2018年12月11日 (火)

五島うどんに改宗する

竹酔亭は、ますだ製麺が経営する五島うどんの製麺所であり食堂。店舗は本店が七名(ななめ)にあり、支店の浦桑カミティ店と2店舗


■ますだ製麺の歴史
1976年
創業

1988年
竹酔亭本店オープン

1989年
ますだ製麺 設立

1995年
竹酔亭浦桑カミティ店オープン


お盆前の金曜日18時。暖簾をくぐると店内はほぼ満席。
となりのテーブルでは老夫婦が「地獄炊き」を愉しんでいる。地獄炊きとは卓上に鍋を置き、目の前でうどんを8分茹でる。それを出汁にとって食べるもの。旅のガイドブックによると、地獄炊きは「2時間前までに予約が必要」とあった。
井之頭五郎と違い、僕は1人で食堂に入るのが苦手だ。
「おぉ熱湯に耐えかねてうどんが踊っている。これぞまさにうどんの地獄絵図」などと考えていたら、口に出して言ってしまいそうで怖い。ただでさえ、歳をとってから独り言が増えているのに。
従って、独りきりで鍋をつつくのはためらわれたので、予約は見送った。

ほどなく、注文した肉うどんが運ばれてくる。
旅の食事にしては、味気ないかな。一口運ぶまでは、さほど期待感はなかった。
ところが、ひと口流し込んでみて、目を見張った。
喉ごしがいい。

五島うどんは小麦粉、天然塩、水で生地を練り、椿油を塗るのでコシが強い。そして、箸にかけて引き延ばして作るので、細くて断面が丸い。
という理屈はわかっていたが、これほどまでとは思わなかった。
そして、汁が意外だ。
アゴ(トビウオ)で出汁を取った汁が、辛くない。
子どもの頃の記憶で「アゴ=辛い」というイメージがあった。何回か母が作った五島うどんも、汁が辛かった。
しかし、今飲んでいる汁は、優しい風味に溢れている。
だから、名物になったのか。
2000年代に入って「五島うどん」がブランド化して以来、あれのどこがいいのだろうと思っていた。
これならば、わかる

上に乗っている牛肉は甘く味付けられていて、その肉汁がアゴの出汁に混じり合うと、絶妙な味加減になった。


明日もここでいいな・・
今度は違うメニューを食べてみたい
すっかり「五島うどん派」に改宗した僕は、事前にチェックしておいた蒲鉾、天ぷら、ビールを買い、幸せな気分で家路(ホテル路?)に就いた。

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2018年12月10日 (月)

上五島の名物といえば

40年暖めていた念願の再上陸
懐かしい町、魚目(うおのめ)
一通り、この目で見たかった景色を見終えてホテルに戻って来たのが18時過ぎ。

1人旅ゆえ、旅の夜になんの予定もない。
さぁ夕飯はなにを食べよう
今、俺はなにが食べたい?
旅の夕飯ならば、土地の名物、地域のブランド食材を軸に考える。
上五島ではなにか?
美味しい魚、いや、魚は何処の港に揚がるかで価値が上下するだけで、新鮮な魚ならばいい。特に上五島の魚だけが特別というものではない。
では、肉はどうだ?
旅のガイドブックによると、五島にはブランド牛「五島牛」があるという。
そこで「上五島 五島牛ステーキ」で何度も「Google先生」に尋ねてみたのだが、先生の辞書にそれは載っていないらしい。

僕は思うのだが、最近の「Google先生」は「まとめサイト」を寵愛する傾向が見受けられる。
検索して上位にヒットするページには、総花的に情報をまとめたものが並ぶ。
情報が多すぎる。
自分が「上五島」で「五島牛ステーキ」が食べたいと思っているのに、先生は「五島列島から探しなさい。あとは君次第だ」と突き放す。

僕が欲しいのは「ピンポイントの情報」であり、wwwとはそういうニーズに応えるものだと思っている。だが、先生のアルゴリズムとは少々、考えが違うようだ。


では、上五島ならではの食べ物はなにか?
その答えは一択だった。
幸い、ホテルから歩いてすぐの場所に、その店があった。
浦桑が上五島の中心になっているとは思わなかったが、そのお陰で夕飯と買い物には不自由しない。
「昔住んでいたから」という理由で浦桑に宿をとったのだが、それが地図のない旅にはベストの選択だった。


日本の西端にある五島の日暮れは遅い。
外はまだ陽が沈んでおらず、ホテルメリッサの玄関を出ると、程よい風が頬に当たる。
あぁ、幸せだ

目指す店は徒歩5分の所にあるスーパーマーケット「カミティ」の中にある。
スーパー巡りは旅の楽しみの一つだ。
特に注目するのは「塩干」(えんかん)売り場

塩干本来の意味は、魚介類を塩に漬けてから干したものだが、スーパーでアルバイトしている時、干物に限らず、魚介を原料にした加工品の一帯が「塩干」と呼ばれていた。
ATOKの変換候補にも入っていない、一般には馴染みのない言葉だ。

魚のすり身を使った天ぷら、蒲鉾。あるいは地域のソウルフード。それらは、ホテルに戻って独り晩酌の即戦力。
煮たり、焼いたり、暖めたりせずに食べられる。

一通り棚をさらい、今日の即戦力をスカウティングしてから、上五島名物の暖簾をくぐった。

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2018年12月 9日 (日)

誰に頼まれてもいないのにテニスを教える母

峠を越えて坂を下ってくると見えてくるのが上五島高校。
中学生だった僕には縁がなかったが、父は教諭、姉は生徒、そして母は軟式テニスのコーチだった。





1970年、大阪万博で岡本太郎が「頼まれもしないのに」建てたのが「太陽の塔」
2011年「熊本サプライズ!」で水野学が「頼まれもしないのに」生み出したのが「くまモン」
偉業は「頼まれもしない」ことから生まれる。
それは、信念、使命、実行力を併せ持つ者が担う。

そして、母は誰からも頼まれもしないのに、ここでテニスを教えていた。

恐らく、初めて何処の誰かもわからないおばさんが上下、白いトレーニングウェアにラケットを持って現れた時は、上高の女子は相当びびったと思う。
今ならば、不審者として警備員を呼ばれかねないが、当時は穏やかな昭和の時代。
しかし、その不審なおばさんが「ちょっと打たせて」と言って、ボールを打ち始めた時、きっと彼女たちの目の色は変わったはずだ。
僕は、そんな母の図々しさ、陽気さ、オープンマインドを引き継いでいない。
女子高生たちに受け容れられ、すぐ溶け込んだ母は、そのまま上五島を去る日まで、ここのテニスコートに居着いてしまった。

きっと、幸せな日々だったと思う。
子どもだった僕は、そんなことを微笑ましく見守るというよりは、恥ずかしいから止めて欲しいとさえ思っていた。
これも一種の親の心、子知らずといえるだろう。

土のグラウンドにロープで仕切っただけのテニスコートはもうなくなっていた。どこかに移ったのかも知れないし、もうここでは軟庭をやる人が居なくなったのかも知れない。


上五島高校の正門そばには、学校帰りの高校生がたむろする食堂があった。
建物はそのままだが、それとわかる看板や暖簾はない。エアコンの室外機やBSのパラボラアンテナが辛うじて生活感を醸し出しているが、家の主が今もそこにいるかはわからない。

正門から道路を渡ったところに見慣れぬ黄色い建物があり、そこが榎津から移ってきた国丸書店だった。
僕は懐かしくなり、用事もないのにお店に入り、幼少の面影が残る店主と歓談し「あ、これ最新号ですよね?まだ買ってなかった」と言って、週刊文春を初めて買い求め、280円くらいだろうと思っていたら450円もしてどえらい驚いたが、そこで「やっぱり、やめます」とは言えなかった。


上五島上陸初日、かつて馴染みの商店、友達の家はすべて主が不在となり朽ち果てていた。
あの日と同じカタチで今も息づいているのは、魚目中と上五島高校だけだった。

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2018年12月 8日 (土)

上五島一の都会、青方の跡形も無い

子どもの頃は運転をしていなかった僕にも、この中通島の中で相対的な青方の位置はわかる。
もしも、道を間違ったとしても、この狭い島の中だから、取り返しの付かないような遠くへ行ってしまうこともない。それに時間はたっぷりある。ワゴンRにカーナビはついているが、目的地をセットせずに走り始めた。

魚目、青方、有川の間はよく父のクルマで通っていたが、青砂ヶ浦天主堂から青方に向かう道は初めて通る。
県道170号線はクルマもまばら。両脇の家屋もまばら。そして、人はもっとまばら。
10分ほど走ったところで、さすがに「本当にこの道であっているのかな」と不安になり、カーナビを確認したところ、青方はもうすぐそこだった。


懐かしい青方の町に着いた。
一見して町の印象は変わらない。
まずはスーパーマーケットがあった場所へ。
そこは、一週間の買い出しによく家族でやってきた。
ある週末、店の入口に上五島初!カップヌードルの自販機が設置され、ヤングオーオー!で「カップヌードル」なるものに興味津々だった僕は、すぐに母にねだり、カップヌードルとの初対面を迎えた。
自販機にはお湯を入れる機能も付いているが、まずは、じっくり観察するために持ち帰る。試しに振ってみると「からから」と音がして、どえらいびっくりした。
基本的にラーメンなわけだから、容器を振ると「ぬるぬる」と反応速度が悪いマウスのような緩慢な移動があると思っていたのだ。
「からから」の正体はエビだった。エビが乾燥した状態で入っていることに、子どもの僕は二度驚いた。


しかし、スーパーマーケットはシャッターが閉まっていた。
シャッターの色は真新しい肌色で塗られており「本日定休日」と貼り紙がでていれば、なんだ休みなのかと思うところだが、店名を示す看板などは一切無く、そこが空きテナントであることは疑いない。

つづいて、商店街へ回る。
入口にある酒屋はずいぶん古くからやっているような佇まいだが、子どもの頃、酒には興味が無かったし、父も家では一滴ものまなかったので、ここがかつて酒屋だったかの記憶が無い。

その先にはレコードや本を売っている店があったが、シャッターが閉まっている。店名を示す看板は欠け落ち、シャッターは節々が錆びている。閉店しましたの貼り紙があるわけでもなく、そこが商店でなくなってから、長い年月が経っていることを物語っている。

かつて、週末になると、スーパーでお菓子を買ってもらい、上五島で一番、品揃えのいい本屋で、春になれば参考書を買った。
上五島最大の都会「青方」は、今、朽ちて静まっている。

それ以上、その場に立ち留まる理由もみつけられず、今来たばかりの青方を後にして、浦桑に戻ることにする。
懐かしい賑わいの町「青方」の跡形がないことは、僕の気持ちをとても沈ませた。
だが、そこに感情移入する理由はない。僕が住んでいたのは、現在、上五島の都会に昇格した浦桑なのだ。

かつて、鶴田友美やミル・マスカラス、フレッド・ブラッシー、そしてもちろん、ジャイアント馬場らが「ジャイアントシリーズ」でやってきた青方体育館の姿は見つけられなかった。
青方小学校の横を通り過ぎ、青方と浦桑を隔てる峠(国道384号線)を登り切った時には、もう青方ショックのことは忘れていた。

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2018年12月 1日 (土)

スタートスパートの結末

もちろん当時は「あと2km」とは知らないし、GPSもないので自分がどれくらいのペースで走り、心拍数がどれくらいなのかもわからない。今日は3.8kmを33分かける超スローペース。あの日はどれくらいで走っていたのだろう。キロ6分くらいのペースだろうか。


丸尾で一度下ったあと、魚目中に向かって最後の上りを終えると、いよいよ右折して校門をくぐる。あとは200mトラック1周を残すのみ。


今日の練習は校門をくぐって終わり。
ここでトラックを走って、あの想い出をなぞろうかと思ったが、やはりやめておく。


丸尾のあたりで、後ろから誰かが迫っているのを感じていた。そして校門をくぐったところで、三年生が背後に迫ってきた。応援している三年が「抜ける」と声をかける。相手が運動音痴と思われている僕だと知っているだけに、逆転は当然という論調の声援がとぶ。
そういえば、今思い出してみると、僕への応援がない。
いや、実際はあったのだけど聞こえなかったのか。敵の声援はくまなく聞こえているのに。

三年生が横に並んだ
ダメかな、弱気の虫が出る
でも、ここまできての3位はいやだ
競技場に入ってから抜かれるほど、気分の悪いものはない
どうせならば、食い下がろう
スタートスパートで勝負をつけたつもりだったが、仕方なくラストスパートへ
必死に歯を食いしばる。首を左右に振り、危ないくらいに。血管が切れるくらいに。恐らく、これほどのスパートは生涯で他に経験が無い
トラックの周回に入ると、少し距離が離れた。さらに歯を食いしばっていく。すると相手は着いて来れなかったらしく、最終コーナーで外側からかぶせてくる者はいなかった。

丸尾の県道でペースメーカーの陸上エースは離脱しており「1人で走って来ました」と何食わぬ顔で校門をくぐった三年生は既にゴールしていた。
僕はつづいての2位。
生涯において、運動大会でとった順位としては最高のものである。

級友はかつて僕をひ弱な坊ちゃんと呼んだ。
だが、この日を境に周囲の僕を見る目は変わった。

一年後、中学二年で迎えたマラソン大会では、僕は陸上部でもないのに「駅伝」の選手に選ばれてしまった。
マラソンの部を走る級友に、僕の戦略をこっそり教えると、彼はその年の優勝者となった。


マラソンランナーとなった今「スタートスパート」は禁忌中の禁忌だが、あの頃は、それが最強の策だと信じていた。

お兄さんより
よい子の皆さんは危険なので、真似をしないでね。

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2018年11月30日 (金)

マラソン大会必勝の戦略

マラソン大会の日。僕は一発やってやろう!と密かに意気込んでいた。もちろん、ダメだった時に恥ずかしいので、そんなことはおくびにも出さない。
小学校の頃から今日まで運動会の徒競走(短距離)で最下位以外を走った記憶がない。何回かブービーはあったかも知れないが。
だが、体育の授業で計る長距離(といっても1500m)のタイムはそれほど悪くなかった。もしかすると、戦術によっては上位に食い込めるのではないか。
出場するのは1~3年の男子。そのうち陸上部の連中は「駅伝の部」に選抜されていて居ない。
およそ100人の出走。上位10位くらいに食い込めれば、クラスをあっと言わせることができる・・

「motoはテストの点だけかと思ったら、足も速いっちゃね」
そんな賞賛の声を妄想しながら、僕には一つの秘策があった。


新魚目町立魚目中学校マラソン大会当日
僕ら100人の魚中男子は校庭のトラックに集合している。
いつもならば、控えめに後方に位置取りするところだが、この日は違う。スタートライン付近最も大外にスペースを見つけ、そこに潜り込む。
朝礼台の上で教頭先生がピストルを打ち、僕らは一斉にスタートする。


40年後の今日、校庭に入れないことはないが、遠慮して校門からのスタートを切る。


教頭による号砲と共に、僕は一気にスパートした
ラストではなく「スタートスパート」だ。
なぜこんなことを思いついたのかは思い出せないのだが、前夜、1人で練った秘策はこうだ。

まず、スタートで一気に差をつける。
その後は通常のペースで走る。
始めに差がついていると、後ろは諦めて追ってこない。
結局、最初についた差を保ってゴールできる。

グラウンドから坂を上って校門を左折。県道に出る。
なんと2位だ。前を往くのは3年生男子。
こんなにうまく行くとは思っていなかったので、ちょっと面食らう。だからといって後ろを待つわけにもいかないので、とりあえず、このまま行くことにするが、えらいことになってしまったなとちょっと後悔している。
少しずつ抜くのならばいいけど、徐々に抜かれるのはかっこ悪いし、精神的によくない。


丸尾の県道は右側が崖になっていて、爽やかな風を受けるが、さほど強風ではない。ジョギングには絶好の景色のよい海辺のコース。だが、もちろん30度を超える五島で走っているのは僕だけだ。


丸尾の海風を受けて道路の右側を走る。
白バイの先導はないけれど、道路は封鎖されているようで、自動車はどちらからもやってこない。
今考えれば、中学校のマラソン大会くらいで幹線道路を封鎖するなんて、新魚目町はえらいことをやるものだ。

三年生の背中を追っていると、少しずつ距離が縮まってきた。
おいおい、優勝もありかよ・・
そう思った時、後ろから猛然としたスピードで人影が割って入った。陸上部の長距離エース(三年生)だった。
先を往く三年生に向かって「おいがひっぱるけん、ついてこい」すると、落ちかけていた三年生のペースがみるみる上がっていく。

おいおい、そんなんありかよ
これが、陸連主催の競技ならば、即座に失格となるところだが、魚目中の大会にそんなルールは存在しない。
なんでも有りなのだ。

ずるいなぁと思いながらも、一位を抜かないで済んでほっとしていた。そういうところが僕の甘いところだ。
似首の折り返しが中間点。


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2018年11月29日 (木)

懐かしの魚目中「農道一周」を走る

五島の旅<2日め>
朝起きて、早々に暑さ対策のウェアに着替えると、ワゴンRに乗り込む。
今日の練習は「五島RUN」走りたいポイントは3つある。
①浦桑坂ダッシュ
②農道一周
③魚目中マラソン大会コース

全行程を走っても距離は10km強だが、気温は既に30度を超えている。つなぎはジョグではなくワゴンRにした。

①浦桑坂到着
始めに坂下り、中口医院から折り返して上り坂ダッシュ。
一度、自分の足で走ってみたい。その夢が叶ったので、すぐに次のポイントへ移動。

②農道一周
魚目中学校の正門前からスタート。農道一周を左周りする。
昨日下見をしていた通り、丸尾から坂に入る。ここは急勾配で一気に農道の高さまで登り切る。コンクリートに日が照りつけて、既にかなり暑い。あたりに人影は無く、丸尾の皆さんは家の中にこもっている。お陰でこんな酔狂なところを見られなくて済む。
魚目中の背後を通り過ぎると、すぐに魚目小に向かって道が下り始める。両脇にうっそうと茂る雑草が陽を遮り、気温がぐっと下がる。

魚目小のグラウンドでは少年野球チームが練習している。僕が子どもの頃、そういうチームはなかったな。あれば入っていたかな。いや「かっこつける男は入れん」と言われたかも知れないな。

県道に出て魚目小の校門を左にみて通り過ぎ、峠を登りきるとそこからは魚目中までの下り。中学二年の時に駅伝選手に選ばれ、ここをへろへろになって走っていた。ここで見ていた一学年下の陸上部女子から「らすとー」と激励されて、急にダッシュしたことを思い出した。
農道一周2.2kmを20分かけて終了。子どもの頃、走っていた光景は思い出せなかった。ただ、ひたすら暑い。

③魚目中マラソン大会コース
中学校一年の時、校内マラソン大会で走ったコース。
校庭のトラックを半周、校門を左折して県道に出る。
丸尾の県道を走り似首で折り返す。今回走ってみて距離は3.80kmだった。校庭には入らなかったので、その分を足しても4.3kmというところか。子どもの頃は長いと感じたコースも、マラソンランナーとなった今は、呆気ないほど短い。


マラソン大会の日。僕は一発やってやろう!と密かに意気込んでいた。もちろん、ダメだった時に恥ずかしいので、そんなことはおくびにも出さない。
小学校の頃から今日まで運動会の徒競走(短距離)で最下位以外を走った記憶がない。何回かブービーはあったかも知れないが。
だが、体育の授業で計る長距離(といっても1500m)のタイムはそれほど悪くなかった。もしかすると、戦術によっては上位に食い込めるのではないか。
出場するのは1~3年の男子。そのうち陸上部の連中は「駅伝の部」に選抜されていて居ない。
およそ100人の出走。上位10位くらいに食い込めれば、クラスをあっと言わせることができる・・

「motoはテストの点だけかと思ったら、足も速いっちゃね」
そんな賞賛の声を妄想しながら、僕には一つの秘策があった。

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2018年11月28日 (水)

人の強さを教えてくれた丸尾の友達

丸尾の町を通り抜ける
浦桑に住んでいた僕にとって、丸尾と似首は学校の向こう側であり、家に遊びに出かけるような友達もいなかった。
丸尾に入ってすぐに精肉店があり、時々両親の買い物に着いてきた。子どもの頃のことなので、野菜よりは肉、魚よりは肉、とにかく肉が好きだったのだが、山口県に住んでいた頃は滅多にお目にかからなかった。それが五島に来た途端、肉の献立が増えたのは、公務員の離島手当により父の給料が増えたことによる。というのを誰から聞いたかを覚えていないが、恐らく母からなのだろう。
五島と言えば「魚が美味い」というのがステレオタイプな連想だろうが、五島に来たことで肉が食べられるようになったことは、つらい日々における一筋の光明だった。


丸尾にはただ1人、同じバレー部(ボールの方ですからね)の友達がいた。名前はユージ。授業中は寝ている僕とは違い、授業はしっかり聞いたうえで家庭学習を欠かさない彼に、僕は二年間の定期試験で一度も勝てなかった。
彼は決して体が大きくはなく、一見すると弱々しく見えたが、僕は彼を学年じゅうで一番尊敬していた。


その日、ユージはクラスのいじめを企画して主導する「いじめ軍団」に中傷を受けていた。軍団が輪になって罵詈雑言を浴びせ、周りは見て見ぬふりをする。こうなると、誰も抵抗できない。大抵は、時間が行き過ぎるのを待つばかりだ。
しかし、その時、彼はこう言い放ったのだ。

「なんちでん言え」

なんとでも言え。言いたいやつには言わせておく。言われなき非難には屈しない。という彼の強い意志を表した短い言葉。
僕はその強さに憧れた。日頃は飄々としていて、時おりおどけた冗談を言うけれど、あまりおもしろくない。でも、そんな彼の芯にある、誰にも負けない不屈の自信に初めて「人の強さ」を見たのだった。

僕が佐世保に引っ越して、高校に進んだあと、ユージとは一度だけ相浦総合グラウンドで行われた高総体(高校総合体育大会)で会う機会があった。相変わらず背が低かった。そして、友好的な相手にはただ、にこにこと笑っている、昔のままの姿がそこにあった。
その後、彼が何処へ進んだか知らない。恐らく、本土の何処かに出て、この社会で一端の役割を担っていることだろう。


似首に着く。似首(にたくび)の名前の由来は以前にも書いたのでここでは割愛する。似首には母が親同士で懇意にしていた同級生の家があるが、僕のほうは五島を出た日から年賀状一枚やりとりしていない。尋ね当てれば、恐らく邪険にはされないのだろうが、それはあまりに身勝手だと思い、似首も素通りする。


青砂ヶ浦天主堂に着く
ちょうど、タクシーをチャーターして観光に来ていたカップルが入っていくところで、それに着いて礼拝堂に入る。教会はどこも同じで館内の撮影はできない。それでも撮っている人がいるのはなぜだろう。観光に際して下調べというものをしないのかな。「るるぶ」一冊でも読むか、ホームページを見れば、そこにルールが載っているのに。





この時点で17:31
東京ならば夏場でもそろそろ日が沈み始める頃だが、日本の西端にある五島ではまだ日が高い。
この近くにある矢堅目公園では「夕日が絶景である」と「Google先生」が教えてくれたが、まだまだ日は暮れそうにないし、一人きりで夕日を見ても肩を寄せる相手も居ない。
夕日は諦めて、懐かしの町「青方」をめざすことにした。

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2018年11月26日 (月)

建て替えられた魚目小、そのままの魚目中

僕が通っていた頃は新魚目町立魚目小学校。平成の大合併で中通島(上五島)一帯が新上五島町となってからは新上五島町立魚目小学校。

写真右側に移っている校章はタテに魚が三尾という、昔ながらのもの。門扉の構えも同じだ。

一方、校舎は手前がドームになっており建て直された様子。確かコンクリート色だった校舎は2、3階が薄い黄色に塗られている。これにもきっといわれがあるのだろうが、校舎を黄色で塗るという時点で考える気になれない。

校舎の右側にあった講堂は取り壊されている。その奥に職員用と思われる駐車場。クルマが停められるものならば、降りてみようと思ったが、それは叶わない。
それに校舎が建て直されている時点で、つぶさに見てみたいという興味の対象からは外れた。


ワゴンRでさらに進むと丸尾との峠あたりで左側に上がっていくエントランスが見えた。そこが新上五島町新魚目支所。かつての魚目町役場の移転先だ。住所表記は榎津郷491番地なので、辛うじてかつての魚目の中心としての榎津の面目を保っている。


坂を下ると懐かしい魚目中学校が左手に見えてきた。
校舎、体育館、その間にある技術室などがある棟も、すべて昔のままのようだ。
明日もまたここに来る予定なので、ここはクルマを先へ進める。


丸尾に入って探すのは農道の入口。
僕ら魚中(うおちゅう)の生徒にとって「農道一周」には、忘れられない感慨がある。
部活の終わり掛け、顧問から「さぁ最後に農道一周」と言われると、腹が痛くなりそうだった。
マラソンを走る今となっては、さほどたいした距離では無いと思うのだが、中学生にとってアップダウンがきつい、この周回路は地獄の特訓のように思えたものだ。
今回の五島再上陸では、その想い出の「農道一周」そして、マラソン大会のコースだった「公道似首往復」を走るのを楽しみにしてきた。

今日はとりあえず、その下見。農道の入口をみつけて、そこから農道へ上がる。魚目中の背後を通り、魚目小の脇に出て、公道で魚中の正門に戻ってくる。ワゴンRでそのコース下見を行った。

つづいて、似首(にたくび)へ

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2018年11月19日 (月)

ヤキリンゴのパン工場

国丸書店の道路向かいにはパン工場があった。
私の記憶が確かならば・・・鉄川という名前だったと思う。
鉄川という名字は同級生にも2人いたが、2人ともパン屋の子どもではなかった。新魚目町には割と多い名字なのだ。

頭ヶ島天主堂、青砂ヶ浦天主堂など五島、そして九州で幾多の教会を手がけた建築家、鉄川与助は青方村で生まれ、魚目村で暮らしている。


「今日は弁当作れんかったけん、これでパン買ぉていき」
朝、登校しようとすると、母親がそう言ってお金をもたせてくれることがあった。
母にとってみれば、子供に弁当を持たせず見送るのは不徳のいたすところだったのかも知れないが、僕はこの一ヶ月に一度くらいの割合でやってくる「パン工場襲撃」の日がとても嬉しかった。
手のひらに置かれたのは確か20円。菓子パン1つが10円だったので、2つ買いなさいということだ。

家から魚目小までは徒歩2.3km
割と距離があるが、山口にいる時は3km弱の道を通学していた。お陰でこの年になってもマラソンが続けられるほど足腰が丈夫なのかも知れない。
学校まで1kmを切った所で鉄川のパン工場の引き戸を開ける。

ごめんくださ~い
大きな声でおらぶ。
ここはあくまで工場でありパン屋ではないのだ。
奥の方から工場のおばちゃんが出てくる。
ここでは製造を担い、町の小売店へ卸す。本来、ここでは小売りはしていないのだろうが、子どもの僕はそういう社会の仕組みには無頓着で、そこにパンがあるから売ってもらえるものだと思っている。
母も20円を持たせて送り出すのだから、そう思っていたのだろう。
鉄川サイドからすれば、朝の出荷が終わり一息ついたところに、20円を握った小学生が勝手に入ってきて、パンを要求する。可愛い女の子だったら心和むが、小太りで憎たらしい。迷惑だなとは思わないまでも、面倒だなくらいには思われていたのかも知れない。

ヤキリンゴとアンパンください
与えられた選択肢は2つ。そして僕は鉄川のパン屋に来るとヤキリンゴを外さなかった。
ある時はヤキリンゴとジャムパン、ある時はヤキリンゴとクリームパンという具合だ。


さて、懐かしのパン工場、建物はそのままだったが、看板は取り外され、既に稼動はしていない様子。
僕のパン工場再襲撃は成らなかった。
ヤキリンゴ、もう一度食べたかったな

国丸と鉄川、僕が通った榎津の中心が向かい合って廃墟になっている。もうここに用事はないよと榎津が言っている。


ワゴンRをさらに走らせると、左手に新魚目町の役場が見えてくるはずだが、その建物は既になくなったようで、その位置がどこだったかもわからなかった。

丸尾との小高い峠に向けてなだらかに道路が上り始めると、その先に今も変わらぬ魚目(うおのめ)小学校が見えてきた。

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