2009年11月 9日 (月)

高森田楽保存会、そしてたまちーず

1400年の歴史がある禅寺で撮った写真を旅の記念として、一路やまなみハイウェイをめざす。

九州北部の人にとって、ドライブといえば阿蘇。
阿蘇の大観峰では毎月第2日曜日、オープンカーのオフ「おはくま」が行われており、毎回多くの参加者を集めている。
阿蘇をオープンカーで走るのは、遠い昔からのあこがれだった。

「やまなみハイウェイ」は水分峠から阿蘇までの県道。
全長 52km。
かつては有料道路だったが、2000年6月に無料化された。

Y5 だが、あいにくこの日の空は雨が降っては晴れるの繰り返し。
そうかと思うと突然霧が立ちこめて、視界わずか10mのところもあった。
ほんのわずかな晴れ間を狙って記念写真を1枚。

だが、オープンの幌を開けるには、あまりに空が重い。

結局、一度も幌を開けることはなかったが、天候により、いろいろな顔をみせる「やまなみハイウェイ」を楽しめた。
ずっと、このクルマで走りたかったあこがれの道。
夢の時間はあっという間に終わった。

Y6 時計はお昼の1時を回っている。
お昼は「高森田楽保存会」へ。
阿蘇に来たらご飯はいつもここ。
初めて来たのはもう20年以上前のこと。

その日から、なに一つ変わらぬ姿で今日もそこにあった。

縁側に靴を脱いで上がるのが懐かしい。
子どもの頃、住んでいた家には縁側があり、夏の夕暮れはそこで涼んだことを思い出す。

Y7

お通しに出る厚揚げが、相変わらずうまい。
これだけあれば、あとは要らないと思っている。

日頃、通りすがりに豆腐屋があれば、なにげなくこれに似た厚揚げはないかと覗いているが、20年来見つからない。

Y8 いろりに鮎、豆腐、こんにゃく、芋を差し、味噌を塗って焼く。
最後にご飯とほうとう汁。


真夏にいろりに当たっているのだから、暑そうなものだが、山の風が通り抜けて涼しい。

高森を後にして、阿蘇山頂の南側を回って赤水に出る。
今日は「やまなみハイウェイ」を走りに来たので、山頂は目指さない。


上空には霧が立ちこめていて、子どもの頃から暗記している標高1592mの山頂は、一度も見ることはできなかった。
でも、いつかきっと、またここへ来るだろう。

道が空いているのか、道路が拡幅されたせいか、いつも混んでいる印象があった国道57号線は、あっという間に熊本ICへ抜けた。

今日、最後のチェックポイントは熊本県でのSA・PA寄り。
目をつけておいたのは、玉名PAの「たまチーズ」
製造は玉名市の「むらた」
のぼりには「高速初登場」とあった。

その場で食べようと思ったら
「今すぐ食べられるものは売っていないんです。1時間くらいで溶けるので、それから食べてください」
帰り道、待ちきれず30分くらいで食べる。
これは買ってよかった。
1時間くらい経ってまた食べた。やっぱり美味い。
溶けてくるに従い、風合いの違うお菓子に変わって楽しい。

雨があがった西の空に向かい、スピッツを歌いながら走る。
空いて手持ちぶさたの高速には、スピッツがぴたっとくる。



高速1000円で行く東京-九州の旅日記


|

2009年11月 6日 (金)

下しらべない湯布院で、たどり着いた場所

佐世保は朝から雨模様
これで5日めにして3度めの雨。
暑くならないのはありがたいが、やまなみハイウェイをオープンドライブできなくなるのは困る。

佐世保みなとから高速に乗り武雄南までは西九州道。
そこから湯布院ICをめざす。
長崎自動車道はいつも通りがらがら。

お盆期間「高速1000円」が適用されるのは木・金・土・日
渋滞を分散させるために、木・金が急遽追加された。
この日は水曜日だが平日も割引があり、事前に調べておいた「定価」よりも660円安かった。

佐世保みなと 100円
佐世保三河内本線 200円
武雄南本線 210円
武雄南本線-湯布院 2500円

鳥栖JCTは、日本でただ一つのクローバー型JCT。
南北を走る九州自動車道、東西に走る長崎自動車道/大分自動車道の接点にある。
ランプ道路が上空から見ると「四つ葉のクローバー」に見えるため、こう呼ばれる。
このJCTでは左、右、直進だけでなく、今来た道、つまり後ろに戻ることもできる。

鳥栖JCTを直進すると大分自動車道。
ここから先も片側2車線が確保されており、いつもながらに空いている。
"すべての県でSA・PAに入る"のは、徳島で途絶えてしまったが、せっかくなので大分に入ってすぐの萩尾PAに入る。
ここには売店はなく自販機のみ。
ペットボトルの水を買い、ほとんどストップ&ゴーで出発。

やまなみハイウェイを北から南へフルに走るには、湯布院ICで降りるのが一番近い。
湯布院ICには、定刻どおりに到着。
今日は「やまなみハイウェイを走る」ということ以外は、何も決めていない。
そこで、湯布院の町にも少し立ち寄ることにする。

湯布院はとても有名である。
行ったことがない人は「わぁいきた~い」という無難な反応をするが、この町を知る人は違う。
ここは、敵と味方に分かれて語られる町だ。

観光地として有名になる前の湯布院を知る「元祖ファン」は、湯布院は大衆に迎合し、らしさを失ってしまったと落胆をあらわにする。
一方、有名になってから訪ねたファンは、ある者は「何度でも行きたい」と言い、またある者は「言われる評判ほど、たいしたことなかった」と言う。

この町を語るのは面倒である。
確かなのは「ゆふいん」というブランドには力があり、プリンが遙か遠い高速のパーキングエリアで売られていることだ。

Y1 下調べをしていないので、とりあえずカーナビの導きで由布院駅へ。
特にどうっていうことはない。
どこかに「ゆふいん通り」みたいなものが、あるのだろうか。

駅の突き当たりを左折して、細い道を進んでいく。

だが、目抜き通りは見あたらない。
そうこうするうちに、クルマはいくつかの高級そうな旅館の脇を抜け、山に入り込んだ。

向こうから馬がやってくる。
さすが阿蘇周辺。
馬が暴れないよう祈りながらやり過ごすと、今度は前方に人力車。
若い衆がカップルを乗せて引いている。

さらにもう少し行くと、とても古い佇まいで雨に沈む寺があった。
よし、ここを湯布院に来た証にしよう。
近くの空き地にクルマを停めて、カメラを持って走る。

Y4 佛山寺 【 ぶっざんじ 】
臨済宗の禅寺
1400年の歴史があるという最古の木造建築だったが、近年火災で本堂を焼失。その後再建された。
門だけは消失せずに、古いままで残っている。

Y3

・・と人力車のガイドさんが説明するのを、ヨコで聞いて学んだ。




|

2009年11月 2日 (月)

江山楼と平和祈念像とびわソフト

ココウォークでお昼ご飯を探す。
この施設のホームページは、最新技術に敏感なデザイナーが作っているようで、抜群に検索性が悪い。
作った側はキレイでイケてるページを作って満足だろうが、短時間で的確に情報にたどり着きたい側は、とても血流が増える。

C1

ホームページで情報を見つけるのは諦めて、自分の足で見て回る。

すると、今日は見送ったはずの「江山楼」がココにも出店していた。
見つけてしまったからには入らないわけにはいかない。

C2 江山楼と言えば炒飯。
チャンポンは二人以上で来た時に頼み、炒飯と分けあいっこする。
期せずして目の前に現れた炒飯に、居ても立ってもいられずさじをつきさして一口。

そこで、写真を取り忘れたことに気づき、U太郎を取り出す。
周囲に気兼ねなく撮れるこのカメラは、旅の供に欠かせない。

N1 長崎の締めは「平和祈念像」
長崎市に来て、ここに寄らずに帰るのは難しい。

自らの成長に連れて、対象物は相対的に縮んでいく。

子どもの頃は巨大だった像も、時の流れと共にカラダが縮み、今はほどよい大きさになった。

N2 それでも、その小さいことにびっくらこいたシンガポールのマーライオンや、広島の原爆ドームのようなことはない。

その威風堂々とした姿は十分な迫力がある。

←人を入れた場合、このような情景。

背後に建造物がなく開けているため、像は空に浮かんでいるように見える。

N3 1枚ずつ露出を変えて試してみる。まだ時間は 14:41 十分に陽は高いが、写真では夕闇が迫っている。

大仁田厚が誰かと打合せをしている。だが、取り囲む人は誰もいない。彼を初めて知ったのは別冊ゴング。15歳でジャイアント馬場の全日本プロレスの門を叩いて間もない頃。こんなか細い少年が、プロレスをやっていけるとはとても思えなかった。

長崎大学の脇を抜けて長崎自動車道に乗る。
かつては長崎バイパスといった。
市内を脱出して福岡へ戻るクルマでよく混んだものだが、長崎自動車道が市内を突き抜けて長崎港まで延びたことで、それも解消されている。

O1

お盆を控える週だが、高速の上は空いている。片側2車線の道。クルマは一路、びわソフトが待つ大村湾パーキングエリアへ。

パーキングエリアに着くと、探すまでもなく、とてもわかりやすいソフトクリーム売店が見えた。
びわソフト売店の右手には「わざわざこのソフトのために訪れる方もいるほどです」といった能書き。

O2 食べる前にU太郎で写真を1枚。

と構えたそばから、もう溶け始めている。

さて、味は・・確かに美味かった。
果物や野菜、名産品を織り込んで、ご機嫌をうかがうご当地ソフト数あれど、びわソフトの出来は最高の部類にはいろう。

びわと言えば茂木。茂木のびわといえば、びわが丸ごとはいった「びわゼリー」も定位置を確立している。

 柿といい枇杷といい、種がある果物は好きになれないという人も、デザートに化けた枇杷ならば美味しく食べられる。

O3

長崎の夜は遅い。
陽はまだ高いが、早起きした分だけ家に早く帰ろう。

そして、明日は憧れの「やまなみハイウェイ」をめざす。

*今日もべた凪の大村湾



高速1000円で行く東京-九州の旅日記

| | コメント (0)

2009年10月28日 (水)

パティシエになった上柿元勝

 お昼を回った長崎市。
 さぁどこへ行こう。
 長崎駅で売っている限定5食の「くじらカツ弁当」を買いたいところだが、夜までもたないだろうし、長崎にいて駅弁を広げるのも味気ない。
 長崎らしい美味しいものが食べられて、目新しいところ・・
 愛しい江山楼には去年の夏に行ったので、新地の中華街は候補から外す。
 そこで、去年の夏にはまだできていなかった「ココウォーク」~2008年10月オープン~を目指すことにした。

 ネットで住所を調べ、カーナビに打ち込む。
 長崎港からは車で15分ほど。
 駐車場へ向かって交差点を左折、ビル内のスロープを上って進入する経路はどこかで見覚えがある。確か名古屋駅前のビルが、こんな感じだった。

 駐車場に着いた感じは全国のイオンとなんら変わりない印象。
 ショッピングゾーンは、川崎のラゾーナと似ている。
 同時期にできた商業施設だから、時代の流行を取り込んで期せずして似てしまうのだろう。

 ココウォークには上柿元勝がスイーツの店を出している。

【 かみかきもと まさる 】
元ハウステンボスホテルズ総料理長。

1950年
鹿児島県生まれ

1974年
西洋料理の基礎を学んだ後1974年単身渡仏。
パリ「ル・デュック」のミケンリー、リヨン「アラン・シャペル」のアラン・シャペル、ヴァランス「ピック」のピックなどの名シェフに師事する。

1981年
神戸ポートピアホテル「アラン・シャペル」オープンのため帰国。料理長をつとめる。昭和天皇やモナコ国王の晩餐を担当する。

1991年
神近義邦の誘いでNHVホテルズインターナショナル総料理長に就任。
(現在のハウステンボスホテルズ)
迎賓館、ホテルヨーロッパ、デンハーグ、アムステルダム、フォレストビラ5つのホテルの総料理長をつとめ「エリタージュ」などで腕を振るう。

1995年
10月「ハウステンボスのおいしい休日」柴田書店出版。

2001年現在
ハウステンボス(株)取締役、ホテルヨーロッパ総支配人を兼任。ハウステンボスのオープン以来、オランダ王子や三笠宮殿下など内外のVIPの晩餐を担当してきた。

2006年
3月14日、アランシャペル出身著名シェフの一人として、ポートピアホテル25周年記念晩餐で腕を振るう。

2008年10月
長崎市のココウォークにパティスリー・カミーユを開店。料理の腕はふるわず菓子作りに専念する。

エリタージュのフレンチは村上龍のお気に入りで、エッセーでは何度も紹介していた。
上柿元勝はハウステンボスの看板だったが、今はハウステンボスに籍はない。

エリタージュに行ったことはないが、上柿元勝のソーセージは食べたことがある。
彼がシェフではなくパティシエになってしまったのは、フレンチファンにとって残念だろうが、料理を食べたことがない者にとってはあまりぴんと来ない。

さて、パティスリー・カミーユに直行
したかと言うと、上柿元勝がココにいることは4日後にハウステンボスで聞いたので、この時は知らなかった。ちょっとだけ惜しいことをした。




|

2009年10月26日 (月)

軍艦島上陸 なしよ ^^;)

 船室を出て甲板に上がる。
 そこは船客が溢れていて、ほとんどスペースは確保できない。
 一度、好位置をキープした人は、一通り見たら後ろの人と替わってくれるということはない。写真を撮り終えていても最後までその場所は離れない。

G8_2  軍艦島を左回りに240度ほど回ったあたりで、ここがもっとも軍艦「土佐」に似ている角度であると船内放送がはいる。

 ここで全景を捕らえたかったが、望遠レンズを装着した状態では近すぎて両端が収まらなかった。

 船は大きくタテに揺れており、とてもレンズ交換ができる状況ではない。
 仕方なく、端っこが切れた「土佐」の写真になった。

G9_2  島を270度なめて船は再び、表側に戻った。

 屋上が切り取られたような建物。
 かつて要塞でもあったかのような高台。

 神奈川の猿島ではないが「元・日本海軍の要塞だった」と言われたら、ほとんどの人が信じるだろう。

G10_2  上陸観光用に整備された船着き場が見えてきた。

 船の高さからでは判別できなかったが、写真中央に映っているのがドルフィン桟橋と思われる。

 今日はこのわずかな距離が近くて遠い。

 「端島の場合は、港と呼ばれるような波おだやかな波止場はないのだ。島からぽつんと飛び出したこの丸いドルフィンと呼ばれるコンクリートの塊だけが、唯一、船の接岸のためにあるだけである」
「軍艦島の遺産」後藤惠之輔 坂本道徳 長崎新聞社 2005年

 ドルフィンとは小判型のコンクリート建造物。
 かつてはここに船を着けて、ドルフィンから陸地へは橋が渡されていた。無人島となった後、橋は取り外された。
 観光利用のために、その橋を再び架けたわけだ。
 長崎港の天候をみる限り、上陸は楽勝だろうと思えたが、この海を見てその考えはとうに消えている。

G12  もう十分に景色としての軍艦島は堪能した。
 恐らく来年またこの海にくるだろう。


 軍艦島をぐるっと一周するのに30分。
 船は長崎港を目指してスピードを上げた。

 船内放送を終え、乗船のお礼を終えた船員さんに、船内一杯の拍手が鳴り響いた。
 11:45 長崎港に帰港

G13  乗船前、記念にもらった「ドルフィン桟橋の石」ストラップはあれから2ヶ月、高知で買った龍馬像、ハウステンボスで買ったエッシャーの栞の隣り、いつも見える場所に飾っている。

 そして今、この原稿を書くためにそれを手にとり、初めて説明書きを読んだ。。。

 かつて海底炭坑の島として栄え、その姿が軍艦・土佐に似ていることから「軍艦島」と呼ばれた端島。炭坑閉山後、長い眠りについていた島は、
「九州・山口の近代産業遺産群」の構成資産の一つとして2009年1月、世界遺産暫定リストに登録され、新しい歴史を刻み始めました。
 現在、島から構造物などを持ち出すことは一切禁止されていますが
気象条件等で残念ながら上陸できなかった方だけに
桟橋を造る際に削ったコンクリートの破片を記念にお持ち帰りいただいています。

 上陸できなかった人だけのプレゼントだったとは、今初めて知った。それを知れば、上陸できなかった「軍艦島vol.1」にも意義がみえてくる。

 「軍艦島ストラップ」でネット検索すると、ヤフオクで1400円、1600円で落札されていた。



高速1000円で行く東京-九州の旅日記


| | コメント (0)

2009年10月24日 (土)

憧れの軍艦島を前にして

 軍艦島記念グッズは未整備だったが、売店の弁当は充実していた。
 低価格でしっかりおかずが入っており、多すぎず朝ご飯には好適な量。
 どうすれば売れるかという研究の後がうかがえた。

G1  軍艦島クルーズ マルベージャ号は、晴天の長崎港を 定刻 9:30に出港。
 軍艦島をナマで見ようと、ほとんどの人が甲板に出たらしく、船室は空いている。

 しばらくは船内のガイド放送を聞きながら、船窓の風景に見入る。

 船に乗るとすぐ寝るという習慣の人がいる。
 たて揺れに弱い人の船酔い防止策である。
 寝てしまえば、よほどの揺れでもない限り起きることはなく、酔わない。
 まさか、この短時間の遊覧船にそんな人はいないと思ったが、あちらこちらで早くも船をこぎ始めている。

G2  長崎港にはイージス艦が停泊していた。
と言っても、周囲の運搬船に比べるととても小さな船で、船内放送で言われて初めてわかった。

「散骨・海洋投棄は禁止されています」「三菱造船長崎工場は150年の歴史があります」

 観光ガイドは録音テープではなく、船員によるライブ放送。
 遊覧船で、ここまで詳しいガイドは聞いたことがない。
 "観光立県" 長崎の面目躍如である。

G3

 夢大橋をくぐって、長崎港から外海に出ると、船は少し揺れ始めた。

 風力発電の風車、建設中の橋、沖をいく船
 手当たり次第にピントを合わせては、来るべきシャッターチャンスに備えて、練習する。
 一眼レフを買って8か月、望遠レンズを初めて使う。

 長崎港を出港しておよそ45分
 遠くに憧れの軍艦島が見えてきた。
 さっきまで、あれほど晴れていた空は日がかげり、ファインダーから覗く景色が暗くなった。
 そして、さっきまでの穏やかな挙動とは一転、船は上下にも揺れ始めた。

G4

 前方に軍艦島が見えてきましたと言われるまでもなく、人びとは反応する。

 さっきまで船をこいでいた人は・・・まだ寝ている。

 
 さらに島が近づくと、窓から軍艦島が消えた。
 軍艦島が沈んだ・・
 わけはなく、船は軍艦島に近づくと右に舵を切り、時計とは反対、左回りで島を舐めるようだ。

G5

 左側の席へ移動して、他人の肩越しにシャッターを切る。

 一つの窓を譲り合い、一枚撮ったら、また次の人に替わる。

 皆、軍艦島を夢見ていた同士。今日、上陸は叶わなかったが、いつかきっと上陸したい。ここには、そんな連帯感がある

・・ というのは、後からの作り話で、現場はそんなに悠長な状況ではなくなっている。

 海のうねりは一段と高く、足を踏ん張っていないと、普通に立っていられない。

G6

 軍艦島海域に着いて15分。
 船は軍艦島に沿って緩やかに左旋回。

 島の裏側に回った。
 この時点では、船室から窓越しに撮っているので、画像がぼやけている。

G55

 軍艦島が無人島になってから35年。
 今からおよそ100年前の1916年に建てられた日本初の鉄筋高層アパートは、今にも崩れそう。
 長崎に大地震が来ないことを祈る。


 長崎県は1億5,000万円をかけて、観光用の基盤を整備したというが、その多くは観光客の安全確保のために使われたのだろう。

高速1000円で行く東京-九州の旅日記

| | コメント (0)

2009年10月21日 (水)

軍艦島 ドルフィン桟橋は10年でなくなる?

Gunkan 高速を降りてからの港までの進入路、船着き場、駐車場の位置関係を調べておいた。


予定どおり 8:00に到着。
軍艦島上陸クルーズ出港前55分。
だが、この時すでに長崎港ターミナル駐車場 253台は満車だった。
長崎港からは生月、五島など様々な航路が出ており、たった今満車になったというよりは、慢性的にいつも満車とみた。
まさか、この早い時間にきての満車は想定していなかったので、近くのコインパーキングを調べていない。
困ったなと思っていると、後ろから来たクルマが駐車場に入っていきゲートが開いた。
駐車場が回転しているのである。(地軸を中心に回転しているのではない)
ゲート前で待つこと10分、次の1台が出て駐車場に停めることができた。

8:25 誓約書を片手に乗船手続きに並ぶ。
前には母親と長女の二人連れ。断定して悪いが、どうみてもその関係性は長女と母
に見えた。
観光で長崎を訪れて、今日が長崎滞在の最終日らしい。
「え、ダメなんですか。今日はもうずっとですか?」 母が食い下がっている。

軍艦島上陸クルーズは予約が必要なのである。
2009年4月、軍艦島への上陸ツアーが始まった。
運行業者は「やまさ海運」
予約はホームページのフォームから申し込む。予約がとれると、確認のメールが届く。
予約状況が公開されていて、夏休みの繁忙期は1日2便のクルーズ枠はどれも満席。
2ヶ月前に申し込んだので予約できたが、どれくらい前に予約すればとれたのかまでは追っていない。

■料金:4,300円
■通年運行予定。
■上陸コースに参加するためには、誓約書の提出が必要。
■上陸滞在時間は1時間。

 船は前後からの波には強いが、横からの波に弱く、転覆の危険がある。波が高い日は「周遊コース」に差し替えられる。さらに海が荒れている日は、周遊コースも欠航となる。
 出航しても、軍艦島周辺の波が高ければ、上陸することができず、島を見るだけの「周遊コース」となる。

 ダメだよ、こっちは2ヶ月前から予約してるんだから
そう独りごちて、母と長女が渋々立ち去った後に僕の番。
 予約番号などはないので氏名を告げる。

「今日はクルーズになりますが、よろしいですか?」
 え、こんなに晴れてるのに?
「昨日の台風の余波で、沖はかなり荒れているんですよ」

 2003年 9月10日に、軍艦島クルーズ 長崎~野母崎航路が認可されて以来、いつか上陸できる日が来るのではないかと夢見ていた。
 そして2009年4月、ついに上陸が解禁される。
 6年越しの夢、軍艦島上陸がいま目の前で、白紙に戻った。

 軍艦島クルーズ 3,300円
 上陸コースよりも 1,000円安い。
 現実を受け入れられないまま、記念品のキーホルダーを受け取る。
 「ドルフィン桟橋の石」が小瓶に詰めてある。
 ドルフィン桟橋とは艀(はしけ)のこと。波が荒い軍艦島周辺では船をぴたりと岸壁につけることができない。そこで、コンクリート製の艀を海中に立て、そこに船をつけて乗降する。

 ドルフィン桟橋の石を削って、こうしてみんなに渡してたら、10年くらいで桟橋はなくなっちゃうなぁ・・
 この時は自暴自棄に笑っていた。その説明書きを読むこともなく・・・

 待合所のテレビは朝早く起きた静岡の地震を伝えている。
 東名高速の牧ノ原で、走行車線が崩壊した映像をヘリコプターが捕らえている。
 復路は中央道を通るつもりなので、その時はあまり気にしなかった。

 クルーズコースの出港は、欠航となった上陸コースよりも30分遅く 9:30。
 早起きすると1日が長い。
 でも、まだ9時半だぜ・・と独り言を言いながら、それでも軍艦島記念グッズを押さえにかかる。

 結論から言うと、記念グッズは未整備。
 買ったのは手ぬぐい 950円
 ハンドタオルならばまだしも、手ぬぐいを使う機会はなく、そのままタンスに仕舞った。
 上陸コースが始まってまだ半年。来年の今頃にはもう少し整っているだろう。
 欲しいと思っていたのは、軍艦島のミニチュア。
 大きさは、大15cm 中10cm 小5cm
 それぞれ1,500円 1,000円 800円程度。
 小5cmはハウステンボスのミニチュアハウスで作っている街のジオラマに置くためだ。長崎市観光課の皆様、よろしく頼みます。

|

2009年10月19日 (月)

軍艦島上陸前

自分だけが切り取る風景を映したい。
せっかく軍艦島に上陸するのだから、ほかの誰もが撮るような写真だけではなく。
自分の視点でこれというものを1枚だけでもいい。

過去に他の人たちが撮った写真を全部見ておこう。
そう思い立ち、軍艦島に関する写真集・書籍を一通り見て読んだ。

軍艦島-雑賀雄二写真集 棄てられた島の風景-
軍艦島の遺産-風化する近代日本の象徴-
軍艦島全景-gunkanjima odyssey archives-
軍艦島-眠りのなかの覚醒-
1972青春軍艦島
軍艦島海上産業都市に住む
記憶の「軍艦島」

軍艦島にまだ人が住んでいた頃の記録
無人島になった軍艦島に上陸して撮った記録
だが、今回観光ツアーで上陸する自分らには、これほどの環境は与えられないだろうと推察された。
それゆえに、自分だけの視点を象徴する小細工が必要だと感じていた。

軍艦島はかつて炭坑集落だった、長崎県長崎市の沖に浮かぶ無人島。
正式名称は端島。
北西から見た外観が軍艦に似ていることから、こう呼ばれている。

島の大きさは面積で6.3ヘクタール。外周はわずか1km。
大人の足でゆっくり歩いても15分程度。

かつて、人が住んでいた当時には役場支所、郵便局、病院、幼稚園、小・中学校、銭湯、市場など生活に必要なものは揃っていた。
映画館、パチンコ屋、テニスコートなどの娯楽施設もあり、弓道場まであった。

【 軍艦島の歴史 】
1810年
漁民が炭坑を発見
1890年
三菱が地主から炭坑を譲り受け、三菱鉱業高島鉱業所端島砿オープン。
行政管轄は、西彼杵郡高島町役場端島支所が受け持った。

1916年
朝日新聞が端島は「軍艦に似ている」と報道。これ以来、端島に軍艦島の愛称がついた。同年、日本初の鉄筋高層アパートが建設された。

1960年代初頭
炭坑に就業する家族ら5,000人が住んでいた。

1963年
日本で初めて屋上緑化に取り組んだ。鉄筋アパート、屋上緑化といい日本の最先端がかつてここにあった。

1973年
12月、石炭の採掘停止。

1974年
1月15日、すべての炭坑が閉鎖され、4月には最後の住民が島を離れて、無人島になった。

1986年
写真集が発売された。「軍艦島-雑賀雄二写真集 棄てられた島の風景-」雑賀雄二 新潮社 巻末には、閉山から島民が島を離れるまでの日々の記録が添えられている。

2003年
7月発売の書籍「バトル・ロワイアルⅡ」杉江松恋 の舞台となる。主人公 七原秋也が籠城する軍艦島を巡る攻防が描かれた。映画「バトル・ロワイアル2」のロケは軍艦島で行われた。ふんだんに火薬を使っており、今見ると「おいおい、あんまり壊すなよ」とちょっと冷や冷やする。

2003年
9月10日、長崎~野母崎航路が認可。海路の途中に軍艦島のそばを通るが、上陸はできない。同年、軍艦島を世界遺産に登録する運動が始まった。

2004年
7月3日、観光船「軍艦島クルーズ」就航。十月まで毎週土曜・日曜に往復2便運航。

2005年10月
「軍艦島の遺産」後藤惠之輔 坂本道徳 長崎新聞社 出版
炭坑という視点から詳しく書かれている。

2007年
長崎県が1億5,000万円をかけて、観光用の基盤を整備。上陸ツアーの準備が始まる。

2009年
4月22日、上陸解禁 観光ツアーが始まった。

Gunkan



高速1000円で行く東京-九州の旅日記

| | コメント (0)

2009年10月16日 (金)

2009夏 長崎は竜馬で勝負ですよ

「この夏の長崎は竜馬で勝負ですよ」
と佐世保に住む僕の友達。

竜馬って高知でしょ。長崎とどう関係があるの?
「いや、まぁとにかく竜馬らしいです」

「長崎さるく幕末編」 2009年夏、長崎は竜馬を観光PRの柱に据えていた。
元々長崎には竜馬関連の施設が多く、風頭公園には竜馬の銅像まである。
でも高知の銅像とはちょっとポーズが違う。

一応、司馬遼太郎「竜馬がゆく」は読んだ竜馬ファンだ。
その物語には、次の一説がある。

"船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、「長崎はわしの希望じゃ」と、陸奥陽之助に言った。"

海援隊の前身であり、日本で最初の商社「亀山社中」があったのは長崎。
そのため長崎は、2010年に放送されるNHK大河ドラマ「竜馬伝」の舞台にもなっている。

でも、こういうことは得てして地元にいる人よりも、ファンのほうが詳しいもの。
知らないのも無理はない。
時計屋の店員よりも、コレクターの方がG-SHOCKに詳しいのと同じだ。

その"竜馬で勝負"という長崎をめざす。
早朝の佐世保は快晴。
恐らくこの先の長崎も晴れていると容易に想像できる。海は凪いでいて軍艦島への上陸は叶ったも同然。
日頃のおこないがよかったか、晴れ男の面目躍如か。だがそんな楽観論をぐっと飲み込んで、静かな心でいた。

軍艦島上陸クルーズは朝 9:00 出航。
駐車場を確保するために8:00までには港に着いておきたい。そのために、この旅一番の早起きである。

幌を開けて、西九州自動車道から長崎自動車道を走る。
オープンカーを買うと、いつも幌を開けて走るのかと思っていたが、滅多に開けることはない。
駐車する時は防犯のために幌を閉める。
開閉は手動。一度クルマを降りなければならない。

雨が降る気配がない。
直射日光がきつくない。
今日のようにある程度まとまった距離を走る。
様々な条件が揃わないと、開けるのは億劫なのである。
結局、4300kmも走ったこの旅で、オープンで走ったのはこの1時間 50kmだけだった。

幌を開けると、クルマは応接間が走っているような「乗用車」から「バイク」に変わる。
猛烈な風の音を聞いていると、走りが戦闘的になる。
佐世保は九州の西の端。ということは日本の西端。
夜の日が長い分、朝は遅い。
それでも 7:00を回ると日射しが強くなってきたので、大村湾PAで幌を閉める。
大村湾を臨む絶景スポットと聞いていたが、それは上り側のこと。下りのPAからはほとんど海は見えない。
名物の「びわソフト」は復路に回して、ここは先を急ぐ。

民主党が政権をとってから高速道路の「4車線化凍結」という話題が出ているが、あれは「片側2車線化」のこと。
佐世保から武雄までの西九州道は片側 1車線。
それでも渋滞しているのは見たことがない。
武雄から長崎へ向かう長崎自動車道は片側2車線。
いつも空いている。
お盆が近い平日だが、今日もそれは変わらない。
高速道路は1000円ではないが、今は平日でも割引があって安い。
でもそれは、ETCの請求が来てから知った。

高速1000円で行く東京-九州の旅日記

|

2009年10月12日 (月)

学生の時のあの食堂は今?わが心の黒田庵

 昔はコンビニがあった角を曲がると、そこからは黒田庵までの一本道。
 交差点の先に黒田庵はある。
 時計は17時を回ったところ。
 店がまだやっていれば、そろそろ開店の時間だ。

Kurodaan  交差点で一時停止して前方をみると、懐かしい黒田庵ののぼりが見えた。
 やった、やっている。


 お店の前には、その昔そこが何だったかはわからないがコインパーキング。
 怪しまれないよう、周囲に気を配って一眼レフで写真をがしゃり。
 財布とU太郎を持って、のれんをくぐる。

 もうやってますか?

 お店には奥さんとお孫さんらしき子どもが二人。
 テーブルに座ってなにやら話し込んでいた。

 あ、確か・・
 うっすらと覚えていてくれた様子。
 かつて、僕がいつ頃この店にきていたか。
 その頃、ご主人になんと呼ばれていたかを話す。

 「よっ、編集長!」

 僕が店にくる。
 厨房の小窓から大将が顔を出す。
 学校の部活でミニコミ誌をつくっていた僕のことを、謎の中国人のような彼は「編集長」と呼んでもちあげてくれた。

 ちがいますよと言いつつ、いつもの席に座る。
 そんな粋なやりとりが学生の僕には、大人のまねごとのようで楽しかった。
 場所はカウンターの小窓のちょっと左側。
 でも、いつも店は混んでいて、その席に座れるとは限らなかった。
 空いている時間にゆっくり食べようと思い、わざと夜の9時頃に出かけることもあった。

 天国に行ってね。

 いや、インターネットでそれらしいことを書いているページがあって、そうかなとは思っていたんですが・・
 それは急な旅立ちだったらしい。
 ある日突然。入院したわけでもなく。
 まさに、長野県でやっている「ピンピンコロリ」そのものだ。

 その日、父が余命数ヶ月であることを医者から聞いた。
 父は長く病床に伏していて、今は言葉もはっきりしない。

 送る身になってみれば、突然の死は途方に暮れるものだろう。
 だが、人生は本人のもの。
 逝く直前まで厨房に立ち、にこにこと客に愛想を言った人生は幸せだったろうと羨む。

 高知で買ってきた飯盗は、ご仏前に供えていただいた後、奥さんに食べていただくことにした。ただ、あのきつ~い味が大丈夫だったろうかと、今となっては心配である。


 さくさくさく
 かつて、大将が切っていた上定のチキンカツを今日は奥さんが切る。
 ファンにとって気がかりだった、跡継ぎは「今、修行中」という。
 跡取りがつくる黒田庵の味を、また数年後、博多に立ち寄った時に味わいたい。

 僕がネットに書いた「謎の中国人」は、客からネットに書いてあったよと言われたそうで、大将は「ニーハオニーハオ」とおどけていたそうだ。
 「今くるよ」に似ていると書いたのは今となってはちょっと違っていて、めぞん一刻の一ノ瀬さんに似ていると思った。
 そんなことを言ってもわからないだろうから、言わなかった。

 久しぶりの上定 替わらぬ品数、圧倒的なボリューム。でも正直なところ、食べ盛りをとうに過ぎた身には多かった。ネットには載せない、僕だけの記念にという約束で 1度だけU太郎のシャッターを押した。

 この店で食べるカレーはとても美味しい。
 確か以前は「業務用インドカレー」だったと思う。
 いま、スーパーを回っても「ハウスインドカレー」はどこにも見あたらない。
 あの大将のカレーをいつか作ってみたいと思い、この秋から試行錯誤が始まった。

 明日はいよいよ、この旅のメインイベント「軍艦島上陸」である。

| | コメント (0)

2009年10月 9日 (金)

黒田庵についての2つのページ

博多南駅を出て3kmの距離に「アベニュー」はある。
アベニューはパスタと珈琲が美味い店。
というよりも「行きつけの喫茶店」に好適な店である。

かつて「750ライダー」というマンガを見て、毎日入り浸る行きつけの喫茶店に憧れていた。
そこで、住んでいた町のすべての喫茶店を訪問して「喫茶店マップ」を作った。
その時に見つけたのが、開店したばかりの「ロッキングチェア」だった。

ロッキングチェアはアベニューのマスター野田さんが、かつて開いていた喫茶店。
早良区藤崎にあった。
揺り椅子のロッキングチェアがカウンターに並び、客は思い思いに珈琲を飲み、少年ジャンプを読み、マスターと会話する。
「いらっしゃいませっす」
と、体育会系の活きのいいマスターの笑顔のかけ声に誰もが魅了された。

その後、春日市紅葉ヶ丘で開いたのがこのアベニュー。
今回訪れたところ、店の右隣りに駐車場も確保されていた。
東京では、駐車場があって、気さくなマスターがやっているという条件が揃う喫茶店がなかなか見つからない。あまりに見つからないから、自分でやろうかと思ったりする。

高知の福辰で買ってきた「酒盗」をプレゼント。
そして、いつものダッチコーヒーをアイスで注文。
水出しのコーヒーが一般的になったのは2000年代に入ってからだが、マスターはその20年前から店にダッチコーヒーの設備を設えていた。

最近、誰か来る?
これが数年に一度この店に来た時、お決まりでする質問。
「いや、最近はきとらん」
ロッキングチェアに集い、バイクのツーリングや合宿をしていた仲間も、それぞれの暮らしに散って最近は見かけないようだ。
テレビで流れる炎天下の高校野球を眺めながらマスターが話す。

アベニューをお暇すると、次は博多のメインテーマ、学生の時に通った食堂は今?である。
その食堂とは、学生の街「西新」にある黒田庵。
最後に店の前を通りかかったのは2005年。
店の前に奥さんと、お子さんたちが出て、にこにこ笑っていた。
あ、まだやっているんだなと確認したが、最後に食べに行ったのは昭和の時代に遡る。

以下は2002年2月にしらべるに書いた黒田庵の記事である。

(以下引用)
黒田庵 【 くろだあん 】
福岡市早良区西新にある、格安でおいしい食堂。

 中定(ちゅうてい=中定食)、上定(じょうてい=上定食)が基本。一皿に11種類ほどのおかずが乗る。他にカツ丼、カレーも庶民的な味でうまい。
 学生、独身のサラリーマンにとってとてもありがたい存在。

 いつもニコニコ、謎の中国人のような大将と今くるよに似た奥さんのご夫婦がやっている。
 いつまでも元気でお店をつづけていただき、できればお子さんにもお店を継いでもらいたい。
(引用おわり)

 "謎の中国人"のご主人も、今くるよ(太っている方です)に似た奥さんも、もうそこそこの年齢のはず。今もまだお店は続いているのか。
 実家が博多の同僚や、学生時代の友達に尋ねても誰も情報を持っていない。
 以前はインターネットタウンページに出ていたが、今はヒットしなくなっている。
 インターネットで「黒田庵」を検索しても、現在の消息がわからない。
 ただ一つ、気になる内容のサイトがあった。

 引用する場合、引用元を明示するのが原則だが、ここではサイト名はあえて伏せる。その理由は賢察を願いたい。

 そこには以下のように書かれている。

(以下引用)
謎の中国人のような優しい大将と今くるよに似た奥さんのお二人でされておられましたが、大将は去年他界(涙)されて今は奥さん1人できりもりされています。いつまでもお元気でお店をつづけていただき、できればお子さんにもお店を継いでもらいたいものです。
(引用おわり)

 どうやらご主人が亡くなられた様子。それは貴重な情報だ。

 「百匹の猿現象」という言葉がある。
 ある範囲の中で、ある行動をする者の数が一定の量になると、その行動が距離や空間をこえて広がっていくとする仮説。
 米国の科学者、ライアル・ワトソンが理論化した。

 ある地域で猿が食べものを水で洗って食べ始めたところ、その数が一定を超えた時、遠く離れた場所でも同じように食べ物を水で洗う猿が現れたというエピソードが発端となっている。

 時と距離を超えて、見ず知らずの者が黒田庵の大将を「謎の中国人」だと言い、奥さんが今くるよに似ていると思う。そして、お子さんに家を継いでもらいたいと願う。
 これも、インターネットにおける「百匹の猿現象」なのかも知れない。

 その記事の日付は2004年になっており、もう5年前。今も奥さんが一人でお店を続けているのか、あるいはもう店をたたんでしまったか。ネットでわからないならば、この目で見に行くしかない。ずっとそう思っていた。

 1時間後には、その答えが出る。

高速1000円で行く東京-九州の旅日記


|

2009年10月 7日 (水)

多摩美が近いからね

 日本の家は「北側斜線規制」といって、隣戸の日照を確保するために北側の屋根をカットしなければならない。
 家屋が密集した住宅地で、屋根が非対称に切り取られているのはその法律のためだ。
 北を切るので「北切り」かというと、それは麻雀用語である。

 GPSがない時は、屋根のカタチを見れば北を類推できる。
 そんな話をしながら、目印となった水門から歩くこと5分
 等々力渓谷の入口に着く。

Dsc06332 

 雨上がりと言うことで、いつもより水かさが増している。

 しばらく歩くと、右手に「氷」の売店がある。
 ソフトクリームもある。
 旅行く先々でご当地ソフトクリームを食べることにしているので「溶けにくいソフトクリーム」に興味があったが、店員さんが休憩しているのか買うことができなかった。

「うたせの湯か?」
と、等々力の滝にツッコミを入れてから、右手の階段を上り、等々力不動尊にお参りする。

境内にある二階建ての建物が何に使うものかが議論になる。
神楽を奉納する時の観客席?
宴会場?
手すりにつかまりながら、上ってきた階段を慎重に下りて、等々力渓谷に戻る。

さらに5分ほど行くと、ピザとパスタの店「OTTO」の看板にたどり着く。
 おっと こんなところに イタリアン・・
 仲間の一人が環八を走っていて、いつも気になっていた店。
道路からみると一見なんの変哲もないマンションの地下一階にイタリアンの看板。
なぜ、あんな所にイタリアン?

そこは、等々力渓谷から見上げる位置にあった。
看板から急な階段を上がると「OTTO」の入口。
・・・というのは店を出る時に知った。

仲間の一人がタバコを吸うので「喫煙席」
これが功を奏して、案内されたテーブルは等々力渓谷を見下ろす位置。
お店はそこそこに混んでいて、禁煙席を選んだら、窓に面していない中程の席になっていた。
女性を同伴する場合、女性に奥のシートを勧めるものだが、ここでは逆にした方がいい。

Dsc06335

4人で2種類のピザと2種類のパスタをシェア。
久しぶりに飲むお昼のビールが嬉しい。
パスタは誰が食べても文句は出ない水準。
ピザは店内の釜で焼いていて、いわゆる釜ピザの味。
これでいてランチメニューを適用して、サラダと食後の飲み物がつき1,250円。

OTTOを出て階段を降り、再び等々力渓谷。
そこからは数分で渓谷の終点。
階段を上がると、東急大井町線「等々力」駅。

まだ少し歩き足りない僕たちは、自由が丘に向かって歩き始める。
そこで、線路のむこうに異様な外観の建物を見つけた。

窓が少ない真っ黒の壁面
何を照らすのか屋上の数基の照明
帰宅してネットでしらべると、それは東急リバブルが管理している賃貸アパート「spread」

ホームページでみると内装はかなりかっこいい。20代の人に聞けば80%の人が「一度は住みたい」と言うだろう。80代の人でも20%くらいは、そう言いそうだ。

屋上の照明は、光を壁に反射させてから床を照らす仕組みだった。

0909_spread 物件紹介ホームページより引用

「ここに暮らす人々は付かず離れずの距離感を保ちながら、住戸に出入りする気配や階段室でくつろぐ姿、階段にディスプレイした靴や小物など、互いに見られることを意識し、見せることを楽しむコミュニティを形成するのです」

引用おわり

「多摩美が近いからね」

 僕らは東急「尾山台」駅で、この散歩を終えた。



| | コメント (0)

2009年10月 6日 (火)

等々力に萌え~

仲間から「オトナの遠足」を企画して欲しいという、強い要望があり、等々力渓谷を歩くことにした。

題して「等々力に萌え~」

集合場所は東急「二子玉川」の改札口を出たところ。
この駅は改札が1カ所しかなく、待ち合わせがしやすい。
フォアアスリートのGPS画面を頼りに方角を探り、東口を出た。

第1ポイントは「五島美術館」
東急の創業者、五島慶太のコレクションを展示している美術館。

 コレクションから選択して、その一部だけを展示しており、およそ1~2ヶ月毎に展示内容が入れ替わる。
 展示室は1室のみ。展示数は少なく、あっという間に見終わってしまう。
 入館料:700円

■1960年オープン
■休館:月曜
■駐車場あり ~無料~

■絵はがき、ハンカチ 800円 などのオリジナル記念品を売っている。

Dsc06328

日本庭園の中程にある赤門

自然の地形を活かした庭園がある。
入園料は、美術館入館料700円に含まれる。
庭園のみに入る場合は100円

ゆっくり回ると、15分程度。
自然の植物、たくさんの地蔵など、写真家にとっては撮りどころいっぱい。
 ただしアップダウンが多く、足腰が弱い人には無理。
 夏場は蚊が多い。9月に行ったところ、15分で9カ所刺された。

 受付にキンカンが置いてある理由が、最後にわかった。
 「今の時期は、蚊が多いですよ」
 と最初に言って欲しい。

 上野毛自然公園は、ボードウォークのような歩道を通過。
 そこから、およそ5分で多摩川の土手に出る。

 ここからおよそ 1.2km 多摩川の土手を羽田の河口に向かって歩く。

 すぐにくぐるのは、第三京浜道路の陸橋。
 その橋げたに、誰が書いたかわからない art が描かれている。
 「多摩美が近いからね」
 仲間の一人が言う。
 確かに、絵心がなければこれは描けないねと誰かが答える。

 (考えには個人差があります)

 多摩川河川敷と言えば、昔は巨人軍グラウンド。今は休みにはスポーツに興じる人びとで賑わう。ところが、小雨降るこの日、アスリートの皆さんは大会の中止を決めてしまったらしく、人影はまばら。

 いたるところに「世田谷区」の立て札がある。
 境界線というわけではなさそうな、その札が意味するところがわからない。

 プリントアウトしてきた地図によると、等々力渓谷への目印は「多摩川遊園」
 途中で草むらに虎がねそべっていた。
 遊具の名残か。

 等々力渓谷は、多摩川に注ぐ小川である。
 地図には細い川が記されている。

 見えてきた水門
 恐らくそこを鮭のように遡れば、等々力渓谷にたどり着けるだろう。


Todoroki_suimon

10月6日につづく


|

2009年10月 5日 (月)

5年ぶりに立つ 新幹線 博多南駅

昔住んだ家の前にクルマを停めて記念写真。
今回の旅では、実家を含めて6軒を回った。
その家の前に立つと、その当時のことを1つだけ思い出す。

あぁ、ここの交差点よく出会い頭の事故があったな。
あ、信号ついてるし

交番の隣りなのにバイク取られそうになったよな。
あ、駐車場なくなってるし。

なぜか人が出てこない。
人を出すとキリがないから、脳が止めたのだろう。

500kei 天神から40分かけて南下。めざすは「博多南」駅

ホームから最も遠い側の端っこには、500系が停められていた。造形が美しい500系を一番見やすいところに置くというファンサービスか。

ここは全国で唯一、新幹線が "通勤新幹線" として使われている。
博多~博多南(那珂川町)を結ぶ在来線特急。路線名は博多南線。

ここは1975年に岡山-博多間が開通した時から、博多総合車両所がある場所。
博多駅からの引き込み線を地元の足として活用するために、1990年4月1日、簡易な駅が設けられた。

■区間距離8.5km。
■所要時間10分
■片道290円。

Kyushin 九州新幹線は、この引き込み線を活かして現在開通している「新八代」(熊本県)を目指している。開通まであと2年。2011年には山陽新幹線と一本の新幹線でつながる。

予定では新大阪~鹿児島の直通運転が最長ダイヤとなる見通し。東京~鹿児島の直通便はないようだ。

博多南駅の奥には、佐賀県をめざすトンネルがみえた。

●九州新幹線の歴史
1972年6月「全国新幹線鉄道整備法」で基本計画が決定。

1975年3月10日、新幹線が博多まで開通。

1991年8月、新八代-西鹿児島 間着工。

2001年 博多-船小屋(福岡県)間の42キロ認可、着工。
4月、船小屋-西鹿児島間は既にスーパー特急方式で部分的に着工していたが、フル規格の整備新幹線に格上げされた。

2004年3月13日、新八代~鹿児島中央 開業。
駅は新八代、新水俣、出水、川内、鹿児島中央。全行程の7割がトンネル。眺望はよくない。
ダイヤの愛称は在来線特急と同じ「つばめ」。800系車両が新規投入された。
10月1日、ダイヤ改正。薩摩田上トンネル騒音苦情による減速のため、運行時間が1分延びた。

2011年
博多~新八代が開通予定。
山陽・九州直通便にはN700系7000番代が使用される。

博多南線では、東海道新幹線からは引退した0系車輌が、2008年暮れまで現役を続けていた。
去年「N700系のぞみ99号で行く品川博多の旅」をした時が、0系を見る最後のチャンスだったが逃してしまった。

5年前に来た時はコインパーキングだった場所に、駅ビルが建っていた。
ダイヤが1時間に1本ということもあり、人気はなく廃墟のよう。
居並ぶタクシー
よたよたと歩くおばあちゃん
東京に住んでいると「地方の疲弊」という言葉を正確にイメージできない。
思わず目を背けたくなる。

入場券(大人140円)でホームに上がると100系・300系・500系、700系、N700系がのどかな山間の風景に並び心が和む・・・
はずだったが、700系車両が置かれていて、その奥が見通せない。
目隠しとしておいているのならば、新幹線ファンにとって罪なことだ。

100kei 父親に連れられた野球帽の少年。
これから、天神へお出かけだろうか。


カートの重そうな荷物をひきずった20台らしき女性。
博多で地下鉄に乗り換えて、飛行機にでも乗るのだろうか。

ホームに停まっていたライムイエローの100系が出発していった。

|

2009年10月 2日 (金)

博多ドライブ

九州ドライブ初日は「博多」

2008年に無料化された国見有料道路改め国見道路を越えると、そこは佐賀県伊万里市。
陶器の町である。この町はガソリンが安い。セルフ118円/Lは、同時期東京の価格よりも1円安い。

唐津市からは二丈浜玉有料道路。片側一車線。
玄界灘を見下ろす道路だが、海と平行して走っているので運転者には海は見えない。
ここは今も変わらず360円。
久しぶりに手渡しで料金を支払う。
片側1車線ゆえ、ゲートが2つ開いていると、隣のレーンよりも早く出ようと焦ってしまう。
料金所を出て、クリアになった前方へ向け、一気に加速すると「はい、いらっしゃい」とねずみ取り。
というのがここのお約束。
慎重にゆっくりと走り始める。

このあたりから、はがね山を撮ろうと思って来た。
かつて、このあたりを走っていた時、山中に光る物体をみて「UFOだ。宇宙人が襲撃にきた」と勘違いした山。
日本にある電波時計の電波塔は、福島県のおおたかどや山標準電波送信所と、ここ福岡県のはがね山標準電波送信所。
だが「はがね山」という文字はカーナビに見あたらず断念。
国土交通省は、はがね山の存在を人に知らせたくない事情があるのか・・・

二丈浜玉道路の終点からしばらく国道202号線バイパスを走ったかと思うと、すぐそこに「西九州道」が来ていた。
かつてはこのあたりから福岡市の中心「天神」まで1時間はかかったものだが、この日は30分で着いた。

デコファンクラブのN氏と待ち合わせをして、お昼は長浜にある「長浜屋」
博多でラーメンを食べるならば、渡辺通の「ハッちゃんラーメン」と決めている。しかし、店が開くのは22時。
その次は長浜の屋台が並ぶ通り。
夜になると魚市場沿いの道路に屋台がずらりと並び、アジアの町になる。
ただし、昼間は屋台はどこかで眠っていて、ここに屋台が並ぶとは思えない。
夕方になると、屋台引き専門のおじさんが、どこからとなく運んできて定位置に据わる。

Ramen1 長浜でお昼もやっているのは、店舗を構えている「長浜屋」

 博多でサラリーマンだった頃、お昼に何度か食べに来たことがある。その時の感想は今も覚えている。

 お店には行列ができていた。

Ramen2 ラーメン400円 替え肉100円
ここの肉はスライスしたチャーシューではなく、バラ肉を煮込んだ形。塩が効いている。

僕は、店を出てから かつてと同じ感想を言う。
N氏は同感だと言う。
N氏は一言付け加える。

「でもねmotoさん。呑んだ後に食べるとこれがちょうどいいんですよ」
なるほどねぇ



|

2009年9月28日 (月)

佐世保のETC事情

アクセルをぐっと踏み込み、点いたのはオレンジのランプ。
その時、左手に「金立SA 3km 最後のGS」という立て看板が見えた。

もし、あと少しランプ点灯が遅ければ、武雄あたりで一旦高速を降りる羽目になったところ。運が良かった。

21時をまわった金立(きんりゅう)SAの売店は、人影もまばら。ここまでの旅、どこのSAも人で埋まっていたが、ここは違う光景だ。

佐賀県の金立SAは 128円/L
最安値は東京の 125円/L、最も高いところで129円/L。
ガソリン価格差は、ほとんどないことがわかった。

Takeo2148 武雄JCTを左に行くと長崎、右へ行くと佐世保。
佐世保方面の「西九州自動車道」へ進む。


西九州自動車道は、福岡県からは西に向かって前原市まで延伸しており、それとつながるのだろう。毎年、里帰りの度に福岡の高速は延びているのだが、佐世保のほうはもう8年ほど、変化がない。

ETCレーンが1つしかない武雄料金所を過ぎると、片側1車線の対面通行がつづく。
地方の高速は今でも1車線のところが多いのである。

「あんまり高速やら乗らんけんね。そいけんETCもつけとらんばい。民主党が政権とったらETCは要らんごとなるし」
佐世保の級友談

関東では半数を占めていたETCレーンは、先に行くほどに減り、地方のICではほとんどが1レーンのみ。
ETCをつけている人のほうが珍しい。

選挙前に鳩山党首が「高速道路完全無料、ETCは要らなくなる」と明言していたので、地方の人はETCなしで「無料」を享受できると思い投票している。
それが、政権をとった途端「一部の地域は有料」「段階的に無料」と話が変わった。
ETCをつけていない地方の人たちにとっては、高速はまだしばらく縁がない場所である。

Sasebo2156 佐世保の灯がみえてきて、最後のトンネルを抜けるとそこは「佐世保みなと」IC。


佐世保駅にほど近い、町の真ん中にある高速入口。
できた頃は、まちがえて進入する人が多く、隣のおばさんは
「なんね、ジャスコじゃないとね」
と言っていた。

東京から1,521km 高知から722km
高知出発時の予測から遅れること40分で到着。所要時間10時間15分。
遅れは、かしわうどんと給油のロスタイムであり、高知から佐世保までの道のりは渋滞なし。
「お盆で高速は大渋滞」と言っても、渋滞しているのは東京~大阪の間だけだった。

荷をほどくと、翌日からは早速九州ドライブの旅に出る。
初日は「博多」
かつて、住んでいた家を見て回り、毎日通っていた喫茶店に懐かしのマスターを訪ねる。
そして、お世話になっていた安い定食屋さんが今でもあるかを確認する。



|

2009年9月25日 (金)

基山のうどんはかしわうどん

太宰府インターから再び、九州自動車道に戻る。
ここから鳥栖JCTまでは片側3車線。九州ではここだけである。
右ウィンカーを出して一斉にクルマが「左」「中」「右」3車線に散らばっていく。
右後ろから白いMR-Sがダッシュして右車線を奪った。

かつて、右車線の住人だった。
時は流れて、今は左車線専門。
ただ、この時だけは同輩を追いかけてみたが、あっという間に見えなくなった。
きちんと踏めば、けっこう速いんだなぁと感心する。

20:20
夕飯どきをとうに過ぎている。
就寝4時間前に食事を終える。
一ヶ月前に始めた。
そこで頭に浮かんだのは「基山のうどん」

かつて、営業で九州を回っていた頃、男たちは太宰府で高速に乗り、最初の基山PAに寄り「基山のうどん」でこしらえてから、戦場に出て行った。
だが、うどんに対して拒否感をもって育ったため、基山でうどんをとったことはない。なぜ、皆うどんうどんと言うのかが不思議で、嫌悪さえ覚えていた。

時は流れた。古いことは忘れた。

香川でさぬきうどん → 基山で基山のうどん
旅のつながりがいい。
よし、今回の旅は「うどん」にこだわってみよう。
ころころ、こだわりが変わるのである。

基山PAにはいると 広い駐車場の右端に、先の白いMR-Sが見えた。
そこから5台となりに車を停めた。

「こんにちは」
クルマを降りると、Yさんが挨拶をしてくれた。
「東京からですかぁ?」
さっき、太宰府ICで抜いていきましたよね?着いていこうと思ったんですけど。

彼は今日、岡山で開催されたオープンカーオフ「おはきび」の帰りだという。
話をしているうちに、MR-S仲間を介した間接友達だとわかった。世間は狭い。

バイクに乗っている時は、そこらじゅうのライダーが友達だった。
乗用車に乗り始めてから、路上でドライバーと話したのは初めてだ。
このクルマには、オーナー同士の特殊な連帯感がある。

スナップ撮影専用のU太郎と財布だけを握って食堂へ。
かつてはだだっ広い駐車場に、ぽつんと売店がある場所だったが、しばらく来ないうちに店舗が増えて瀟洒になった。

Kiyama2038 390円という値付けに惹かれて「かしわうどん」のボタンを押す。
これが、ここの名物だと後で知った。
福岡から鳥栖にかけての定番らしい。
うどん屋は「牧のうどん」しか行ったことがないので、住んでいる時は知らなかった。

食べても食べても出てくるかしわに味がしみていて美味い。

この旅はここから先、うどんにこだわっていこう!
そう意を強くした。
が、これが、この旅最後のうどんになった。

基山PAは福岡のお土産処でもある。
たいていの名物が置いてあり、よくここで「鶴の子」を買う。
2個入りは楕円形の箱が可愛く、食べ終えた後も小物入れに使う人が多い。
復路で買うことにして、ここは見送った。

基山PAあたりは福岡県と佐賀県が入り組んでいる。
九州自動車道を南下すると、福岡から一旦佐賀県に入り、鳥栖を過ぎると、松田聖子・チェッカーズを生んだ久留米市は福岡県だ。

「福岡県にはいりました」
佐賀だったのかよ
「佐賀県にはいりました」
おいおい

カーナビとの会話をしながら基山PAを後にして、鳥栖JCTを右折。
そこからは「長崎自動車道」
この道は一度も渋滞したことがないのではないかと思うほど、いつも空いている。
それだけに取り締まりが怖い。

左車線の僕を大量のクルマが圧倒的な速度で追い抜いていく。
そのクルマはほとんどが軽自動車だ。

さぁ、あとは佐世保まで一直線だ!
そう気合いを入れた時、コックピットに警告灯が点いた。



|

2009年9月22日 (火)

日本三大潮流を越え、九州上陸

下関IC出口を過ぎると間もなく関門海峡。
中国自動車道が海を渡る手段は関門橋。

橋脚が少しずつ高くなり、やがて橋を吊るワイヤーが渡り、橋が両脇から延び、そして本州と九州がつながる。
かつて、その光景を定点観測していた。
あれだけ大変な工事をして、高速道路でクルマが走るだけとはもったいないと子供心に思った。

Kanmon1849 今でも、道路の向こうに橋脚が見えてくると、初めてここを走った時の特別な思いがよみがえる。

指をくわえてみていた橋の上に、今自分がいる。
時間と空間は脳の中で一瞬のようにつながっている。

関門橋は早鞆瀬戸(はやとものせと)と呼ばれる、海峡のもっとも狭い場所にかかっている。
ここは、鳴門海峡、西海橋(長崎)と並び日本三大潮流に数えられ、潮の流れが速い。
この「日本三大**」というのは、言った者勝ちのいい加減なくくりである。
日本三大名泉、日本三大源泉、日本三大古泉・・似たようなものが多い。
当事者でなければ「なんやそれ」とツッコンで終わりだが、それを誇りにして生きている人も多いのである。
いつも早鞆瀬戸を見て育ったから「日本三大潮流」にこだわりがあるが、この話をして誰かに感心されたことが一度もない。

18:50
関門橋を渡り終えて九州上陸。
佐世保への到着予想時刻は 21:50
果たして、この時間には福岡-太宰府の通行止めは織り込まれているのか。

19時を過ぎると日が落ちたが、西の空はまだまだ明るい。
ずっと九州で育った人間にとっては、これが体内時間。
この時間の明るさは、ここに帰ってきたことを教えてくれる。

門司から先の道は、もう何度も走ったコース。
目をつぶっていても走れる。

初めて走る道が緊張するのは、カーブのRがわからないからだ。
どれだけ切れ込むのか。どれくらい踏めるのか。
一度走った道ならば、これ以上のRはないと体が覚えているので、その範囲内でアクセルを踏んでいける。

Fuk1923

福岡インターから先は通行止め。
現地の手前30kmあたりで、カーナビが迂回路を提案してきた。
VICSは一定範囲の情報のみを反映することがわかる。

恐らく都道府県を越えた先の情報は反映しないのだろう。

Fuk1948

19:48 福岡インター出口は渋滞表示が出ていたが、現地に着いてみると、さほどのよどみはなく、皆さん、粛々と一般道に降りていく。

カーナビに言われるまでもなく、福岡インターを出て都市高速を選択。

福岡インターから都市高速に乗ると、一旦福岡市東区の海沿いまで北上。そこから西へ進む道と分岐、左へ進むと博多駅をなめて南下。太宰府インターへ着く。
よかトピア開催時に整備が進み、今でも福岡の都市高速は延伸をつづけている。

結局、土砂崩れによる福岡IC‐太宰府IC間の通行止めは17日間に及んだ。
8月26日、国土交通省九州地方整備局は、通行止めに起因する「渋滞損失」が13億円という試算を発表。

国土交通省九州地方整備局という名前を聞くと違和感がある。
国交省は国の機関。現地には福岡県庁がある。
それなのに、なぜ国の機関の出先があるのか。

中央省庁の「官僚」は30万人。
そのうち20万人が、こうした地方の出先にいるのだ。

「官僚は30万人いますが、霞ヶ関には何人いるでしょう?」
バラエティ番組が街頭インタビューでこの質問をしたら、大半の人が「25万人くらい」と答えるのではないか。

お昼時の日比谷公園は、中央省庁に勤める10万人の官僚でごった返す。
日比谷公園が混まないよう、あとの20万人は地方に流しておくのかも知れない。

上級公務員が現場を知るために、出先を回るのは容認するとしても、3分の2が出先にいるというのは異様。
公務員が優秀な人材を吸い上げて、民間に人材が残っていない。
日本の現実を見る思いだ。

*渋滞損失の定義
 乗用車、トラック、高速バスなどが、渋滞によって被る時間的遅れの損失を金銭換算したもの。

 この日は、別コンピューターシステムのために救済が効かない「高知自動車道」から乗っているため、"渋滞損失"が出ているはず。
 ただ、クレジットカード会社から来たこの日の請求を見る限り、いくら損なのか、さっぱりわからない。

サカイデホンセン ハヤシマホンセン 1000
コウチ フクオカホンセン 1000
フクオカコウソク フクオカホンセン 540
合計 2,540

太宰府から先の料金はどうなったのか・・・

|

2009年9月19日 (土)

空の日

空港がもっとも魅力的な場所なのは、出迎えの時だ。

穴守橋の信号を抜けると
大田区羽田の町並みが途切れて、埋め立て地の羽田に入る。
羽田空港までの広く空いている道が気持ちいい。

羽田空港の駐車場は年々、経路が複雑になる。
駐車場に入るつもりが、横浜高速に乗ってしまった・・
という人が1日に1人はいるのではないか。

空港には30分早く着くことにしている。
到着ゲートの掲示板で、到着便のdelay を確認。
余裕をもって着いた日に限って、西風が強く吹き、到着時間が早まっている。
待ち時間を確認してから、マーケットプレイスをのぞく。
旅の終点に着いた人はお土産を買わないので、1Fの到着ロビーは店が少なく寂しい。
出発ロビーのある2Fにはたくさんのお店が並ぶ。
そういう人員配置なのか、売り場のお姉さんに気合いが入っている。
ここには、東京の美味しいものがすべて揃う。
新製品も必ずここに置かれる。
羽田空港限定の品もある。
東京スイーツの栄枯盛衰は羽田にくればわかる。

喫茶店にはいる。
空港のカレーはなぜおいしそうなのか
の謎は既に解いた。
美味しいカレーの香りを肴に、コーヒーを飲む。
これならば、お腹いっぱいにならずに済むので、得をした気分だ。

ガラス越し、到着ゲートの雑踏に、目当ての人を探す。
荷物を預けたのか、手荷物にして乗ったのかをきいていなかった。

君はどんな魔法を使ったのか。
ガシャポンのように、自動ドアが開くと、とつぜん、ぽんと目の前に現れた。
君が旅をしてきた町と、僕の町は遠い。
君は秘密の自動ドアを使ってワープしてきたんだね。

中谷彰宏か・・

9月20日は「空の日」です。

|

2009年9月18日 (金)

おいでませ、山口へ

広島に入ると雨は完全にあがった。
福山SA 尾道ラーメンには寄らず、そこから35km先 奥屋PAへ。
PAに降りても傘が要らなくなった。
ここまで東京を出てきてから1095km
しらべておいた「手にぎり天 350円」を買う。

「熱いですから、気をつけてくださいね」
そう言われて、天ぷらを受け取る。

あつっ!
って棒かよ
てっきり、天ぷら本体が熱いのかと思った。
至ってふつーの天ぷら。人に勧めたくはならなかった。
広島と言えばの「もみじ饅頭」をお土産に追加。
一つは父への手土産だが、結局は父の口に入ることなく、ナースセンターの皆さんのおやつになった。

16:15
奥屋PAを出る頃、再び雨。
辺りは暗くなり始めた。

宮島を見下ろす眺望を撮影・・の予定だった宮島SAはパス。
ここには、復路で泊まることになる。

16:50
山口県に入る。
中国自動車道からはインテルサットからの電波を受信するパラボラアンテナ(山口衛星通信所 山口県山口市仁保中郷123)が見えるが、山陽自動車道はそこを通らない。

下松(くだまつ)SAに寄る。
小学校の頃、山口に住んでいたので「くだまつ」と読めるが、初めてこの地名をみてそう読める人は少ないだろう。
洗面所の水受けがガラス製でステキだ。
遊歩道がガイドブックに載っていたが、今イチだった。

お土産売り場には「豆外郎」があった。
山口といえば「外郎」
山口市の御堀堂は外郎の老舗。
外郎といえば名古屋と思っている人がいるが、山口のそれとはまったくの別もの。
山口の外郎を外郎と思って育った。
お中元でもらった時くらいしか口に入らないが、それは楽しみなお菓子だった。
名古屋に引っ越した時、スーパーのレジ前に売っている外郎を見て嬉しかった。
さっそく包丁を入れて口に入れた時、心に違和感と落胆が広がった。

Toshiro 外郎に小豆を入れたのが豆子郎(とうしろう)
山口市の(株)豆子郎が販売している ~写真~
山口以外では、神奈川県のあざみの駅そばに1軒だけ支店がある。


豆子郎は高速のSAでは販売しておらず、高速で買えるのは本多屋の「豆外郎」

山口JCTで右からくる中国自動車道と合流。
ここから先は関門海峡を渡るまで中国自動車道を走る。

美東SAでは秋吉台を撮影する予定だったが、もう日は暮れ始めていて、いい写真は撮れそうにない。
秋吉台は鍾乳洞「秋芳洞」の上に広がるカルスト台地。
秋芳洞は山口県に旅するならば、必ず寄らなければならない。
いや、日本中の人に一度訪れて欲しい、そんな場所だ。
読みは「しゅうほうどう」
現在は「あきよしどう」
と読まれることが多いが、その経緯はネット上に紹介されている(笑)

「おいでませ山口へ」というのは、山口県の観光協会定番のキャッチコピーだが、県の西側で育った僕らは「おいでませ」と言ったことがない。恐らく、山口市から東側、広島県寄りの方言なのだろう。

Oji1837 18:30
予定外の王子PAに寄り、関門橋を撮影する準備。
今回の旅日記を読んでくださる方の中に、
「ひとり旅なのに、どうやって走りながら写真を撮っているの?

と疑問に思った方はいるだろうか。
この撮影方法は、東京にいる時に練習しておいたものである。

夕暮れ迫るPAでは、給油を待つクルマの列ができていた。

*次回は9月22日掲載

高速1000円で行く東京-九州の旅日記


|

2009年9月16日 (水)

旅は一度で、三度楽しい。

坂出JCTからは瀬戸中央自動車道。


Seto1340

13:40
瀬戸大橋を渡る。
雨は強くなっている。
空と周囲とが同じ色になり、裸で海に放り出されたような恐怖感が襲ってくる。
明石海峡大橋のように1つの橋だけで4kmということはないが、それでも十分に長い。
もしこれがバイクの旅だったら、渡る前に止めたと思う。

瀬戸大橋を渡り追えると、瀬戸大橋撮影と予定表に書き込んであった与島PAにはいる。
いや、入ると言うよりは、落ちるというほうがふさわしい。
ぐるぐると回りながら、いったいどこまで下っていくのか。
下りながら早くも、今度はこれを上らなければいけないのか・・と後悔が始まっている。

Seto1350

展望台からは、今渡ってきたばかりの瀬戸大橋を望む。

右にカーブしていく瀬戸大橋と瀬戸中央自動車道がフレームに収まるのだが、霧に煙り四国の地はかすんでいる。

14:00
岡山県に入る。

Kurashiki1433 14:33
倉敷JCT
ここからは左右に山陽自動車道。

右に行けば神戸。左に行けば広島、その先が九州。

14:35
鴻池SAに入り、タルトときびだんごをお土産に買う。
旅をしながら、通過点でのお土産が増えていく。

 自分で食べるわけでもないのに、相手の驚く顔や笑顔を思い浮かべるだけで、幸せな気分になる。

Hiro1457 さっきまでの雨があがり、そろそろワイパーを止める時がきた。

14:57
高知-愛媛-香川-岡山と移動してきて、今日の5県め広島に入る。
いつもならば、一つの県の中から滅多に出ることのない僕が、わずか3時間で5県を股にしている。旅はこうして、振り返ることで3度楽しい。

1度めは、しらべて計画する時。
2度めは、まさに旅をしている時。
3度めは、旅を振り返り記録をまとめる時。

特にこの旅は、かつてない仲間、一眼レフカメラがある。
その存在は、後に大きな意味を持つ。
一眼レフがあったから、この旅の第三章はより深みを持つことになった。



|

2009年9月14日 (月)

退屈な雨の四国ドライブ

後ろ髪を引かれながら高知から遠ざかる。
高速は相変わらずの雨。
よさこいに集まった皆さんは、雨の中それでも踊り明かすのだろう。

Kochi1257 それに比べてなんと退屈なこの高速の旅。
昨晩の往路でわかっていたことだが、実にトンネルに次ぐトンネル。
トンネルの中を走っている間はワイパーを止める。


出口が近づくとワイパーを始動するが、その先にはまたすぐトンネル。
ワイパーの使いすぎで、すっかりガラスコーティングはとれてしまった。

こういう時、一人カラオケをしようとウォークマンに編集してきた「2009九州ドライブ」セットリストをカーナビにつないだが、なぜか音がしっかり出ない。

愛媛県のPAをクリアするために、馬立PAへ。
ここは山間のPA。
なにもない。ただ山だけ。さみし~

13:00
川之江東JCT
左は愛媛・香川、右へ行くと徳島。
きっとこの文章だけでは、道路がどう接続しているかというイメージはつかめないだろう。

Kawanoe 13:03
川之江JCT
左は愛媛、しまなみ海道経由で広島に渡る場合はこちら。
ただし、高速道路は途中で途切れていて、一旦、一般道に降りなければならない。

右は香川、瀬戸大橋経由で岡山に渡る場合はこちら。
今日は高速割引を活かしたいので、後者へと進む。

道路情報には「通行止め」の表示が出ている。
福岡-太宰府の通行止めのことならば、わかってるよ・・
と思っていたら、この先の香川県、鳴門海峡の手前が雨で通行止めになっていた。昨日、うどんを目指して急いだ片側一車線の道だ。

前方に一台のトラック。この雨で事故を起こし大破した車が運ばれている。
かつて、あの場所にいたことがあった。
荷台に自分が全損にした車を積み、助手席に乗っけてもらう。
自動車処理工場のおじちゃん2人が、いつものように明るく他愛のない会話をしているのに救われる思いがした。
現場で働くおじちゃん達は、皆、心根が優しいのだ。

荷台を見上げると、事故車はMR-Sだった。
洒落にならない。
あの運転手は今頃、横着な運転を悔い、途方に暮れているだろう。
この旅の無事を改めて、肝に銘じて追い抜いた。

坂出JCTの手前にある豊浜SAに寄り「伯方の塩純生大福」を買うつもりにしていた。

Sakaide1333 だが、そのSAが見あたらないまま、 13:33 坂出JCTに着いてしまう。
ここから左へ折れて瀬戸大橋へ向かう。

わずか半日で徳島、香川、高知を初踏破した四国とのお別れ。
この旅の最初のヤマ場が終わった。

高速1000円で行く東京-九州の旅日記 もくじ

|

2009年9月11日 (金)

お目当ての酒盗 予定外の飯盗

いよいよ、塩たたき

Tataki ネットで検索した「塩タタキ」の写真と同じだった。

一晩寝ると羞恥心が復活していたので、大阪の子どもたちに見られるのは恥ずかしかったが、写真も撮った。
「あれ、ブログにのせるんやで」
と彼らは内心つっこんでいたかも知れない。口に出さなかったのは武士の情けだ。いや大阪だから商人の情けだ。

一つ口に運ぶと、そこで明らかに違った。
それまで食べたことがあったカツオのたたきがどうだということではなく、今あそこにあった釜で鰹を焼きあげたという風味が広がった。それはヤマダかつてないものだ。(ヤマダはいらない)

僕が一皿を大切に食べていると、
となりの大阪軍団には、追加の焼きそばと餃子が運ばれてきた。
「わぁ羽根や、あんたこのばりばり、先たべり」
どないやって羽根つくるんかなぁ
餃子の羽根ならば、蒲田餃子オフで研究していたので、ちと詳しい。

誰も答えないならば、片栗粉ですと横入りしそうになったが、もう一人のおばちゃんが
「かたくりやで」と2秒置いて言い、
「しっとるがな」と元のおばちゃんが返した。

僕の前には塩タタキ一皿。
我ながらシュールだ。自分が可笑しい。

ときどき、手帳を開けて何か書いているが、後で見ると味のことは何も書いてない。
一切れつずつ、大切に食べていると、
「お水あげよか?」
店のおばちゃんが声をかけてくれた。
一見の客にこれだけ優しいなんて・・
僕は一気に高知のファンになった。

さて、最後の課題は福辰の「酒盗」
これを昔世話になった食堂の大将や喫茶店のマスターに買おうと決めてきた。
Google mapをプリントして作った地図を頼りに、店を探す。
ガイドブックが間違っていたようで、道路二本場所が違い、道行く高知の人に二度尋ねてたどりついた。

Fukutatsu 福辰は塩からなどの海産物を扱う店。
奥の棚に「酒盗」はあった。
酒盗の隣りには「飯盗」
手土産で人に渡すと自分の口に入らない。
自分用に「飯盗」を買うことにする。
お店のおばお姉さんが「酒盗」と「飯盗」の違いを親切に教えてくれた。


(売り場の棚を)写真撮らせてもらっていいですか?
と言いたかったが、なんだか、あなたを撮らせてくださいと間違われそうで、言い出せなかった。

はりまや橋はすぐそばだったが、そこを見なくてもこの旅の価値がなにも落ちるものではない。
わずか3時間の観光で、少し名残惜しい思いを引きずりながら、雨の高知を後にすることにした。
ガソリンスタンドの兄ちゃんが
「今日はよさこいの初日だから、レンタカーが多いです」
と言っていた。

Kochi1214 高知県のSAをクリアするために、高速に乗ってすぐの南国SAに入る。
今日の目的地佐世保までの距離は677km、推定到着時間は21:53と表示された。カーナビの推奨ルートは、しまなみ海道ではなく、瀬戸大橋を通るルート。第2候補には愛媛からフェリーで大分に渡るルートを提案している。計画中、一度はそれも考えたが、コストが高くなるのと、欠航のリスクを考えてやめた。




|

2009年9月 9日 (水)

情報の有無が分けた1時間待ち

ひろめ市場には、高知の美味いものが揃う。

Hirome1 あいにくの雨だが、よさこい初日ということもあってか、11時で駐車場はほぼ満車。
浸水しないよう土嚢が積んであるエレベーターに乗って1階ののれん(ビニル製)をくぐると、そこは南国だった
(アタリマエカ)

まずは市場をぐるりと一周して、システムを把握する。

その真ん中にはたくさんのテーブルが並び、さながらジャスコのフードコートである。

周りに並んでいるお店から、思い思いに好きな食べ物・飲み物を調達して、そこで食べるようだ。

塩タタキひとつだけでもいいですか?
旅前日の心配は杞憂だった。

さっそく、本題の「塩たたき」の探索に入る。ネットで問い合わせて教えてもらったお店は「明神丸」(みょうじんまる)と「やいろ亭」
どちらも注文を受けてから藁で鰹を焼きあげるので人気が高いとのこと。

「明神丸」の営業時間は午後9時まで、「やいろ亭」も遅い時間だと、鰹がなくなってしまうことがある。と親切に教えてもらっていたが、前日は東京から高知まで19時間かかってしまい、翌朝の仕切り直しで来ている。

「明神丸」はすぐにわかった。そこだけ行列ができている。店構えはいかにも儲かってますという高級感が漂い、異彩を放っている。
注文してから焼くということは、その行列からして1時間待ちはかたい。
カツオのたたきをそんなに待ってはいられないので、もう1軒の候補「やいろ亭」を探す。
こちらはなかなか見付からなかった。
人が一人も並んでいない。
店構えは間口が狭く、庶民的で市場の空気になじんでいる。

おぉこれならば待たずに食べられる。
「明神丸」といったいどれだけ味の差があるかは知らないが、情報の有無がこの1時間、待つか・待たないかを分けた。
しらべない旅もいいが、しらべる旅もやはりいい。

塩タタキひとつでいいですか?
それがどうしたの?という目でみて「1200円」とおばちゃんが答える。
確かコンビニでもらったおつりで100円玉が2つあった。
千円札を先に渡して、小銭入れから200円を出そうとした時だ。
おばちゃんが「はい200円」と言って僕にお金を渡した。

???
一瞬混乱した。
確か1200円と言ったはずだが、800円の聞き間違いだったか。
いや、そんなはずはない。お品書きには確かに「塩タタキ1200円」とある。
50円のペプシコーラに、安か~と言って喜んでいた高校の頃ならまだしも、今ここで塩タタキを作ってくれているお店から、トクしたらかんわ。

あの、僕まだ1000円しか出していないから、これちがいますよ
そう言って400円を渡すと、おばちゃんはちょっと戸惑い、無表情でお金を受け取った。
「席どこ?」
と聞かれたが、まだ決めてないですと答える。
ここは、席を先に決めるというシステムだったのだろうか。

何分そこで塩タタキを待っていたかわからないが、それはあっという間だったように思う。
塩タタキ一皿を大切に抱え、次は席を探す。

すぐそばにおばちゃん一人が食べている二人がけの席があった。
こんな時はプライバシーなんて言ってられない。
ここ、いいですか?
すると、いやぁここくるのようと着席を拒否された。

そこから、テーブル席をぐるりと一周する。
満席ではない。
空いているのかと思い近づくと、誰もが荷物を隣りに座らせている。
きっと、ご先祖様から荷物を大切にしなさい。いつも肌身離さず、食事の時は荷物様のために席を1つあてがいなさい。と言われた人ばかりなのだろう。
と、ちょっとシニカルにツッコミながら、歩いていくと本当に1周して「やいろ亭」の前に戻ってきてしまった。

すると、さっきのおばちゃんが「そこに座って」と指さしてくれた。
そこは、となりの店の一角。言われなければ進入するのがはばかられる地域。隣近所、もちつもたれつ、仲良くやっているのがうかがえる。

先客はオトナ2人こども3人、大阪から来た(推定)団体。角っこが1つぽつんと空いていた。
大阪の人は荷物はテーブルに置く習慣のようだ。




|

2009年9月 7日 (月)

コレクター動体視力と龍馬像

7月末に豪雨で崖が崩れた九州自動車道、福岡-太宰府間は、依然として通行止め。
報道によると、8月10日に委員会を開き、お盆の通行再開を判断するとなっている。
従って、通行する8月9日までの再開はない。
すると福岡ICで一旦高速を降りることになる。
だとしたら高速1000円はどうなるのか?

NEXCOのウェブサイトによると、ETCは高速道路通行止め乗継証明書を受け取らなくても、自動的に調整されると書いてある。
恐らくコンピューターシステムで判断して、1000円になるのだろう。

ところが「本州四国連絡高速道路株式会社においては、当システムを導入しておりません」と書いてある。
高知発佐世保行き
まさにそこにはまってしまった。

二日目
9時にチェックアウトして、はりまや橋から10kmの龍馬像をめざす。はりまや橋のすぐそばに宿をとったのに、昨日は着いて寝るだけだったので、まだはりまや橋を見ていない。
出発した途端、雨が強くなりコンビニに寄ってビニル傘を買う。
今はどこの町に行っても同じコンビニがあり、一定の値段でいつも買っている商品が揃う。

高知市内は路面電車が走っている。右折では軌道に入らないよう、慎重に運転する。

Katsurahama

海が近づいてくると、雨は激しさを増し、ワイパーを最強にした。
太平洋の波は、高知の海岸に激しく打ち付けている。

こんな日は沖を走る船も港に止まることを余儀なくされるだろう。

カーナビにセットしておいた坂本龍馬記念館に着いたところ、雨合羽を着た駐車場係員が「龍馬像はここから歩くと10分くらいかかる」と教えてくれた。
記念館はパスして、龍馬像そばの駐車場 400円に移動する。

駐車場の広さに対して、整理員が多い。隣のクルマからは女の子2人組が降りていく。なぜか知らないが、ここは圧倒的に女性客が多かった。

「龍馬の店」と書いた看板を視界の片隅にチェックして、まずは龍馬との対面を急ぐ。
遠い昔、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んだ。
感動した。
だが、どんな感動だったかは覚えていない。
その感動が自分の人格のどこを形成しているのかを分析したことはない。
恐らく、心の軸のどこかに竜馬流は入っている。
だからといって、龍馬像を身近にして動悸が激しくなることもない。
そこにあるのは建造物であり、本人はとうの昔にこの世を去っている。

Ryoma0 階段を上っていくと、その姿は突然出た。

太平洋を見据える向きに作られているので、訪れた者に背を向けている。

Ryoma シンガポールでマーライオンを見た時に「なんじゃこりゃ」と思った拍子抜けは、ここでは起こらなかった。

長崎の平和祈念像まではいかないが、そこそこの存在感だ。

この日の夕方から高知市内では「よさこい」が始まる。
先に龍馬像を見ておこうという人で、大雨の中、ここは賑わっている。

Ryomac 「龍馬センター」では店に入る前から買う物は決まっている。

ミニチュア龍馬像だ。
ないわけがない。
「龍馬像のミニチュアはつくらないでください」
龍馬の遺族の強い意向でもない限り、そこにあることはわかっている。

コレクターを長年やっていると「コレクター動体視力」が身につく。
棚を左→右 タイプライターを先頭行に戻すように左に戻して、また左→右。それを圧倒的なスピードで繰り返し、瞬時に棚から目当てのモノを見つけ出す。

動体視力を駆使するまでもなく、目の前にあった。ブロンズ調に彩色された高さ20cmの像に「おすすめ」popが貼ってある。1700円

仮面ライダー旧1号などのコレクターグッズでは、プロップどおりの彩色→クリア→蓄光→ブロンズという展開になる。ゆえにいきなりブロンズというわけにはいかない。基本は本物に近い彩色。

そこから店内をフルチェックして 本物に近い彩色、680円の品を包んでもらう。包んでもらっている最中に、さらに造形がリアルな品をみつけ、包み直してもらう。
それも680円。 2000円くらいまでは出そうと思っていたので、思いの外安くついた。

記念ボールペンコレクターもやっているので、龍馬魂ボールペンも買う。
「龍馬の志を持って夢を叶えろ」
と書いてある。420円
どう見ても、龍馬像と価値が不釣り合いだ。
このボールペンが420円でよしとするならば、龍馬像には2000円の価値がある。

お店の人に、あと1320円払います
とは言わなかった。


| | コメント (2)

2009年9月 5日 (土)

さぬきうどんも渋滞

淡路SAに寄り、明石海峡大橋を撮影するはずだったが、もう後ろを振り返る気にさえなれない。
ホテルに伝えておいた到着予定時間の20時を回ったので、そこからホテルに電話を入れる。

東京から走ってきたんですが、まだ淡路島に入ったところでして・・
フロントの女性が苦笑いしているのが、電話越しにわかる。

「23時を過ぎたら玄関は閉まってしまうのですが、インタホンを押して呼び出してください。お気をつけて」

淡路島にはいるとあたりが突然暗くなった。
「街灯がない・・」
その時は地方の高速道路なので、街灯がないのだと独りごちていた。
だが、その後、高速道路にはどこにも街灯がないことに気づく。
要はあたりに建物がなく暗かったのである。

あたりが暗いうえに、前後、対向車線にクルマがいないと、そこは漆黒の闇となる。
ヘッドライトだけが唯一の光だ。

クルマはほとんど走っていない。
油断しているとすぐ視界からクルマがいなくなる。
初めて走る道は、どの程度のカーブがあるのかわからない。
先導する前のクルマに離されぬよう必死にアクセルを踏む。

四国に入るにはあと一つ鳴門海峡を渡らなければならない。
それにしても、漆黒の淡路島は広い。
ちなみに淡路島は全島が兵庫県である。
淡路島南SAで鳴門大橋を撮影する予定は、もちろんパス。

Naruto

明石海峡大橋ですっかり橋に怯えていたので、つづく鳴門大橋も長くて怖かった。

景色をよくするために欄干を低くするのはやめてもらいたい。

20:25
生まれて初めての徳島県
ここからは高松自動車道

もしも、さぬきうどん屋の営業が21時までだったらやばい。
気持ちがはやる。すると、
片側一車線・・
車間距離が開くとアップライトにしなければ、前を追えない。
だが、対向車が来るたびにライトを下げなければならない。

うどん
ライト
アクセル
忙しい・・

徳島県唯一の鳴門西PAは、頭の中、うどん一色で走っていたら見逃した。
これで「全県でSAに寄る」こだわりも終了。

香川県
20:56
Sanuki1 津田の松原SA に到着
名残惜しみながら、功労者の「冷えピタ」を剥がす。まだ美意識がわずかに残っていた。

とりあえず、財布だけ握ってうどん屋をめざす。

あなぶき家のセルフさぬきうどん
どうやら、間に合ったようだ。
高速同様、うどんも渋滞していた。

もうさっきから10分間。列がまったく進まない。
うどんを取りに行ったのか?それとも今うどんを打っているのか?
それは、麺ゆで待ちだった。

Sanuki2

うどん普通290
きつね60
メンチ100
ごぼうかきあげ130
しめて580円

写真を押さえると、それはもう、がんがん食べた。
周りなんか気にならない。
かっこつけてなんかいられない。

お店の人に尋ねると、営業は22時まで。
といっても、うどんを食べ始めた21:20には列は打ち切られていた。

愛媛県に入る。今回は行き帰りに通過するだけ。
川之江JCTで高知自動車道へ分岐。
川之江東JCTで、高知と徳島に分岐。
そのあたりから、ぱらぱらと降り始めた雨は、やがてざーざー降りに変わった。
フロントガラスに施したコーティングは、この時だけ効果を発揮。
ワイパー要らずだったが、それがどーしたである。
コーティングなんかせずに、ワイパーを使えばよいのだ。
知人の口車に乗って、また一つ賢くなった。

さらに進むと雨に加えて霧。
確かフォグランプがついていたはず。
スイッチの場所を探して、初フォグランプ。

「どんだけ~」
と思わず言ってしまうほど、トンネルばかりの高知自動車道。
実際の比率は知らないが、体感トンネル率80%。
ただ、雨の見知らぬ夜道では、トンネルの中のほうが明るくて走りやすかった。

高知ICを降りる頃、雨は小降りになった。
ひろめ市場のラストオーダーはとうに過ぎている。

23:30
「目的地周辺です」
カーナビの案内に左右をきょろきょろすると、予想とは反対側に高知ターミナルホテルが見えた。
西から東へ走っていたつもりが、逆だった。
事前に予約しておいた通り、立体駐車場を確保しておいてくれた。
これで安心して眠れる。

自販機でビール、水を買い、風呂上がりにテレビをつけると
NHKに佐野さんが出ていた。

初日走行距離:799km


|

2009年9月 4日 (金)

怖すぎる明石海峡大橋

快適だった新名神と別れを告げ、草津JCTで名神と合流。
ここから大阪・吹田までは、名神高速。
慢性的な渋滞の名所である。

渋滞にはまる前に草津PAに寄る。
♪ くさつよいとこぉ 一度はおいでぇ
と歌いながらトイレ休憩。
ここのPAのトイレはウォシュレット。確かにくさつよいとこだ。

事前の下調べによると、ここの名物は
草津あんぱん 120円
香川県のさぬきうどんにたどり着くには、まだかなり時間がある。
そこで、間食にあんぱんをゲット。
味はというと、まぁいわゆる普通のあんぱん。
買ったあんぱんは、らずべりぃというパン屋さんで150円。
ガイドブックに載っていた草津あんぱんとは別物だったのかも知れない。

ここで、冷えピタを買ってきたことを思い出した。
ダイソーに売っていた3枚105円のクールシート。
おでこに1枚貼って走り出す。

これが、はまった。
走るほどに、元気が回復するのがわかる。
頭痛がぐんぐん引いていく。
体温が下がり、思考力が戻ってくる。
渋滞のなかでは、ちょっと見た目に難があるが、そんなのはどうってことない。

大津SAは琵琶湖湖畔と比叡山のカメラポイント
名物は近江牛コロッケ
だが、日も暮れてきており、時間も大幅に押しているので、寄らずに先を急ぐ。

17:00
8県めの京都にはいった。

17:20
桂川PAで作戦タイム。
名神を終点まで走った先、阪神高速の「*号線」という名称を脳にインプットする。
都市高速を走る時、標識を見て瞬時にどちらに分岐するかを判断しなければならないことがある。
「●●方面」という表示は、土地勘のない場所では意味を成さない。
そこで、*号線という情報が、最大の判断材料になる。

Meishin_2 陽はかげっていく。
冷えピタで下がった体温。
死ぬかと思った炎天下の高速は過去の話。
心地よい夏の夕暮れがやってきている。
旅立つ前に最も恐れていた名神渋滞は、思ったほどではなかった。

Suita 吹田JCT
ここを過ぎると本日の渋滞も終わり。
中国道へ行かず西宮ICまで進み、阪神高速3号神戸線へ。

第二神明道路を通り、名谷JCTからは阪神高速5号湾岸線。
かすかにビルの谷間に見えた夕日が沈み、夜の帳が降りた。

カーナビの指示どおりで、間違いなく難解な阪神高速をクリア。
19:40
垂水JCT
いよいよここからは神戸淡路鳴門自動車道。
本州に別れを告げて、淡路島に渡る。
あたりはもう真っ暗。
写真を撮っても、光量不足でピンボケばかり。

Akashi やがて、暗闇のむこうから、吊り橋独特 「X」字の梁がある橋脚が見えてきた。

舞子と淡路島を結ぶ 全長3911mの明石海峡大橋は、世界最長の吊り橋。
1986年着工。1998年4月5日開通。
日没から23時まで、ライトアップされる。
舞子側から遊歩道が出ている。

ふと左側をみると、それは漆黒の谷。
遙か下に海
昼の明るい時も怖いだろうが、夜にこれを観たのはいけなかった。
そこに吸い込まれそうな錯覚に陥った。
いつもならば、吊り橋は左車線をのんびりと走るが、とても左車線は走れない。
中央に車線変更。ハンドルにしがみつき、身をかがめて走る。
後続車に気を配る余裕はない。
その場に止まってしまいたい衝動に駆られる。

かつて、テレビで観た映像が脳裏をよぎる。
それはサンフランシスコの吊り橋が台風にあおられ、きりもみ状にくねりながら、海へと崩れ落ちていくシーン。
恐怖を払いのけて、必死にアクセルを踏む。
しかし、踏んでも踏んでも終わらない。

4kmの橋を渡ったことがある人は、日本人の1%にも満たないだろう。
しかも、この高さ。そして暗さ。
高所恐怖症でなくても、ここは怖すぎた。

|

2009年9月 2日 (水)

名古屋は暑すぎるでかんわ

13:20
東京から320km 刈谷ハイウェイオアシス
高速のSAなのに観覧車がある。
この灼熱地獄の日、誰が乗るのかと思ったら、全室空車で回っていた。
事前の調査によると、中央棟に「でぇら たかしの味噌まんじゅう」が売られている。

売店には、味噌煮込みうどん、味噌カツのたれ、きしめん、守口漬け、赤福 ・・
名古屋・三重の土産はほとんど揃っていた。
ただ、松阪牛のしぐれ煮だけは見あたらなかった。

Misoman_4

箱をその場で開けて、口に放り込む。
1つ、2つ、3つ
浜名湖でうなぎバーガーを逃したので、これが今日の昼食。
確かにみその
味がする饅頭だった。

ガソリンは 125円/L
そろそろ入れておこうかと思ったが、クルマが1台待ちだったので見送った。

Triton

13:50
名港トリトン
名古屋港を東から「名港東大橋」「名港中央大橋」「名港西大橋」の順番で渡っていく。
できあがっていく姿を下から見ていた頃は、どえらいモノを作るもんだ。さすがナゴヤと思っていたが、こうして渡ってみると、思ったより迫力を感じなかった。

三重県に入ると、左手に長島スパーランドが見えてくる。
「空気が乾燥してくる午後はスピードが速くなる」という風説がある木製ジェットコースター、ホワイトサイクロンはオープンから10年が経過した今も圧倒的な存在感を維持している。

カーナビは四日市東JCTでは右側へ分岐すると案内している。
左車線から中央車線へ車線変更。
ハザードランプをつけてお礼を言うと同時に「どうも」と手を上げる。
後部座席がないので、後ろのクルマからもこの合図は視認しやすいはずだ。
ところがこの車線は一向に進まない。
強い日射しが照りつける高速の路上で、停車を続けるのは辛い。
左側の車線はクルマがすいすいと流れていく。
穏やかな心の旅を心がけているので「まいったなぁ」という程度に見送る。

JCTに着いてみるとさっきまで居た左車線からでよかった。
ここだけで15分は違った。

カーナビでは直前になると分岐地点の詳細なイラストが現れる。
このイラストは本線が2車線で左分岐が1車線というように表示され、自分がどの車線にいればよいかを知ることができる。
進路が左分岐の場合、早くから左車線に寄りたくなるが、誰もがそう思うのでその車線は混む。
着いてみると左から2番めの車線でもよかったということがある。
このイラスト表示によって、混まない車線に残ることができる。
周りのクルマの流れを見ていると、こうしたナビをつけている人はまだまだ少ないようだ。

15:00 御在所SA(下り)
この旅1回めの給油。 125円/L
GSにはクルマの行列ができている。
「満タンはいります」
おねがいしまーふ・・・

暑すぎて頭が痛い。
もう、脳内が壊れ始めている。
12.64km/l
東京都内を走っている時は 8km/l。
125円/L 10km/lで旅の予算を立てて来たので、この数値は助かる。

亀山JCTからは、初めて走る新名神高速道路。長く通称「第二名神」と呼ばれてきた。
設計速度120km/h ITSの自動運転を視野に入れて作られただけに道幅が広く、走りやすい。

滋賀県
16:00 ようやく滋賀県に入る。
新名神唯一のSA、土山SAに立ち寄る。
ここは平凡だった。
129円/L
高知の到着予想時刻は 21:55と表示された。

ひろめ市場のラストオーダーに間に合うには、もうあと35分しかマージンがない。

|

2009年8月31日 (月)

浜名湖でうなぎバーガーを

今回の旅では、復路に「SA泊」がある。
あまり、人通りが少ない場所で寝るのは怖いので、事前に24時間営業の売店があるSAをいくつかリストアップしておいた。
そして、こうしてクルマを進めていくと、思っていた以上に「24Hコンビニ」が多い。
地方都市においては、高速のSAはコンビニ営業の一等地なのかも知れない。

東京から248km 浜名湖SA
東京ICからここまで 4時間50分
通常のペースよりも、2時間ちかく余計にかかっている。

Hamanako

浜名湖を撮影。
結局これが、SAから撮れた唯一の景色となった。

通称うなぎバーガーは、東名高速・浜名湖SAで販売されている、うなぎが入っているハンバーガー。
商品名は「ピザ風うなぎハンバーガー」
1999年に食べた時は310円だった。
その時のメモによると
「具がほとんど入ってなくておいしくない。高速の自動販売機で売っているハンバーガーに似ている。一度話の種に食べれば充分」
10年の時が流れ、うなぎバーガーはどのように変わっただろうか?

Hamanako2

息をすると空気が熱い。
かなり気温が上がっている。

浜名湖SAは広い。
ご多分に漏れず、大変な混雑ぶり。
駐車できた場所から売店までは、果てしなく遠い。
渋滞を乗り越えて来た体に、この距離は無理だ。
お昼ご飯にするはずだった「うなぎバーガー」は断念した。

浜名湖を出ると、もうそこは愛知県との県境。

Aichiken

11:26
クルマは東京-神奈川ー静岡を経て、ようやく4県めの愛知県に入った。
出発して既に7時間が経っている。

Aichi2

愛知県にはいっても断続的な渋滞はつづく。高速1000円とお盆という2つの要因が重なり、路上はクルマの海。どのSA・PAにも「満車」の表示が出ている。

東京から280km赤塚PAで休憩。

渋滞はここまで。岡崎ICを超えると豊田JCT。

Aichi3 旅に出る前から、青空の下、海辺の伊勢湾岸道に思いをはせ、心躍っていた。それにしても暑い・・・

|

2009年8月28日 (金)

こんな日によりによって事故

東京から81km 足柄SA
雨は降っていないが、富士山は曇に覆われていて、なかなか顔を見せてくれない。

東京から128km 富士川SA
富士川橋を手前に入れて、富士山を西側から撮るカメラポイント。
SAに進入したものの、100%を優に超える満車。
通路にも駐車待ちのクルマがあふれており、駐車を断念する。
結局、この旅を通して、富士山を撮ることはできなかった。
「また来いよ」ということなのだろう。

トイレ休憩も先延ばし。
ガソリン価格を確認 125円/L
東京都内は119円だったので、少々高い。

VICSアンテナが道路交通情報を受信。
カーナビに表示されると同時にアナウンスが流れる。
「10km先に事故による渋滞があります。追突に注意してください」
静岡の渋滞は交通集中ではなく、事故によるものだった。

ただでさえ渋滞する日に、ここで事故か。
「高速が安くなって、日頃高速に乗らないような下手くそが走るから事故が起きて、さらに渋滞する」
ゴールデンウィークに高速で旅をした友達がこぼしていた気持ちがわかる。

Yui

富士川SAでトイレに行けなかったので、その次の由比PAに入る。
ここは、太平洋に面した海べたの小さなPA。
仮設トイレが綺麗だった。
日差しがきつくなってきた。

由比を出て再び走り出すと、流れは30km/h程度。
そして、クルマは完全に止まった。
渋滞は11km 抜けるのに40分と掲示板に表示されている。

194km牧ノ原SA
数日後、この付近で震度6の地震があり、通行止めになった。
静岡メロンソフトを事前チェックしてきたが、パス。
ガソリン価格は129円/L
今回の旅を通して、同じ県でもSAによって、価格はまちまちだった。

牧ノ原から30kmの遠州豊田PAに寄り、目薬ピットイン。
両目に目薬を流し込むと、30秒でピットアウト。
ゴールまであと573km。カーナビは到着予想時間 18:30を表示している。
出発時点よりも、この時点で 90分遅くなった。
VICSは、この先どこまでの渋滞を織り込むのだろうか?
とても便利だが、残酷な数値だ。
先を急ぐ気持ちが強い。

Nihonzaka

到着予想時間は刻々と変わる。
渋滞の原因となっていた事故現場に到着。
片付けは終わり、事故による規制は解除されていた。

掲示板の表示には
「岡崎 3時間以上」の赤い文字

道路上の情報掲示板に「岡崎まで3時間」と表示されていても、
「その場所から岡崎までずっと渋滞していて3時間かかる」
という意味ではない。
「その場所から岡崎の間には渋滞している所もあれば、渋滞していない所もある。それをトータルした所要時間が3時間かかる」
という意味である。
VICSでは、その詳細な状況がわかる。
渋滞は赤、やや渋滞はオレンジ、順調に流れているは水色の矢印がカーナビの地図上に表示される。
この先、どこがどのように渋滞しているかが正確にわかることは、精神衛生上大変よい。

主要幹線道路から、交通量の多い片側一車線の道路まで、国土全域に渋滞センサーが配備されている国は、世界でも日本だけだろう。
日本人は世界でもっとも生活に関する技術が進んだ国に住んでいる。

19時にはホテルで荷をほどき、20時には ひろめ市場で塩たたきを目前にしているはずだったが、静岡の事故渋滞で早くも予定は狂い始めている。
22:30 ひろめ市場のラストオーダーに目標を切り替えた。

|

2009年8月26日 (水)

早朝の東京インターチェンジ

【 初日 】 天候:晴れ

ブラックコーヒーを1杯のんで
さぁ、出発。

初日の予定は名古屋を10時頃通過。
夕方、香川県でさぬきうどんを食べて、19時に高知のホテル入り。
ひろめ市場で高知の美味いものに舌鼓を打つ。

日本は西に行くほど日が長い。
ということは、東にいくほど朝が早い。
かすかに暗さが残る 4:30の東京を出発。
環状8号線の交通情報には
「御殿場-沼津15km渋滞」

こんな時間だというのに、もう渋滞が始まっているのか。
それも東京近辺ではなく静岡だ。

Tokyo

東京インターに乗ったのが 4:55
いよいよ「高速の旅」が始まった。

料金ゲートは、およそ半数がETC対応ゲート。
大半のクルマがETCゲートを通っていく。
この時は、この光景に違和感を感じなかったが、道路が西に進むにつれて、これが特別なことだとわかっていく。

「神奈川県に入りました」
カーナビのコンピューター合成音がアナウンスする。

こどもの頃、父が運転するクルマに乗って家族旅行をした。
スバル360に4人が乗る。
ヒーターはあったが、エアコンはない。
音楽はラジオと8トラックのカーステレオ。
父は本田路津子の歌を好んでかけていた。
「あ、佐賀県に入った!」
県境を越える度に、幼い姉と僕は喚声をあげた。
地続きの国境がない日本では、県境をまたぐことは、よその国に行くように特別なものだ。

カメラの準備はできていたが、県境は前触れもなくやってくる。
県境を越える度に写真を撮ろうと思っていたが、早くも1つめの県境で挫折。
この旅のこだわりが一つ減った。

東京ICから14km
すべての通過県でPAに寄る。第一弾は神奈川県の港北PA
自販機でショート缶のコーヒーを買う。
MR-Sはカーナビの前がドリンクホルダーのため、トール缶を立てると画面が見えない。

駐車場は、朝の5時だというのに、ほぼ満車。
クルマの中で寝ている人もいる。
早朝割り引きの時間までに高速に入るために、早起きしてきたのだろうか。

一旦、東京都に戻った後、再び「神奈川県に入りました」

31km 海老名SAをパス
夜は明けたが、空が曇ってきた。

72km 鮎沢PA
ここは規模が小さい。
富士山を東側から撮影できるPAだが、富士山は霧の中にありパス。

何の前触れもなく、東京ICから1時間15分で静岡県入り。

「ここ静岡は、わさび発祥の地です」
カーナビから流れてくる Music Stylist リリー&トギーのDJ。
ご当地トークが、この旅の一つの楽しみだった。

カーナビの位置を判断して、その県にまつわるエピソードを紹介する。
東京は奥多摩の生き物
神奈川は、かつて鎌倉に首都があったこと
そして、静岡は名産ときた。

静岡に入ると、渋滞が始まった。
緊張がゆるみ、早くもあくびが出始める。

渋滞の車の間をバイクがすり抜けていく。
タンデムに乗ったヘルメットから金髪がなびいている。
ちょっと前までは、見られなかった光景だ。

2005年4月、高速道路でのバイクの二人乗りが解禁された。
年齢20歳以上、免許取得後3年経過が条件。
「高速の二人乗り」は事故が多かったため、1965年に禁止されていた。
高速道路では125ccを越える自動二輪について、二人乗りの解禁が2004年11月改正道交法に盛り込まれ、2005年4月施行。
軽二輪、原付は、依然として高速に乗ることができない。

路肩を走っていくライダーもいたが、1kmほど先でパトカーの後部座席に座り、何やら書いていた。

|

2009年8月24日 (月)

高速旅行 宿選びの決め手

 7月
 3週間前
 ガラスコーティング
 ネッツで工賃 3,150円
 「雨を弾くので長距離ドライブの時には、コーティングしておくといいよ」
と知人に勧められた。

 だが、今回の旅は雨と晴れが交互にくる不安定な天候つづき。夜中の走行も多くガラスには無数の「虫汚れ」が張り付く。
 その結果、ワイパーを多用したため旅の終わりがけには「コーティング効果」はなくなっていた。
 メリットは、夜間の雨中走行でワイパーが不要というだけ。
 もう、ガラスコーティングすることはないだろう。

 3週間前
 カーナビ地図更新 13,125円
 今回の旅では、NEXCOの高速道路網から外に出てはならない。
「高速1000円」がそこで途切れるからだ。
 より正確さを期すために、地図を更新。
 これで、情報は2008年10月現在のものになった。

 出発 2週間前
 高速1000円を活かすため、出発日は土曜の早朝 4:30。
 就寝時間をいつもより2時間早めて、朝方にシフトする。

 出発 1週間前
 ネッツでバッテリーを点検。
 ずいぶん弱っているということで、充電 2,310円を依頼
・・・しようと思ったが、新品と交換しても 9,135円ということなので交換。
 結果的に、これは功を奏した。
 夏のドライブにエアコンは必須。
 長距離ドライブには、カーナビと音楽も欠かせない。

 灼熱地獄の高速、タイムテーブルに追われるスケジュール。
 そんな中、バッテリー上がりでレスキューを呼んでいる場合ではない。

 片道 1,200km 旅のトータルは 4,000kmを見込む。
 この旅、最大の難敵は「睡魔」と推察した。

 対策その1
 眠気防止には「ひとりカラオケ」が好適。
 カーナビには 2,000曲が録音されているが、タイミングよく歌える曲が出るとは限らない。
 ウォークマンに「 2009九州ドライブ 」のセットリストをつくる。

 対策その2
 ひえピタ
 使ったことはないが、熱が出た時に額に貼るとずいぶん楽である・・
 と佐野元春が言っていた。
 ダイソーで 3枚入り 105円で売っていたものを買った。

 3日前
 旅の初日は高知泊まり。
 はりまや橋のそばに宿をとる。
 「高知ターミナルホテル」はシングル料金が最も安く、しかも立体駐車場を完備している。
 防犯の観点に立って、立体駐車場が宿選びの決め手になった。

 高速のコース設定はNEXCOのウェブサイトで何度も試算した。
 最も安いパターンは名神-中国-高松道だが、吹田から阪神高速を経由したほうが1時間ほど速いことがわかった。
 2000円ほど高くなるが、阪神高速経由を選択。
 カーナビにコースを設定した。

004

 朝5時に東京インターを乗った場合、高知到着予想は17時。途中で休憩を2時間とるとして、ホテル到着予定時間は19時。
 それから、町に出て高知の名物を食べる。

 下調べの段階で浮かび上がってきたのは
「ひろめ市場」と、そこで食べられる「塩たたき」
 高知と言えば「カツオのたたき」と誰もが知っているが、塩たたきは初めて聞いた。
 
 ほかにも有名らしい「安兵衛」の餃子、そして鯨も食べたい。
よけいなものは頼まないで、ハシゴしたい・・
 ひろめ市場では、そのような食べ方ができるだろうか。

 そこで、旅を前に一句

塩たたき 1つだけでは ダメですか?
気が気ではない 旅の前の日

moto蔵こころの歌

*しばらく、不定期で連載


|

2009年8月22日 (土)

高速道路で行く東京-九州の旅

 2009年3月28日、消費を刺激することを企図した景気振興策として 休日の高速道路が上限1000円になった。

 割引対象は「普通車」の「ETC決済」
 利用時間の一部に、休日が含まれていればよく、以下【例】でも 適用される。
 【 例 】
○金曜日 9:00に高速に乗る → 土曜日 0:10に高速を降りる
○日曜日 23:50に高速に乗る → 月曜日 22:00に高速を降りる

 休日でなくとも、地方区間の平日9時~17時は、3割引き
 *地方平日17時~9時は、従前から割り引きがある。

 4/29
 コンピューター・システムが更新されて、地方区の二度乗りも 上限1000円になった。
 当初の一ヶ月は、地方区~都市部~地方区と乗りついだ場合、2,000円を請求された。

 予定では、2011年3月27日に 時限値下げ期間が終了する。
 9月に民主党政権となった後、財源が確保されれば、高速道路は「無料」になる。

 去年の夏は「N700系のぞみ99号で行く品川博多の旅」

 今年の夏は「高速道路で行く東京-九州の旅」に出た。

 名付けて
 「高速1000円で行く東京-高知-九州の旅 全県のSAに寄る。
 めざせ!軍艦島上陸 ほたるの町、学生時代の食堂は今?」

*しばらくの間、不定期で連載

 5月
 3か月前
 夏の旅行に向けて、ガソリンをバイオガソリンから通常のものに変えていく。
 MR-Sファイナルに乗り換えて2年、ガソリンはいつも同じスタンドで「バイオガソリン」

 バイオガソリンとは、レギュラー・ガソリンとして使える植物成分配合ガソリン。
 価格はレギュラーと同等で、レギュラーガソリンとして販売されている。
 経産省の補助事業として石油連盟が推進しており、複数のメーカーが販売する。一メーカーのブランド名ではない。
 ETBE(トウモロコシ、サトウキビ等を原料とするバイオエタノールと石油系ガスを合成したもの)を8%以下の比率で、レギュラーガソリンに配合してつくる。
 ETBEをガソリンに混合する方法と、バイオエタノールをガソリンに直接混合する方法がある。直接混合の場合、2007年4月時点の法律で混合比率上限は3%。
 2007年4月27日より、首都圏50か所のガソリンスタンドで試験発売開始。
 ETBEはフランスから輸入した。試験であり安全性は立証されていない。
 バイオエタノールはガソリンより発熱量が低い。同じ熱量を得るにはガソリン1に対して1.012が必要。
 製造原価はガソリンを上回っていて、その差額は国が補助している。つまり税金で賄われている。

 バイオガソリンでしか走ったことがないので、その性能はわからない。
 今回の旅で初めて "バイオではない"レギュラーガソリンで走り、違いがわかるかどうか。
 まずは4分の1を通常のものにして、3度の給油でフルタンクを入れ替えた。

 6月
 2か月前
 軍艦島上陸ツアーを予約。
 天候がよくても、軍艦島周辺の波が高ければ船がつけられない。
 その場合は「上陸」ではなく「遊覧」ツアーとなる。
 上陸できなくても料金は負けてくれない。
 乗船時には、誓約書の提出を求められる。

 誓約書の内容は「柵を乗り越えない」「安全利用に適した衣服の着用」など。世界遺産登録をめざす "観光資源"のため、ツアー参加にはルール遵守が求められている。

 7月
 1か月前
 今回は未踏破の「徳島」「香川」「高知」を経由する。
 それにより、47都道府県制覇まで残りは 3県となる。

 世界一の橋がかかる明石海峡、渦潮の鳴門海峡を渡って最初に踏み入れる四国の県は「徳島」
 地理は苦手なので、てっきり「香川」かと思っていた。
 高速をおりることはできないので、徳島県は高速道路で通過するだけになる。

001

am 4:40 夜明け前 東京

|

2009年8月16日 (日)

佐世保ドライブ3

 四ケ町には、コレクターショップ「YY貿易」があります。

 この店は、特にスターウォーズに強く、ファンが遠方からやってきます。
 海外トイ、海外フィギュアが豊富ですが、仮面ライダー、ウルトラマンの品揃えは薄いです。

 店舗は島瀬公園ヨコ(佐世保駅寄り)のビルの2階。
 以前は他の場所にあり、数店舗を出していましたが、2005年からは現在の場所で、広い1フロアとなりました。
 1998年夏、当時既に絶版で、どこのショップにも新品はなかった「京本コレクション1仮面ライダー旧1号」の新品が3体あり 価格も¥9,800と良心的だったのには、目を疑いました。

 ドライブの話にはちょっとマッチしませんが、佐世保の洋食店には「レモンステーキ」というメニューがあり、2000年代に入ってからは、観光ガイドにも取り上げられるようになりました。
 特にどこの店が有名というのはないのですが、佐世保駅で売っている「レモンステーキ弁当」は、大半の駅弁紹介本に登場しています。

 製造販売は松僖軒。地元ではあまり知られていません。
 1日10個限定販売。
 佐世保駅コンコースの駅弁売り場で、8:30から売り始めます。お店の人によると、概ねお昼までには売り切れるそうです。(2008年8月取材)

 佐世保には、みんなの人気者 高田明社長が経営する「ジャパネットたかた」の本社があります。
 高田明社長は1948年、長崎県平戸市生まれ。2009年で61歳。
 26歳の時、父が経営する「たかたカメラ」に入社。
 1986年に(株)たかた設立。
 1990年にラジオショッピング、1993年にTVショッピングを始め、1999年に今の「ジャパネットたかた」に社名を変更しました。
 2001年には佐世保の本社にスタジオを作り、TV、ラジオショッピングを自社制作に切り替えました。
 2004年3月、顧客情報の漏洩が発覚した時は、四の五の言わずに即座に通販番組を中止。
 月商60億円を失ってでも信頼回復に努めた、迅速かつ潔い姿勢はユーザーの尊敬を集めました。
 年商の推移
  2002年12月期: 624億円
  2008年12月期:1371億円
 2004年の一件を境に、売上げが倍増しています。

 住所:佐世保市日宇町2781
 佐世保大塔ICから西九州自動車道に乗って帰る前に、話の種に立ち寄ってはいかがでしょう。

 さて、最後に佐世保と言えば、ハウステンボス。
 ・・・なのですが、ここはドライブがてら、ちょっと寄るという場所ではありません。
 朝早く自宅を出て、開園と同時に入り、終園までを過ごす。
 あるいは、園内のホテルに泊まりがけで行くことをお勧めします。
 ハウステンボスの魅力はなんと言っても「園内で泊まれる唯一のテーマパークである」ということ。
 夜9時に一般客が帰った後、翌朝までの貸し切りの街を、ぜひ一度味わってみてください。

 どうでしょう。
 あなたも、佐世保に行ってみたくなったでしょうか。
 佐世保の人は、のどかで暖かいですよ。

|

2009年8月15日 (土)

佐世保ドライブ2

 佐世保北高校から佐世保市役所とは反対側に丘を降りると、名切町です。
 そこには数年前、銃乱射事件があった「ルネサンス」があります。

 佐世保市の中心はなんと言っても四ケ町。
 "よんかちょう"と読みます。
 ここは、日本一長い直線アーケード街。
曲線アーケード街というのがあるのかはわかりませんが・・・

 佐世保出身の人は、アーケード街 イコール 繁華街、お出かけという刷り込みがあるため、どこの土地に行っても、アーケードがあると、とても落ち着き、華やいだ気持ちになります。
 川崎市の中心、銀柳街のアーケードは、とても四ケ町に似ていると思います。

 佐世保駅の方から来ると、デパート「玉屋」までが四ケ町。
 そこから先はサンプラザ。旧名称「三ケ町(さんかちょう)」です。
 ただ、三ケ町は昔から人通りが少なく、四ケ町とは違う町のようです。
 いっそのこと、四ケ町を名乗ればいいと思うのですが・・

 島瀬公園の周辺で車を駐車場に入れます。
 そして、まずはデパート玉屋。
 ここの一階、食品売り場の一角 ラビアンローズに "玉屋のサンドイッチ" があります。
 ミクシィには「玉屋のサンドイッチ」というコミュニティがあり、大勢の人で賑わっています。

 持ち帰り用で二人前が入り、1箱 600円
 2008年7月1日より、従前の525円から600円に値上がりしました。
 テイクアウトして、どこかで食べてもいいし、売り場にテーブルと椅子があり、その場で食べることもできます。

 具材は、レタス・トマト・キュウリ・ハム・玉子。
 スプレッドは甘さが漂うマヨネーズ。野菜には特に合っています。
 買って帰り、冷蔵庫で数時間保存してから食べても美味いです。
 蓋をしておけば、ひと晩冷蔵庫に置いても、パンがさほど干からびていませんでした。
 2007年8月に行ったところ、それまでになかった「佐世保サンド」という貼り紙をして売っていました。でも、パッケージには「佐世保サンド」の文字は入っていません。
 「佐世保バーガー」が世に出たので、このサンドも、佐世保を冠してみたのかも知れません。

 玉屋を出ると、いよいよ日本一の直線アーケード、四ケ町。
 佐世保駅方面に向かって歩いていくと、右手に「白十字パーラー」があります。
 白十字パーラーは「ぽると」を作っている老舗の洋菓子店。

 「ぽると」は、ざらめのついたクッキーで、ゆずの味がほのかに漂うザボンの餡をはさむお菓子。
 
~現在は、ザボンは原材料に入っていない~
 とにかく、日本茶に合います。
 これ以上に合うお菓子はないんじゃないかと思うくらい、合います。テレビ東京が「日本茶に合う和菓子選手権」を開いたら、優勝すると思います。
 子どもの頃は、あまり好きじゃなかったので、年齢を重ねると美味しくなるお菓子と言えるかも知れません。
 このお菓子、佐世保の人なら誰でも知っているけれど、他県ではとても知名度が低いのです。
 名前はポルトガルのポルト市にちなんでいます。
 白十字パーラーでは、数年前から予約制で「ジャンボぽると」を作っています。
 ただ、あれをどんな場面で食べるのか、想像がつきません。


左に見えるのが500円のぽると。下段に見えるのが普通の大きさのぽると

 白十字パーラーは1925年に開店、ぽるとの発売年が明記された資料が、見つからないのですが、旅のガイドブック「長崎佐世保2006」成美堂出版には "40年前から売られている"と書かれていました。

 白十字パーラーは店の奥と2階が喫茶店になっていて、ここに名物のジャンボパフェがあります。
 大ビアジョッキに入ったジャンボパフェ「チャレンジフルーツ」「チャレンジバナナ」はそれぞれ900円。2008年にはチョコが増えて3種類になっていました。

 その先には、ジャンボシュークリームのオブジェが目印の「蜂の家」があります。
 ジャンボシュークリームは、チューブに入ったチョコソースをかけて食べます。このお店は銀座歌舞伎町のそばに出店しています。名古屋の矢場とんもそうでしたが、地方の食べ物屋さんが東京に一号店を出す時、まずは銀座からと考えるのかも知れません。

 アーケードからは、ちょっと離れた所には喫茶店「バードモナミ」があり、ここのコーヒーゼリーがこれまたジャンボです。
 テーブルに運ばれて来た時、一瞬、言葉を失います。
 ただ、このお店は開店が遅いので、できるだけ夕方に近い時間帯に行くことをお勧めします。

つづく

|

2009年8月14日 (金)

佐世保北高と松永真理

 佐世保北高校は、普通科・全日制のみの進学校です。

 2003年度入学まで佐世保市は、西、南、北の3校による合同選抜入試を行っていました。佐世保には東校はありません。

Kitako

 戦後、占領軍の担当が東日本と西日本で違ったため、西日本は比較的アメリカナイズされた教育制度が多く、佐世保市、長崎市、大分市など九州には合同選抜入試制度の地域が多い・・・
 村上龍 2001年の著書「教育の崩壊という嘘」に、そう書かれています。

 総合選抜というのは、長崎県の公立入試問題を解いた応募者から、各校450人の合格者枠、合計1,350人を選抜するのです。
 通学エリアは考慮されますが、受験者は希望校を指定できません。
 「
村上龍のファンやけん、おいは北高がよかばい
という人は、当時いませんでしたが、そういう希望は言えないのです。
 佐世保南高校のすぐそばに住んでいながら、北高に通っているという生徒も、実際にいました。

 2004年度入学選抜より、合同選抜は廃止されました。
 また従前は、佐世保市外からの受験者の入学枠が7%と制限されていましたが、同時に撤廃されました。

 2004年4月には、佐世保北中学校が併設され120人が入学。中高一貫教育コースが始まりました。
 2007年4月には、中学校から自動的に120人が進学してくるため、高校から入学する枠が120人分減らされました。

 部活は、各部に6学年が所属しています。つまり、一つの部活動に中1から高3までが在籍するわけです。どんな人間模様が生まれるのか、これはこれで、興味が持てますよね。
 2004年度からは、女子の制服が黒に近いブレザー風のセーラーに変更されました。

 佐世保北高は村上龍の出身高ですが、在校生はあまりそれについて語ることはありません。校内に村上龍の銅像などはありません。
 ちなみに、村上龍については、佐世保市立図書館に原稿や万年筆が常時展示してあります。

 村上龍以外では、松永真理もOBの一人。
 この名前を聞いただけで、誰だかわかる人はかなりビジネス書が好きな方でしょう。
"iモードを立ち上げた女性" と言えば、わかるでしょうか。

【 まつなが まり 】
1977年
明治大学卒業。リクルートに入社

1988年
6月、リクルート事件起きる。
7月「とらばーゆ」編集長就任。

1994年
7月、初めての著書「なぜ仕事をするの?」講談社 出版。

1997年
ドコモに移籍。
iモードを企画段階から立ち上げた。

2000年
3月、ドコモを退社。
7月「iモード事件」角川書店 発表。
9月、女性向けウェブサイト「イー・ウーマン」を立ち上げた。

2002年
6月、バンダイ社外取締役就任。
7月、リクルート在籍時代の回顧録「iモード以前」岩波書店 発表。

 松永真理は佐世保出身であることを知られたくないのか、著書では母校や佐世保については全く触れていません。

 佐世保北高の卒業年度は年号ではなく、第1期からの年度数で「*回生」と表記されます。だから、自分が何回生なのかがわかる人はとても少ないです。
 卒業生は自動的にOB会「北星会」に入会扱いとなります。
 大半の卒業生は「
おいは会費納めとらんし、入会手続きしとらんけん、北星会は入っとらんばい」と思っています。年会費は要らないのですが、総会の会費が高いのが難点です。

 以上が佐世保北高のご紹介でした。
 明日は、佐世保ドライブに戻ります。

ど素人!長崎県講座

|

2009年8月12日 (水)

「69」

 2004年6月、佐世保北高校を舞台にした映画「69」公開。
 妻夫木聡、太田莉菜主演
 井川遥が登場する前半のシーンは、ハウステンボスのホテルヨーロッパで撮影されている。
 映画のロケ地は佐世保だが、佐世保北高校の場面は、静岡県の学校が使われている。
 校章は、佐世保北高のものに似せているが、微妙に違う。

 原作は、佐世保北高校で実際に起きたできごとを題材にして、村上龍が書いた私小説。 佐世保北高のOBには痛快な内容だが、佐世保の私立高校と佐世保工業のOBは読まない方がよいかも知れない。

 映画公開直後、佐世保北高では映画を真似たと思われる落書き事件が二度起こった。
 2004年8月に訪れたところ、校内に部外者が立ち入らぬよう簡易なバリケードが設置されていた。

 映画「69」は村上龍がメガホンをとらなかったことが功を奏して、原作の味を忠実に再現した好作品。
 1960年前後生まれの人にとって反則とも言えるギャグが後半にあり、笑いすぎて涙が出そうな作品となっている。

 2004年、新装版「69」出版。
 「69」では取り上げていないが、村上龍が高校3年生の年、佐世保北高校では卒業式粉砕の企てがあり、実際に卒業できない者がでた。
 村上龍によるあとがきは、当時の学生運動について、大きな示唆に富んでいる。

Dsc02735




 2004年夏、佐世保市島瀬公園ヨコの美術館では「69」で使われたセットや地元ポップアーティスト?の作品展が行われた。
 ブラボーサセボ+69のロゴ入り黄色のTシャツが800円で販売されていた。

 2005年、福岡市が朝鮮民主主義共和国に占領されるというプロットの小説「半島を出よ」発表。
 2006年4月、テレビ東京系列で「カンブリア宮殿」放送開始。

村上龍の略歴はここまで。

 さて、せっかく佐世保北高校までお越しになったわけですから、村上龍ファンのために佐世保北高校を解説しましょう。

|

2009年8月11日 (火)

村上龍の略歴

 村上龍は 1952年佐世保市生まれ。
 1967年に佐世保北高校に入学しています。

 後に映画化された私小説「69」は、1969年の佐世保北高校がその舞台。
 小説の中では、卒業式粉砕の話が出てきますが、実際にその企てがありました。
 ただ、村上龍は首謀者ではなく、むしろ止めるように説得した側。
 この時の首謀者、先生、村上龍の関係は複雑だった様子。同級生に今度、聞いておきたいと思います。

 1970年3月に佐世保北高校を卒業した村上は、1972年に武蔵野美術大学に入学。
 1976年7月、大学在学中に「限りなく透明に近いブルー」で第75回芥川賞を受賞します。
 1977年には、NHKラジオの帯番組「若いこだま」でDJを担当。

 1978年に、初映画「限りなく透明に近いブルー」を製作。
 1980年「コインロッカー・ベイビーズ」発表
 1983年、映画「だいじょうぶマイフレンド」制作

 1987年、私小説「69」発表
 同年、その後シリーズとなっているエッセイ「すべての男は消耗品である」第1巻発表。

 1992年、ハウステンボスの開園日に、小説「長崎オランダ村」を発表。実話に沿った私小説。「長崎のロックシーン」という、いかにも長崎県人らしい名詞が出てくる、それは楽しい物語です。

 1994年
「五分後の世界」幻冬舎 発表

 1995年 エネルギーを操る能力を持つ山岸隆(故人 1949-2000)をとりあげた「超能力から能力へ」を発表(山岸と共著)
 当時はまだ、サイキックはキワモノ扱い。
 村上龍ほどネームバリューのある作家が、サイキックについて正面から取り上げたのには驚きました。山岸隆は2000年には、UFOで有名な矢追純一との対談「超能力!?いえ能力です」を共著で出版しています。

 1999年「JMM Vol.1プロローグ日本の選択した道」発表。
 この頃から、インターネットのメディアとしての活用が始まります。
 経済に強い作家というイメージができ始めたのは、この頃からです。

 2000年「この国には希望だけがない」の名台詞が印象深い小説「希望の国のエクソダス」を発表。

 2001年、小説「最後の家族」発表。この小説はテレビ朝日系列でドラマになりましたが、本の売上、ドラマの視聴率共に低調で、村上龍はさぞがっかりしたことでしょう。

 2002年、親交の深い中田英寿をモデルにしたサッカー小説「悪魔のパス天使のゴール」発表。
 同年、アサヒスーパードライのTVCMに出演。

 2003年、小説「2days4girls」発表
 "2日間で4人の女とセックスする方法" という副題がついていましたが、ノウハウ本ではなく、久々に出た昔ながらの村上ハードボイルド節でした。

 2004年「13歳のハローワーク」発表 挿絵はまのゆか
 生活と経済がどう結びついているのかを解説したこの本は、よく売れて、アマゾン売上チャートの1位となり、実用書としては珍しく、図書館の予約ベスト5に顔を出していました。

つづく



|

2009年8月10日 (月)

佐世保ドライブ1

 今日は、福岡県と佐賀県の皆さんに、佐世保ドライブをお勧めしたいと思います。
 それ以外の皆さんは、佐世保に行った気分を味わってください。


 佐賀県の伊万里市から、山を越えて佐世保に入る「国見有料道路」は、2007年11月30日から無料になりました。
 それまでは、310円を惜しんで、山道を迂回する人がいましたが、もう居なくなったことでしょう。
 1977年にできて30年で、およそ50億円の建設費を償還したことになります。

 唐津、陶器の町 伊万里 を抜け、国見峠を越えて佐世保入りした場合の順路に沿って記します。

 九十九島の遊覧船が、鹿子前から出ています。鹿子前は「かしまえ」と読みます。

99shima

 九十九島付近には、海辺を舐めるように走るドライブコースがありません。
 展望台があるだけです。
 海辺を走るよりは「パールクィーン」に乗船することをお勧めします。

 乗船場の近くには、西海パールシーリゾートがあります。
 地元の人は「パールシー」と呼びます。
 佐世保の人は、カタカナ名称の施設をフルネームで呼びません。
 かと言って「パーリゾ」のように、中間をはしょることもありません。
 ハウステンボスは「テンボス」です。

 鹿子前で舟に乗った後、佐世保市内を目指すと、SSK 佐世保重工業のヨコを走ります。
 スポーツメーカーにも SSKがありますが、こちらは造船所。
 佐世保重工業ならば、SJK ではないのかと、高校生の頃10人に一人くらいは疑問に持つのですが、大半の人は気にしていません。
 (創業時の名称が、佐世保船舶工業だったからSSK)

 今は原子力船ではなくなった「むつ」~当時の名称~の、修理を受け入れたことで有名です。
 1990年代までは長い造船不況で、造船受注が減りました。
 地元の人は、新規設備投資ができないために、旧くなったSSKを「造船博物館」と揶揄していました。

Dsc02700
 ところが、2000年代に入ってからは受注が増えて、ドックにはいつも舟が入っています。
 村上龍原作小説を映画化した「69」では、妻夫木くんがこの道を走りました。

 米国海軍基地も、道路右手にありますが、中は見通せません。
 見ない方がいいと思います。

 しばらく行くと、佐世保バーガーとしては、代表的な店「ヒカリ」が左手にあります。
 土日はいつも行列になっていますが・・
 近くに停まっている車では、注文を終えた人たちが、できあがりを待っています。
 朝10時の開店と同時に行った時は、15分待ちで買えました。

 ヒカリのすぐ先には「海自佐世保資料館」があります。
 かなり見応えがあります。自衛隊または舟が好きな人は、見るとよいです。入場無料。駐車場も無料です。

 村上龍ファンの人は、海自資料館から「佐世保北高校」へ行きましょう。
 佐世保市役所の前の信号から入って、坂を登り切った所にあります。
 村上龍がいた1969年当時とは、校舎は建て替えられていますが、面影は残っています。
 校門の前に、村上龍饅頭は、ありません・

Dsc02733

つづく

|

2009年8月 1日 (土)

冷たい部屋の世界地図

 新魚目町は長崎県の沖に浮かぶ五島列島の一つ、中通島(なかどおりじま)通称「上五島」にある。

 五島列島は長崎県に属する離島。
 中通島・有福島・奈留島・久賀島・福江島という五つの島と 150ほどの小さな島々の総称である。
 一番大きいのは、下五島と呼ばれている福江島(2004年に五島市となった)
 中通島・有福島・奈留島・久賀島は南松浦郡、中通島の北にある小値賀島・宇久島は北松浦郡に属している。

 1956年に、魚目村と北魚目村が合併して誕生。
 2004年には、上五島町、有川町、若松町、奈良尾町と市町村合併し、新上五島町となった。
 ゆえにもう、新魚目町は存在しない。
 浦桑・榎津・丸尾・似首には「郷」という呼称がつき、新上五島町浦桑郷というように表記される
 ・・・はずなのだが

 月刊誌「旅」の2008年10月号は
 「五島列島は、まるで異国のようなニッポンです。」
という特集記事を組んだ。

 懐かしの町「魚目」に、今はどんな観光資源があるのだろう?
 目を皿のようにしてページを追っていた。
 ところが、ページは進めども「魚目」は出てこない。
 そして特集を締めくくる「五島列島MAP」のページ。
 隣り町の「青方地区」や「有川地区」の表記はあるのだが、魚目の字はどこにもない。
 あるのは「丸尾教会」だけ。
 浦桑も、榎津、似首は 地名すら載っていない。

 無理矢理つくったような観光資源を誇る町は多い。
 ガイドブックをめくれば、誰が行くのかと思うような、観光資源が少なくない。
 だが、魚目にはそれさえもない。
 ガイドブックに、その名すら出てこない町。
 そんな町は日本中に五万とあるのだろう。

 ガイドブックに載らなくても、今の僕らにはグーグルマップがある。
 Googleマップに新上五島町と打てば、現在の五島の地図が出る。
 ストリートビューの撮影車が乗り入れるのはまだ先かも知れないが、地図だけでも十分に今の町がわかる。

 父の本土復帰の辞令が出て、僕らの家族は客船「鯨波丸」で五島を後にした。
 船の別れは特別な感情になるものだが、テープを投げに来たクラスメートはいなかった。
 たまたま親戚を出迎えに来ていた、となりのクラスの女子がめざとく僕をみつけ、
 「moto~っ」
 と手を振ってくれた。僕は面目を保った気がして嬉しくなった。

 切符は二等船室だが、僕はいつも 3時間の船旅を甲板で過ごす。
 潮風に当たっていれば、船酔いしないからだ。
 見渡す限りの水平線
 カモメが飛び、時折イルカやアゴが鯨波丸に競争を挑む。
 脳内には陽水の「冷たい部屋の世界地図

 ♪やさしさが壊れた~
  海の色はたとえようもなくて悲しい

 海の男になりきっているうちに、甲板の上で大の字になって寝てしまい、目覚めると、人々が僕をまたいで通行していた。

おわり

| | コメント (0)

2009年7月31日 (金)

島流しのよそ者が、五島で受け入れられた瞬間

 完全調査!魚目町名字ランキング
 小学生の社会科の時間の発表としては、それだけでも十分なものに思われた。
 僕とハラ君が毎日役場に通っていることは、先生にも言ってあるので、既にネタはばれている。

 僕らの発表の順番が来る。
 黒板に模造紙を張り出す。
 「それでは、魚目町の名字ランキングを発表します」

 (一同)
 お~っ

 でも、それだけだろう。
 驚きはあるけれど、感動まではいかない。
 僕はあと一ひねりして、皆の感動する顔が見たかった。

 発表は明日である。
 もう日はとっくに暮れている。
 それでも僕にはまだ秘策があった。

 僕は、父の許可を得たうえで、高校の社会科教諭 タハラ先生の自宅に向かって、自転車を出した。
 長崎県の教諭は新任の頃、必ず一度は離島勤務を経験しなければならない。
 教頭以上の役職に就くときは、さらにもう一度。
 合わせて二度の離島勤務をすることになる。
 女性教諭の中には離島に行くのをいやがり、となりの佐賀県の教諭になる人もいる。
 彼は、新卒で上五島高校にやってきた。

 タハラ先生は時々、僕のキャッチボールの相手をしてくれた。
 納屋のような一軒家に住んでいて、ふらっと訪ねると、気さくに話し相手にもなってくれた。
 木訥な性格に温厚な人柄で、話もおもしろい。
 現在は出世して、長崎県有数の進学校で校長をしている。
 長崎県教委は人を見る目があるようだ。

 模造紙を広げて、僕は切り出す。
 名字ランキングを調べたんですけど、なにかこう今ひとつもの足りなくて・・

 すると、タハラ先生はいつにも増して、優しい顔つきになり、
 君はすごいな。さすが**先生の子供だと言って 抱きしめて 褒めてくれた。 君は将来、大物になるよと言われ、いや僕もそう思うんですと心の中で同意したのだが、彼に人を見る目はなかったようだ。

 彼は特に姓名の専門家というわけではないが、地理を専攻していることもあり、初任地についてもそこそこの知識を持っていた。

 ハラという姓が多いのは、きっとかつての藤原という大名から、ひと文字をいただくという形で名字を付けたんだと思う。
 明治に入って名字を名乗ることが許された時、人々はその土地の君主・・もちろん尊敬している君主だけどね。その名字からひと文字をもらうということがよくあったんだ。

 彼は名字だけでなく、地名についても話してくれた。
 新魚目町は似首、丸尾、榎津、浦桑の4つの郷に分かれている。
 なかでも、似首(にたくび)は珍しい地名だ。
 僕は引っ越して来た時から、この地名が苦手だった。
 なんだか得体の知れない気味悪さを感じたのである。
 4つの郷はいずれも海に面しているが、似首は特に海に向かう急な傾斜のうえに町があり、町はずれにはとなり町を隔てる切り立った崖があった。
 僕の予感は当たっていた。

 似首だけどね、昔似首の崖の上には刑務所があったと言われているんだ。そこから処刑された・・
 今も住んでいる人がいる町なので、ここでやめておきます。

 そこは遠慮のない小学生。
 そんな露骨な地名の由来も含めて、僕は熱弁する。
 僕の発表に聞き入っていた五島の友達は、話し終えると一斉に スタン 拍手を送ってくれた。

 一人だけぽっちゃりしていて、夏はひとり色白。
 佐世保に帰ると言って、ペーロンにも出ない。
 ソフトボールでは張り切りすぎて浮き上がる。
 そして、いずれは父の「島流し」(長崎の教諭たちは離島勤務をこう揶揄する)が終われば、本土へ帰っていく友達。

 そんな「よそ者」の僕が4年間で、最も皆から受け入れられた瞬間だった。

次回、この話の最終回



|

2009年7月29日 (水)

中1で筋トレをした結果

 女子たちは「ひ弱な坊や」と僕を馬鹿にした。
 そこで僕は「冒険王」に広告が出ていた日焼けマシーンではなく、ブルワーカーを買うことにした。
 お盆に下関の親戚に行った時、それまではひ弱だった兄弟が揃って、精悍な体つきに変わっていたからだ。
 なぜか、母も話しに乗ってきた。
 ママさんテニス大会で全国優勝するために、上腕を鍛えようと思ったのだろうか。

 五島に帰ると、真新しいブルワーカーが届いていた。
 それまで、雑誌の広告で買ったものといえば、
 ミルマスカラスのミニマスク、ガイコツバンク、オバケ面・・(個々の説明は割愛)
 いずれも期待はずれに終わっていた。

 だが、こいつだけは違った。
 広背筋(脇の下の筋肉)を鍛えて、ポーズを決めるとボディビルダーのような逆三角形になる。
 ただ、当てもなく筋肉のついた造形美に憧れる時期がある。
 それが、たまたま中学1年の夏だった。

 そして、背が止まった。

 結論と実体験から言う。
 背が伸びているうちは、どうしても背を停めて低い目線で世の中を見たい人でない限り、筋トレをしてはいけない。
 そう言うと誰もが、そんなこと常識だよという顔をするが、誰一人として事前に教えてはくれない。

 ダイエットに精を出していた「みっちょか」時代は過ぎ、中学に上がると、体が引き締まってきた。
 それと同時に、背が伸び悩む連中は僕に対してちょっかいを出さなくなった。
 「かっこつく、おとこんきーた」事件の後、屋上に僕を呼び出してリンチにした二人連れは、僕との身長差が10cmになる頃には、ネコのように喉をごろごろ鳴らして
「motoく~ん」とすり寄ってきた。
 僕はもういじめに遭うこともないと安堵すると同時に、世の中はちょっとしたことで状況が変わるのだという発見をして嬉しかった。

 僕が住んでいた頃、その町では「原」という名字が一番多かった。
 なぜ、断言できるかと言うと、町役場に1週間通い、全世帯の名字を調べたのである。
 オトナになってから、住民票の閲覧にはお金がかかることを知り、その後は、個人情報保護という小難しい時代になった。

 それが「社会科の発表で、どの名字が一番多いかを調べたいんです。先生の許可も得てきました」とやってきた一見の小学生に台帳を見せてくれたのである。
 なんと、すてきな町だったのだろう。
 公務員はこうでなくてはいけない。

 調査仲間の名字もハラ君。
 なにせ、クラスはハラだらけ。
 学校帰りに役場に上がり込み、事務机を占領する。
 世帯数などというコトバは知らなかったが、人口1万人弱の町なので 3,000弱の世帯はあったのだろう。
 台帳を見ながら「正」の字を書いていく。

「よ~がんばったなぁ」
「最後までつづくとはおもわんかったバイ」

 調査最終日には、名残惜しんだ役場の人が くす玉を割って
ファンタオレンジで慰労してくれた。
 僕はやり遂げた達成感と、オトナの皆さんの暖かさに、思わず目が潤んだが、男は人前で泣くものではないと頑なに信じていたので、こらえた。

 明日は発表の日。
 できあがったランキング表の1番上は「原 55軒」
 模造紙に書き込んだ成果物をみて、僕は物足りなさを感じていた。

7/31につづく



|

2009年7月28日 (火)

みそ汁に入れると美味いということは?

 まぁそげん、おちこまんと。
 文字にすると微妙な励ましをしてくれたトモコの家は魚屋だった。
 ほとんどの家が漁業に従事しているが、魚は魚屋または、となりまちのスーパーで買うのである。
 イルカを大量と殺した日、その肉を切り分けてバケツいっぱいに入れて配給するのも、トモコの店の仕事である。

 トモコの魚屋は学校帰りにあり、僕はそこを通るのが楽しみだった。
 お店の脇にコンクリートでつくった生け簀があったからだ。
 そこにはいつも、売り物の魚が包丁でさばかれる順番を待っていた。

 はこふぐ(五島ではかっとっぽ)は、おかしな形をしたフグで、気持ち悪かったが、味噌汁にすると美味いと大人は言っていた。
 赤い体をしているのはアラカブ。
 子供はたいてい煮魚が嫌いである。
 唐揚げやカツ、天ぷらといった揚げ物の香りがすると、生きていてよかったと思うが、煮付けた醤油の臭いが台所から漂ってくると、ウチは貧乏なのだろうかと憂鬱な気持ちになった。
 アラカブも煮付けや味噌汁に入れると美味いと、やはり大人が言っていた。

 だいたい「味噌汁に入れると美味い」というのはどういうことだ?
 そのままじゃ、とても食えないということではないのか。
 大人がそんな決まり文句を言う度に、僕はそんな味噌汁は食わなくていいと、心で毒づいていた。

 ある日、トモコの生け簀に伊勢エビがいた。
 十数年来、穴が開くほど図鑑で見続けたアイドル。
 その本人が、目の前にいる。
 僕は興奮した。
 雨上がりの初夏の午後、魚たちも疲れているのか、誰もが動きを止めていた。
 伊勢エビも生け簀の右端の日影に陣取って動かない。
 五分ほど、見続けていた時、僕は思った。
 伊勢エビって、どんなふうに泳ぐんだろう?

 少しは動くかも知れないと、体を左右に動かしてプレッシャーをかけてみたが、カレも恐竜のようにでかい僕が怖いのだろう。図鑑に写っていた通りの直立の姿勢を保って動く気配がない。

 仕方がない・・
 お店の中をのぞきこんだ。
 幸い、トモコの両親は店を開けて、居間に引っ込んでいる様子。
 チャンスだ。

 傘だ。
 おもむろに持っていた傘を生け簀にツッコミ、伊勢エビに振りかざした。
 すると、伊勢エビはそれまでの鈍重なイメージを覆し、生け簀の左端に瞬間移動した。
 伊勢と名前がつくから、不思議な神通力でも持っているのかと思うほど速かった。
 「はやっ」
 今ならばそう言っただろうが、その時は畏敬の念と心を込めて「はやい」と声に出して賛辞を送った。
 それは、ジャイアント馬場がジャック・ブリスコを押さえ込んでNWAを奪取した瞬間
 「馬場、世界一!」
 とテレビに向かって叫び、母から「わざとらしい」
と言われた時に似ていた。

 世界中の悲劇を背負った気分の一週間が過ぎ、僕の顔は元に戻った。
 「アワビに当たってから、余計、顔がゆがんじゃったよ」
 という新ネタを得て、僕の生活も元に戻った。

 だが、一つだけ違っていたことがあった。
 あれだけ大好きだったエビが、食べられなくなっていた。

 エビ・カニを食べるとじんましんが出る。アワビやサザエ、貝類は怖くて食べる気になれない。
 でもカキフライは今も好きで、かっぱえびせんとナゴヤの「ゆかり」は食べられる。
 魚は今や肉より大好き・・・
 一杯のアワビが、どうしてこんなご都合主義の魚介類アレルギーを引き起こすのか、その謎は依然として解明されていない。

つづく



|

2009年7月27日 (月)

まぁそげん、おちこまんと

 お弁当生活は、給食よりもマシという程度だった。
 前の学校では、月間献立表でカレーシチューやカレーうどんを指折り待った。だが、毎日の給食はそれほど楽しみではなかった。
 弁当になっても、状況は変わらない。
 専業主婦の母は、子どもの栄養価を考えて、おひたし、煮物、野菜をたくさん入れてくれた。
 だが、親の心子知らず。
 僕は卵焼き、ウィンナーソーセージがそのまんま、どーんと入った弁当が食べたかった。

 田舎には雑貨屋がある。
 田舎には雑貨屋しかない。
 スーパーは隣り町の青方まで行かなければない。
 食品、雑貨、お菓子・・いわゆるコンビニの昔版。それが雑貨屋。

 雑貨屋にはいつも、近所のおばちゃんがたむろしていた。
 漁師の母ちゃんは豪快だ。
 「今日はお前んとこは、なんか?うなぎ?また、なんばすっとか?」
 「おばば、おいに、ちんぽばくれれ がはは」
 *おばさん、私にこの赤いウィンナーソーセージを売ってちょうだい ほほほ

 僕はいたたまれず、仮面ライダースナックを買うのを諦めて、店を出た。
 ちんぽばくれれと言ったのは、空手を習っているジャイアンの母ちゃん。
 ジャイアンの弁当は、クラスでただ一人ランチジャー。
 お昼になると、教室に棟梁が迷い込んだようで、格段に浮いていた。

ミッキーの弁当箱
イルカを食べたことがある

 五島列島は、当然だが、四方を海に囲まれている。
 しごく当然だが、海の幸が豊富である。
 なにせ、ひざまで海に浸かればウニが食べられるくらいだ。

 子供の頃から、一日何時間でも図鑑でえび・かにを眺めて暮らしていた僕にとっては、楽園の・・・
はずだった。

 父は高校で教諭をしていて、その生徒の大半は漁師の子供である。
 すると、近所のご父兄が
 「先生、キスん釣れたよ」
 「先生、サザエんとれたよ」
 などと言って、とれたての魚を持ってきてくれる。

 その日、父兄から持ち込まれたのはアワビだった。
 アワビはウニよりも深いところに住んでいるので、潜れない僕は獲ったことがない。
 ずいぶん後にそれは贅沢品であるということ、香港ではアワビでぼったくる業者の方がいることを知るのだが、初対面のアワビを見て、美味しそうだとは思えなかった。

 悲劇は翌朝に起きた。
 いつも通り、歯をみがき顔を洗って顔を上げた時だ。
 顔がエレファントマンになっていた。
 それは後に観た映画だが、記憶を総合すると、鏡の中にいたのはエレファントマンそのもの。
 あるいは田中角栄のようでもある。
 かつての総理大臣、田中角栄により「顔面神経痛」という病気が、世の中に周知されていた。

 「顔が田中角栄になったから、今日は休みます」
 というわけにもいかない。
 これは一時的なものであり、お昼には治っているかも知れない。
 そう思って登校したが、下校する頃になって、洗面所の鏡を恐る恐るのぞくと、やはりそこにはエレファント田中がいた。
 そのとき、13歳。
 左右非対称のこの顔で、僕はこれからずっと生きていくのか。
 人並みに恋をすることも、もう叶わないだろう。
 まだ、なに一つ楽しいこともしていないっていうのに・・
 僕の心は、深い海底に沈んだ。

 ただ、不思議に歪んだ顔をネタに、虐めてくるヤツはいなかった。
 女の子たちは、たいがい見て見ぬふりをしてくれた。
 「いやぁ、アワビ食べたら、腫れちゃって」
 自虐的に言う僕に、となりの席のトモコは、
 まぁそげん、おちこまんと。 
 じきになおるよ。
 と励ましてくれた。

つづく

|

2009年7月25日 (土)

かっこつーく、おっとこんき~たっ

 ソフトボール大会準優勝の翌日。
 本来ならば晴れがましい気分の朝になるはずだが、校門をくぐる足は鉛のように重かった。
 昨日の僕の張り切り過ぎが、どんな虐めを呼ぶのか。
 あるいはそれは杞憂に過ぎず、いつもと同じ月曜日が始まるのか。
 その結果は、教室に入った途端に出た。

 僕が席に着くが早いか、スタンバイしていた連中がお囃子に合わせて近づいてくる。
 「かっこつーく、おっとこんき~たっ」
 *格好ばかりつける男が、やって来た

 「かっこつーく、おっとこんき~たっ」
 事前に練習したのだろうか。
 学芸会並に、手拍子と足並みが揃っている。
 誰かに洗脳されたかのようだ。気味が悪くて、朝食べたアゴがのど元まで上がってきた。
 歌詞を考えたのは、いじめのシナリオを書かせたら右に出る者がいないキダであろう。
 あまりに、統制がとれたお囃子だったため、何十年経った今でも、鮮明に思い出せる。

 浦桑のチームメイトは助けてくれなかった。
 浦桑の捕手を務めたジャイアンは、キダの求めに応じて
 「ちょうし、のんな」
 と机を蹴りに来た。空手を習っているジャイアンの蹴りで机がひっくり返りそうになるのを、慌てて僕が支えた。
 ジャイアンは、どうだ。俺はやったぞと狂気の表情をつくっている。
 彼の空手をもってすれば、クラスじゅうの男子を倒せる。何も畏れるものはないはずだが、如何せん気は小さいのである。

 だが、ジャイアンを責める気など毛頭無い。元々助けなど求めちゃいない。
 妙な助け船を出されれば、話に筋が立ってしまい、長期化の畏れが出てくる。
 単純な「気に入らない」というレベルの子どものいじめだ。
 時が過ぎれば、やがて嵐のように去っていく。

 今はじっとして、時をやり過ごせばいいのさ。
 目一杯悲しげで、なおかつ、調子に乗りすぎたことを心から悔いているという顔を作りながら、僕は心の中で、そうつぶやいていた。

 こういう時、女の子たちは、虐めに加担しない。
 五島では、男と女の間には厳格な一線があった。
 男が女を虐めるということも、ほとんどない。
 女はただ、男どもの姿を見守っているだけだった。

 これは、一週間はつづくな・・
 そう諦めていた日の放課後、下駄箱に待っていた男がいた。
 シナリオライターのキダである。
 きょろきょろとあたりを見回し、周りに誰もいないことを確認すると
 「気にすんな」
 と一言だけ言って走り去った。

 アメとムチで僕を統制にかかっているのである。
 おいおい、おまえが首謀者だろう・・・
 少しはそうツッコンだが、そうは言っても地獄で仏。
 一日中、クラスじゅうの合唱を聞いてすさんだ気持ちには、そんな戦略的な優しさでも嬉しかった。

 山口に住んでいた時までは、一点の曇りもない少年時代だったが、五島での4年間は大しけの海に放り出されたようだった。

 いくつもの挫折があった。
 その一つがダイエットだ。
 ダイエットに挫折したのではなく、ダイエットに追い込まれたと言うことだ。
 小5で、生まれて初めてのダイエット。
 当時、ダイエットという言葉は無かったので、日記に記されているコトバは「減量」である。

 「足のみっちょかとよなぁ」
 男子だけでなく女子までが、そう言って僕をからかった。
 "みっちょか"には、可愛いという意味もあるのだが、要は足が太くてぱんぱんであると言いたいらしい。

 なにせ、五島の子どもは細い。
 毎日、魚ばかり食べているからだ。 \^^)オイオイ
 かくいう自分も、毎日肉ばかり食べてきたわけではない。むしろ、その逆で山口の盆地に住んでいたのに魚ばかり食べていた。
 魚の方が肉より安かったからだ。
 時代は変わり、今となっては、魚の方が高級品だが、当時は逆だった。

 ところが、五島に来てから食卓に肉が並ぶ日が増えた。
 公務員の父には"離島手当"がつくようになり、手取りが増えたのだ。

 
 豪華になったおかずをみすみす残すことはできない。
 僕のダイエットの矛先は「ごはん」に向かった。
 それまでは、1日1膳。おかずが好きなものの日は2膳。
 それを茶碗半分に減らした。

 転校して一ヶ月が過ぎた5月の身体検査。
 僕の体重は、前月比 -1.3kg を記録。
 なぜか、身体検査の結果表をみながら講評をする担任のフクダは、
 「moto~ 今日から茶碗 2杯食え~」
 とやって、クラスじゅうが爆笑した。
 僕は心の中でガッツポーズをとりながら、にこにこしていた。

|

2009年7月24日 (金)

ずっぴ争いを制したのは浦桑

 ソフトボール大会が始まった。
 優勝候補は丸尾。対抗が似首。榎津そして我らが浦桑は、最下位争い。誰もがそう見ていた。
 抽選で決まった1回戦の組み合わせは
 丸尾ー似首
 榎津ー浦桑
 なにせ、当時は「シード」などという上等な考え方がない。
 いきなり1回戦で優勝候補同士が当たってしまった。

 第1試合の丸尾ー似首は激戦の末、丸尾が勝ち決勝に駒を進めた。
 つづく第二試合、ずっぴ*1 争いの榎津-浦桑は1点のビハインドで、最終回5回裏、浦桑の攻撃を迎えた。1点差といえども我ら浦桑の貧打は致命的で、5番の僕から始まり下位打線に回る攻撃では敗色が濃厚だった。

 僕は球技になると、つい本気を出してしまう。
 というより、本気を出しすぎてしまう。
 「へいへい、ピッチャーはいらんで」
 一球ごとに相手を野次る。
 「しまってこー」 「ないすせん」
 味方には大声で声をかける。
 打席に入れば、バントの構えで投手を揺さぶる。
 「しょんなかねぇ。ストライク入れろさ」 そんな顔をして。
 そして、ほんとにセーフティバントもする。
 塁に出れば必ず3塁まで盗塁する。
 テレビで見たことがあるプロの行いは、すべてやらないと気が済まない。

 僕のバントの構えに制球を乱した相手投手は、最終回という緊張も手伝い、いきなりの3連続四球。
 無死満塁となった。
 ここで、元社会人ソフト選手のヒラタが取る作戦は、100人中100人に見え見えの2連続スクイズである。

 8番打者への第一球、サインはスクイズ。好スタートを切った僕は難なくホームインして、まず同点。
 つづく、9番打者のところで、代走に足の速いアイツが起用された。
 つづくサインは、またも初球スクイズ。

 3塁ランナーのアイツがスタートを切った。
 僕らはボールを追っていたが、後で写真を見ると、投手が投げる前に3塁のアイツは、もうスタートしていた。
 ソフトボールでは、これは「離塁アウト」といって、ランナーアウトである。
 だが、五島には離塁アウトというコトバはまだ輸入されていなかったらしい。
 3塁塁審の役場のナカグチさんのお咎めなし。
 慌てた一塁手がバント処理をお手玉。ボールはホームに返ってこなかった。口をあんぐり開けて立ちつくす捕手のヨコを、アイツが滑ることもなく、ホームを駆け抜け浦桑がサヨナラ勝ち。決勝に進んだ。

 絵に描いたような劇的な勝利。
 ゲームセットの整列が終わると、僕らは手を取り合って喜んだ。3位決定戦の間の昼食タイム。両親と弁当を囲みながら、試合を何度も振り返り、勝利の余韻に浸った。
 だが、その喜びは決勝が始まるや、恐怖に変わる。

 まともに守れる選手が他にいないため、僕は左利きなのにショートを守っていた。
 そのショートから真正面に丸尾の応援席が見える。
 3位決定戦、似首に大差で敗れた榎津の面々が、丸尾の応援席に陣取っていた。

 キダはいつも、陰湿ないじめの中心にいる男だ。
 日頃は人がよさそうにニコニコ笑っているのだが、一旦いじめモードに入ると、かなりえげつないことを平気でやる。
 そのキダが番長格のフジタの横に陣取り、こちらを指さしながら、なにやらご注進に及んでいる。

 オレは調子に乗りすぎた・・
 丸尾ベンチを包む不穏なムードでわかる。榎津敗戦の因をつくった張本人として、怒りが僕に集約されていることは明らかだった。
 もうそうなると、試合どころではない。
 もしこれで、丸尾を破って優勝しようものならば、どんな作戦が決行されるか、考えただけで怖い。
 僕はひたすら地味なプレーに徹し、存在を消そうと必死になった。
 試合が9-7で丸尾の勝利に終わった時、心からほっとした。
 そして、嵐は次の朝やってきた。

つづく

*1 ずっぴ=どべ=最下位

|

2009年7月21日 (火)

ペーロン除隊の理由

 僕の岩場は、海の幸の宝庫でもあった。
 僕にはムリだが、素潜りすれば、すぐそこにアワビが見えていた。
 そして、膝上まで足をつける浅いところにはウニがいた。
 ウニを獲って、その場で割る。
 黄色いところだけを指でより分けて、口に運ぶ。
 生まれて初めて食べるウニ。
 塩水を吸ったウニは水っぽく、すするように飲めた。

 夏には、学校から帰ると、ランドセルを置くやいなや、マイナスのドライバーを一本持って、岩場へ行く。
 ウニは僕のおやつ代わりとなった。

 後に瓶詰めのウニを食べた時は、固くてとても美味しいとは思えなかった。
 今も回転寿司に行けばウニは外せないが、あの日、五島で食べたウニのようなみずみずしさは望むべくもない。

 ペーロンは長崎県に伝わる伝統行事。
 手こぎの舟に、太鼓を叩く係りが1人、あとはこぎ手が乗り、速さを競う。
 新魚目町では、毎年お盆にペーロン大会があり、町内対抗戦をおこなう。
 女子は乗っていなかったと思うが、男子は全員参加だ。

 舟がこげる海だから、当然深い。
 足が届くようなところはない。
 こぎ手はライフベストなど着たりしないので、泳げない僕には生命の危険が伴う。

 五島の子供達にしても、生まれながらに泳ぎが達者なわけではない。
 「ペーロンで海に落とされて、そいでだいでん泳げるようになっとばい」
 (ペーロンの練習で海に落とされて、それで誰でも泳げるようになるんだよ)

 これが、僕にペーロンに乗るように勧めるトークだった。
 そんな、危ない話を聞いて、誰が乗るかっての。も乗らないだろう。

 幸い、本土(五島の人は本州・九州などをこう呼ぶ)から来たウチの家族は、お盆には墓参りで佐世保に帰るという行事があった。

 どげんしても、お盆は佐世保にいかないかんたい。
 結局、五島にいた4年間、これを口実に、ペーロンを除隊してもらった。
 だが、それが僕に対して風当たりが強くなる一因でもあった。

 僕への反感が決定的となる出来事は、五島に来て2年目の9月30日に起きた。
 「少年ソフト大会」
 新魚目町は、浦桑・榎津・丸尾・似首の4つの地域から成る。
 それぞれの地域の小学生選抜チームによる、地域対抗ソフトボール大会だ。

 大人達がお金を出し合ったのだろう、僕らは皆、お揃いのユニフォームに身を包んだ。今でこそ、子どもが野球のユニフォームを着ていても珍しくないが、当時は、ユニフォームを着るのは、プロ野球と甲子園の選手だけだと思っていた。
 ただし、ユニフォームは9枚に限られていて、レギュラー以外の選手は、魚目小学校の体操服を着て出場する。
 ストッキングはお揃いだが、アンダーシャツはなく、靴と帽子は自由。
 誰もが無地の白いキャップをかぶっているのに、僕だけは「H」のワッペンがついた帽子をかぶり、明らかに浮いている。
 なぜ「H」だったのかは、よくわからない。
 恐らく、姉が山口の時に通っていた「豊田東中」の帽子で、それで「H」なのだろう。

 夏休みが明けると、代表選手が招集されて、一ヶ月にわたる練習が始まった。
 僕は浦桑の選手に選ばれた。

 ペーロンは出らんとに、ソフトはずっとや
 (ペーロンは出ないのに、ソフトボールには出るんだな)
 そんな皮肉を言うものは、浦桑にはいなかった。
 僕は、浦桑で2番めにソフトボールが上手かったからだ。

 浦桑の指導者は、魚目小の体育教師ヒラタだった。
 カレは社会人ソフトボールの選手だったらしい。
 全校朝礼で、着任挨拶に立ったヒラタはこう切り出した。

 皆さん、僕の顔を知っていますか?
 わからないかな。
 野球帽をかぶったら、わかるかな。

 田舎の子どもたちは、色めき立った。
 まさか、プロ野球の選手?いや、そんなわけはない。だとしたら、甲子園のスターか。 後で、社会人ソフトボールと聞き

 そんなもん、わかるか!
 田舎をなめるな!
 と思ったが、周囲の子供達は、そういうことはあまり気にしないようだった。

7/24につづく



|

2009年7月20日 (月)

フグと泳ぐ海

 五島の家は、たいがいの家が狭かった。
 玄関の土間から見える畳の部屋には、布団が敷かれているのが見えた。
 布団はもっこりと盛り上がっている。
 そこにハラが寝ているのだろうが、布団をかぶっていて、顔は見えなかった。

 この度は本当に申し訳ありません。
 寄りによって、石を投げるなんて・・
 ハラ君のお具合はどうですか?

 いや、あんまりよくないみたいで、帰ってからはずっと寝てますよ。
 もう、ほんとに、気をつけていただかないと

 山口弁の母と、五島弁のハラの母が標準語で、すべった会話をしている時、ハラの弟が肩越しに、目ざとくケーキの箱を見つけた。
 すると、弟は兄の病床にスライディングして駆け込んでいった。
 
「兄ちゃん、ケーキ!ケーキ!」
 兄が少し動いたように見えたのは、きっと僕の気のせいだろう。

 ハラはそれ以降、僕を畏れるようになった。
 たまに、僕を怒らせるようなことを言った時は、
 あ、頼むから石だけはやめてよ
 と付け加えるので、僕は複雑な気持ちになった。

 五島の夏、唯一の娯楽は海で泳ぐことだ。
 海水浴などという優雅なものではない。
 自宅から海パンで駆けだして、ガードレールのない道路から海に飛び込む。
 その海には、食べられないフグが大量に泳いでいて、フグと海を共有するのである。
 飛び込めるくらいだから、いきなり深い。
 足が届かない。

 そして、僕は泳げなかった。
 遠浅の砂浜ならば、1m限定の平泳ぎでお茶を濁せるのだが、足の届かない海に入ったら命が危ない。
 山口にいた時、泳ぎが達者だった友達が海で死んだ。
 足に藻が絡んで溺れたのだと聞いた。
 だから、余計に海は怖かった。

 夏休みにはいると、友達がいなくなった。
 全員が泳いでいるからである。
 泳ぎに行かないのは、僕ひとり。
 すると、初めての登校日が悲惨だった。

 クラスじゅうの生徒が黒いのである。
 そこに、ただ一人、美白の少年がいる。
 女子も例外なく、黒かった。
 黒い女子に珍しそうな眼差しで見つめられて、僕はいたたまれなくなった。

 それからというもの、僕のくろんぼ作戦が始まる。
 浦桑のみんなが泳いでいるフグの海に行けない僕は、町外れの海にある岩場に通うことにした。
 そこで、海パン一枚になると、岩の上で寝るのである。
 10分も寝れば、すぐに真っ赤になるので、体を冷やす必要がある。
 潮水の中で目は開けられないので、水中メガネをつけ、岩につかまって海にはいる。

 岩場はまるで別世界だった。
 青や黄色の魚、そして僕が大好きなエビが目の前に現れた。
 食べたい・・
 そう思った僕は、蚊を叩くように両手で捕らえようとしたが、エビは難なく足びれで上にシフトして、僕の手をかいくぐった。
 滅多に食卓に乗らない高級品を、この手でゲットできるチャンスを逸した僕は、うちひしがれながらも、夕暮れ迫るまで、甲羅干しと、水遊びを繰り返すした。

 しかし、問題はペーロンだった。

つづく

|

2009年7月18日 (土)

場違いなケーキ

 僕の石のつぶて攻撃を受け、ハラはその場に崩れ落ちた。
 いじめの相棒、ユカワが叫ぶ。
 「わぁ、先生に言いつくっぞ!」
 おいおい、そっちかよ。
 友達を心配しろって

 一瞬、死んだか・・ とは思わなかった。
 ハラが、オーバーなやつだと知っていたからだ。

 そういえば昔は、冬に着る防寒着をオーバーと言ったが、最近めっきり聞かなくなった。
 と思っていたら、今年の春先、デニーズでおばさん二人が話していた。

「先週の金曜、寒かったよね~」
「私なんか、オーバー出しちゃったわよ」

おーばぁ?
僕は、飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
ただ、言いたかっただけだが・・

 だいたい、ハラの倒れ方が不自然だ。
 意識が飛ぶような激痛ならば、受け身もとれず、地面に頭を打ち付けそうなものだが、しっかり手を着いて、その手を枕にしていた。

 ハラは同じ浦桑に住んでいるので、ソフトボール大会では同じチーム。
 とても口は達者だが、運動のセンスがまるでない。
 それでも足だけは速いので、出番はいつも代走。
 だが、タッチアップとかいう難しいルールは、記憶領域に入りきらないようで、犠牲フライを外野手が捕球した時には、もう半分くらい走っていて、僕らをがっかりさせた。

 彼が倒れたというか、僕が倒した現場は、浦桑の町の入り口。
 計ったかのように、そこから20m先に、新魚目町ただ一軒きりの町医者があった。
 大丈夫か?
 と大丈夫なわけがないハラを立たせて、病院に連れて行った。
 ハラの後頭部には、ぱっくりと傷口が開き、それは、ウニの底みたいだった。

 「それかね、そりゃ、すぐ謝り 行かんと、いけんね」
 ハラに怪我をさせたことを、涙ながらに報告すると、下関生まれの母は、山口弁でそう言うが早いか、財布をにぎって僕を引き立てた。
 ここで、一緒に謝りに行くという発想が、迷わず出てくる親はたいしたものだ。
 人は誰でも、できれば、面倒な現場には立ちたくない。
 こういうのが、キモが座っているというのだろう。

 手ぶらというわけにもいかないので、お見舞いを買おうと雑貨屋に立ち寄った。
 しかし、そこは田舎の雑貨屋である。
 今時のコンビニに常備されているような、菓子折セットは置いてない。
 ウィンナーソーセージでも買っていけば、ハラは喜ぶだろうなと思ったが、反省していないと思われるので、口に出すのはよした。

 店内を物色していると、明らかに場違いな一品があった。
 クリスマスケーキだ。
 12月に入って間もないその日。クリスマスケーキの予約をとるための見本として、白いバタークリームで塗り固められたケーキが1つ、ショウケースに鎮座していた。

 今思えばフシギだ。
 なぜ、見本が実物だったのだろう。
 日持ちがしないから、クリスマスまでに何度も見本を取り替えなければならないだろうに。

 「これ、売ってくれる?」
 母は店のおばちゃんに尋ねる。
 僕も、これならば、怪我を負ったハラも機嫌が直るだろうと思った。
 これは、今日入ったばかりの見本だから、売り物じゃないんだけどと言いつつ、お見舞いでどうしても欲しいという母の粘りに折れて、包んでくれた。

 雑貨屋からハラの家までは徒歩5分。
 年頃の僕は母と並んで歩くのが少しだけ、恥ずかしくて、ちょっと距離を置いて歩いた。
 「ごめんください」
 母が開いていた玄関の土間から、ハラの家をのぞきこむと、
 「きたきたきた・・」
 というひそひそ声と、慌ててどこかへ駆け込むような足音が聞こえた。
 声の主はハラの弟だ。

7/20へつづく

|

2009年7月17日 (金)

五島のいじめ

 山口ではいじめっ子だった僕にとって、五島の暮らしは楽ではなかった。
 僕はいじめっ子と言っても、ただ一人で女の子にいたずらを仕掛ける。
 まさか、これくらいでと思うようなことで、女の子は泣く。
 それを、取り巻きが職員室に通報する。
 放課後の「反省会」で僕が糾弾される。
 「もう、しません」
 僕がそう言って、一日が終わる。
 その繰り返し。
 それでも、フシギと女の子から避けられたという記憶はない。

 ところが、五島の子供達は気性が荒い。
 山口の盆地でほたるを眺めて育った子どもと、父親がイルカに銛を突き立てるのを眺めて育った子どもの間には、大きな差があった。

 些細なことですぐ、諍いが起きる。
 冗談が通じない。
 しかも、徒党を組む。
 いじめ方が陰湿なのは都会っ子と相場が決まっていたが、五島の子どもも負けてはいない。

 その日は僕がいじめられる番だった。
 校門を出て家路につくと、後ろから五人組が着いてきた。
 「足んみっちょか~」=足が短い
 「ペーロンにのらんでずるかー」=説明割愛
 「かっこばっかつくんな」
 代わる代わるの罵詈雑言が背中を刺す。

 いったい、どういう順番で、台詞はどのように決まっているのか、聞いてみたい気がしたが、バカは相手にしないという主義なので、先を急いだ。
 僕の家は学校から2番目に遠かった。
 榎津で3人が隊列を離れ、後を託された2人が、引き続き、僕をなじり続ける。
 しかも、その2人は下級生のハラとユカワだ。
 2人はさすがに上級生相手では、気が引けたのか
 「ば~か」と言いながら、走って僕を追い越していった。

 僕はノーコンだった。
 キャッチボールは相手の胸を目がけて投げろ!
 そう何度言われても、ボールはとんでもないところへいく。
 狙った的には当たらないという、絶対の自信があったので、咄嗟に足下にあった石を拾って、2人を目がけて投げた。

 浦桑へ向かう長い下り坂
 石は糸を引くように水平に飛び、道が下っている分、ハラの後頭部のど真ん中を捕らえた。
 石が手を離れて、ハラを捕らえるまでわずか1秒。
 1秒といえば、セシウム133原子の基底状態の二つの超微細エネルギー準位の間の遷移に対応する放射の91億9263万1770周期の継続時間である。
 いや、ちょっと言いたかっただけだが・・

 ハラがその場に倒れて動かなくなった。

まだ、つづく

森永ジャンボ(五島で見たプロレスの話)

|

2009年7月15日 (水)

自転車運転免許試験会場にて

 「うんが昨日、自転車に乗っ取るとば、見たとぞ」

"うん"は五島弁で「おまえ」である。
 どうやら、自転車で公道を走ったことが、いけなかったらしい。
 その叱責の言葉は容赦が無く、黙っていたら軍法会議にでもかけられそうな勢いだ。

 魚目小学校の規則では、公道を自転車で走るには、免許証が必要なのである。
 転校してきたばかりなんだから、もうちょっと優しく言ってくれてもよさそうなものだが、なにせ、田舎だから事件がない。
 彼らだって生活に変化が欲しい。
 そこに、やってきた転校生が、校則破りの無免許運転とくれば、彼らが興奮して気色ばむのもわからないでもなかった。

 しばらく、自転車に乗れない日々を過ごした後、自転車免許試験の日がやってきた。
 放課後に受験者が、各々の自転車を持って校庭に集まる。
 今になって思えば、免許を持っていない校友のほとんどが、自転車持参だったのが変だ。

 試験管は学校の先生たち。お巡りさんが来るわけでもない。
 1年生から6年生までが、まったく同じ試験を受ける。
 ほとんどの生徒は、低学年の時に免許を取得済みで、同級の5年生は数えるほどだった。
 試験は実技4種目。筆記試験はない。

 最初の種目は、一本橋。
 一本橋といっても、石灰で 50cmほどの幅に引かれた2本の線。距離はおよそ10m。
 それをはみ出さないように、走り抜ける。
 自転車運転歴3年の僕に、これは朝飯前。
 試験管の採点は、1種目20点満点。
 手渡された採点表には「20」の数字が書き込まれた。

 続いてはクランク。
 これも問題なく、20点を獲得。

 3種目めは、8の字スラローム。
 8の字をなぞるように、1周するだけのことで、これもわけなく終わろうとしていた時だ。
 4年生の女の子 二人がコースを横切った。
 彼女たちは、試験なんてお構いなし。放課後の校庭を駆けて遊んでいたのだった。

 慌てて急ブレーキをかけて停車。
 女の子は、あっと一瞬ひるんだものの、すぐに黙って、駆けていった。
 ここまでパーフェクトだったのに・・
 人生はなにが起こるかわからない。それも仕方がないことだと、最後まで試技を終えて、採点表を受け取る。
 すると、そこに記載された点数は「20」
 「とっさの判断、止まり方がよかった」と、試験管に褒められた。

 止まり方がよかった・・って、ふつー止まるだろ
 と心の中でツッコンだが、いやぁ感激です、神様は見ているんですねという純真な笑顔をつくった。

 最後の種目、横断歩道のある交差点の試技も難なく20点。
 なにせ、信号機がない町なので、海に落ちさえしなければいいのである。

 翌朝、試験結果が職員室の前の廊下に貼り出された。
 6年生の女の子が一番右に書いてあり、僕はそのとなり。
 80点満点をマークしたのは、二人だった。

 自転車免許証は厚紙に輪転機で刷ったもの。それを、プラスチックのパスケースに入れてくれた。
 それを、こんなふうにして、webで発信できる時代がくるとは思わなかった。
 写真の1枚でも撮っておけばよかった。

7月17日につづく



|

2009年7月14日 (火)

魚目小学校

 僕はある時、魚目小学校の生徒だった。
 魚目中学校にも通っていた。

 ぎょもく小学校ではない。
 うおのめ小学校である。

 両親から転校先の町の名を聞かされて、子ども心にショックを受けた。
 魚の目と言えば、足にできるいぼではないのか。
 ラジオのコマーシャルで、ウオノメに効くという**コロリのCMが頻繁に流れていたこともあり、他では言わないことにしようと心に誓った。

 だが、過ぎてみれば、そんな風変わりな名前の町に住んでいたことすら、嬉しく思われる。今や秘密どころか、積極的に宣伝したいくらいだ。

 町名は「新魚目」だが、校名には「新」は付かない。
 魚目小の校舎は3階建て。
 体育館と呼ぶにはあまりに小さい講堂があった。
 花壇には季節の花、小屋にはうさぎ。
 でも、いきものがかりはいなかった。

 魚目小学校は新魚目町で唯一の小学校。
 1学年は2クラス、70人をちょっと超える生徒数。
 ここは漁師の町であり、大半が漁業に従事する住民。
 当然、級友も大半が漁師の子どもだった。

 初めて登校した日。
 僕は級友に取り囲まれた。
 いきなり、ぼこぼこにされたのではない(後にはされたが)
 皆が、もの珍しそうに寄ってきて質問攻めにするのだ。

 かねてから、お調子者の僕は、その期待に応えようと、手持ちのギャグをフル動員して皆を笑いに包んだ。
 小学校は榎津(えのきづ)という町にあり、誰かが
「ここはえのきづって言うとぞ」
 と言えば、きょろきょろと見回し、壁にかかった絵を指して
「でも、絵にきずはないね」
と返す。書きたくもないようなダジャレは、当時のアイドル堺正章譲りだった。

 初日の学校は半日で終わった。
 4時間めが終わった時、級友が弁当を広げ始めたからだ。
 前に住んでいた山口県の小学校は給食だった。
 だから、弁当を食べるのは遠足の日だけと決まっている。

 今になって思えば、事前に学校側に確認しておけば済むことだが、昼になれば給食センターから給食が来るということは、お日様が東から昇るのと同じくらいに、疑う余地がなかった。

 あ、弁当なんだ・・
 そう思うが早いか、僕は荷物をまとめて職員室に向かい、担任のフクダ先生に
「今日はこれで」
と言い残して、さっさと学校を後にした。
 学校を出て、しばらく歩いてから、家までの帰り道を知らないことに気づいたのだった。

 なんとか家に帰り着くと、僕はマイ自転車に乗り、近所を散策にでかけた。
 大きな道路は海辺に一本だけ通っていて、海べりだというのに、ガードレールもなかった。つまり、気をつけて走らないと、そのまま海に落ちるのである。
 道幅も狭く、路線バスと車が離合できないため「離合場所」が数カ所あった。
 バスが向こうからやってくるのが見えると、クルマは離合場所でバスが通り過ぎるのを待つのである。

 そして、迎えた登校2日め。
 歓迎ムードの初日とは一転、今度は不穏な空気が僕を包んでいた。
 窓際で息巻いていた連中の一人が、仲間を従えて僕の席へ来た。

「おまえ、昨日、自転車乗ったろ?」

 は?
 それがなにか?
 僕には、なにがなんだかわからなかった。

つづく



|

2009年7月10日 (金)

谷中を散歩

 谷中は日本人よりも、世界の日本ファンに有名な下町。

 雷門の浅草、寅さんの柴又は知っていても、谷中を知らない人は多い。

 かくいう自分も、ついこの間まで、知らなかった。

 どこか、散歩に行こうと思い、図書館で読んだ本でみつけた。

 「たになか かぁ・・ 今度、いってみよ」

 後日、友達から 「motoさん、やなかですよ」 と注意された。

 危うく、全国の読者に向かって 【 たになか 】 と書くところだった。

 谷中はJR山手線の駅「日暮里」が最寄り駅。

 新宿方面から来たならば、西日暮里でもよい。

 谷中は、日暮里駅の南西に広がる一帯。

 日暮里駅の南口を出ると、ちょっと注意が必要だ。

 改札を出てすぐ左側にある地図で、現在地と谷中一帯の位置関係を把握してから、歩き出す。

0907_anmitsu

喫茶店「あずま家」は、黒糖をつかった あんみつが美味しい。

左が「アイスクリームあんみつ」 右が「白玉あんみつ」

ちょうど、予約してきた団体客が、そろって「アイスクリームあんみつ」を食べていた。

丼物や、オムライスなどの食事もできる。運ばれていく、細めのオムライスが、いかにも昭和の風情で美味しそうだった。

あずま家を出ると、次は、夕焼けだんだん方面へ進む。

特に「夕焼けだんだん」方面はこちら!といった、標識は出ていない。

_01sbl_044

しばらく行くと、視界から急に道が消えている。

そこには、急な高低差をつなぐ、階段があった。

一見、なんの変哲もない階段。

_01sbl_046

ところが、だんだんを降りて、見上げてみると・・・

やっぱり、なんの変哲もなかった。

なにか、あるに違いないと、もう一度、登ってから、やり直す。

階段は36段。 特に段数にも、こだわりはなさそうだ。

_01sbl_045

その先は、谷中ぎんざの商店街

右手に、メンチカツが有名な「すずき」がある。

ちょうど、誰も並んでいない。

メンチカツだけがガラスケースの中になかった。一瞬、売り切れか?と戦慄が走ったが、揚げたてが奥にあった。

まさに、ハンバーグをそのままカツにしたようなもの。立ち食いも悪くないけれど、やはり、ごはんのおかずで食べたい。きっと、カレーに乗せたら美味しいだろう。

メンチカツを半分くらいかじったら、ボランティア観光案内だという方が、いつのまにかヨコにたっていた。

「いつもは、20人くらい、並んでるのよ~。ラッキーねぇ」

_01sbl_047

江戸千代紙の いせ辰

千代紙、扇子、ハンカチなどが並ぶ。

風呂敷(小) 50cm×50cm 525円を買い求めて、風呂敷デビューしてみることにした。

風呂敷は風呂の脱衣場に敷き、脱衣をくるんで持ち帰るのに使ったから、風呂敷と名が付いた。今時、風呂には敷かないが、エコバッグ代わりに、スーパーで使ってみたくなった。

後日、さっそくスーパーで使ってみたが、買い物には、少し小さかった。

_01sbl_049

|

2009年6月29日 (月)

岡山の日本初と、なくなったもの

 岡山はカラオケボックス発祥の地。

 かつて、出張で岡山県を訪れた。
 A社を視察に来た僕らは、見学を終えた後、A社のご厚意で岡山駅まで送ってもらう途中だった。

 A社の鈴木さんが、車を運転しながら、ガイドをしてくれる。
「あれが、瀬戸大橋ですよ」
 遠くに瀬戸大橋らしきものが見えた。だが、ガイドはそれきりだった。

 沿道の風景は、当時住んでいた福岡市と比べると、殺風景なのが否めない。
 あたりを見渡しながら、気の利いた話題を拾おうと思っていたその時、空き地に置かれた、いくつかの鉄道コンテナが見えた。
 使わなくなった廃コンテナのようだ。

 産業廃棄物の置き場所なのか?
 これじゃ、話題にならんなぁ・・
 そう思った時だ。
 よく見ると、そのコンテナの両脇にのぼりが立っていて、風にはためいている。

「カラオケ」

 カラオケ??
 あの歌うヤツか?
 しかし、どう見ても飲食店には見えないし。
 当時は「レンタル倉庫」というサービスも、まだ登場していない。
 よし、これをつっこもう。

 あれ、なんですか?

鈴木さん
「あぁ、最近できたんですけど、なんか、あの中で歌を歌うらしいんですよねぇ」

 え゛
 カラオケって、ふつー、お姉ちゃんがいる店で
「きゃぁ、上手ぅ~ 次、いとしのエリー歌ってぇ~」
とか、ちやほやされて、え?いとしのエリー?歌ったことないなぁ
と言いつつ、実は十八番なのを隠して
 初めて歌うんだよなぁとか、もったいつけて、歌が始まったら、歌詞カード見ないで歌う、あのカラオケですか?

 ・・・
 鈴木さん沈黙

 あんなところで歌う人が、いるんですか?
 どうですかねぇ、という鈴木さんと、この話題は1分で終わった。
 福岡に帰ってからも、誰かにこのことを話すと言うこともなかった。

 これが、世界にとどろく日本発、いや、岡山発のカラオケボックスの始まりだったのだ。
 写真、撮っておけばよかった・・

 世界中の人を、歌で幸せにした岡山はエライ!

 日本初の電子投票が行われたのも岡山。
 2002年 6月23日、新見市の市長、市議会議員選挙が、日本初の電子投票で行われた。

 電子投票と言っても、インターネットや携帯電話で投票するわけではない。
 投票者は投票所に行き、えんぴつで投票用紙に書く代わりに、タッチパネルを押す。

 データは、ネット経由ではなく、コンパクトフラッシュカードに記録されて、各投票所から開票所に搬送された。
 15,066票が、処理開始から25分で開票・発表された。
 また、電子投票は当日分のみで、不在者投票は従来の自書式だった。

 「チボリ公園」と「瀬戸内ラーメン」がなくなったのは、残念だった。

 倉敷チボリ公園は、リピーターの多いテーマパークだったが、経営不振のため、2009年元旦に閉園した。
 跡地利用方法は、アウトレットモールの建設など複数案が検討されている。

 八ちゃん瀬戸内ラーメンは、岡山県の横山製麺工場が販売していたカップ麺。
 麺は油で揚げていないフリーズドライ製法。
 DIME(小学館)1999年5月6日号に紹介された。
 2001年に生産終了。
 当時ウェブサイト宛に「生産再開を期待している」とメールを送ったところ、ご丁寧なお返事をいただいた。
 商品の復活を期待して、時々、ネットで検索していたが、2006年には会社そのものが廃業となった。

 この夏の旅では、中国自動車道の素通りになるが、大佐SA(上り)で、元祖きびだんごをおみやげに買うのが、今からの楽しみだ。

|

2009年6月22日 (月)

香川県に行って、さぬきうどんに玉子を落としたい

 香川県には、一度も足を踏み入れたことがない。だから、高速道路が安い間に、ぜひ足を踏み入れたい。

 香川と言えば、日本一面積が小さい県。
 日本一大きい北海道の44分の1である。

 面積が小さいことを配慮してか、瀬戸内海をはさむ岡山県との境界線は、かなり岡山寄りに引いてある。
 ベネッセの施設で有名な直島も含めて、大半の島が香川県に組み入れられているのである。

 直島は、瀬戸内海に浮かぶ27の群島。香川県香川郡直島町。
 島の南部 琴反地をベネッセ・コーポレーションが開発した。

 1989年、福武書店 後にベネッセコーポレーションが、直島文化村構想の一環として、国際キャンプ場をオープン。
 1992年、ベネッセハウスをオープン
 ベネッセは教材会員の子供達と、この地で定期的にキャンプを行っている。

 岡山県児島と香川県坂出市間には、本州四国連絡橋3本のうちの1本、瀬戸大橋がかかっている。
 大阪南港を新門司に向かって20時に出発するフェリーでは、まだ起きている時間帯にこの橋の下をくぐる。
 たくさんの人がデッキに出て、ライティングされた瀬戸大橋を見ながら涼をとる。
 瀬戸大橋は、上が自動車専用道路、下がJRの二階建て。
 鉄道が走る橋としては日本最長。世界では二番め。

 お遍路さんが行く「四国霊場八十八カ所巡り」の65~88番札所がある。
 八十八カ所巡りは、徳島県の一番札所 霊山寺をスタートし、高知県、愛媛県を経て、香川県さぬき市の88番札所 大窪寺がゴール。
 おへんろさんは、八十八カ所を巡礼する人を地元の人が呼ぶ愛称。

 「走る男」森脇健児が駆け上った 1368段の石段で有名な金刀比羅宮、通称こんぴらさんが仲多度郡琴平町にある。
 2008年10月には、第43回石段マラソンが行われている。
 今年の情報はまだ見付からないが、いつかは出てみたい大会である。

 福士加代子がアジア最高記録を出した「香川丸亀国際ハーフマラソン」は、うちわの産地として有名な香川県丸亀市で、2月に行われる。

 香川県を訪れる最大の楽しみは、さぬきうどん。
 製麺所が営む、人気の高い食堂がたくさんある。
 山越うどんが始めた、卵をうどんにからめる「釜卵」の人気が高い。
 ネット上には「うどんのカルボナーラ」と紹介されており、カルボナーラファンにとっては聞き捨てならない。
 玉子を落として食べると美味い「伊勢うどん」と、どう違うのか。
 できれば、山越うどんに行き、この舌で確かめたいところだが「高速道路1000円」を使って行くので、高速のサービスエリアで、玉子を落として食べることになりそうだ。

47全都道府県制覇!

|

2009年6月15日 (月)

豊田町のホタルまつり

 山口県の豊田町はホタルで有名な町である。
 かつての山口県豊浦郡豊田町。
 2005年に平成の大合併で下関市に編入されたので、今は下関市豊田町である。

 豊田町の北には豊田湖があり、そこから二級河川の木屋川~こやがわ~が、豊田町を通って、小月で瀬戸内海に注ぐ。
 その木屋川の河原に蛍が飛ぶ。

 1970年代、木屋川にかかる月照橋の近くではアンモナイトの化石が採れた。
 別に考古学者が掘削して、見つけるのではなく、小学生が 学校帰りにセミ取りに行く感覚で採れた。
 あまりに、ふつうに採れるので貴重な物だとは思わず、しばらくはせんべいのカンカンに入れておいたが、引越の時に捨てた。

 毎年6月には「ホタルまつり」が行われる。
 今は「豊田の蛍祭り」という名前になっている。
 2009年は 6月6日と13日、二週に渡って行われた。
 今回が42回めなので、第1回は1968年ということになる。

 ホタル祭りが近づくと、西市小学校では、高学年を中心にして「ホタル少年団」が結成された。
 入ったことがないので詳細は知らないが、河原の清掃など をしているようだった。今でいうならばボーイスカウトというところか。

 ホタル祭りは夜なので、この日だけは年に一度だけ、夜遅くまで外出が許された。
 会場は、スーパーマルイチの隣の広場に設えた特設ステージ。
 ホタルがステージに飛んできて、挨拶でもすればいいのだが、そうもいかない。

 名前も聞いたことがないような歌手が歌い、選挙の時にポスターで見たことがある衆議院議員が挨拶をした。
 子どもの頃から政治に興味があったというわけではないが、名前を知っている有名人を生で見ることは嬉しかった。

 このところ、週末になると、民主党の鳩山代表が、あちこちの駅で手を振っているが、とても国の将来を考えているとは思えない男子高校生が「お、はとやま!はとやま!」と舞い上がっているのを見ると、昔の自分を見るようで恥ずかしい。

 「ホタル祭り」は、特にビンゴ大会があるわけでもなく、子どもにとって、さほど楽しめる内容とは言えなかったが、宵闇のなか、屋台でラムネを買うだけで、十分にわくわくした。

 ステージが終わり、家路につくと街灯もない田舎道を一人で歩く。
 ある時、すぐ後ろをひたひたとおじさんが着いてきて、誘拐されると思い、泣きじゃくりながら帰宅したら、隣のおじさんだった。

 ネットで情報を探すと、今は「ホタル舟」なるものが出ているようだ。
 観光資源として、5年前に「豊田ホタルの里ミュージアム」もできている。

 そのすぐそばに、道の駅もできている。
 「蛍街道西之市」は施設内に、露天風呂「蛍の湯」がある。
下関市豊田町中村876-4

 今は遠い豊田町で、今年、西市の子どもはどんな「蛍まつり」を過ごしたのだろうか。 西市の子どもたちに聞いてみたいものである。

豊田町の歴史

1954年
豊浦郡殿居村、豊田中村、西市町、豊田下村の4町村が合併して豊田町ができる。

1957年
木屋川の源氏蛍生息地が国の天然記念物に指定される。

2003年
下関市、豊浦郡4町(豊浦町、菊川町、豊北町、豊田町)の1市4町で合併協議会が設置され協議が始まる。

2004年
4月25日出版の「蛍を見に行く蛍の名所ベスト28」宮嶋康彦 文藝春秋 に掲載される。
6月5日、世界でも最大規模のホタルの博物館「豊田ホタルの里ミュージアム」がオープン。
7月11日、合併の是非を問う住民投票実施。賛成2793 反対1758 投票率81.3%

2005年
2月13日、下関市・山口県豊浦郡四町が合併し下関市となった。



|

2009年6月13日 (土)

東京スカイツリー 彼の成長を見守りたい

 東京マラソンでは、雷門が遠かった。
 銀座から日本橋を過ぎると、すぐそこかと思っていたのに、いつまで経ってもビル・ビル・ビル・・
 いったい、なんであんなに遠かったのか。
 それを車で走ってみることにした。

 銀座4丁目の交差点から、カーナビで「雷門」を検索。
 日本全国には、雷門がたくさんあるようで、なかなか浅草の雷門は見付からなかった。
 画面の指示に従いながら、日本橋を過ぎ、右折・左折を繰り返して、松下幸之助の寄付で再建された雷門をめざす。

 これが、遠かった・・
 車で走っても、これだけ遠いのである。
 自分の足で走れば、確かに遠かったはずだ。

 来年初めて、東京マラソンを走る友達がいたら、ぜひとも教えてあげたい。

 銀座から雷門の往復が勝負だ!
 右左折が多いのは、6時間級ランナーには影響ないが、くせ者はアップダウン。
 いくつかの橋を渡るために、小刻みな起伏が続くのである。
 車で走っていて、それを思い出した。

 さて、雷門に着いた。
 雷門の周辺は黒山の人だかり。やたらと若者が引く人力車が目立つ。
 雷門を正面にみて信号を右折すると、マラソンコースではすぐにまた急角度の右折がある。
 コースに沿って、銀座へ戻ろうと思っていたら、8時から20時は右折禁止だった。

 仕方なく、アサヒビールのオブジェがあるビルの方へと直進。隅田川を渡る。

 ん、隅田川?

 そうだ、東京スカイツリーを見に行こう。

 スカイツリーの住所~東京都墨田区押上1-5~をカーナビに打ち込むと、もう目と鼻の先。
 2か月前にホームページを見た時、現在の高さ
11.8m とあった。
 まだちっぽけな工事現場なのだろう。
 近くにコインパーキングはあるだろうか?

 などと考えながら、走っていたらいきなり、ビルの間からクレーンが見えた。
 嫌な予感がした。

Sky1

 

そう。
 彼は(男か?)あっという間にでかくなって、空に突き抜けていたのである・・

 というのは嘘で、普通のビルようだった。

Sky2

 

ジャスコか!

 思わず、ツッコミを入れた。

 近くからでは、レンズをいっぱいに引いても全容がわからない。
 車で1kmほど離れて、遠景を収めた。

Sky3

 

現場はツリーを三角柱の足場が覆うようになっていた。
 完成は2011年冬。
 まだ2年半もある。

 610mの建物をこの目で見たことはない。
 完成すれば、たくさんの人が訪れ、皆それぞれに驚愕の声を上げるのだろう。

 また、ここに来て、彼の成長をカメラに収めたくなった。
 定点観測するために、足下の目印を決めて、メモを取った。

 それにしても、わずか2ヶ月で、そんなに大きくなるものだろうか。ほんとはやっぱり、ジャスコだったりして・・

 数ヶ月後につづく・・・

|

2009年5月26日 (火)

長野県のすすめ

 さて、クイズの答えです。
 長野県は○○が日本一多い。

 市町村の数?
 残念ながら、それは2番めです。

 正解は「接する県」
 当たりましたか?

 長野県の面積は 13,718平方kmで、全国第4位。
 長野県は海に面しておらず、周囲を 8つの県と接する。こちらは全国1位。
 接するのは新潟県から時計回りにいって、群馬、埼玉、山梨、静岡、愛知、岐阜、富山

 県内は山が平野を分断するため、4つのエリアに分かれている。

北信
県庁所在地で善光寺の門前町、長野市がある。名産品に野沢菜がある。

東信
リゾート地として、有名な軽井沢がある。
信越本線の横川駅の駅弁「峠の釜飯」は京王百貨店の駅弁大会に出店した1978-1997年の20回で、2位18回、3位2回。圧倒的な人気を誇る。

中信
県の西側なのに、なぜか「中」信。
松本市がある。自然散策で有名な上高地がある。
安曇野のわさびが有名。

南信
冬はスケートリンクになる(笑)諏訪湖がある。
中央自動車道が通っている。

長野県の歴史

1876年
明治9年 長野県と筑摩県が統合されて、現在の長野県になった。

1972年
浅間山荘事件が起きた。

1997年
10月1日、長野新幹線「あさま」運行開始

1998年
長野市で冬季五輪開催

1999年
長野五輪を記念したマラソン大会「長野マラソン」が始まった。長野マラソンは2009年現在、東京、那覇と並ぶ三大人気マラソンに数えられている。

2000年
10月、田中康夫が県知事に就任。2006年に落選するまで、6年間務めた。

2003年
9月、更埴市~こうしょくし~と更級郡上山田町、埴科郡戸倉町 が合併して千曲市ができた。市の名前は、住民のアンケートを元に協議会で決定した。

2004年
4月、小県郡東部町と北佐久郡北御牧村が合併して東御市~とうみし~ができた。

2005年
2月、田中知事が引き留めたものの、山口村が岐阜県の中津川市と合併し、岐阜県に編入された。越県合併は42年ぶりだった。

2006年
平成の大合併で市町村数が81に減ったが、それでも北海道に次いで2番めに多い。

 食べ物で有名なのは「信州そば」
 どれくらい美味いかというと・・
 そばアレルギーなので、わからない。

 関東から、善光寺がある長野市に入るならば、上信越自動車道。
 西信ではなく中信の松本に入るならば、中央自動車道。
 今なら土日、高速1000円ですよ。

|

2009年5月25日 (月)

善光寺 ご開帳 あと1週間ですよ!

 長野県は○○が日本一多い。
 この○○を埋めよ。
 ヒント:日本地図を眺めるとわかります。
 答えは明日発表します。

 長野県の代表的な観光名所と言えば善光寺。
 一度お参りすれば、誰にも極楽浄土が約束されるという、特定の宗派に属さないお寺。
 知らない人は知らないが、知っている人にしてみれば、それはもうありがたいお寺なのである。

長野市元善町491
駐車場:200台
最寄り駅:JR長野

 今年は七年に一度のご開帳の年。
 七年に一度と言っても、数え年で七年に一度なので、実際には六年に一度開催されている。
 5月末までなので、これを逃すと次は2015年春となる。

 善光寺に祀られている本尊は非公開だが、その分身である秘仏「前立本尊 まえだちほんぞん」を大歓進から本堂に移して公開するのが「ご開帳」
 この時期にお参りして、大回向柱に触れると、本尊と縁が結ばれるとされている。

 善光寺の観覧は年中無休。
 予約が必要なのは、世尊院釈迦堂の大涅槃像、本尊の地下を進むお戒壇巡り。
 本堂を詣でる以外にもオプション的な要素があり、行くたびにいろいろな楽しみ方がある。

善光寺の歴史

642年 建立
1558年 武田信玄が甲斐に本尊を移す。
1598年 豊臣秀吉が本尊を善光寺に返還。
1707年 本堂が落成。

1847年5月8日、善光寺地震が起きた。地震が起きた時は、ご開帳の期間中だった。
M7.4 死者8,000~12,000人 ただし、当時は地震観測は行われておらず、数値はいずれも推定値。

1997年 ご開帳 515万人が訪れた。
1998年 善光寺の鐘で、長野冬季五輪が開会した。

2007年 再建300年
2003年 ご開帳 628万人が訪れた。
2009年 4月5日~5月31日、ご開帳 開催中
2015年 次回、ご開帳開催の年。

 長野市はその善光寺を中心として栄えた門前町。
 長野盆地は別名、善光寺平という名前が付いている。

 それではつづいて「長野県」については明日のこころだぁ~

明日に続く



|

2009年4月18日 (土)

東京タワーと名古屋テレビ塔と東京スカイツリー

 東京タワーの夜間点灯色が、よく変わる。
 そんな色もできるのか?というような色になる。
 4月20日までは、IOC委員の来日に合わせて、2016年 東京オリンピック・パラリンピック招致活動応援「東京タワー五輪ダイヤモンドヴェール」の点灯。
 18:30から24:00の間、五輪の5色のイルミネーションが点灯する。
 期間限定と言われると、つい行ってみたくなる。
 でも、そんなことに、いちいちこだわっていたら、時間が足りなくなるので、しらべるだけにしている。

正式名称:日本電波塔
設計:内藤多仲
高さ:333m

 東京タワーは、首都圏に地上波アナログ放送を配信する電波塔。
 パリのエッフェル塔より18m高く、完工当時は世界一の高さだった。
 1996年に完成した、マレーシアの首都クアラルンプールにあるTVラジオ電話の電波塔 KLタワーは地上421m。
 2009年3月現在、世界一高い塔は、カナダのCNタワーで553m。
 610mの東京スカイツリーが完成すると、それを抜いて世界一となる。

東京タワーの最寄り駅
 JR 「浜松町」
 東京メトロ日比谷線 「神谷町」
 都営三田線 「芝公園」
 都営大江戸線 「赤羽橋」
 東京メトロ南北線 「麻布十番」


1958年12月22日、報道機関に公開
1958年12月23日、完工式 ~この日が完成日となっている。
12月24日、一般公開開始 2005年公開映画「ALWAYS」の第1作では、クリスマスの夜、雪にしずむ東京タワーを描いていた。
 東京タワーは日本で一番古いテレビ塔ではない。
 名古屋市の中心地、栄にある名古屋TV塔は、4年早い昭和29年の完成。
 こちらが、日本で最初に建てられたTV塔。

高さ:180m(名古屋セントラルタワーズは245m)
完成:1954年6月29日。
 設計は、後に東京タワーを手がけた内藤多仲。この時期のテレビ塔のほとんどを設計した。
 東京タワーと同様に、入場料を払うと、エレベーターで展望台へ上がることができる。
 ただし、絶景というほどでもない。地元の人はあまり行かない。
 塔のふもとはセントラルパークという公園になっている。


 そして、現在、首都圏の地上デジタル放送の電波塔として、東京スカイツリーが建設されている。

2001年5月
「建設の最有力候補地は秋葉原、JR秋葉原駅近くに山手線をまたぐ形で建設」と報道された。
その時点で、2003年からの試験放送開始には間に合わなかった。
当時は、報道により高さは 707m、600mとまちまちだった。
名称もしかりで、新東京タワー、第二東京タワーと表記している雑誌があった。当時の仮称は「すみだタワー」

2005年3月
読売新聞は「墨田・台東地区が有力」と報道。
参考文献:読売新聞 2005年3月29日朝刊社会面

2006年3月14日
建設用地が墨田・台東地区に決定したと報道される。
高さ610m 東武鉄道が建設し、各放送局が使用料を支払う。
参考文献:読売新聞 2006年3月14日朝刊

2008年6月10日名称が「東京スカイツリー」と発表された。

総工費見込み:500億円
デザイン監修:安藤忠雄 澄川喜一

 2011年12月の完成まであと2年半。
 公式ウェブサイトによると、現在の高さは 11.8m となっている。
 一桁見間違えたかと思った。

|

2008年12月15日 (月)

ネットで見られるのに、現場に足を運ぶ理由

 昨日、2008年12月14日 18:01にひかり354号新大阪発博多行きが博多駅のホームに到着した時点で、0系新幹線の営業運転が終了した。

 博多に住んでいれば、まちがいなく駆けつけたであろう0系最後の瞬間だが、何せ1300kmという距離は遠い。

 mixiの0系コミュニティには、今月にはいってからの「0系さよなら運転」を車外、社内で捕らえた写真、動画が多数アップロードされていた。

 わずか6両となり、あっという間にカメラアングルから消えてしまう車両。
 0系最後の運転を告げる車内放送。
 まさにその場にいるかのような臨場感だった。

 カンブリア宮殿に出演したJTB社長が、若者が旅をしなくなったことに危機感を抱いていると言っていた。
 今はインターネットで見知らぬ土地の写真、動画、情報に、自宅にいながら瞬く間に接することができる。
 街で拾ったインタビューでも若者は
「今はネットで見られるからね」とコメントしていた。

 確かに見られるから行かなくてもよいという論法はある。
 そこで、人がその場に行くことの目的を2つ挙げてみる。

1,思い出を心にやきつける。経験を積む。
2,写真・ビデオを撮る。それをネットで公開する。

 もし2だけが目的ならば、確かにその場に行かなくてもよい。
 お金と時間をかけずとも、誰かが自分の代わりに写真やビデオを撮ってきてくれる。
 自分が出かけて行って撮った写真も、他の誰かが撮った写真も、第三者からみればまったく同じ。
 だったら家でゆっくり過ごした方がいい。
 「プロ野球をライトスタンドに見に行くよりも、自宅で見たほうがリプレーも見られるし、相手の攻撃は早送りできるし」という発想と同じである。

 イベントの現場に足を運ぶ人がいる。
 スポーツを観戦する人がいる。
 旅行に出かける人がいる。

 彼らの目的は2の「媒体記録取得」だけではなく、1の「脳への記憶取得」と両方である。

 媒体の記録はブログやホームページで公開できるが、脳の記憶はわかりやすい形で公開できない。
 脳への記憶を得ることは、自慢や承認要求のためではない。

 だからこそ、奥が深い。
 そういった意図が人間を深くするのである。

 お金と時間との相談で、行けない時は他人の「媒体記録」を楽しむ。
 ここは一番、自分の出番だと情熱がほとばしる場面で、人は旅支度を始めるのである。

|

2008年11月26日 (水)

マルハのハンバーグとの再会

N700系で行く品川博多の旅【 +6 】<最終話>

 MARUHAフィッシュハンバーグとの、この夏の再会はあきらめて、東京に戻った。
 これは一度、安否をマルハに尋ねた方がよさそうだ。

 まず、ホームページを閲覧。
 会社名がマルハニチロに変わっていた。
 掲載されているフィッシュハンバーグは「DHA入りリサーラハンバーグタイプ」「ライトバーガー」「ランチバーガー」の3商品。
 お目当てのMARUHAフィッシュハンバーグは見つからない。

 予感は確信に変わりつつある。
 恐らく、MARUHAフィッシュハンバーグはもう作っていないのだろう。
 数日後、問合せの回答が届いた。
 やはり現在作っているのはホームページに載せている3点のみ。
 それも近隣で買えるのは「DHA入りリサーラハンバーグタイプ」だけだった。

 早速、教えてもらったスーパーへ出かける。
 3個だけ在庫があった。

Dsc05942
 いつものように切って食べ、焼いて食べる。
 だが、落胆した。
 噛むと崩れる歯ごたえ。舌の奥に残る塩辛さ。どれもがない。

 こうして、MARUHAフィッシュハンバーグを探す旅は、もうお目当ての相手が存在せず、替わる品もないという結論を得て終わった。

 ・・・と思っていたら、佐世保の親戚から、マルキョウのある店舗でMARUHAハンバーグを発見したというメールが届く。
 とりあえず 5個買っておいたけど、お店の人に尋ねたところ「倉庫にあと2箱あります」という。

 そうか。市場在庫というやつがあったか。
 ただ、賞味期限を過ぎれば在庫があっても、もう店頭から撤去されるはず。これがマルハのハンバーグを食べる生涯最後のチャンスになる。

 「倉庫ごと買ってきて!」
 ただちに返信した。
 ところが3日後、お店に行くともう跡形もなく売り切れていたという。
 世の中には、僕のようなMARUHAフィッシュハンバーグファンが他にもいて、必死に探していたのだろう。

 数日後、最後の5個が届いた。
 まず、1個そのままかぶりつく。身が崩れる。塩辛い。これだ、それでこそマルハのハンバーグだ。
 つづいて厚切りにして焼く。
 サラダ油を真綿のように吸うのが気になるが、その美味さには換えられない。

007

 チャーシューで埋まったチャーシュー麺さながらに、サンポー焼豚ラーメンとの黄金の組み合わせでも一個いっておく。
 もう味などどうでもよくなっている。

 さて、残りの1個は賞味期限切れの日まで、とっておこう。
 そうして非常食入れのリュックにハンバーグを仕舞った日。
 親戚から一通のメールが届いた。

 また、マルキョウにあったけん。
 30個買っておいたよ__

Ham  その30個を食べながら、新発見をした。
 前回、輪切りでは中まで熱が通らなかったが、ハンバーグを千切りにしてカップ麺に入れて3分待つ。ハンバーグの風味が熱で溶け出して、ラーメンと抜群の相性になった。

|

2008年11月25日 (火)

MARUHAフィッシュハンバーグを探す旅

N700系で行く品川博多の旅【 +5 】

 長崎に里帰りした時は、まずスーパーのマルキョウに寄り、天ぷらを買う。
 そして、親戚と呑む風呂上がりのビールの肴にする。
 炙ると美味いのだが、そのままでも十分に美味い。
 天ぷらはそのまま食べるものだと思っている。

 ここで言う天ぷらは、九州で言うところの「丸天」「角天」
 関東には売っていない。

 天ぷらを食べたら、その翌日マルキョウに行って必ず買うものがある。
 MARUHAフィッシュハンバーグ
 マルハニチロ(旧社名:MARUHA その前は大洋漁業)が販売しているロングセラーの特殊フィッシュソーセージ。
 ハンバーグといえば本来は肉を練って作るものだが、楕円形をしているので「マルハのハンバーグ」という名前で通っている。

 厚切りで焼く、パン粉をつけてハンバーグカツにする。
 薄くても美味いのだが、厚く切ると、ぜいたくな気分になる。
 そのまま1枚食べる。
 ご飯を頬張る。
 次はケチャップをつけて頬張る。
 それをご飯にも乗せてみる。

 夕飯のおかずとして、これ以上のお子様メニューはない。
 弁当のおかずにしても美味いのだが、やはり揚げたての感動には及ばない。

 生でかじっても、塩が利いていていける。
 買い置きしておくと、ビニル袋をむいて、まるごと1つかじってしまうことさえある。さすがにまるごと1個は次の日にぐったりするので、半分でやめておく。
 当然のごとく、酒の肴としても美味い。

 「天ぷら」と同様に、この商品も関東では売っていない。
 九州に帰った時に、サンポー焼き豚ラーメンと共にまとめて買ってくる。

 2008年夏
 今年もまた、MARUHAフィッシュハンバーグと再会の季節が巡ってきた。
 長崎に着いてすぐマルキョウをのぞく。

 ない・・・

 でもまだ、ここでは心に余裕がある。
 この店が、たまたま品切なのだろう。
 この店ではあまり売れなくて、定番を外れているのかも知れない。

 だが、どこを探してもない。
 マルハの類似品、他社の類似品はあるのだが、それじゃダメだ。

 墓参りがてら、MARUHAフィッシュハンバーグを探す旅に出た。
 行く先々の町で、いかにも有りそうな、スーパーをのぞく。
 どこにもない。

 ダメもとでコンビニものぞく。
 やはりない。

 福岡、下関、徳山 ・・・
 MARUHAフィッシュハンバーグを探す旅は片道 300kmを越えた。
 大洋漁業かつての本社がある下関になかった時点で、嫌な予感がした。

つづく



|

2008年11月24日 (月)

レモンステーキ弁当 佐世保

N700系で行く品川博多の旅【 +4 】

 N700系のぞみ号では ガイドブックから選びに選んだ 2つの駅弁を食べた。

 ただ、あと二つとても気になる弁当があった。
 ガイドブックに必ずといいほど載っている。
 だが、新幹線沿線ではない。
 そのうちの一つが佐世保駅の「レモンステーキ弁当」だ。

Photo

2  朝10時に佐世保駅に寄った。
 コンコースのど真ん中に、こぢんまりとして上品な構えの駅弁売り場がある。
 レモンステーキ弁当が並んでいた。

 この後、長崎に行く予定があり、佐世保に戻って来るのは夕方になる。
 果たして、その時間まで「レモンステーキ弁当」は残っているだろうか?

moto「夕方来るんですけど、レモンステーキ弁当まだありますかねぇ?」
おばちゃん「もうここにある2個だけですからねぇ・・」

 レモンステーキ弁当は松僖軒が1日10個限定販売。
 8:30から売り始めるので、概ねお昼までには売り切れてしまう。なお、松僖軒という名前はこれまで聞いたことはなかった。

 
 その場で買うことにしたが、その日は35度を超えた猛暑。持ち歩くわけにもいかない。
 すると、この売り場は15時には閉まるのだが、近くにあるうどん屋さんで預かってくれるという。同じオーナーが経営しているのだろう。
 お言葉に甘えることにした。

Photo_2

Photo_3

 それから10時間後、うどん屋さんで受け取った弁当をつっつく。
 牛肉の美味さがごはんにしみていて、おいしい。
 同梱のたれをかけると、さらに味が引き立つ。

 この弁当で、特筆に値するのはタマネギのレモンソース煮。
 タマネギをここまでおいしくするには、長い時間かかったのだろう。カレーに使うあめ色になるまで炒めたタマネギのよう。
 ほんの少ししか入っていないのが、口惜しい。
 この弁当は玉屋のサンドイッチ「佐世保サンド」と並んで、佐世保に帰った時の欠かせない味になった。

 もう一つ、気になっていた弁当は「ながさき鯨カツ弁当」
 こちらは10時から長崎駅で5個限定販売。
 今回の旅ではその時間帯に長崎駅に行くスケジュールが組めなかった。
 次の夏にはなんとしても現地で食べようと考えている。

|

2008年10月25日 (土)

0系に乗らずじまいで、天神へ

N700系で行く品川博多の旅【 15 】

 終点博多まではあとわずか10分。
 あっという間だと予想していた 4時間45分は、その通り短かった。
 特に神戸を過ぎてからは早い。

 ほとんどが山間部、トンネルを走っているため、旅気分が味わえないのである。
 東海道では、東京のビル街、富士山、浜名湖、名古屋の町並み・・といくつかの景色が思い出せるのだが、神戸の六甲トンネルを抜けてから先は、記憶に残る場所がない。
 いくら営業努力をして、新幹線で行く旅行商品を売ったところで、この退屈な車窓では、なんともならない。
 それならば、車内販売に工夫があるとよい。
 停車するごとに乗ってくる各地の地元駅弁や地ビール、地酒・・
 山陽ならではのイベントが欲しい。

 定刻6:00に品川を出たN700系のぞみ99号。
 同時刻に東京駅を出るのぞみ1号を従えて、その5分前を走る。
 定刻10:45に遅れること3分で、博多駅のホームに滑り込んだ。

 乗り心地が快適といえる。
 同時に複数の電車を乗り比べることはできないので、なにがどう快適とはいえないが、空間が広くのびのびとした印象が3ヶ月経った今も残っている。

 もう客はまばらで、すんなりと客がはける。
 名古屋で受け取った巨大な段ボールを解体して、ホームのゴミ箱に捨てる。
 やはり、駅にはゴミ箱があると助かる。

 このまま40分待てば、290円を払って0系の博多南線へと乗り継ぐことができる。
 だがこの時は、まぁいいや、それより早く天神に出て「ばん」のアイスコーヒーを飲もうと考えた。
 後で思えば、この選択は間違っていた。

 改札を抜けて、階段を下りようとするとテーブルが出ていて、何やらキャンペーンをやっている。

 夏休み0系新幹線クイズ&プレゼント
 紙でできた0系サンバイザーを配っている。
 新幹線と言えば0系。愛しい0系。

 すりすりとテーブルにすり寄って「それください」
 アンケートもあったので、0系グッズでももらえるのではないかと「それも書きます」と申し出る。
 ただ、残念なことにアンケート謝礼はなんの変哲もない「エクスプレス予約」ノベルティのボールペンだった。

 クイズ&プレゼントの応募はがき付きパンフレットに載っているのは、至ってふつうのイベント告知のみ。

 パンフレットとサンバイザーをリュックに仕舞う。
 いつもは福岡空港から天神に出るが、今日は博多駅。
 少しだけ安い切符を買って、相変わらずがらがらの地下鉄に乗り込み、ここでN700系でいく品川-博多の旅は終了。

 0系が年内でこだまダイヤはおろか、博多南線も含めて、完全に引退して廃車になる。そのことを知ったのは、この後も続いていく旅をすべて終え、帰京した後だった。



|

2008年10月20日 (月)

関門海峡

N700系で行く品川博多の旅【 14 】

 肘掛けを使っていたとなりの兄ちゃんは広島で降りていた。
 というより、ほとんどの客が広島で降りて、車内はほっと一息ついていた。
 名古屋で大勢が乗り込み、広島で降りる。
 新幹線は名古屋-広島を結ぶ乗り物だったのだとわかった。

 名古屋-福岡は飛行機に流れる人が多いのだろう。
 東京-広島の場合、あまりにも広島の空港が不便な場所にあるため、新幹線といい勝負なのではないか。

 ミクシィに「N700系」コミュニティがあり、乗車予告というトピックがある。
 「今度、19日に神戸から東京まで乗ります」
 といった書き込みをするだけの掲示板。別に旅は道連れ、車内で会いましょうというわけではない。
 このトピックを見ていると、東京・品川-博多をフルに乗るという人は希。
 実用的には東京-福岡は安くて速い飛行機なのだろう。

 10:26 弁当を片付けたらあたりが真っ暗になった。
 関門トンネルだ。

 関門トンネルは、本州と九州を隔てる関門海峡の下を走る。
 山口県下関市の「関」、福岡県北九州市門司区の「門」で関門海峡。
 伊集院静は幼少期をここで過ごし、小説「海峡」3部作はここから生まれている。

 1942年、日本初の海底トンネル、関門海底トンネル開通
 自動車・人道、鉄道、新幹線の3つがある。
 自動車と人道は同じトンネルの上下。鉄道(在来線)は西側の別ルートを通りJR門司駅の直前に出る。新幹線は「新下関」を過ぎるとすぐ潜り、自動車のトンネルのそばを通って「小倉」のそばに出る。

 1973年、関門橋開通
 中国自動車道、九州自動車道(高速自動車国道)専用。人は渡れない。

 2001年4月、関門海峡を臨む新下関水族館「海響館」オープン
 2008年11月16日、第1回「下関海響マラソン」開催

 関門海峡は早鞆瀬戸と呼ばれる。
 鳴門海峡、長崎の西海橋と並ぶ日本三大潮流に数えられ、潮の流れが速い。

 トンネルを抜けるとすぐ小倉
 港の煙突から白煙
 子供の頃、よく親に連れられて買い物に来た小倉の町並み。

 10:30 小倉 832km
 空席が広がり、車内は閑散とした。
 小倉-博多間はおよそ20分
 クルマで移動すると高速道路を使って1時間、市内の道が混んでいると1時間半はかかる。
 かつて、営業の行き先が1カ所のみの時は、よく新幹線を利用した。
 コーヒーを買い、大好きな新幹線で、しばしの旅気分。
 なんとも贅沢な20分だった。
 当時は何の気もなく乗っていた0系に、もう乗ることはない

|

2008年10月 9日 (木)

グレーとライムグリーンの100系

N700系で行く品川博多の旅【 12 】

 大阪から西の山陽新幹線は、これでもかというほど、トンネルが続く。
 腕時計型GPSガーミンフォアアスリートは、トンネルに入る度に自動ポーズがかかり計測が止まってしまう。
 トンネルを出るとポーズが解除されて、計測が再開する。

 品川を出たところでスタートボタンを押してきたが、どうやら博多に着いた時には、品川-博多間のトンネルを除いた距離が表示されていそうだ。

 持参した2冊の雑誌を読み終えた。
 弁当を食べ、このブログのメモをとっていたおかげで、読書ペースは極端に遅い。
 1990年代、ノートパソコンを持ち歩いていた頃は、新幹線ではずっとノートを開いていた。
 内勤になりモバイル習慣が途絶えると、電車で時間が空いても、パソコンの電源を入れることが億劫になる。

 岡山出発は3分遅れ。
 博多到着は定刻を3分遅れて10:48の予定であるとアナウンスが入る。
 急ぐ旅でもなし。まったく問題ない。

 9:17 新倉敷通過 613km
 結局、チボリ公園には一度も行かずじまいだった。
 せっかくの貴重な財産。公園として残してもらいたい。

 車内販売のカートが通るが、スジャータアイスは断念したのでスルー。
 販売員は表情にやつれがみえている。
 売れに売れて忙しいのか。それとも自由席の通路に人が溢れていて、前に進むことに疲れているのか。

 今回、事前に駅弁を調べてわかったのだが、名物と言われている駅弁は駅で売っていて、車内では売っていない。

 駅で売るから駅弁なのだ。
 といえばそれまでだが「お弁当いかがですか?」の甘い誘いに応じて、食べる弁当が、車内販売業者の企画弁当というのは味気ない。

 「ただいま名古屋で積み込んだ、名古屋名物びっくりみそかつ弁当です」
 とやったほうが旅の風情がある。

 9:23 福山駅通過
 駅にグレーとライムグリーンにリペイントされた100系がいた。
 同様にグレーとライムグリーンにリペイントされていた0系は、現在「こだま」で稼働している3編成すべてが、1964年開業当時のオリジナルカラーに戻されている。リ・リペイントだ。
 現在、グレーとライムグリーンに塗られた新幹線は100系のみ。

Dsc01641

**写真は博多駅で撮影したもの

 車窓から眺める福山。
 町並みに調和がない。

|

2008年10月 3日 (金)

スジャータアイスは断念

N700系で行く品川博多の旅【 11 】

 びっくりみそかつ、最後の一切れにとりかかる。
 この後の2つめの弁当に備えて、残そうと思っていたご飯を食べきる。
 あっさりとしていて、お腹にたまらないご飯だ。

 まもなく京都に着くというアナウンスが流れる。
 8:06 京都 GPSは416kmを指している。

 京都を出たところで、電光掲示板のニュースが流れる。
 「ロシアが南オセチアに軍事介入。1400人死亡か?」
 先物取引が規制されないために、再び地球はやっかいな世界に戻ろうとしている。

 車体が左に右にと、傾いている。
 車体傾斜システムはわずか1度。
 その効果が体感されることはない。

 びっくりみそかつの弁当箱を片付け終わると、もう大阪に着いた。
 8:21 新大阪 GPSは456km

 電車は3分遅れている。
 名古屋の乗降で、かなり時間がかかっていた。それを行程のスピードアップでは吸収できなかったのだろう。

 大阪を出るとアナウンスが流れた。
 「本日は自由席が大変混み合っています。通路、デッキもご利用になれます」
 以前には、聞いたことがない内容。
 JRはずいぶんと親身になったようだ。

 8:37 新神戸 486km
 神戸から西の新幹線に乗るのは、ずいぶん久しぶりだ。
 六甲トンネルはあまりに長く眠けにおそわれた。

 700系、700系レールスターとすれ違うと、向こうの座席を見上げる位置になる。700系と比べてN700系は窓の位置が低いようだ。

 山陽新幹線はトンネルが多い。
 持ってきた雑誌を読んでいるうちに、うたた寝。
 となりの兄ちゃんも肘掛けを使って眠っている。

 ふと目覚め、ここはどこだろう?と景色を見やる。
 We will soon make a brief stop at Okayama.
 ちょうど岡山に到着のアナウンス。
 9:02 岡山 578km

 岡山を出てすぐ、9:06に500系とすれ違う。
 明るい青いラインでわかる。
 試験車両の位置づけで作られたため、9編成しかない500系だが、既にのぞみダイヤは一日2往復に減っている。
 東海道新幹線から引退する日も遠くない。
 見て楽しい新幹線が、また一ついなくなるのは寂しい。

 まだ、びっくりみそかつによる満腹状態は続いている。
 博多到着までに「抹茶ひつまぶし日本一弁当」を食べ終えるには、遅くとも博多まで20分の小倉あたりで、とりかからなければなるまい。

 この時点で、今日のスジャータアイスは断念となった。



|

2008年9月29日 (月)

肘掛けは誰のもの?

N700系で行く品川博多の旅【 10 】

 2人掛けのD、E列の場合、Dの人も Eの人も肘掛けは左右に一つ。
 2人で3つ
 2人の真ん中にある肘掛けはどちらが使うものなのか?

 3人掛けのA、B、C列の場合、3人とも肘掛けは左右に一つ。
 3人で4つ
 B列席の両脇にある肘掛けはどちらが使うのか?

 日本には「肘掛け基準法」はない。
 鉄道各社も、肘掛けガイドラインを示していない。
 つまり無法状態と言うことだ。

 ところが、中谷彰宏の著書「超一流の仕事術」にその基準を見つけた。
「ひじかけは通路側を使うのがマナー
 ただし、真ん中の人は両方使ってよい」

 中谷彰宏は毅然として言い切っている(いつもそうだが)
 もちろん、根拠を示そうにも、根拠はどこにもないから示せない。

 すると、今この左隣の兄ちゃんとの境界にあるひじかけは、僕からみて通路側なので僕が使ってよいことになる。

「すみません。これ通路側なので、僕の肘掛けです。
 使わないでください」
「はっ? なにそれ?」

 という険悪な会話はしたくないので、もちろん言わない。

 映画館でもドリンクホルダーが、どっちを使っていいのかわからない時は、端っこの席がどうなっているかを見て、左右を特定する。
 しかし、誰か一人、そういうことに無頓着な人がいて、逆側を使っていると、その列全体がぎくしゃくする。

 この肘掛けは使っていいのか、どうなのか?
 皆、不安に思っている。

 使った者が勝ちだ!
 と言って、席に座るとそそくさと肘を置く人もいる。
 でも、肘掛けをとられたくなくて、肘が上げられない。

 となりの人が肘を置くと、負けたくなくて押し返す人もいる。
 体温が伝わって、とても気持ちが悪いので、気が弱い方が諦める。

 こういうことこそ、日本の世論を扇動しているバラエティ番組でとりあげるとよい。

Photo_2  N700系には窓際席、前後端(=妻壁)に面した席とグリーン車両全席に、電源コンセントがある。
 ノートパソコンのバッテリーが貧弱で、出張では予備バッテリーを持ち歩いていた 1990年~1997年頃に、この設備があればありがたかった。

不定期で続く



|

2008年9月20日 (土)

生まれて初めて斜めに切るみそかつ

のぞみ99号で行く品川~博多の旅【 9 】

 みそかつは弁当箱にきちきちに収まっている。
 弁当箱の折とは、ほとんど隙間がない。

 やってみるとわかるのだが、ナイフで切る時は、とんかつの向こうと手前に空間があって、初めてナイフが上下に走るのである。

 この弁当箱はその空間がない。
 真上から、とんかつのエッジに歯を立てても、よほどの切れ味ではない限り、肉は切れない。
 もちろん、十分に柔らかいロース肉なのだが、ナイフの方が所詮、プラスチックである。

 そこで、ナイフを斜めに入れることにする。
 トンカツはタテに切り分けるのが、ちょうど一口サイズだが、斜めにきったトンカツはかなり大きな一切れになった。

 大きくあけて、ぱくりと口に放り込む。
 味噌がよく浸かっていてうまい。
 最高に幸せな気分が広がる。

 味噌かつは揚げたてじゃなくてもうまい。
 もちろん、とんかつはどれも冷めてからもそこそこにうまい。
 ただ、味噌かつが冷めてからの美味さは、他のとんかつを圧倒している。
 数あるとんかつの中で、味噌かつだけは揚げたてと冷めてからのうまさが同等だ。

 味噌かつをナイフで切るのは楽しい。だが、狭い車内、狭い弁当箱で切るのは難しかった。「だるまの人は、車内で食べたことがないのでは?」とも考えた。

 ねりからしがついている。
 一応使う。
 甘い。つーんとこない辛子。

 これが、けっこう味噌かつに合う。
 180gの味噌かつの、残り60gあたりで、このからしを登場させるとよいだろう。
 さすが、名古屋駅弁の雄「だるま」。
 問い合わせた時の対応の良さといい、研究を重ねたこの味といい、ファンになった。

 ごはんもうまい。
 冷めてからが勝負の駅弁の要諦を押さえている。
 みそかつの面積より少なめというのもいい。

 最後の一切れを残して、窓からの景色をみて一休み。

 「奈良の柿」「ローズふとん」 遠目に建てられた田んぼの看板を追う。こうして看板で見た商品を実際にお店で見たことがあっただろうか?

 土曜日の朝、部活に励む中学生が校庭のトラックを走っている。この時間、部活をやっているということは、当然、公立である。都会の子供に比べて、実直そうにみえる。

 ふーっと息をついて背もたれに体を沈めた時、名古屋から乗ってきたD列の兄ちゃんと肘がぶつかった。

 そうだ。
 この肘掛けは、いったい誰のもの?

不定期で続く

|

2008年9月 9日 (火)

いよいよ、びっくりみそかつ

7:33
 定刻を少し遅れて名古屋を出発したN700系のぞみ99号。
 隣には名古屋から男性が乗ってきた。
 ここで、A列からE列まで一気に満席となり、ようやく、お盆の帰省列車らしくなった。

 このお盆列車状態は、名古屋から広島まで続いた。
 名古屋には国際空港はあるものの、東京、大阪 に行くには電車のほうが手軽。
 名古屋-福岡間だと空の便になるが、広島までだと新幹線が使われるようだ。

 今日初めての食事であり、「コーヒーは美味しくなったのか?」につづく、この旅2つめのチェックポイント
 「びっくりみそかつ」にとりかかる。

 ふたを開けるとまず、写真を撮る。
 さっきの巨大段ボールといい、そこから出てきた二つの弁当、写真撮影・・
 隣の兄ちゃんが引いているのがわかる。

Photo

 「こいつ、きっとブログに書くんだな」
 と思っただろう。
 おっしゃる通りです。

 びっくりみそかつは、1999年、700系のぞみ号運行記念として発売された。
 みそかつ弁当の第一号でもある。

 みそかつ弁当の代表格として、複数の駅弁ガイド本に取り上げられている。
 事前にチェックした3冊すべてに載っていた。

 事前の調べで、最初にわかったことは、
■東海道新幹線の車内販売では販売していない。

 カートで売りに来たのを
「みそかつ、ある?」
とやるのが旅の粋だと思うが、そんな粋よりもやはり、みそかつで一番有名な弁当を食べたい。

 つづいて、調べてわかったことは、
■名古屋駅 新幹線ホームのあちこちの売店で販売している。
■13号車付近に、だるまの売店があり、そこで販売している。
■事前に予約しておいて、列車のドアまで届けてもらうサービスがある。

 ということで、事前申し込みをして、今、目の前にある。

 まず、ささやかな添え物、マカロニサラダを一気にいく。
 これは、かなりうまい。

 さて、本題。180gの豚ロースを使ったみそかつ
 とんかつは切れてない。
 同梱されているプラスチックのナイフで一口めを切る・・

 それがなかなか切れない・・



不定期で続く


|

2008年9月 2日 (火)

名古屋から乗ってきた巨大弁当

のぞみ99号で行く品川~博多の旅【 7 】

ハンガーに帽子をかける。

Dsc05801

別にかけなくてもよいのだが。使ってみたい。

このハンガーは誰のものだろう?

基本的には、窓際席の人が使うものだと思う。(A列、E列)

このハンガーに、廊下側の人から「ちょっと、コートいいですか?」

と言われたら断るが、なんだか気まずい。

エアコンを調節

Dsc05798

直接、体に風が当たらないよう、向きが調節できるようになっている。

風が要らない場合、送風口を閉じることもできる。

荷物にはワイヤーロックをかけた

Dsc05802

以前、パソコンを持って外回りをしていた時に買ったワイヤーロック。

ワイヤーが細いので、軽い。

テーブルのステーに取り回してロックした。

これで安心して、席を離れて、弁当を迎えにいける。

7:25 名古屋で降りる人の最後尾に続き、弁当屋さんと打ち合わせておいた「12号車後方ドア」へと並ぶ。

手にはチャックつき透明ビニル袋。中身はおつりがないように用意してきた 弁当代 \2,180。 わかりやすいよう、2千円札 100円 50円 10円×3 という金種にした。

7:29 名古屋到着

 名古屋で降りる人たち、名古屋から乗ってくる人垣のむこうに、箱を抱えた二人組の男性が見えた。

 相手も、手ぶらできょろきょろしながらやってくる僕を目ざとく見つける。

 「びっくりみそかつと、ひつまぶし日本一ですね。2180円です」

 お金を渡しながら「こうして、買う人って多いんですか?」「えぇ、けっこういらっしゃいますよ」という社交辞令を交わす。

 名古屋ではもっとも多くの人が乗ってくる。発車時刻は3分過ぎており、ベルが鳴り続けている。挨拶もそこそこに弁当の箱を抱え、乗車の人垣の最後尾につづいて、再び「のぞみ」車中の人となる。

でかいと思います。

Dsc05803

とりあえず、テーブルに置く・・
だが、これでは、弁当の置き場所がない。とても、食べられない。

「すみません」

 名古屋から乗ってきた隣の人にことわりを言ってから、段ボールを棚に上げる。

 天井にゆとりがある棚のおかげで、巨大段ボールは難なく収まった。

Dsc05804

上がひつまぶし、下がみそかつ。

やはり、箱がでかすぎたと思う。

不定期で続く



|

2008年8月23日 (土)

上下に揺れるのぞみN700系

N700系で行く品川博多の旅【 6 】

 N700系は名古屋に近づいている。
 
 新幹線は左側通行。
 対向車は右側前方からやってくる。
 対向車の風圧を最も感じるのがE列。

 E列を選ぶ大きな理由は、二人掛けということ。
 窓際はA列もあるが、右側にBC列の二人がいると、出入りがおっくうだし、閉塞感が強い。
 また午前の新幹線では、A列側は日が当たるため、まぶしい。
 景色どころではない。

 3人掛けは不人気なのだろう。
 A,B,Cすべてが空いている席もある。

 700系では、B列の椅子の横幅が広げられた。
 B列がもっとも大きく、A,C,D,E 列の座席幅は同じ。

 そしてこの N700系では、A,C列の幅も広げられた。
 座席の横幅が広い順はこうなる。
 B>A,C>D,E

 A,C列の横幅は広がったが、D,E列の横幅を削ったわけではない。
 通路の広さも同じ。
 通路を削ったら、車内販売が通りづらくなってしまう。
 もちろん、車体の幅は増やせない。

 そこで、削ったのは壁。
 700系と比べて、N700系は壁が薄くなった。
 その分、壁の強度を維持するために、窓が一回り小さくなっている。

 壁を削ったものの、荷棚のスペースはゆったりしている。
 ボストンや手押しカートを置いている人がいるが、天井側にまだ余裕がある。

 空いているうちに、A,B,C,D すべての席に座って、横幅の違いを体感したいという欲求にかられたが、大人げないのでやめた。

 座席前のテーブル位置には、前後の車両までの施設図がある。
 ゴミ箱の位置が書いてあるのがよい。

 1つ前は11号車。
 1編成16車両のうち、11号車のみに設置されている「多目的室」をチェックしようと狙っていた。

 名古屋に着く前に、トイレと多目的室のチェック。
 トイレが広い。かまくらの中のようだ。
 多目的室には「在室中」の赤いランプがついている。

 この多目的室の利用は、どのような運用ルールになっているのか。
 それが、わからないので、開けるわけにもいかず、席に戻る。
 通路を歩いていると上下に揺れる飛行機のよう。
 左右に揺れるのならばわかるが、なぜ鉄道が上下に揺れるのかが不思議だ。

7:15
 今日3度めの車内販売カートがやってきた。
 弁当の乗車を控えているので、ココはスルー。
 果たして、山陽路に入ってから、スジャータのアイスは売りに来るだろうか。


不定期で続く



|

2008年8月15日 (金)

品川出発

N700系で行く品川博多の旅【 5 】

 いよいよ旅、当日
 のぞみ99号発車の20分前に品川駅新幹線コンコースに到着。
 5:40と朝早い時間なのに、ぱらぱらと人が出ている。

 品川駅は「ホームには売店はありません」
という看板が出ているので、コンコースの売店でお茶を買おうと思っていたが、店員さんが一生懸命、スポーツ新聞の梱包をほどいている。
「開店は5時50分です」というので、諦めてホームに降りる。

 乗車する12号車から1号車までは遠いので、16号車(最後尾)の位置へ。
 運転席に回り込み、写真を1枚。そして編成を確認するためだ。

 編成番号は自動車でいうナンバープレート。鉄道ファンの必須チェックポイントらしい。
 一般的にいえば、同じN700系ならばどれもおなじだろうと思う。
 だが、同じ車種でも、改良が加えられている。自動車でいうマイナーチェンジだ。
 個々の車両は製造年月により外観、性能が微妙に違う。その違いを知り、目で見て、体感するのが「通」の楽しみなのだ。

 5時50分、けたたましい電子音のベルが鳴り響くなか、のぞみ99号が入線してきた。
 のろい
 実にのろのろとホームを滑っていく。
 きしきしと線路がなる。始発駅ならではの前奏曲を奏でていく。

 運転席に記されたこれから記号は「Z16」
 この記号がどのような系譜を持つのかを知らない。
 だが、一応鉄道ファンらしく、編成確認から入ってみた。

 車内販売で買おうと思っていたが、ホームにあった自販機でお茶を確保。
 150円 それほど割高ではない。
 結局、焼売どころではなかった。
 のぞみ99号と焼売は無縁と言うことだ。

 6:00 無事出発
 博多まで4時間45分の旅が始まる。ガーミンフォアアスリート(GPS)を時計スタンドに立てて窓辺に置き、スタートボタンを押す。飛行機ならば「電子機器の使用はお控えください」と言われるところだが、新幹線では電子機器の制限はない。
 乗り心地は、特に変わった印象はない。
 座席は両窓際のA,E席だけが埋まっている。

6:05 GPSが衛星を捕まえて距離表示がスタートしていた。

6:11 新横浜 14.6km
 横浜からの乗客でC,D列が埋まり始めたが、僕の隣のD列は空席。これで名古屋まではゆったりと過ごせる。

6:23 初めての車内販売ワゴンがやってきた。
 今日の課題、弁当2つ、コーヒー、アイスのうちまずコーヒーを確保。
 300円
 おいしい
 以前はポットのなかで煮詰まったようなコーヒーの時があった。口に広がる苦みが心地よい。
 後の祭りだが、このコーヒーと同時にアイスを買えば、より楽しめたと思う。 窓の外は曇っている。

6:26 長いトンネルを走行中、車内が揺れて窓辺に置いたフォアアスリートが落ちてきた。

6:46 126km 「静岡駅を通過」のテロップが流れる。
 なに?静岡?ということは、富士山を見逃してしまった。
 窓の外を見やると曇り。いずれにせよ富士山は見えなかっただろう。

 それにしても窓が汚い。
 前日に雨でも降ったのか。水垢がまんべんなく視界を遮っている。
 外に出て、窓を拭きたくなった。

不定期で続く



|

2008年8月 2日 (土)

旅を想う旅

N700系で行く品川博多の旅【 4 】

 JRの駅に発券にきた。
 えきねっとで予約した切符は、えきねっと対応の券売機で受け取ることができる。
 クレジットカードを入れると、予約している件名が表示されて、暗証番号を求めてくる。
 これはクレジットカード固有の暗証番号。
 日頃、サインで買い物をしている人は、ここで慌てるかもしれない。

 暗証番号が認証されると、切符1枚とクレジット利用控えが1枚、券売機からはき出される。
 乗車するのは12号車だった。
 N700系は16両がそれぞれ専用設計になっており、トイレがない12号車の乗車定員は、16両の中で最多の100人である。
 この券が都区内の最寄り駅から使えるのか、念のために確認しようと思ったが、みどりの窓口にはたくさんの人が並んでおり、気が引けるのであきらめた。

 号車がわかったところで、それをお弁当屋さんに連絡する。
 名古屋駅での弁当の受け渡しの手はずを整えるのだ。
 「12号車進行方向に向かって後方の扉にお越しください」とすぐ返事が届いた。
 これで「びっくりみそかつ」と「抹茶ひつまぶし日本一弁当」を確保した。
 ひつまぶしのお茶は別に買う必要があるのか・・
 気になっていたが、あまり、細かいことを言っても悪いのでやめた。
 あとは、7:29に名古屋に着く頃に居眠りしないよう、気をつけなければならない。

 6:00発の「のぞみ99号」に乗るためには、朝は4時起き。
 いつもより4時間早い。
 そこにもってきて、崎陽軒のシウマイとビールをやってしまっては、静岡県に入ったあたりから大阪くらいまで、寝てしまいそうだ。
 シウマイをあきらめるか・・これは当日まで、判断しかねる。
 当日は、目覚まし用に、アラーム機能付きのG-SHOCKを使うことにする。

 品川 6:00発に間に合うよう接続する電車はそう多くない。
 ジョルダン乗り換え案内で、複数のルートを検討する。
 万が一、乗り遅れた時の次発でも、ぎりぎりセーフになるルートを選択する。

 当日の朝、私鉄の電車が止まっていないかというのも、心配だ。
 これは、私鉄の系列会社が運営しているケーブルテレビで、電車運転情報の番組を見つけた。

 荷物は身動きを軽くするために、宅急便で送ることにした。
 最低限の身の回り品、情報機器を ION20 に入れていくことにする。

 電車内では、トイレに立ったり、弁当を受け取りに行ったりして席を離れる。
 その時、荷物をどうするかも悩ましい。
 リュックくらい背負っていけないこともないが、名古屋でリュックを背負って席を立てば、隣のD列の人は「お、降りるのか?」と思うだろう。
 その5分後、弁当を抱えて戻ってきた時、窓際に陣取ったD列の人と顔を合わすのは、気まずい。

 そこで、ワイヤーロックを鞄に入れた。
 細いワイヤーを、3桁の暗証番号でロックする鍵が束ねている。
 これならば、荷物も安心。

 あとは、当日を迎えるばかり。
 わずか、4時間45分の旅だが、ここまでこの旅を想う時間で、ちょうど博多に着いてしまった頃だ。

不定期で続く



【 第1話 】N700系で行く品川博多の旅
【 第2話 】びっくりみそかつと櫃まぶし日本一弁当
【 第3話 】のぞみ号E列確保


|

2008年7月26日 (土)

のぞみ号E列確保

N700系で行く品川博多の旅【 3 】

「今年は8月12日がふるさとに帰る乗客のピークで、今日は終日、どの便も乗車率200%となりそうです...」

 夏の風物詩
 お盆になるといつもテレビから流れる、ぐったりとした乗客。ゲームに没頭する子どもの映像。

 お盆ウィークの朝一便。
 いったい、どれくらいの人が、初日にお盆の列車を申し込むのかがわからない。
 果たして希望通り、のぞみ99号の切符はとれるだろうか?

 えきねっとの事前受付から1週間。
 JRの切符は乗車1カ月前同日10時から販売が始まる。
 事前受付で申し込んだ結果は、いつも 10:02頃メールが届く。
 「東京マラソン」の当落通知もそうだったが、メールで届く通知には、格別の緊張感がある。

 10:02「JR指定席をおとりできました【えきねっと】」

--------------------------------------------------
●お申込内容
のぞみ99号
品川 06:00発→博多 10:45着
おとな 1名、こども 0名
座席種別 普通 禁煙席
座席位置希望 直接指定(E) 
購入予定代金 22520
              (運賃:13440/特急料金等:9080)
--------------------------------------------------

 希望通り、E列で席がとれていた。
 えきねっとは列指定をした場合、その列が取れないと予約が成立しない。
 もしも「JR指定席をおとりできませんでした」というメールだったら、すぐ次善の予約を打ち込まなければならない。だが、結果メールが届くのは一般販売開始後なので、一気に席が売れてしまうかも知れない・・・

 今回は、幸い希望通りのE席をとることができたが、結果が届くまでは、とてもらはらした。
 できれば「希望の列がとれない時は、他の列でも予約を取得する」というオプションが指定できるとよい。

 さて、E列の席がとれたことはわかったが、何号車-何番という情報はメールにはなく、発券してみなければわからない。

 発券は乗車当日の23時までできるのだが、発券を急ぐことにした。
 この「何号車」かという情報を知る必要があったからだ。

不定期で続く

ど素人!新幹線講座

|

2008年7月21日 (月)

びっくりみそかつと櫃まぶし日本一弁当

N700系で行く品川博多の旅【 2 】

 朝6時に品川を出て、10:45に博多に着くまでの4時間45分。
 前の晩を軽くして、朝食を抜いても、食べられる駅弁は2つまでか。

 駅弁のガイドブック5冊をくまなくチェックして、東海道・山陽新幹線で食べられるものをリストアップしていく。

・崎陽軒シウマイ
 新幹線といえば定番はこれ。
 出張の度に買うので、いつの間にか、ひょうちゃんコレクターになってしまった。
 「シウマイ弁当」もあるが、お腹いっぱいにしたくないのでいつも単品。そしてビール。
 ただし、社内販売は「お持ち帰り用真空パックのみ」
 駅で買うしかない。
 このシウマイ、けっこうにおいがきつい。
 隣に見知らぬ人が座っていると、気の小さい僕は、買って乗ったものの、そのまま家に持って帰ったこともある。

・びっくりみそかつ
 みそかつ弁当はいくつかあるが、やはり元祖「だるま」の「びっくりみそかつ」は避けられない。
 豚ロース180g
 実際、どれくらい大きいのか想像がつかない。
 おかずはそれだけ、あとはご飯。
 「名物だけ食べたい」「余分なものは要らない」という旅心をよく読んでいるではないか。

・抹茶ひつまぶし日本一弁当
 日本一の一色町うなぎ、日本一の西尾の抹茶、そして日本一長い大根でつくる守口漬。3つの日本一のそろい踏みで、この命名。
 妥協がない。
 これも、びっくりみそかつと同じ「だるま」が作っている。
 この会社には「自分が客だったらこう思う」という思考回路が働いている。
 櫃まぶしだから、もちろん最後はお茶漬けで食べる・・・
 とガイドブックに書いてあるが、実際のところ、
 抹茶でお茶漬けにするのか?
 お茶は別に買い求めるのか?
 食べてみなければわからない。

 共に名古屋駅売りの2つの弁当
 果たして、短い停車時間で、ダブルゲットできるか?
 次はその調査だ。

 食べ物は、これで精一杯だろう。
 これ以上食べると、博多のうまいもの が入らなくなってしまう。
 だが、新幹線車内販売限定のスジャータのアイスは食べる。
 かちかちに固いので、コーヒーも買う。
 どうしても食べなければならないというわけではないが、これを外しては旅のストーリーが完結しない。
 新幹線のコーヒーの味が、この3年でどう変わったかも試したい。

 不定期でつづく

|

2008年7月 5日 (土)

N700系で行く品川博多の旅【 1 】

 鉄ちゃんならば、たまらないこのタイトル..
食いついてくれる人はいるでしょうか。

 夏の里帰りの 2か月前になったので、いつも通り
スカイマークのウェブサイトから飛行機を買おうと思った。
あ、別に1機まるごと買うんじゃないです。

 ところが、スカイマークのウェブサイトにアクセスすると、発売開始と同時に早割は「売り切れ」
 機長不足で欠航することを見越して、予約人数を抑えているのか?と思うくらい、あっという間に売れてしまった。
 もう、標準価格 28,800円の席しか残っていない。

 そこで「のぞみ」をしらべると、飛行機よりも 6千円安い。
 そういえば、まだN700系に乗っていなかった。

 N700系は初めて車両傾斜システムを搭載した新幹線車両。
 ほんの少し鉄道のことを知っている人ならば、車両傾斜システムがだいたいどういうものかはわかるだろう。だが、具体的にどういう仕組みで傾けているかを知っている人は少ないはずだ。

 バイクをカーブで傾けるように、運転手が外側過重で体重移動するのではないことはわかるだろうが、運転手がハンドル操作をして傾けるのでもない。
 新幹線システムを制御しているATCで、列車は自車の現在位置を把握している。カーブが近づくとその手前で、先頭車両から順に空気バネに傾斜角度をコンピューターが伝えていく。

 傾斜と言うと、バイクならば45度。まぁ新幹線だから10度くらいかと思っていたら、傾斜角は1度。
 わずか1度の傾斜でカーブでの減速を抑え、JR東海道区間ではカーブも270km/hで走行する。
 速く走るだけの列車をつくる国は他にもあるが、車体と線路の総合システムで、カーブを270km/hで走ってしまう。そんな国は日本だけだ。まったくもって恐ろしい。

 最高時速は500系と同じ300km/h。当初は270km/hと報道されていたが、ダイヤ編成時には300キロとなっていた。
 先頭の尖った部分は10.7m(500系は15m、700系は9.2m)

 トップスピードに乗るまでの加速性能も、700系より優れる。

 2000年4月より、JR東日本とJR西日本が共同研究を始め、2007年7月1日、営業運転を開始した。
 主に「のぞみ」運行に使用され、2009年度中には、すべての「のぞみ」がN700系に替わる予定。残念ながら、500系を大阪以東で見られるのも、あとわずかということになる(現在既に、1日2往復のみに減っている)

 車体傾斜システムの新幹線が、270km/hで駆け抜けるカーブ。
 大阪から西の直線は、最高300km/h。
 鉄道雑誌で「格段に静かになった」と書いてある車内居室・・・

 この夏は東京-博多をのぞみで帰ることにした。
 正確に言うと、品川-博多
 のぞみ1号東京発博多行きの5分前を走る、品川発のぞみ99号。
 日頃「99ショップ」のお世話になっているからというわけではないが、朝イチなのに 99 という意外性がいい。

 6:00に品川を出て、博多に着くのは10:45
 速すぎる・・
 もちろん、飛行機の速さにはかなわないが、新幹線には、車窓の景色、地名が西に流れていく旅情がある。

 そうと決まったら、まずは切符の予約。
 JR東日本の「えきねっと」は1か月+1週間前から事前受付が始まる。
 以前は「窓際」「通路側」しか指定できなかったが、今回操作してみると、A~E席が希望できるようになった。
 富士山が見える側のE席をリクエスト。
 果たして、希望通り、席が取れるだろうか。

 旅情といえば、車内販売。
 日頃は朝食をとらないので、その日初めての食事はお昼過ぎ。
 10:45に博多につくならば、車内で何も食べる必要はないのだが、せっかくならば、何か食べたほうがネタが増える。

 切符の結果を待つ1週間の間に、今度は、駅弁の検討に入った。

*不定期で、旅が終わるまでしばらくつづきます。

|

2008年3月11日 (火)

窪山哲雄と洞爺湖サミット

 カンブリア宮殿に懐かしい名前を見た。
 かつてはきら星のごとく表舞台にいた人だが、もうとっくに地上の星の一つに埋もれたものだと思っていた。
 人は自分の関心の領域から消え去ったものについての評価が低くなる。

 村上龍は「窪山さんがハウステンボスを去ってから、ずっと注目していた」と言った。

 窪山哲雄 【 くぼやま てつお 】
 高級リゾートホテル事業で高い実績を上げている人。
【 窪山哲雄の略歴 】

1948年
福岡県生まれ

1971年
慶応大学卒業

1973年
コーネル大学入学 ホテル経営全般を学ぶ。

1989年
東京ベイヒルトン副総支配人

1991年
NHVホテルズインターナショナル(当時の名称)社長就任。

1992年
ホテルヨーロッパなどのハウステンボスの園内直営ホテルを運営。

1993年
初めての著書「ヒューマンウェアのホテル学」日本経済新聞社 出版

1996年
北海道拓殖銀行の社員がハウステンボスを訪れ、ホテルエイペックス洞爺(1993年6月開業)の経営再建を依頼。

1997年
1月1日、ホテル運営会社 ザ・ウィンザーホテルズ・インターナショナルを設立。
3月31日、NHVホテルズインターナショナル退社
7月1日、ホテルエイペックス洞爺からザ・ウィンザーホテル洞爺に改名。

1998年
3月22日、北海道拓殖銀行倒産(1997年11月)に伴い、ザ・ウィンザーホテル洞爺 閉鎖

2000年
10月、セコム損保と契約。ザ・ウィンザーホテル洞爺再開の目処が立つ。

2002年
ザ・ウィンザーホテル洞爺 再開業

2008年
7月7日~9日、ザ・ウィンザーホテル洞爺で 洞爺湖サミットを開催


 創業者の神近義邦、総料理長の上柿元勝、そしてホテルのスペシャリスト窪山哲雄が紡ぎ出すハウステンボスのストーリーに心酔していたファンは、興ざめした。

 去られた側には快く思わない人が多いし、去ったほうの窪山も去らざるを得なかった理由を2002年7月の著書、「プロジェクト・ホテルズ」小学館に書いている。

 部外者には本当のことはわからない。
 そして、そんな話を知りたくも、読みたくもない。



|

2008年2月 7日 (木)

ナナちゃん人形に会いに行く

 名古屋駅そばの百貨店「名鉄セブン」前の歩道にそびえ立つ巨大なマネキン人形。
 それがナナちゃん人形。

 名古屋には"地元の人は皆知っているが、全国的には誰も知らない"というものとして、セーラー服おじさんとナナちゃん人形がある。

 1973年設置。
 名前は公募で決定した。
 ナナは名鉄百貨店セブン館の「7」からきている。
 高さ610センチ。季節により水着、サンタクロースと着せ替えられる。タイアップでスパイダーマンになったりする(2004年7月1日)
 ただ、いつもは裸の時が多い。色は真っ白。

 セーラー服おじさんと言い、大きいモノ(というより、かさの張るモノ)、変わったものが大好きなナゴヤ人気質を象徴している。
 あ、別にセーラー服おじさんが大きいと言っているのではない。

 画像を見ようとGoogleイメージで検索すると617件がヒットした。
 まるでナナちゃんコスプレホームページだ。
 ちなみにセーラー服おじさんは230件。
 人気はナナちゃんが上をいくようだ。
 セーラー服おじさんは露出度が低いので、それもしかたない。
 あ、もちろんセーラー服おじさんに、もっと露出して欲しいと言っているのではない。

 かなり異質なスタイリングなので、よその土地から来た人との最初の待ち合わせ場所として好適。
 新幹線を降りて「ナナちゃん人形どこですか」と聞くと、答えられないナゴヤ人はいない。
 もし、答えられなかったとしたら、それは他県から来てたまたま通りがかった人か、三河の人だ。

 愛知県は尾張、名古屋、三河という三つの地域で成り立っている。
 愛知を愛知という人は少なく、ほとんどの人が愛知を「名古屋」と呼ぶ。
 東北や九州の街で高校生にアンケートをとったら、
「え~っ、名古屋県だと思ってたぁ ちょーうけるんですけどぉ」
という輩が5%は居るだろう。

 そして、三河の人は名古屋と一緒にされるのを嫌う。
 名古屋オフをやった時、東京、大阪、福岡から集まったメンバーが迷わず来たのに、ただ一人迷ったのは三河人だった。
 皆がブーイングすると
「三河は名古屋じゃないですから」
 とむっとしていた。

 全国のナナちゃんと呼ばれている人と、松嶋菜々子と片瀬那奈、それからセブンイレブンのナナコの担当者には、ぜひ一度ナナちゃんに会いに行くことを勧めたい。

 ナナちゃんは、あまりに大きくて記念写真が様にならないのが惜しい。coldsweats01





|

2007年11月 6日 (火)

ハウステンボスの挑戦

 CAS ViLLAGEは長崎を「食の発信基地」とすることをめざし、レストラン、ショッピング、ブライダルを三本柱とする。
 経営する会社は(株)CASジャパン。この会社はハウステンボスとは関係が無い。
 しかし、わずか7か月で自己破産を申請して閉園した。

 ハウステンボスは2003年2月26日、会社更生法の適用を申請。
 同年6月、メインバンクの興銀(現:みずほ銀行)から202億円の債務免除を引き出したのを機に、神近氏は経営責任をとり辞任した。

 辞任時点でハウステンボスの負債総額は2,400億円。
 大まかにいえば、4,000億円で街をつくり、1,600億円の借金を返したところでの挫折と言うことになる。
 1992年の開場から11年、バブルの崩壊や長期経済停滞などの逆風のなか、さほど市場が大きいわけでもない日本の西端でよく健闘したと言える。

 経営破たん直後の4月4日、日本経済新聞が朝刊トップで支援企業は「オリエンタルランド最有力」と報じる。
 オリエンタルランドは確かに経営権取得の意欲は示したが、後に「とても採算に合わぬ」と切って捨てた。
 結局は12月6日、野村プリンシパル・ファイナンスと支援契約。竹内大介氏(前野村証券アジア室長)がCEOに就任した。

 同業他社を救済すると見せて「やっぱりダメだ」とメディアに語ったのは、武士の情けに欠ける行為だった。

 世の中の誰もまだ「環境」の「か」の字も口にしていなかった1992年。
 住みよい地球を次世代の子ども達に残すという強い意志で始まった「環境と経済の両立」ハウステンボス・プロジェクト。

 神近義邦氏の「ハウステンボスの挑戦」は11年で終った。
 だが、千年の時を刻む街ハウステンボスの挑戦はまだ、つづいている。

|

2007年11月 5日 (月)

創業者は役場の職員

 東京ディズニーランド生みの親は高橋政知氏(故人)
 オリエンタルランド2代目社長。その後会長に就任。
 京成電鉄がディズニーランドプロジェクトから手を引いた後を受け社長就任。
 親会社三井不動産、ディズニー・プロダクションズの間に入り、東京ディズニーランド(TDL)開園にこぎつけた。
 高橋氏の存在なくしてTDLはなかったという後世の評価により、TDL生みの親と呼ばれる実業家。

 一方、長崎オランダ村、長崎バイオパーク、長崎ハウステンボスを起業した神近義邦氏は長崎県西彼町役場の職員。農林指導員だった。

 町役場の職員が総事業費4000億円の街づくり、ハウステンボスプロジェクトを起こす奇想天外な半生が「ハウステンボスの挑戦」に書かれている。

 オランダ村は、風光明媚な大村湾に沿ってオランダの風車や帆船、街並みを再現したテーマパーク。
 1983年7月22日オープン。全国のテーマパーク「○○村」乱立のはしりとなった。

 東京ドーム33個分という広大なハウステンボスとは違い、手ごろな広さのため半日ほどの滞在で十分にリゾート気分を満喫できる。九州最大の都市、福岡からも日帰りで行ける人気の行楽地となった。
 大村湾の風と西九州の強い陽射しを受けながら、テラスで飲むオランダビール「グローリッシュ」は最高だった。

 オランダ村はハウステンボスがオープンした1992年以降も営業をつづけたが、2001年10月21日に閉園した。
 その