病むのである。
 中てよう、中てようという気持ちがはやると、会が短くなる。
 会とは弓の弦を離し、矢を打ち出す直前のこと。

 技巧の弓道をしていた僕らにわかるよう、イケダ師範は
「会をなるべく長く持ちなさい」
(弦をいっぱいに引いて、離すまでのあいだに静止時間をつくりなさい)
と教えてくれた。
 僕らはその教えを、的をじっくり狙う時間を作るためだと解した。

 早気が進むと、終いには会の型に入ることさえできず、まだ弦を引いている途中に右手を離してしまうようになる。
 見ている方は、突然矢が放たれるのでビックリし、やがて失笑する。

 それまで注目を浴びてきた分、早気を患ってからの弓道は惨めだった。
 そしてちょうど、その頃父から弓道をやめるよう言い渡された。
 父は僕の早気を知っていたのではなく、受験を1年後に控えながら、一向に成績が上がらぬことに業を煮やしたのだった。

 主将を辞し、しばらくは殊勝に帰宅部を装っていたが、すぐジョニー・デップの小屋に戻り早気の克服に取り組んだ。
 こそこそと部活に行く僕を母は、黙って送り出してくれた。

 矢をつがえず、弓を持ち八節を繰り返す。
 なんちゃってで始めたスポーツ弓道。小屋には指導者もいない。自分で考えた単純なリハビリ・メニュー。

 きれいな長持ちの会、力みのない自然な離れ
 放たれた矢が一直線に的を捕らえる。
 その光景に憧れた。

 そして、それはそんなある日に起こった。

つづく





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2007年12月28日 (金)

日本の弓道(五)

 弓道部顧問のイシイは弓道をやったことがない人で、練習には出てこない。
 試合の日だけ引率に来て「リラックスしていけ」と言うだけだ。

 僕らは試合が近くなると、市営バスに乗って市営弓道場に通った。
 有段者の顧問がいる学校は希で、近くの他校の選手も集まってくる。
 初めはライバルの西高も来ていたのだが、西高には立派な弓道場ができて、そのうち来なくなった。

 道場には有段者の師範がいて、無償で指導してくれた。
 師範たちが日頃、何をしているのかに思いをはせたことは無かったが、大半は60歳を過ぎ、会社員であれば定年を過ぎた人たちだったのだろう。

 「もっと胸を張って!」
 そう言いながら、両手で女子の胸を後ろからつかみ、ぐいと反らす師範がいた。胸当てをしているから、絵的に嫌らしさは薄れるのだが「あれもアリなのか?」と僕ら男子は目が点になった。

 「君は大きく、伸び伸びと引いているな」
 イケダ師範はそう言って、今後の伸びしろに期待してくれた。
 「引きすぎなんだよ」とやっかむ先輩がいたほど、イケダ師範は僕を特に誉めてくれた。
 いろいろな師範がいる中で、僕はイケダ師範が大好きだった。
 彼は射場以外ではいつも微笑みをたたえ、力任せと技巧しか頭にない小坊主のような僕らに、わかりやすい言葉で接してくれた。
 今でいう「全然だめ」「なっとらん」といったマイナス言葉の矢が、彼から発せられた記憶がない。

 練習では矢を4本持って射場に入る。
 位置につくと2本を揃えて床に起き2本を持つ。
 これから打つ1本を弓につがえると、次の1本は右手の薬指と小指で筈を握りしめて持つ。テニスプレーヤーがセカンドサービスのボールも一緒に握っているようなものと思えばいい。
 2本打ち終わると、かがんで床に置いた2本を拾う。

 打った後は、替わりばんこに矢取りに行く。
 側道を通り安土のそばまで行き、選手たちがきりよく4本打ち終わるまで、高速で的に突き刺さる矢を間近に見ている。
 的に当たれば「射」「正」と声をかける。
 ゴルフのグリーン上で言う「ナイスイン」のようなものだ。

 「ナイスショット」は、タコ踊りみたいなフォームで打っていても、取引先には全打言わなければならないが、ホールにボールが入ったことを賞賛する「ナイスイン」は誰の目にも明らかな事実。
 言わなければいけないわけではないが、礼儀として定着している。

 きりがよいところを見計らい 「ぱんぱん」 と大きく二拍手してから安土に入る。射手にこれから人が立ち入ることを知らせ、もう打ってはいけないという合図。
 競技と違い、練習では打つ順番もまちまち。一人が退場すると次の選手が空いた立ち位置に入ってくる。矢を回収するためには、矢の切れ目をどこかで作らなければならない。

 それでも何度か、まだ選手が八節の途中なのに矢取りが入り、周囲が大声で退避を促すという光景があった。
 二拍手は、事故を防ぐために欠かせない運用ルールなのだ。

つづく



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2007年12月27日 (木)

日本の弓道(四)

 僕らが袴を揃えなかった最大の要因は、僕らが最後の1校ではなかったということだ。
 27校のうち26校が袴で試合に来たら、さすがに恥ずかしくなって何とかしようと思っただろう。

 小学校の時の自転車も、成長期で急激に背が伸びた後、2着めの学生服もいつも学年で最後だった。
 ずっと欲しくても親には言わないでいた。
 言わないのは我慢できるからで、我慢できるうちは、我慢できるものなのだ。

 ブログのことは親は知らない。
 もちろん、ブログをやっているんだと言っても
 「ふろく?何月号のかね?」(山口弁)
 と言われるだけかも知れない。
 これは、恨み節ではない。
 幼い頃、我慢を知ったことが、今自分の糧となっている。
 ただ、年老いた親にわざわざ耳に入れることではない。

 ヘリゲルは3年の時を経てもまだ、弓術を見いだせずにいた。
 阿波研造師範は、こう説いた。

「あなたはなにごとをも、待っても考えても感じても欲してもいけないのである。術のない術とは、完全に無我となり、我を没することである。あなたがまったく無になる、ということが、ひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになる」

 「精神を集中して、自分をまず外から内へ向け、その内をも次第に視野から失うことをお習いなさい」

 今ならば、少しだけこの言葉に感じることがある。
 人は大概、外を向いているものだ。外を向いているうちは、どこまでいっても幸せにたどり着けない。
 人や金に囲まれて、そこにたどり着いた気持ちになる。
 だが、その渦中にいる時は、日だまりに身を縮めているような幸福はない。
 いつまで続くだろうか、失うことはないのだろうか。失わぬために今なにをすべきなのだろうか。

 心休まる日はない。
 そしてそれは、いつか失われてしまう。
 内を向いている人が幸せになっている。

 4年を経てようやく的に相対したヘリゲルに阿波研造師範はこう説く。

「中てようと気を揉んではいけない。それでは精神的にいることを、いつまで経っても学ぶことができない。あなたがもしそんな技巧家になるつもりなら、私という精神的な弓術の先生は、実際に必要がなくなるでしょう」

 スポーツ弓道の上達をめざす者にとって、初期の伸びしろは特に大きい。
 弓道を始めて1年。
 僕は有頂天にいた。


つづく



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2007年12月26日 (水)

日本の弓道(三)

 弓道と言えば、皆が袴姿を思い浮かべるだろうが、僕らのチームは袴を持たなかった。
 試合に出て5人のうち、2人が袴で3人はジャージというわけにはいかない。
 3年生が引退して、僕らが最高学年になった時、2年生は僕を誘ってくれたタナカを含めて5人になっていた。

 「高体連は高学年優先で出よう」
と、いち早く決めていた僕らに「皆で、袴を揃えよう」という合議は生まれなかった。
 恐らく今時の弓道部は皆、袴着用なのだろうが、当時、袴を履いて試合に出てくる学校は長崎県に27あった弓道部の半数に満たなかった。

 ライバルの西高がいよいよ袴を揃えて試合に出てきた時も、わぁよかぁ~とは思ったが、顔には出さなかった。

 大人になり財力を得て、スポーツはカタチから入るようになった今思う。
 なぜあの時、袴を揃えようと言わなかったのか。

 事実、同じ学校の弓道部女子は1年のうち1か月しか練習に来なかったが、それでも5人しかいない部員 皆で袴を揃えていた。
 僕らも弓道をなめていたと言えるが、女子はその上をいった。
 格好は立派だが、試合で的まで矢が届かないのは、うちの女子だけで僕らは他人の振りをしていた。

 ただ僕らは女子に頭があがらなかった。
 別に女子の更衣室を覗いたのが、ばれたからではない(覗いてないし)
 それは女子に天才ミヤタがいたからだ。
 ミヤタはご多分に漏れず、他の女子同様、試合の1、2週間前になって練習を始める。
 それでも、試合ではめっぽう強く、あれよあれよという間に個人の部で全国大会に進んでしまうのだった。

 試合会場にしか顔を出さない顧問のイシイの顔に
「お前ら、なにやってるんだ」と書いてあったが、
「ごもっともです」とこちらも顔に書くしかなかった。

 僕らが袴を買おうと思わなかったのは、もちろん袴が高かったからだ。
 もしその頃にユニクロがあって、1000円で売っていたら、親に頼んでいた。

 テニスラケットや高機能のランニングシューズと違い、袴は弓道を続ける気持ちがない者にとって、いつかは無用の長物になる。
 買わないで済むならばその方がいい。
 万年中位。最高成績が27チーム中5位という僕らの成績が、袴を着るに相応しいとも思えなかった。

 だが今、長い時を置いて気付いた、その最大の要因はこうだ。

つづく



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2007年12月25日 (火)

日本の弓道(二)

 弓道の団体戦は5人で行われる。
 一人8射。合計40射のうち、いくつが的を射たかを競う。
 直径36cmの的のど真ん中に当たっても1、一番端っこに当たっても1。
 アーチェリーやエアライフルのように中心ほど得点が高いというルールではない。
 丸い的の枠は木でできており、矢が木にめり込んでいれば的中と見なすが、木を砕いて的の外に出てしまった場合は外れ。

 競技は同じチームの5人が並んで射場に立ち、順番に矢を射る。
 ゆえに弓道場は5人がタテに並べる広さがある。

 ところが、ジョニー・デップが出てきそうな森の中の小屋では3人がやっとだった。
 しかも射場と安土(的があるところの盛り土)は平行線を成しておらず、1番と3番の立ち位置では、的までの距離に1mの誤差があった。
 射場から的までの距離は28mだが、いったいどこに立てば正規の距離なのか、果たして1つでも正しい位置はあるのか、それすら怪しい。

 弓道は武道だ。
 礼に始まり礼に終わる。はず

 僕らは神棚に向かいお座なりの二礼二拍手一礼をすると、準備運動もせずに巻藁に向かう。
 巻藁(まきわら)は射場の片隅に置いてある藁を束ねた米俵のようなもの。安土の的に向かう前、型のチェックで矢を射る時に使う。
 そばには姿見(鏡)が置いてある。巻藁から2mほど離れて立ち、備え付けの矢を射る。距離が近いので、巻藁用の矢には羽根がついていない。
 さすがにこの距離で的を外す(藁を外す)人はいないが、それでも課外クラブで教えたど素人の中には外す人がいて、周囲を慌てさせた。

 「日本の弓術」
 オイゲン・ヘリゲル著 岩波文庫

 昭和初期、日本文化を学んでいたドイツ人が、5年間弓術に日本の思想を求めた記録の書。
 当時まだ、弓道は弓術と言った。
 ヘリゲルは日本に来て3年、日本人の思想は禅宗の影響があると考え、弓術に答えを求めて阿波研造 師範に師事。

 初日に巻藁に向かったところは僕らと同じだが、的に向かって矢を放つまでに4年の鍛練を積んでいる。
 僕らがそんなことをしたら、一度も試合にも出ぬまま高校生活が終わってしまう。

 阿波研造は「弓術はスポーツではない」と言った。

 僕らは袴がなかったので学生ズボンで練習にやって来る。基礎体力づくりの腕立て伏せも走り込みもなく、来る日も来る日も矢を打って帰るだけのくり返し。
 そんなスポーツと言えるかも怪しい弓道部の僕らに「弓術はスポーツではない」は我が意を得たりの言葉だが、もちろんそういう意味ではない。

つづく



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2007年12月24日 (月)

日本の弓道(一)

 かつて、毎日 矢を放っていた。
 別に前世の狩猟時代の話しではない。
 高校生の頃だ。

 中学校では転校のために運動の部活が中途半端に終わっていたので、高校ではきちんと一つのスポーツを成し遂げようと思っていた。
 というのは今、記憶を合成して書いていることで、当時はスポーツで目立って女の子にもてたかった。

 4月、公式テニス部に入った。
 初日は雨だった。
 晴れ男の僕としては、これでけちがついた。
 グラウンドが使えず、練習は校舎の廊下を走った。

 まず規定の10往復を終えたが、息は切れていなかった。
 すると、遅れて10往復を終えた3年生のキャプテンがやってきた。

「なに、ズルしてるんだ はぁはぁ」

 つづいて、指立て伏せ30回。やったことがない人は初めは手こずるが、中学ではバレー部だった僕には軽い。難なく終えた時、嫌な予感がした。案の定、キャプテンはまだ地面を見つめながら20回目あたりをやっている。

「ほんとに、やったのか? はぁはぁ」

 翌日、職員室を訪れ、顧問の先生に「やめます」と言ったが、理由は「練習がきついから」ということにしておいた。

 一ヶ月ほど帰宅部にいた。
 月に2500円のおこずかいは、クィーンやブリティッシュ・ロックのLPを1枚買うと消えた。
 学校帰りに友達とボウリングや喫茶店に行くどころか、50円のペプシコーラさえ一緒に飲む余裕はない。
 ミクシィの母校コミュでは柿本のたこ焼きやバードモナミのコーヒーゼリーを懐かしむ話題が出ているが、僕はそういうものがあったことすら知らない。
 まっすぐ帰るだけの帰宅部はヒマだった。

 そうしたある日、中学の時からの同級生タナカが僕を誘いに来た。

「弓道部に入らんや?練習せんでも高体連に出れるばい」

 聞くと、1年生部員はタナカ一人。試合は5人の団体戦で行われるので、入部すれば一年後には自動的にレギュラーが約束されるのだという。
 中学の時は文化部に入っていたタナカが1か月続いているのだから、練習がきついわけでもなさそうだし、高体連に出られるというのがいい。

 その最強のセールストークに応え、その日から練習に出た。
 弓道部は弓道場で練習する。
 場所がないからと言って弓道部が運動場で練習していたら、陸上部は恐ろしくてトラックを走れないだろう。
 だが、この学校に弓道場なんてあっただろうか?

 連れて行かれた場所は運動場に降りる長い階段を右に折れた森の中。
 シークレット・ウィンドウのジョニー・デップが住んでいそうなその森に弓道場はあった。
 僕はそれは何かのぼろ小屋だと思っていた。

 その日から弓術にはほど遠い、スポーツと言うのもおこがましい弓道生活が始まる。

つづく



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2007年11月21日 (水)

大場、長谷部の快投を祈る

 2007年3月9日、西武ライオンズがアマチュア2選手にかつて金銭を渡していたことを公表。東京ガス木村雄太(2006年ドラフトで横浜の指名を拒否)に270万円、早稲田大学の2007年度4年生野手におよそ1,500万円(うち500万円は一場靖弘問題後に手切れ金として渡していた)
 一場靖弘を巡る裏金問題で巨人阪神横浜のオーナーが退陣していた頃、西武は大学生に手切れ金を渡し、ばれなければよいとほっかむりしていた。

 その後さらに、西武では既に入団した選手に出来高の上限を超える支払、契約金の前渡しなどルール無視の悪行が発覚。
 横浜も那須野巧に申し合わせを大幅に超える契約金を渡していたことが公表されたが、那須野は何の自粛もなく、そのまま投げ続けた。
 NPBが横浜にペナルティを課さない理由は「申し合わせであり、ルールではない」ということだが、それならばルールにない「空白の一日」で江川は大手を振って巨人に入れるべきだった。

 西武のルール違反を契機に希望入団枠が廃止され、半年後に迫ったドラフト会議から、選手側に選択の自由がなくなった。
 悪いのは西武。不祥事の責任を大場や長谷部にとらせてどうする。

 大学生・社会人の有望選手は春先まで希望球団に行けると思っていたところ、西武の不祥事のために選択の自由が奪われてしまった。
 大場翔太はファンだったという巨人斎藤コーチの師事を仰ぎたかっただろうし、愛知工業大学の長谷部康平は中日に入りたかったかも知れない。
 ただ、これからプロ野球で飯を食うためには、その不満を口にすることは許されず「12球団どこにでも行きます」と明るく言わなければならないのが哀しい。

 大場は6球団が1位指名してソフトバンク、長谷部は5球団が1位指名して楽天がそれぞれ交渉権を得た。恐らく2008年が最後の指揮となる昭和世代の名選手、王・野村の元に奇しくもドラフトNo.1、2の選手が行く。
 選択の自由を奪った西武を相手に、二人の若者の快投を祈る。



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2007年11月20日 (火)

2007年ドラフト会議

 1965年(昭和40年)第1回開催で堀内恒夫巨人に入団して以来、43回めのドラフト会議が行われた。

【 ドラフト会議2007スケジュール 】
9月15日
高校生のプロ野球志望届け締切

10月3日
高校生ドラフト開催

10月27日~11月10日
大学生・社会人プロ野球志望届け提出期間

11月19日
大学生・社会人ドラフト開催

 ドラフトは開始以来28年間、指名順位を抽選で決めてから指名していたが、1993年に逆指名(1球団2人まで)が導入され、同年にFAも始まった。
 2001年ドラフトから逆指名が自由獲得枠に替わる。
 2005年ドラフトからは高校生と大学生・社会人を分離開催。希望入団枠(1人)となる。

 1993年に逆指名が始まってから、不人気球団は大学・社会人の有望選手を獲得できなくなった。その代わりに選択の自由がない高校生の有望選手は競合が減り獲得しやすくなっていた。
 だが、2005年に高校生ドラフトが分離されると、そのうまみすらなくなった。これは人気球団のご都合主義と言われたが、選択の自由がない高校生にとっては希望球団に入るチャンスが増え、福音だった。

 プロ野球ファンやメディアは球団間の戦力均衡という視点に偏っている。
 讀賣新聞だけが有望選手のMLB流出を憂い、選手の側に立っている。
 現在のルールでは有望選手は、日本のプロ野球に入らなければならない。
 ドラフト会議で指名されなかった選手は、MLB球団に入ることができる。だが、有望選手を全球団が揃って指名しないということはない。

 ドラフト会議の前に提出する「プロ野球志望届け」を出さなければ、ドラフト会議で指名されないが、そのうえでMLB球団に入団する強者はまだいない。

 大場や長谷部が希望球団でのプレーを夢見て迎えた大学3年の春、事態は一変した。(つづく)



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2007年10月27日 (土)

日本シリーズを巡る幸せの順番

 2006年ワールドカップドイツ大会
 準決勝でアンリのせこいPKにより0-1で敗れたポルトガルのスコラーリ監督は、
「この数日後に3位決定戦を戦うのは酷だ」
 と言った。
 FIFAに2チーム分の銅メダルを作る予算がないわけでもないだろう。
 3位が2チームあっても、何もおかしくはない。
 ただ、日程もあるし、選手も拘束してある。とりあえずカネになるからやろうという存在価値が低い試合。

 さて、NPBのクライマックスシリーズ~日本シリーズはやはりダメだ。

 中日・落合監督
■2007年ペナント・レース前の談話
「日本シリーズは去年で終ったな」
■巨人リーグ優勝時の談話
「今年の三つのハードルのうち一つ目を越すことができなかったが、チャンスが残っている。悔しさをそこにぶつけたい」

 クライマックス・パでは勝者のヒルマン監督を胴上げしたが、クライマックス・セでは、中日は落合監督を胴上げしなかった。勝者の盾をかざしてはしゃぐウッズをコーチが制する姿も見られた。

 この時、選手たちはこう言った。
 「全然嬉しくない」
 「日本シリーズに勝たなければ、この勝ちの意味がない」

 一方、巨人上原は優勝を争っていた終盤。お立ち台でこう言った。
 「優勝します。それしか狙ってないです。クライマックスなんておまけみたいなもんだから」

 ペナントレース、クライマックスシリーズ、日本シリーズと続くレギュレーションの中で幸せな順にグループを分類するとこうなる。

 最も幸せ
  ↑
1、ペナント優勝、クライマックス勝利、日本シリーズ勝利
2、ペナント優勝、クライマックス敗退
3、ペナント2・3位、クライマックス勝利、日本シリーズ勝利
4、ペナント2・3位、クライマックス勝利、日本シリーズ敗退
5、ペナント2・3位、クライマックス敗退
  ↓
 あまり幸せではない

 3の場合、東京大学に3年から編入して、主席で卒業しました。
 よく知らない人からは「よっ日本一」と言われるし、「日本一」と言い張れないことはないが、自身には忸怩たる思いが残る。
 といったようなものだ。

 4の場合、クライマックス第1、クライマックス第2、日本シリーズと戦ったのに、結局何の栄誉も残らない。ピエロに等しい。

 このような厳しい精神状態で戦う選手は、それを貴重な経験と前向きに捕らえるだろうか。
 メディアで見る限り、中日の選手はとても集中しているように見える。それは、パターン4になった時の悲惨を思うとぞっとするからだろう。

 日本一という名誉がなくなった今、健康管理と翌シーズンへの準備を考えた場合、選手の本音を言えばパターン2が一番の幸せだろう。
 リーグ優勝が決まれば、あとは「おまけ」のカップ戦がだらだらと続く。いずれファンの興味も薄れる。

 それでも、NPBは「反省もあったが、一定の成果があった」などと言って、来期は「変則日程」をパセ同時進行に修正して、胸を張ってこの制度を続けるかも知れない。

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2007年10月25日 (木)

落合監督と江川

 50歳になった年、中日と2年契約をむすび、落合は監督になった。
 1998年オフ、日本ハムを最後に現役を引退してからは、5シーズン野球解説を続けており、コーチ経験はない。

2004年
6月、ナゴヤドームの巨人、ヤクルト、横浜戦の使用球をミズノ製から「飛ばないボール」のサンアップ製に替える。味方に長打力が無く、相手の長打を封じたいがための策。
 シーズン後、巨人の堀内監督は「せこい」とコメントした。
10月1日、巨人がマジック対象のヤクルトを破った瞬間にリーグ優勝が決まる。
 コーチ経験がない監督の就任1年目優勝は史上初。(長嶋の初優勝は2年目)同年のパリーグ優勝(シーズン勝率は2位)西武の伊藤監督がこれにつづき2人めとなった。
 日本シリーズではパリーグ勝率2位の西武に敗退。第2戦勝利監督インタビューでの「(所沢で)3連勝するので、名古屋には戻ってこない」が今年唯一外れた予言となった。

2005年
9月には阪神を逆転すると予言。福留は「監督にはそういうところがある」と暗示にかかっていたが、予言は外れた。

2006年
2度めのリーグ優勝。日本シリーズで古巣日本ハムに1勝4敗で敗退。
オフシーズン中日と新たな2年契約を結ぶ。

2007年
リーグ優勝を最後まで巨人と争い2位。残り7試合でマジック7が点灯「だいじょうぶ全部勝つから」と公言したが成らなかった。

 監督として4シーズンを戦い、リーグ優勝2回。日本シリーズ出場3回はすばらしい実績。
 与えられた予算の中で最高の結果を出したのには理由がある。
 名のない選手を名実伴う指導者が使う時、采配には自由度が高く、人心を一つにしやすい。そこに結果がついてくる。
 私信を捨て、立場を演じることに徹しているから、落合のチームは強い。

 できることならば、空白の一日で命運を分けた2歳年下の江川(2007年で52歳 コーチ経験なし)と監督として対戦するのを見たい。

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2007年10月24日 (水)

落合40歳で巨人へ

 落合はロッテから1-4のトレードで中日に移籍した直後、契約更改で球界初の1億円プレーヤーとなる。
 現代のNPBでは3年ほど一軍にいるだけで、一億円もらうのが当然の権利のように言う選手がいる。だがかつてはONでさえ届かなかった一億円。三冠王3回という金看板をもってして、ようやくその壁は破れたのだった。この功績において落合は球史に残る選手である。

1989年
スポーツ紙が発言を曲げて伝えたため、キャンプ中は報道陣と筆談。

1991年
37歳で迎えたシーズン。セリーグで初めての打撃タイトル、本塁打王を獲得。これが現役最後のタイトルとなった。

1993年
オフ、あと数ヶ月で40歳というところで巨人にたどり着く。
その年に導入されたFA巨人移籍。ロッテ、中日でつけた「6」を篠塚から奪うことを快しとせず「60」をつけた。
1994年
移籍1年目でリーグ優勝に貢献。10.8決戦の一塁守備で負傷し、日本シリーズにはフル出場できなかった。10・8は球史における最も緊迫した戦い。ここで落合が見せた必死の形相は今も脳裏に焼きついている。

 この頃名古屋では、落合が家族で出演するボウリング場のCMが放送されていた。
 落合が自宅に電話をかける。
 長男が電話をとる。
「ふっくん今から出ておいで」と落合が呼びかける。
 そして家族三人でボウリングを楽しむというもの。ボウリングはプロを目指していたほどの腕前。

1995年
前シーズンで篠塚が引退したので「6」をつける。

1996年
オフ、清原が西武からFAで移籍してくるのと入れ替わりに巨人を退団。日本ハムと契約。

1998年
オフ現役引退。現役時代~生涯打率.311、本塁打510、打点1,546。

2001年
4月、著書「コーチング―言葉と信念の魔術」ダイヤモンド社 発表。

2003年
10月、中日監督就任。ニュース番組に出演した際「日本シリーズはすべてホームチームが勝ち4-3でダイエー」と予言。的中させる。

 そしてここから、落合の予言癖が始まった。

(つづく)

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2007年10月23日 (火)

三冠王のコンバート

 江川騒動のために巨人に入り損ねた落合博満は、江川と同期でプロ入りした。 ロッテから中日。そしてFA制度元年(1993年オフ)ようやく巨人にたどり着く。
 その時、プロ入りから15シーズン、江川引退から6シーズンが過ぎていた。

 ただ、希望を叶えて巨人だけで終えた江川と違い、他球団を渡り歩いてきた落合に対する巨人ファンの愛着は薄い。

1980年
前半は怪我。後半57試合で.283、15本、32打点。土肥健二のフォームを取り入れた効果が出た。
*参考文献「週刊ベースボール」ベースボール・マガジン社 1999年2月22日号

1981年
プロ入り3年めのシーズンで首位打者獲得。守備位置セカンド。

1982年
の三冠王。28歳での獲得は史上最年少だった。

1983年
ファーストにコンバート、首位打者。

1984年
山本功児の移籍入団でサードに回る。
三冠王経験者が巨人の控え選手の入団で、守備位置を替わる。チームのためとは言え、それを受け入れるところが落合の懐の深さ。このシーズンはブーマー(阪急)に三冠すべてを明け渡し、無冠に終わる。

1985年
二度目の三冠王 52本塁打(初の40本以上) MVP

1986年
4月、初の著書「なんと言われようとオレ流さ」講談社~発表。
2年連続三度めの三冠王
オフ 巨人移籍を希望していたが、1-4トレードで中日にトレードされる。
 中日は、大打者落合が巨人でスーパースターの道を歩むと言う最悪のシナリオを何とか阻止した。

 中日ファンは中日が優勝すること以上に、巨人が優勝しないことを祈る。
 後に中日を出て、巨人に移籍した落合は、バルセロナからレアル・マドリーに移籍したフィーゴ級の裏切り者としてひんしゅくを買っていたが、今はこうして名監督として頂いている。
 機を見るに敏、変わり身が早く、柔軟なところは特筆に値する。

つづく

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2007年10月22日 (月)

江川の400勝

 新浦の1976年は11勝11敗、1977年は11勝3敗。
 そして1978年は15勝7敗とチームの勝ち頭となる。同時に15セーブを挙げており、名実共に巨人のエースに成長した。

 確かに怪物江川を巨人で見たい。
 だが、ようやく芽が出た現在のエースとの引き換えはあまりに痛い。

 数時間後、巨人ファンの痛みは喜びに変わる。
 交渉の結果、交換要員は小林だった。
 小林は1978年の13勝のうち5勝を阪神から挙げている。だが、チームのエースではない。
 阪神の指名が初めから小林だったのか。新浦指名を巨人が拒否したためなのかはわからない。

 巨人ファンは安堵した。
 未知の怪物江川と、下り坂に入ったと思われた小林。
 悪くない話だ。

 小林が阪神移籍初年度に22勝を挙げたことは、多くの人の記憶に残っているが、その後の印象は薄い。ただ彼は現役生活を終えるまで、大きな故障もなく阪神で77勝を挙げている。
 新浦がその後巨人在席中27勝にとどまったことを思えば、阪神に先見の明があった。

 1981年 20勝6敗 最多勝 最優秀防御率 最多奪三振
 江川が投げる試合は進行が早く、20時を回ってすぐに終ることもあった。
 平和台球場の駐車場整理をしていた時のこと。
 入場車両も途絶えたので、後は江川を見ようとネット裏に入ってみたら、20時5分に試合が終ってしまった。江川の投球を見ることができたのは9回表の1イニングのみ。
 球場係員は早く帰れるので大喜びだったが、江川をじっくり見ようと楽しみにしていた僕は目が点になった。

 入団3年めにして名実共に球界一の投手となったが、期待に反してこれがピークになってしまった。

 1984年、オールスターゲームで9者連続三振を逃す。
 既に球が走らなくなっていたがオールスター戦ではなぜか速球が復活。
 9人めの打者近鉄大石に投じた2-0からの外角カーブを当てられてセカンドゴロ。
 江川は2001年の著書「マウンドの心理学」で "記憶から消し去りたいカーブ" と表現している。

 1987年オフに現役引退。通算135勝。
 かつて迷惑をかけた小林の139勝にあと4つというところで、ユニフォームを脱いだ。

 小林も江川も、それぞれのルーティングを通して、幸せな野球人生を送った。
 ただ、巨人ファンは江川が作新学院から入団して、20年連続20勝の400勝で引退するのを見たかったのである。

つづく

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2007年10月20日 (土)

江川卓と小林繁

 江川卓は多くの巨人ファンにとって、今も心残りが大きい。

 1973年のドラフト会議で作新学院の江川は阪急に1位指名された。
 当時は選手が事前に希望球団を公言する風潮はなく、巨人志望であることは一般に知られていなかった。江川は入団を拒否して法政大学に進む。この時慶応に落ちていなければ、今頃巨人の監督をしていたかも知れない。

 巨人ファンが指折りかぞえて待った4年後の1977年
 ドラフト会議で一番くじを引いたのはクラウン。
 当時のドラフトはまず、指名順のクジを引き、その順番に選手を指名していく方式。
 志望球団の巨人が引いたくじは2位。山倉捕手(早稲田大学)を指名した。
 江川は「福岡は遠い」と言って入団拒否、野球浪人に入る。
 後に元木がそうしたが、当時、野球浪人という例は無く、ここに来て江川の巨人熱望が知られるようになった。

 そして今度こそ巨人と願った3度めのドラフト会議。
 巨人ファンは浪人してまで待った江川に幸運が舞い降りることを願った。

 そこで、全国の巨人ファンは驚くことになる。
 クラウンとの交渉期限が切れた翌日でドラフト会議前日(その後「空白の一日」と呼ばれている)に巨人と契約 NPBは契約を受理しなかった。
 ドラフト会議では一番クジを引いた阪神に指名される。

 ここに後の「三冠王」落合が絡む。
 巨人はドラフト会議を欠席。江川に次いで2位指名を予定していた東芝の落合を指名できなかった。
 江川同様、巨人を志望していた落合は3位でロッテが指名。
 1986年オフ、巨人移籍希望を "セリーグ希望"と表現していた落合を、ロッテ(有藤監督)は1対4のトレードで中日に放出。
 有藤監督のコメント「希望通りセリーグだから文句ないだろう」がスポーツ紙に載った。

 「江川問題」は解決を見ぬまま年を越し、キャンプイン前日を迎える。
 1979年1月31日、阪神と契約。その日のうちに小林繁との交換で巨人に入団。
 メディアは一斉に小林を擁護、江川を叩いた。

 18年の時を超えて清酒黄桜のCMで”初対面”した小林と江川。
 現代のメディアは「巨人のエース小林」「何の実績もない江川」と対比して表現している。

 確かに1976年、1977年の小林は、2年つづけて18勝8敗。10の貯金をもたらしており、巨人のエースだった。
 だが、1978年は13勝12敗 2セーブ わずか1つの貯金。
 新浦の1978年は15勝 7敗15セーブ
 誰が巨人のエースなのかは、巨人ファンならば誰もが知っていた。

 コミッショナーが巨人と阪神にトレードを呼びかけたと一報が出た時、大半の巨人ファンは
 「あぁ新浦を持っていかれるのか」
 そう観念した。

(10月22日につづく)

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2007年10月19日 (金)

ボクシングがある

 「今日はボクシングがあるね」

 朝刊でボクシング世界タイトルマッチの中継を知ると、心が躍った。
 テレビは8時までと決まっているので母と交渉に入る。

 「先に風呂に入って、宿題も済ませるし、試合開始まではテレビを見ないから、見せて!」

 こういうといつもOKを出してくれた。
 ボクシングがある日。
 1970年代の家庭では、似たような華やいだ空気がお茶の間に流れていたと思う。

 あの頃、ボクシングはなぜ特別な存在だったのか。

■当時、日本人が世界を相手に戦い、勝利の可能性がある唯一のスポーツだった。

■格闘技中継はプロレス、キックボクシングがあった。
 キックボクシングは週1回。プロレスは週3回ゴールデンタイムに中継があり珍しさに欠けた。
 「プロレスは八百長」という評価が根強く、現代のヴァーリ・トゥードと比べると明らかにシナリオを感じさせるものだった。
 真剣さでは、キックボクシングも肩を並べていたが、相手が東南アジアの選手に限られていた。

 1980年代に半ばショーとしてのプロレスの価値観が認められたこと。
 アントニオ猪木が「格闘技路線」というプロレスの新境地を切り開いたこと。
 1990年代に入りK-1、PRIDEなど真剣勝負の格闘技が他にも登場したこと。
 これらの要因により、ボクシングの価値は色あせた。
 「今日はボクシングがあるね」は聴かれなくなった。

 1998年以降、ワールドカップという世界を相手に戦う舞台を手に入れたサッカーがこれに代わり
 「今日はサッカーがあるね!」
 が家族や友人との会話に登場するようになった。

 「ボクシングがあるね」の時代は終った。
 ボクシングだというだけで、見る人はもういない。
 ダウンが一度も無く、手数や効果的パンチといった「印象評価」で勝敗が決まる上品な格闘技はつまらない。

 僕が興行主だったら、倒さなければ勝敗が決まらないルールに変える。
 僕がすべてを決めてよかったら、殴り合いを見世物にする興行自体をやめる。

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2007年10月18日 (木)

玉を打て 目を狙え は初めてじゃない

「玉を打て」
「目を狙え」

 これをポルトガル語やスペイン語やなじみの薄い国の言葉でセコンドが言ったとしても、誰もわからないし、そこに焦点をあてて取り上げたメディアを知らない。

 これまでに数多く行われてきたボクシングの世界戦で、そういった行為がどれだけ行われていたかは誰もデータを持っていない。

 本来、格闘技ショービジネスに反則は付きもので、それが注目されたことはなかった。
 アブドラ・ザ・ブッチャーがビール瓶でザ・デストロイヤーの胸を刺したとき、さすがに日テレはビール瓶が突き刺さる瞬間にVTRを停めたが、そういう事実をしっかり全国放送した。
 トーア・カマタが馬場に塩を振っても、謎のマスクマンが覆面にベーゴマを仕込んでいても、それを検証した報道を見たことがない。

 ボクシングはスポーツでプロレスはショーだというような区別は、見ている側がそれぞれに思うこと。
 元々、日常社会ではあってはいけないこと(殴り合い、取っ組み合い)を人前でやるという時点で、ボクシング、プロレス共にエンターテインメント以外のなにものでもない。

 あれが「神聖なスポーツ」だというのならば、暴走族の皆さんは大いに取り組まなければならないし、警察の皆さんは「いい汗かいているな、お前たち」と目を細め、暖かく見守っていることだろう。
 ボクシングが上で、プロレスは下といった階層は実在しない。
 スポーツに貴賎はない。

 要は「問題に仕立てたい」理由があるから、言うのである。

 亀田家の放送を独占して、いい思いをしているTBSをみて、隣りの芝生は青いなぁ、芝生が枯れたらいいのにと思っていた人たちが言っているだけのことで、それに乗っかって「処分が甘い」などと感想を述べている人たちの賢眼に目を見張るものがあった今回の「ボクシングの中で起きたレスリング騒動」だった。

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2007年10月 9日 (火)

ノリックに贈ることば

 いつも新聞はスポーツ面から見る。
 昔のスポーツ面は後ろから3枚くらいめくった所にあって探しやすかったのだが、最近のスポーツ面は中面にあり、探すのに手間取ってしまう。

 今日は特に気になるスポーツ結果もないなと思って開いたそこに
「阿部典史さん事故死」
 なんだか随分、昔のことを書いているような評伝がつづく。
 きいてないよ、そんなこと。

(本文記事31面)
 俗に言う三面記事に客観的事実としての事故報道があった。

 川崎区大島一丁目の路上
 その住所をカーナビに打ち込んで、現場へ向かう。

 着いた場所には、それらしき手向けた花もない。道路は三車線。
 新聞には二車線とあった。
 交差する二車線の道へ曲がると、イベントでもやっているかと思うような路駐の車列。植え込みを隔てた自転車道路に無数の花と50人ほどの人垣があった。
 人は、野次馬としてではなく、事故現場に来ることに慣れていない。
 携帯のカメラを当てもなく向けている一人で来た男性
 束にした線香を燃す女性二人組

 手向けられた花束に向けてではなく、ノリックが倒れたであろう道路に向かい合掌する。
 ありがとう、ノリック
 君がYAMAHAに乗ってくれると知った時は 「うそだろう?信じられない」 と思った。
 君はあのままホンダに乗って、世界へ駆け上がるのだろうと思っていた。

 WGPに参戦した君は着実にゼッケンナンバーの数を減らし、近い将来、1をまとったマシンにまたがる日が来るのではないか?と、すべてのレースから目が離せなかった。初めての鈴鹿での勝利。今度こそ、こけないでくれ。親戚の甥っ子が走っているかのように、どきどきした。

 かつて君の監督だったウェイン・レイニーは、その絶頂期にレース中の事故で下半身の神経を失いレース引退を余儀なくされた。何をもって幸せとするかは人それぞれが決めることだが、レイニーには今も家族に囲まれた幸せな生活がある。

 君はまだ32歳。
 命あれば、これから多くのことを学び、多くの人と出会い、そしてその人達を幸せにしたことだろう。
 僕たち生ある者は、命のはかなさを知り、今生きる幸せを感じ、明日も新たな感動に出会うには、自分はどのように未来から来る時間に立ち向かわなければならないかを、日々、考えなければならないと思う。

 最後に君に贈ることばは「ありがとう」
 いつも君は爽やかな好青年で、レースを見るファンをより楽しい気持ちにさせた。

ノリック 阿部典史について

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2007年10月 8日 (月)

尊敬されないホームラン王

 今年のプロ野球の終盤、ある世代交代があった。

 子どもの頃、ホームラン王は毎年、王が取っていた。
 王以外が取ることを知らないので、ホームラン王は王が取るからホームラン王であり、長嶋がとるとホームラン長嶋になるのだろうと思っていた。

 前の日に王がホームランを打ったかが、新聞を開いて真っ先に確認するニュース。成績におごらず、ホームランを打ち続ける王を誰もが尊敬していた。

 だが、日本球界には二人の尊敬を得られないホームラン王がいる。


1996年 山崎(中日 当時監督は星野)

 39本で松井、大豊(中日)を1本リードして迎えた巨人との最終戦。中日は松井を4打席敬遠した。
 中日はこの年が狭いナゴヤ球場最後の年。
 松井が初めて本塁打王を取るのはこの後の1998年。
 広くなる球場、成長してゆく松井。
 山崎は「せこいかも知れないけれど、一度きりかも知れないから」という主旨の感想を述べた。


2007年 村田(横浜

 35本で高橋由伸(巨人)、ウッズ(中日)と並んでいた10月6日のこと。
 引退試合として9回2死10対0でリードの場面で出てきた佐々岡から36号を打つ。
 勝敗ではなく自分のために打った1本。
 しばらく第一線を離れていた投手から「タイトルがかかっていたから」と放った本塁打は、試合後に涙で「辛かった」と語ろうが尊敬されない。
 その2日前のヤクルト戦では、プロ最終打席の代打に立ったヤクルト鈴木健の3塁ベンチ前ファウルフライを捕球せず、粋なところをみせた村田。鈴木健はつづく球をクリーンヒットしてプロ生活に有終の美を飾ることができた。
 2007年のプロ野球で、最もじーんときた一瞬だった。

 だが自分のことになると場を見なかった村田。
 次の打者は途中から守備でライトに入っていた内川。
 続けてヒットでも打たれたら・・
 壊れてしまった佐々岡お別れムードを修復するには、ここは三振しかない。
 そこで、大矢監督は場を見るベテラン鈴木尚を代打に送る。そして見事、空振り三振でゲームセット。なんとか佐々岡の引退に華を添えた。

 村田はこの日打てなくても、翌日以降に3試合を残していた(中日1ヤクルト2)
 中日は35本で並ぶウッズがいるため勝負してもらえないとしても、ヤクルトは違う。鈴木健のファウルフライを落とす計らいをしてくれた村田に対して、ヤクルト投手陣が勝負を避ける理由はない。

 真剣勝負で結果を残してこそ、尊敬は得られる。
 一度、不興を買うとそこから立ち上がるのは難しい。

 山崎は11年の時を超えて、真剣勝負の本塁打王となり尊敬を得た。
 その系譜を奇しくも山崎が不興を払拭した年、村田が引き継ぐことになった。

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2007年10月 3日 (水)

失うものがない戦い、得るものがない戦い

 さぁ、あとはクライマックスシリーズ
 チケットが売れて、テレビ放映権もはいるオープン戦。
 讀賣グループの皆さんはさぞ、お喜びのことと思う。
 できれば、G+ではなく地上波で流してもらいたい。

 選手の皆さんは、エキジビションを控えたフィギュアスケート選手のように、結果を問われない晴れ舞台を楽しむだけ。
 これは幸せだ。

 特に巨人は前回優勝の2002年まで、日本シリーズに負けたらすべて吹っ飛んでしまう可哀想なチームだった。
 今年からは、リーグ優勝ですべてが終わっているので、何も失うものがない。

 もちろん、ロッテ、ソフトバンク、中日、阪神という4チームにも何も失うものがないが、彼らには何も得るものがない。
 ロッテの場合、監督が「これから真の勝者を決める戦いが始まる」と言っているので、その気なのかも知れないが、通訳の誤訳であることを願いたい。

 巨人ファンは皆ほっとしている。
 2002年日本シリーズ、かつて4勝0敗で負けた西武に4勝0敗の勝利。
 第4戦、鈴木尚広が浅いレフト前ヒットで生還したシーンに酔ったファンに、その後の4年は想像できなかった。

 松井秀喜が日本プロ野球をぶっ壊した。
 これは歴然とした事実だ。

 Jリーグは欧州と南米の真似をして作った歴史の浅い興業。
 だが、プロ野球は日本を代表するプロ競技だ。
 カズや中田が欧州へ行ってもJリーグは壊れないが、予定調和日本ムラ社会の象徴、巨人の4番が、そのムラを捨てた。

 人々が大切に守ってきたガラス細工のような野球ムラ社会が2002年秋、音を立てて割れた。

(10月10日につづく)

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2007年10月 2日 (火)

おいしい秋のオープン戦

 日本シリーズはNPBパリーグとセリーグの代表が対戦するカップ戦
 2007年大会は、2003年当時の名称をそのまま使用しているが、日本一を決める大会ではない。

 2003年まではNPBナンバー1(日本一)チームを決める野球大会として、パリーグ優勝球団とセリーグ優勝球団が対戦していた。

 第1回は1950年
 NPBがセリーグ8球団、パリーグ6球団に分割した初年の11月。
 パリーグ毎日オリオンズ4-2セリーグ松竹ロビンス

 その後、セリーグは2006年まで一貫して優勝チームが日本シリーズに進むルールだったが、パリーグは興業優先で2シーズン制プレーオフの勝者を日本シリーズに出場させた時期があった。

 2003年まではパ・セ2リーグそれぞれのリーグ戦勝者の対戦だったため、日本シリーズ勝利の価値は各リーグ優勝の上位に位置づけられた。

 パリーグがプレーオフを始めた2004年以降は、その価値が曖昧になった。
 2004年西武、2005年ロッテはいずれも、パリーグ2位のチーム。
 そして、2年続けてパリーグ2位球団が日本シリーズを制した。
 プレーオフで勢いをつけてくるパリーグチームに対して、試合間隔が空くセリーグは「これでは勝てっこない」と泣きを入れた。

 だが、パリーグの「興業さえ成功すればそれでよい」というご都合主義を容認したのはセリーグ。
 そして、2007年からはセリーグもそのご都合主義に相乗りした。

 パ・セ両リーグ共に優勝チーム以外が出場する可能性がある2007年以降の日本シリーズには、かつての権威はなく、秋のオープン戦である。

 かつて、日本シリーズが日本選手権だった頃、選手は優勝を決めた日にも
「まだ後に大きな仕事が待っていますから、喜びは今日で忘れて、明日からはまた気持ちを切り替えて、次の目標に向けて準備します」
 と言わなければならなかった。

 だが、今年からは選手は楽だ。
 後に残っているのが客入りがよく、テレビにも映るオープン戦。
 五輪でいえば、フィギュアスケートのメダリストが決勝翌日にエキジビションを滑るようなもの。

 まずは、その美味しい立場を日本ハムの皆さんが手に入れた。

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2007年9月10日 (月)

横浜・大洋とプロ野球

 横浜ベイスターズは親会社が民法キー局なのに、主催試合のテレビ中継がほとんどない。
 このことは、いかに野球の力が落ちているかの証左だ。

 2007年、横浜はかつての地元、下関で公式戦をおこなった。
 横浜は日本プロ野球が2リーグに分裂した1950年に創設されたセリーグの球団。
 1949年11月22日、大洋漁業が大洋ホエールズを創立。
 1950年、セリーグに参加。
 近年、平成の大合併で巨大な面積を持った下関市(山口県)が当初の本拠地。
 チームの愛称「ホエール(whale)」はクジラ。捕鯨はかつての親会社 大洋漁業の柱の事業だった。

1953年、松竹ロビンスと合併 大洋松竹ロビンスとなる。本拠地:大阪球場
1955年、球団名が大洋ホエールズにもどる。本拠地:川崎球場
1960年、初優勝 初日本一(三原監督)
1978年、横浜大洋ホエールズと改称。本拠地:横浜スタジアム
1993年、横浜ベイスターズと改称。
1998年、2度めの優勝 2度目の日本一(権藤監督)
2001年11月、マルハ(旧 大洋漁業)からニッポン放送に経営権が移る。
 いったん承認されたが、ニッポン放送が所属するフジサンケイグループは、ヤクルト・スワローズの株式も保有しており、野球協約違反。後日、コミッショナーがミスを認めて、経営権委譲が白紙に戻った。
2002年1月26日、マルハからTBSに経営権が移ることがオーナー会議で承認される。

2005年、楽天がTBSの筆頭株主となる。楽天はパリーグの楽天ゴールデン・イーグルスを保有しており、一事業者二球団保有を禁止する野球協約に違反しているが、なぜだか放置されている。
2007年4月、那須野巧に協定以上の契約金を支払っていたことが発覚したが、球団は「協定破りは違反ではない」とメディアに公言。自分の都合がいいように解釈すれば、世の中のルールは守らなくてよいという手本を人々に示した。

 2007年、西武の不祥事はドラフト制度を変えてしまった。
 横浜はどんなにルールを破っても放置されている。
 自ら襟を正す力を失った日本プロ野球は、衰退の道をひた走っているが、それを軌道修正できるリーダーは今のところ、いないようだ。

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2007年9月 6日 (木)

クライマックスシリーズ=断末魔シリーズ

 集客難にあえぐNPBがご都合主義でひねり出した、戦いの本筋と外れた日本シリーズ予選。
 NPBはリーグ戦終了で幕を閉じ、あとは余興試合が始まる。

2006年までの日本シリーズ
 セリーグ優勝チーム対パリーグのプレーオフ勝利チーム

2007年の日本シリーズ
 クライマックス・パの勝利チーム対クライマックス・セの勝利チーム
 
リーグ優勝チームが日本シリーズに1チームも出ないというNPB史上初の事態になる可能性がある。

【 競技方式 】パリーグ、セリーグ共に同じ
第1ステージ、年間リーグ戦3位のチーム対2位のチーム(3試合)
   ↓
第2ステージ、第1ステージの勝利チーム対優勝チーム(5試合)

・上位チームのアドバンテージは無い。

 リーグ戦優勝チームは、クライマックスシリーズの結果如何を問わず、優勝チームとして扱われる。
 合理的なルールではない戦いは、賞賛されない。
 だが、支持されることはある。MLBが同様の意味不明なポストシーズンゲームで盛り上がっていることがその好例だ。

 シーズン終盤の優勝争いは本来、盛り上がるものだが、負けても後でなんとかなるというルールはプレーする側、見る側の緊迫感を損なう。
 シーズンが始まる前から「目標は3位以内」と言っていた監督がいた。現実的な言葉ではあるが、それを言った時点で、そのチームの選手とファンは、競技ではなく見世物に参加していることになる。

 アメリカに横倣えで導入しているIT技術が、ことごとく日本企業の精神的な崩壊を引き起こしている。アメリカに倣ったスポーツがそうなる可能性は高いとみる。

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2007年7月11日 (水)

残念なお知らせ

 スゴイですね フェデラー5連覇ですか。

 この日、最も聞きたくなかったそのひとこと。
 7月9日10時10分
 こんなに早い時間帯に聞くことになるとは思わなかった。
 背後の雑談から聞こえてきた。

 いま、職場に常駐している外資系コンピューター会社系列のコンサルタントの方たち。
 この方たち、会話も欧米調にしなければならないという思い込みでもあるのか、一日中うるさい。
 1日10時間いるとしたら20%は喋っている。

 そして、声が大きい。
 上滑りのアメリカンジョークが飛び交う。
 ダンディ坂野が会社に来たかと思う。

 「残念なお知らせだねぇ~」

 それはこっちの台詞だ。 だいたい、なんだそのフレーズは?秋葉系の流行言葉か?
 仕事のことを話しているならば、まだ諦めもつくのだが、とにかく雑談が多い。
 その雑談の一秒一秒も僕らクライアント企業がお金を払っているのだという想像力がないのだろう。

 欧州で行われたスポーツは録画で翌日の晩に見ることがある。
 欧州CL決勝の時は、フットボールの結果が出ていそうなウェブサイトを避け、ミクシィも極力見ない。今年はこれで一日セーフだった。

 さてウィンブルドンはどうかというと、冒頭のシーン。
 始業後1時間でアウト。
 思わず「スポーツの結果を話すのはマナー違反ではないか?」とチャレンジしたくなるが、客先の事務所で我が物顔で騒ぐ彼らには、機嫌を損ねるだけだろう。

 「あぁ眠い 欧州で世界的な大会やるの、やめて欲しいよね」

 こっちは、あなたがここに派遣されている日が、一日も早く終るのをじっと待っている。

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2007年6月 2日 (土)

パセ交流戦

 NPBパリーグチームとセリーグチームが対戦するレギュラーシーズンの公式戦。
 リーグ戦成績に加算される。2005年より開催。

 赤字が深刻なパリーグチーム救済のために再編騒動の末、企画された球界振興策。

2005年
5月6日~6月16日開催。
雨天予備期間6月17日~20日。
異なるリーグの6チームすべてとホーム、ビジター3試合ずつ対戦。6×6=36試合。1チーム36試合、合計216試合。
パリーグ球団主催試合ではDH制を採用。
日本生命が冠スポンサーとなった。

2006年
5月9日~6月18日開催。
試合数は2005シーズンと同じ。
1チームあたり36試合は前年同様。
二年続けて日本生命が冠スポンサーにつく。

2007年
5月22日より開催。
試合数が減らされて、1チームあたり24試合となる。

 2004年オフの報道で「セパ交流試合」と表記されて以来、2006年までそう表記されていた。
 2007年は「セパ交流戦」と表記されている。
 2004年~2006年シーズンは3年連続でパリーグ優勝チームが日本シリーズを制しているので「パセ交流試合」と表記してもよさそうなものだ。

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2007年4月19日 (木)

左対左が不利な理由

 プロ野球が開幕している。
 阪神や巨人には相手球団が左投げの先発投手を起用することが多い。

 野球で左対左で打者が不利な理由は
 投手の感情が読めないので、駆け引きの面で不利だから。

 顔の左側は右脳を反映し、感情がよりよく表れる。

 セットポジションで構える右投手は顔の左側を打者に見せているので、感情が読みやすい。
 走者がいるセットポジションの状況では、右投手に対しては左右ともに打者が有利。

 セットポジションで顔の左側が隠れる左投手は、打者が左右どちらでも投手が心理戦においては有利。
 イニングの途中、走者がいる場面で登板するリリーフ投手には左投手が向いている。特に走者が一塁の場合、牽制の観点からも有利。

 身体的な理由ならば、左対左と同様に右対右も打者に不利なはずだが、右対右にはさほど神経質な代打起用が行われない。

■投手が有利な順番

 ①左投手 対 左打者
 ②左投手 対 右打者
 ②右投手 対 右打者
 ④右投手 対 左打者

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2007年4月10日 (火)

立ってはいけない席

 去年、神宮球場にヤクルト対巨人戦を観戦に行った。
 神宮で巨人を見るのはこれが二回目。

 前回は民法テレビ局の懸賞で三塁側内野席が当たった。
 松井のホームランが右翼席中段まで飛んだ。
 バットがボールを弾く乾いた音が耳に残った。
 後で知ったのだが、その日は「球音を楽しむ日」
 鳴り物の応援を自粛していたのだった。
 内野席の巨人ファンはおとなしい。
 メガホンを振って応援することもない。少し物足りなかった。レフトスタンドの喧騒に混ざりたかった。

 さて二度めの神宮はレフトスタンドに陣取った。
 バックスクリーン裏から外野席に入り右に曲がると、そこはオレンジ一色の世界。
 オランダ代表の応援席かと思った。
 ドイツW杯に1ヶ月行って来たデコファンクラブ仲間によると、オランダ応援団は街でビールを呑んでいてもすぐわかるそうだ。そのあたり一面がオレンジに染まるから。

 席はレフトポールぎりぎりだが、視界をさえぎるものはなく内外野が見渡せる絶好の席。バックネット越しに見るのとは違う開放感があり、否が応でも試合への期待が高まる。

 試合が始まった。1回表巨人の攻撃
 いきなり前方に壁ができた。
 「8」「24」
 どうやら仁志と高橋のユニフォームだ。
 誰かがホームランを打ったというわけでもない。二人で立ち上がって応援している。
 おいおい、いきなり立つなよ。

 試合は初回に先発の内海が7点をとられたが、巨人が逆転して勝った。
 僕は試合をスコアボードで確認していた。
 映像といえば、ビジョンに映しだされるリプレイのみ。
 グラウンドが見えなくて困るのは走者がどこにいるのかがわからない。
 試合を見に来たけれど、グラウンドが見えない人のために、スコアボードにランナー位置表示が必要だなぁと考えていた。

 仁志と高橋は一度も座らなかった。
 僕は「8」「24」のレプリカユニフォームの背中を見に行った一日となった。
 ずっと立っていたのはこの二人だけではない。たくさんの巨人ファンが立ったままで応援していた。
 僕がしばらく球場に足を運ばないうちにルールが変わって、外野席では立って応援するのがデフォルト。座りたい人はグラウンドが見えないことに文句を言ってはいけないということになったのだろう。

 次から外野席のチケットを買わなければ済むだろうか。
 いや、いずれ内野席でも立ちっぱなし応援団が出現するかも知れない。運悪くその応援団の後ろになったとしたら・・内野席はチケット単価が高いだけにさらに悲惨だ。

 この世に立ちっぱなしで応援したい人がいる限り、
 立ってはいけない席が必要だ。

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2007年1月13日 (土)

西武赤田選手と黒岩取締役

 1月5日、西武の赤田選手が四度めの契約交渉の席で「取り乱して申し訳ありませんでした」と球団に謝罪したそうだ。
 この一件で、スポーツ紙の一面を飾った赤田選手に対しては「携帯くらいで切れるな」という批判があったらしい。

 事の発端は、赤田選手と西武球団の契約更改。
 前回の交渉で保留した赤田選手は、この日はハンコを押そうと思っていた。
 その時、球団取締役黒岩さんの携帯から着信音が流れた。

 はい、ここで質問です。
 もし貴方が、赤田選手のように選手会長を務める立場のプロ野球選手だったら、この状況で交渉のテーブルを蹴ったでしょうか?

 世の中は、再チャレンジが利く社会を標榜している。
 だが、現実にはまだまだ、誰もがそのチャンスを得られるわけではない。
 一度の経営破たん、一度の失態で二度と浮かび上がることができない人が多い。
 ただ日本社会では選ばれし者にだけは、その機会が与えられる。

 2000年9月12日深夜、西武の松坂大輔選手が日本テレビ柴田倫世アナウンサーの自宅を訪問したところを写真週刊誌「フライデー」に撮影される。
 それが発端となり、松坂が免許停止中に運転していたこと、松坂が犯した駐車違反を黒岩広報が身代わり出頭していたことが発覚。
 松坂は野球活動停止処分を受けた。
 謹慎で試合には出られなかった松坂だが、病院に行くことはできたので、LASIK手術を受けて視力を矯正した。
 西武球団は当時広報だった黒岩氏を、後に球団要職に就かせている。

 黒岩氏はスピードスケートで冬季五輪に出場したこともある名選手だ。スポーツマンとして、後進のスポーツ選手達の鑑となってきた。

 その黒岩彰 球団代表の着信音が鳴った。赤田選手は交渉の席を蹴った。

 さて、もう一度質問です。
 あなたならば、球団代表の携帯着信音が鳴ったことに腹を立て、交渉のテーブルを蹴ったでしょうか。

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2006年11月21日 (火)

最初で最後のON対決

 ダイエー球団は、1998年秋に2000年日本シリーズ時の福岡ドームを押さえず、脳神経外科学会大会に明け渡した。このため2000年の日本シリーズ、最初で最後の 対決は変則日程となった。

 パリーグ優勝後、王監督
「この日程はうちに有利」
とコメント。この人らしい、立場がわかっていないおとぼけ発言だった。

 試合は東京ドームの1,2戦を福岡ダイエーが連勝。
 城島は「東京ドームは狭い。(広い)福岡ドームに来て欲しい」と、暗に福岡に来れば、さらに実力差が歴然とすると言いたげなコメント。楽勝ムードに浸っていた。

 移動日なしの第3戦を巨人が上原で勝つ。
 そして、移動もないのに、福岡で2日間のお休み。
 4,5戦を福岡で巨人が連勝。
 東京ドームの第6戦も巨人が勝ち、4連勝で優勝を決めた。

 シリーズ後、ある巨人選手は「連敗のあと移動日で間隔が開かず、いろいろと考えることなく第3戦に臨めたことは大きかった」とコメントした。

 NPBコミッショナー事務局は、日本シリーズ終了後の11月6日、ダイエー球団に対して3,000万円の制裁金を課した。

 また、11月17日に 巨人、ダイエー両球団から発表されたトレードは、当初、吉永幸一郎大野倫+金銭で進められていたが、巨人が変則日程を快く受け入れたことへの謝意として、ダイエー側が金銭を辞する形で1対1トレードとなった。


【 2000年 日本シリーズ日程 】
 日付   本来の日程    2000年の日程
21日(土)第1戦(セ本拠) 第1戦(セ本拠)
22日(日)第2戦(セ本拠) 第2戦(セ本拠)
23日(月)移動日      
第3戦(福岡ドーム)
24日(火)第3戦(パ本拠) 
休養日
25日(水)第4戦(パ本拠) 
休養日
26日(木)第5戦(パ本拠) 
第4戦(福岡ドーム)
27日(金)移動日      
第5戦(福岡ドーム)
28日(土)第6戦(セ本拠) 第6戦(セ本拠地)
29日(日)第7戦(セ本拠) 第7戦(セ本拠地)

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2006年10月14日 (土)

松井の歴史

 野茂は三振を取りに行った。
 イチローはヒットを打ちに行った。
 松井は何をしに行ったのか。

 恩師長嶋の気持ちを裏切る苦渋の決断をしてまで「連続試合出場の鉄人」
「フォアザチームの好青年中距離打者」と呼ばれたかったのか。

 誰もがわかっている。彼が何のために米国に渡ったのか。
 そう、松井はMLBで本塁打王を取らなければならない。


1974年
6月12日、石川県生まれ 小学5年より野球を始める。
1992年
8月16日、夏の甲子園明徳義塾戦で5打席連続敬遠される。
11月、ドラフト1位(4球団競合)で巨人入団。
2度めの監督就任直後の長嶋監督が1位指名を伊藤智から松井に変更、自ら引き当てた。
1993年
オープン戦1軍帯同 打率.083、開幕2軍スタート。
同年移籍入団の長嶋一茂は.375で一軍スタート。
5月1日デビュー、同日プロ初安打(ヤクルト西村から)。一ヶ月間2軍に置いたのは11年在籍させるための策だったのか?(FAは1軍150日登録×10シーズンで取得できる。松井がFA権を獲得できたのは11シーズンめ)
5月2日、プロ初本塁打(ヤクルト高津から)。
1994年
10・8 ナゴヤ決戦で優勝。この年西武を破り日本一。
1996年
リーグ優勝 セリーグMVP
1997年4月27日
100号本塁打(広島山崎から)
1998年
本塁打王 打点王(共に初めての打撃タイトル)
1999年
 7月27日、オールスター戦で左脇腹肉離れ。連続出場記録を続けるために数試合は途中から守備のみ出場。
9月21日、200号本塁打。
初めて本塁打40本台(42本)を打つがヤクルトのペタジーニに破れ無冠。
2000年
この年、初めてシーズンを通して4番を打つ。7月12日、札幌円山球場で1,000本安打
135試合4番打者で出場。本塁打王(42本)、打点王、日本一、シリーズMVP、リーグMVP、初のゴールデングラブ賞。
2001年
チーム選手会長就任。
4月12日、1,000試合出場
5月3日、1,000試合連続出場(5人め 最高は衣笠祥雄の2,215)「いずれ正選手を追われる時が来るだろうけど、その時まで続けたい」とコメント。巨人に残るつもりだとファンは期待を寄せた。
5月5日、長嶋監督は朝日新聞に「松井よ、君は残って欲しい」という書面を寄稿。トップ選手がMLBを目指す潮流は理解するが、松井だけは日本球界に残って欲しいというメッセージを送る。
打率.333で初の首位打者、ベストナイン、ゴールデングラブ賞。
オフ、6億1,000万円(日本人選手最高)で契約更改。
2002年
テレビ金沢制作シーズンオフ企画番組「巨人松井の極めつけ!加賀金沢食いだおれ旅」で「お世話になったわけですから、今年FA権取得できるけれど、それ以降もYGにお世話になろうかなと・・ローカル局ならではの発言ということで残さしていただきます」と発言。
4月13日、FA権取得
7月9日、出場1,200試合めに300号本塁打(広島黒田から)
8月1日、4番での連続出場日本新363試合
10月30日、巨人での最終打席。日本シリーズ第4戦9回表二死 投手西武豊田 ファーストゴロ。
10月31日、FA権行使MLB移籍を公表。この日に備え松井ホームランカードをつくり、松井好みの事業を展開してきた読売新聞の努力は松井を引き止めるため。松井の選択は日本全体にとって「組織よりも個人」という価値観の転換ポイントになるだろう。
松井在籍11シーズンで巨人はリーグ優勝4回、日本一3回。日本での通算成績は1268試合 打率.307 安打1,390 本塁打332 打点889 盗塁46。連続出場1250試合。
12月、ヤンキース入団。背番号55。
2003年
4月、開幕戦5番レフトで先発出場。初打席初球を安打打点。
4月8日、本拠地デビュー戦 本塁打(満塁)。開幕から7試合連続安打。
4月27日、初めて4番を打つ。
5月22日、初めて2番を打つ。
6月5日、初めて7番降格。4号本塁打。初の1試合4安打。
7月15日、オールスターファン投票選出(リーグ外野手2位)で出場。2打数1安打。
シーズン成績~163試合全試合出場。打率.287、16本塁打、106打点
10月、ワールドシリーズ出場。1本塁打。第5,6戦は4番。2勝4敗でフロリダ・マーリンズに敗れる。
11月、新人王は逃す(記者投票で僅差の2位)。
2004年
3月31日、東京ドーム開催デビルレイズ戦で今期1号。
自分に言い聞かせるような語尾上げの「ん」が口癖となる。
シーズン成績~31本塁打
2005年
シーズン初めて打率3割を超える。
 シーズン成績~打率.305、116打点 巨人時代からの連続出場は1737試合
11月、契約更新~4年およそ60億円 松井巨人復帰せず。
12月、石川県にベースボールミュージアム オープン
2006年
5月11日、守備で左手首を骨折 4か月間欠場

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2006年10月 7日 (土)

松井巨人移籍せず

 一年前の今日「松井 巨人移籍」という記事を書いた。

 ヤンキースとの3年契約が終わり、松井が次の契約をどの球団と結ぶのかが注目されていた。実際にはヤンキースと何年契約を結ぶのかというところにメディアは焦点を当てていた。
 どのメディアも、報知新聞も「松井巨人移籍」とは書かなかった。
 結果を正確に予測していたのだろう。

 だが、スポーツ界の移籍情報は、政界のポスト争いとは趣が違う。移籍話しには遊びがあっていい。移籍情報を誤報しても購読者は目くじらを立てない。
 情報そのものが "ネタ" なのだから、1%でも可能性ある限り「松井巨人移籍」と書いてもよさそうだ。
 巨人ファンならば、嘘でもその新聞は買う。
 どんな嘘が書いてあるのかだけでも興味がある。

 それほど、巨人には松井が必要なのだ。

 巨人は2002年の日本シリーズで西武を4勝0敗と完膚なきまでに叩きのめして勝った。西武球団創設以来、1980年代、巨人は西武にまったく歯が立たなかった。1994年に10・8を制した長嶋巨人が初の一矢を報い、2002年は就任1年めの原巨人が完勝。
 第4戦、代走鈴木が浅いレフト前ヒットで二塁から生還。いったいどこまで速いのか?という快走に、かつて クロマティの緩慢プレーの隙をつかれた借りを返したと、巨人ファンは溜飲を下げた。

 そのシーズン50本塁打を打った松井は、日本シリーズの完勝後、巨人を去った。
 「裏切り者と言われるかもしれないけれど」
 記者会見で松井が語った言葉に、センチメンタルに肩入れしたコメントが紙面を埋めた。
 権利だから堂々としてよい。松井にその一言を言わせた方が悪いという論調。辟易した。

 どう考えても、裏切り者以外の何者でもない。
 それほどファンも讀賣新聞社も松井に命運を賭けてきたのだ。松井好みの施策をうつ讀賣新聞社の姿は健気だった。

 一家の大黒柱の父ちゃんが「俺には夢があるから一人で米国に行く」と言ったら、家族も親戚も一斉に裏切り者と叫ぶだろう。
 松井にFA権があるように、父ちゃんには基本的人権がある。権利の行使は裏切りではないという定義が通るならば、世の中はずいぶんと違ったものになるだろう。

 巨人には松井が必要だった。
 それは松井という戦力が必要なのではない。
 巨人を去った松井というピースが、元のパズルにはまることが必要なのだ。

 松井は最後のワンピースだった。2005年オフまでは。
 そのピースが埋まらない巨人パズルは迷走を続ける。
 ただ、このまま永久に優勝しないようではファンは困る。

 まず55を誰かにつけさせる。
 讀賣新聞の松井コラムを中止する。
 ムードを壊しているメジャー行きたい病の選手は不要。

 巨人は松井が出て行くまで、駒田の例外を除けば
 来るものは拒まず、去るものは追わず
 という堂々とした球団だった。

 強い球団は誇りに満ちている。
 野球は個人技の総和ではない。心にくすぶるものを取り除かねば勝てない。
 坂本に55を与え、サード二岡をチームリーダーに据える。

 2007年は誇りを取り戻した巨人を見たい。

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2006年9月21日 (木)

記録に残る男 松坂大輔

 【 まつざか だいすけ 】 横浜高-西武 投手 右投げ右打ち

1980年
 9月13日、東京都生まれ、当時高校野球のスターだった荒木大輔にちなみ大輔と命名される。
1998年
甲子園春夏制覇、決勝でノーヒットノーランを記録。
1998年
11月、希望球団の巨人が上原を指名するため、横浜を意中の球団としていたが抽選で西武が指名。ドラフト1位入団。背番号18。
1999年
16勝5敗。高校新人45年ぶりの最多勝。新人王。
ANAハンバーガー計画のCM出演。カシオG-SHOCK松坂モデル発売。
2000年
14勝7敗。シドニー五輪出場0勝3敗。
 9月12日深夜、日本テレビ柴田倫世アナウンサーの自宅を訪問したところをフライデーに撮影される。そのため免停中の運転と、黒岩広報が松阪の駐禁を身代わり出頭したことが発覚。野球活動停止処分を受ける。謹慎中にLASIK手術を受け視力を矯正。
2001年
15勝15敗。3年連続最多勝。勝敗同数の最多勝は史上初。
2002年
入団4年目で初めてチームがパリーグ優勝。日本シリーズ対巨人戦では登板の度に打たれた。巨人が4連勝で優勝。
2003年
大学を経た同級生 木佐貫久保、永川、古木、村田、和田、新垣、後藤らがプロ入り。「松坂世代」と呼ばれる。
11月6日、アテネ五輪予選台湾戦先発、勝利投手。
2004年
 8月、アテネ五輪出場。決勝進出を賭けたオーストラリア戦で負け投手。
10月、日本シリーズ第2戦負け投手。第6戦でシリーズ初勝利。プロ入り後、大舞台で初めて結果を出した。
12月、柴田倫世さんと結婚。
2006年
 3月、WBCMVP

 早ければ2006年オフ、ポスティングMLBへ移籍予定。
 FAを獲得しての自由移籍が可能となるのは2007年オフの予定。
 こうしてしらべるの記録を振り返ると、まさに「記録に残る男」 西武ファンにとって今シーズンは「松坂で勝った年」として記憶に残ることになるだろうか?

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2006年7月 1日 (土)

ずっと前からわかっていたこと

 サッカー日本代表がオーストラリアに終盤、逆転されて負けた。
 メディアやブログのライターは一斉に言う。

「名将 ヒディンク・マジック炸裂!」

 マジックじゃないでしょ。
 負けている展開でフォワードを何枚でも入れてくるのは、4年前からわかっている。

 手を打たない監督ジーコ、おかしな手を打つベンゲルに共通するのはカリスマ性があり、選手に尊敬され選手を育てることには長けているが、ゲーム中の戦術に疎いこと、冷静な采配ができないこと。

 通信社がそのように配信しない限り、大きな放送局や新聞社がそう伝えることはない。
 だが、個々のライターは雑誌やWebの記事でそう書いてきた。

 川淵キャプテンは、W杯直前に発売された初めての著書「虹を掴む」で前々監督トルシエを非難している。

 ジーコを選んだことについては "日本サッカーの長期戦略上、こういうことを期待した"というような明確なポリシーはなく、

 "ジーコがやってくれたら、嬉しいなぁ"
 "ジーコにやらせてみたい"
と思っていて、ダメ元でオファーしてみたら、OKの返事がきてびっくり。

・・という状況だったと受け取れる内容を書いている。

 川淵キャプテンが "2050年までに再びW杯を日本(単独)開催し優勝する"とした「JFA2005年宣言」を出したのは、2005年元旦のこと。
 ジーコを選んだ2002年の時点では、まだ長期戦略が固まっていなかったのだろう。

 2002年W杯が終わった秋、版元各社は返品の山を抱えていた。
 「W杯の影響で本が売れなかった」
 というのが、その理由として挙げられた。

 W杯が日本で開催されることが決まったのは、昨日や今日ではなかったはずだ。

 「デコの代役不在が弱点」
 これはポルトガルを評するメディアとブログのライターが口を揃えて言う。
 スコラーリ監督は、今大会、既にデコ不在の試合を2度勝っている。

 ずっと前からわかっていたことは、想像力がある人にはずっと前からわかっているのだが、そうでない人には、結果が出てからでないと、わからない。

*参考文献「虹を掴む」川淵三郎 講談社 2006年6月



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2006年6月30日 (金)

判定に不服な人たち

「判定に異を唱えるのは常に敗者」
 これはフランク・ライカールトCL2004-05ベスト16でチェルシーに敗れた後の談話。
 勝者ではなく敗者の言葉だけに美しい。


2002年
6月、W杯準々決勝
 スペインは副審に2点を取り消された末敗れた。スペインの監督、選手が抗議のコメントを並べたが、プジョルFCバルセロナ)は「微妙な場面で正確な判定は難しい。審判はW杯レベルだったと確信している」
その審判は誤審を認め後日辞任している。
2005年
2月、CLベスト16 FCバルセロナ-チェルシー
 ホセ・モウリーニョ 1点リードして迎えた後半にFWドログバがレッドカードで退場になった理由について
「ハーフタイムにライカールトが審判と密談しているのを見た」
この発言により審判はファンから脅迫を受け、それを苦にして引退。モウリーニョは次戦ベンチ入りを禁止された。

2006年
3月7日、CLベスト16 FCバルセロナ-チェルシー
 ホセ・モウリーニョ「初戦の(メッシへのファウルによるデルオルノの)退場ですべて決まってしまった。我々は11人対11人では負けていない」
第2戦、チェルシーは誤審のPKで1点をもらっている。その1点がなければ 0-1で負けていたことにはモウリーニョ触れなかった。

4月21日、 NPB 巨人阪神
 李承燁のサヨナラ本塁打で敗戦後、阪神 岡田監督が審判室で「ぜんぜんストライクやないか。三振やろ!アカンわ、井野やろ。せっかくええ試合しとるのに、こんなことしとったらファンが離れるで!」
本塁打の直前の球がストライクだったと抗議した。スローVTRで見ると捕手矢野がミットを動かした後はストライクだが、捕球した位置はどちらともコールできるものだった。

4月26日、CL準決勝 FCバルセロナ-ACミラン
 ガッリアーニ「シェフチェンコのゴールを取り消したのは決定的なミスだった。メルク主審に関しては、いろいろと気になる点があった。ロスタイムはたった3分だったし、その20秒前に笛を吹いた。バルセロナが優れていることは分かっていたが、実際に2試合の結果を決めたのはミスジャッジだった」

5月17日、CL決勝 FCバルセロナ-アーセナル
 アーセン・ベンゲルエトーの1点めは明らかなオフサイドだったが、認められてしまった」
アンリも同様にコメント。この二人にバルセロナの勝利を賞賛する言葉は無かった。

6月26日、W杯 スペイン対フランス 勝ち越し点を与えるきっかけとなったファウルについてプジョルは「相手(アンリ)は後ろから来て衝突した。向こうのファウルだ」と言ったが「後半のフランスのプレッシャーは強く、今までの対戦ではなかった苦しさを味わった。相手は予想以上の強さで、後半は自分たちのプレーができなかった」と賛辞も忘れなかった。

 スポーツは続いていく。過去を悔いていくか、過去を忘れるか。
 まずは一人になって反省し、good loser の笑顔を見せる者にこそ、次には勝利の女神が微笑む。

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2006年6月16日 (金)

サッカーの神様

 「(日本の先制点について)あれは明らかにGKへのファウル。最後には正義が勝った。審判はこの結果になったことで神に感謝するだろう」
 "ヒディンク・マジック" "名将"と持ち上げられると、神様の代弁もできるようになるらしい。

 ところが、その張本人エッサム・アルデブファタ主審が、日本の先制点を誤審と認めたうえ「オーストラリアが勝ってくれて、神に感謝している」と言ったという。
 本当に神に感謝するとは開いた口が塞がらない。

 感謝されたサッカーの神様は、さぞ複雑な心境だろう。

 イタリアのスポーツ3紙は1-1の後、駒野がペナルティエリア内で倒されたのはPKだったが、主審は反則をとらなかったと指摘。FIFAのジーグラー広報部長も後日、記者会見でそれを指摘した。


 これらの状況から容易に想像できるのは、いわゆる審判による「お返し」
 誤審に心が痛んだ審判が、次にもう一方のチームに荷担した判定をするというもの。
 NPBではストライクの判定で恒常的に行われている。

 「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」
楽天イーグルス野村監督のことば。
 競技に携わる者は負けの中からこそ、より多くのことを学ぶことができる。すべてを自分の責に帰さぬ者に道は開けない。

 5月に終わったCLでは、敗因を審判に押しつける姿が散見された。
 審判にクレームをつけた選手とチームは来期、CLを制覇してその言葉に偽りなしと証明するだろう。だが、勝者の栄光を汚した者は勝者となる順番がきても尊敬は受けない。

 日本代表に、負けて泣き言をいうような醜態は見受けられない。
 勝ったうえ、さらに判定に異議を唱えるヒディンク。
 両者の行く手にはどんな命運が待ち受けているのか興味深い。

参考文献 讀賣新聞 2006/6/13

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2006年6月 5日 (月)

日本代表のユニフォーム戦略

 戦略ということばはビジネスの世界で多用される。

 営業やコンサルタント達は「戦略的行動に特化すべき」と軽々しく言うが、実際にやっていることは、出来合いのソフトウェアの売り込みだったり、売り込んだ後、手離れよく逃げるための道筋作りだったりする。

 しらべるでは、戦略をこう定義する。
 目的達成のために、より確率の高い方法を考えて、
資源を傾注する活動。

 戦略は発想が命。想像力がたくましくなければ、戦略は生まれない。

 サッカーのルールではユニフォームを引っ張ってはいけないことになっている。だが、CL決勝を見ているとアーセナルの選手はペナルティエリア内でエトーのユニフォームを引っ張っていた。それでもイエローカードは提示されなていない。

 審判としては、一瞬のできごとだけに、即一点につながる重大な決断を下すのはためらわれるのだろう。
 だがもし、あの時ユニフォームが真っ二つに裂けて、エトーが裸になっていたらどうだっただろうか。
 たとえ、その時はPKをとられなくとも、アーセナルの選手はその後の守備がやりにくくなったはずだ。

 サッカーのユニフォームは伸縮性があり、少々引っ張っても破れたり伸びたりしない。だが、少し引っ張っただけで裂けてしまうユニフォームを相手が着ていたら、自陣ペナルティエリア内での守備は腰がひけてしまう。

 たとえ、本番ではそんなユニフォームを着なくても、あのチームのユニフォームは破れ易いというイメージを与えるだけでも成功だ。

 日本代表の本戦での活躍を期待したい。

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2006年5月20日 (土)

ビッグイヤー?

 BIG EARはUEFAチャンピオンズリーグの優勝カップ。
 優勝チームのキャプテンがビッグイアーを掲げると、どえらい分量の紙ふぶきが噴出すのがお約束。去年は真っ赤な紙ふぶきが
リバプールのユニフォームとマッチしていたが、今年も同じ赤だった。別に優勝チームに合わせて用意しているのではないようだ。

 2つの取っ手が大きな耳(ear) に見えることからこの名が付いた。
 日本ではビッグイヤーと表記されているので、"1年に1度のどでかい仕事を称える" トロフィーのように思える。

 3年連続優勝または通算5回優勝で、チームは本物を永久保有することができる。
 永久保有しているのは、レアル・マドリー、アヤックス、バイエルン・ミュンヘン、ACミラン、リバプールの5チーム。

 永久保有条件に達していない優勝チームには、本物を翌年の優勝チームに渡した後、公式レプリカが渡される。

 
FCバルセロナは1992年 クライフ監督時、そして2005-06の二度優勝。バルサの人気を考えれば、51回の大会で2回とは驚くほど少ない。
 現在は1993年にもらったレプリカ1つと、2006年に獲得した本物1つを保有している。本物の永久保有までには、2007-08シーズンまで3連覇するか、あと3回の優勝が必要。

 2005年5月、愛・地球博のスペイン館にビッグイアーのレプリカが展示されていた。係員は公式レプリカ( レプリカの本物 )と説明してくれたが、同時期にカンプノウのFCバルセロナ博物館にもレプリカが展示されていた。レプリカは興行的にさらにレプリカを作るものなのかも知れない。
 FCバルセロナ博物館では、有料でビッグイアーを掲げて記念撮影ができる。スペイン館のそれはネットで守られ、手が届かないように展示されていた。ビッグイアーとはおいそれとは触れないものなのだ。
 去年の夏、それがスポーツショップ加茂に普通に置いてあったのにはひっくり返った。「マンチェスター・ユナイテッド・フェアで本物を借り受けた」と店員の説明。レプリカの本物だったら、警備員か店員を配置したほうがよいと思う。

 17日のゲーム前、入場してくる両チームの選手で、
ジュリがビッグイアーに触った。試合前に触ったほうにはカップが来ないというジンクスもこれで消えた。来年からは選手が触りまくるかも知れない。 

 アーセナル、来期は新スタジアムの初年度。アンリを中心にさらに伸びる若手選出と共にプレミアを制することを祈る。

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2006年5月17日 (水)

カズと松井の落選

 カズをW杯のメンバーに選んで欲しかった。

 ニッテレはそこに入れ込んでいた。
 昨年12月、CWC決勝後、カズの取材映像が流れていた。
 北澤と食事をしているカズが
 「ジーコ、もう一度呼んでくんねぇかなぁ」
 と言っている。その願いは叶わなかった。

 カズをW杯にと思い始めたのは2002年の大会後。
 1998年の時点で、カズの決定力は落ちていた。点を決められないカズへの不満があった。
 岡田監督の選択に接した時、世界のサッカー界は予定調和を廃しているのだろうと推察した。
 4年後、さらに力が落ちたカズを選ぶべきだという機運はなかった。

 それでも、8年後、その機運は起こった。
 
CWC要員として、シドニーFCがカズにレンタル移籍を求めたことが、そのきっかけである。
 そこにカズがいたからであり、そこにカズしかいなかったのだ。

 すべてはフォワードの人材不足が起こす感情と推察する。
 プロを目指すサッカーキッズは、
松井でさえ入り込めないMFの練習はやめて、明日からFWを志願すべきだろう。

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2006年5月10日 (水)

スポーツの結果を知りたくない人たち

 スポーツバーでバルサ優勝決定の試合をみていた。
 優勝が決まる試合なので、ここはファンと一緒に喜びたい。

 Webでしらべたらスポーツバーを検索できるウェブサイトを発見。そこで「サッカー専門」と書いてあるお店に電話したら、店主がバルサファン!試合前入店もOK。終電時入店は試合開始までの待ち時間が辛いので助かる。

 日本とスペインの時差はサマータイムの今は7時間
 現地21時キックオフなので日本は4時
 だが、なぜかWOWOWは5時からしか放送しない。
 今シーズンはWOWOWがリーガの独占放送権をとって3シーズンめ。04-05まではバルサの試合を放送しないこともあった。05-06シーズンはバルサ人気に配慮して放送はするようになったが、依然として生中継はほとんどない。
 バルセロニスタはWOWOWにはとうに愛想が尽きている。

 デコは今日もDFとFWの橋渡し役となってゲームを作っている。
 あと少しで前半終了という時、スタンドから「カンペオーン」の合唱。
 なんか嫌な予感・・
 それは的中で1時間早くキックオフした2位のバレンシアが下位のマジョルカに負け。そこでバルサ優勝が決まってしまった。

 それは、ハーフタイムにバレンシアの結果が伝えられてわかった。
 隠しておけないでもないだろうが、日本のプロスポーツでも優勝がかかった試合で2位チームの結果を速報しないことはない。

 少し前、WOWOWは試合を録画放送する前に結果を伝えたことがあり、ミクシィのコミュニティではそれもやり玉に挙がっていた。

 時差、すべての試合を生中継できない放送枠の限界
 この2つは欧州スポーツを見るうえで横たわる問題。

 結果を報道すること、内容を放送すること。
 競合する2つの要求がメディアに寄せられている。

 そのどちらにも求めている人がいる。
 報道も必要なのである。

 これは見る側に情報を遠ざける工夫が必要だ。
 一方、放送局・
ポータルサイトもむやみに速報情報を出さない配慮をすべきだろう。
 早朝テレビ番組を見ながら身支度をしていて「バレンシア敗戦」などという情報はいらんこったいである。

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2006年5月 9日 (火)

プロ野球は追っかけ再生で見る

 日本のプロ野球がつまらないのはルール違反OKスポーツだからである。
(2005年10月3日記)

 あともう一つの側面は、退屈な時間が長いことだ。

 退屈な時間が長いことを実験する方法がある。

▼19時に始まるプロ野球のテレビ中継をDVDレコーダーで録画する。
  ↓
▼20時から「追っかけ再生」で観る
  ↓
 果たして何時何分にライブ放送に追いつくか?

 初めてこれをやった時、20:15に追いついてしまった。
 テレビCM(攻守の交代)、投球間隔、素振り、ファウルなどのボールデッド、抗議、選手交代、マウンド上の相談・・ こうしたプレーが止まっている時間を飛ばすとほとんど観るところがない。

 DVDレコーダーに付いている"30秒飛ばしボタン"を一度押すと、ランナーがいる場面ではぴったり投球と連動する。ランナーがいない場面ではさすがに次の投球が終わってしまっている。

 相手チームの攻撃も飛ばす。
 かつての
江川卓のように、守備の時間帯の方が観ていて楽しい投手は一軍にはいない。
 現代の投手はただ、相手が打ち損じてくれるよう祈りながら早送りするだけだ。
 2005年シーズンの巨人戦でこれをやっていると、相手の得点だけが日本の財政赤字のようにカウントアップされていった。

 一度これをやると、次からテレビでの生観戦は辛くなる。本でも読みながらでないと退屈する。
 最近では21:00から追っかけることもある。

 野球は球場で観るものである。

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2006年3月24日 (金)

応援よろしくお願いします。

 日本のスポーツ選手は必ずこれを言わされる。
 どの記者も「ファン、全国のみなさんにひとこと」という
ステレオタイプな質問をするからだ。

 
特に巨人以外11球団のプロ野球選手は、こう言うことを義務づけられているのかと思うくらい、締めは必ずコレ。
 このきめ台詞は「最後に一言」に対して言わなければならない。
 もし、途中で言ってしまうと・・

記者「次の試合に向けての抱負は?」
選手「次も精一杯頑張りますから・・ 応援よろしくお願いします」
記者「それでは、最後にファンの皆さんへひとこと」
選手「・・ 応援よろしくお願いします」

 お立ち台に2人上がっていると、お客さんは2回きかなければならない。
 一人が外国人だと1回で済む。

 F1パイロットもサッカー選手も このきめ台詞を言うことがあるが、その前段では、自主的に組み立てて、長く話す。
 プロ野球選手はきっと本は読まず、自分で考えて言葉を組み立てるということを脳が放棄しているのだろう。
 Jリーグ選手は少し自分で考えて話すが、不入りが切実なので「スタジアムに来てください」という言い方が多い。

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2006年3月23日 (木)

自分に寛容になること

 歩き方を矯正するインソール SUPER feet のブックレットに「No Need for Speed」 (2004/09/03) 著者 John Bingham の次の言葉が載っている。

「自分に寛容になること。焦らないこと。体は時間が与えられれば、徐々に新しいレベルに適応できる」

 これは、故障を抱えるアスリート、目標に向かって進む人たちに贈られた言葉だろう。
 レースが迫ってくると、アスリートは自分を追い込んでいく。
 「10km走らなければ」
 「負荷運動を30分こなさなければ」
 「雨でも走らなければ」

 だが、故障した体、劣っている体力では、それが新