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2005年9月26日 (月)

愛・地球博のからくり

 愛知万博が決まったのは名古屋がオリンピックの招致に負けて次の目標として万博をターゲットにしたのが始まり。初めの計画では名古屋市、尾張旭市の隣り瀬戸物で有名な瀬戸市にある海上の森(かいしょのもり)を切り開いて会場を作る予定だった。
 しかし、環境破壊を問題視する運動が起こり、規模を縮小して、長久手の戦いで少し知られている名古屋市の隣り、愛知郡長久手町(ながくてまち)の長久手会場をメインにして、瀬戸市はサブ会場の位置づけになった。
(会場は終了後すべて撤収され、元の姿に戻すことになっている)

 

 愛知万博は1,500万人の入場者目標に対して2,200万人を超え、大幅な目標クリアを達成。「さすが元気な名古屋」ということになったが、当初の目標は4,000万人だった。規模を縮小するということで目標を1,500万人にしておいたのが功を奏した。

 

 老人や小学生には無料パスが大量に配られた。僕が行ったのは初夏だが、口の悪い名古屋の知人は「仮設老人ホーム」と言っていた。
「おりゃぁこれで5回目だがね」
「なにたわけたことゆーとりゃーす、おりゃ27回目だがや」
 こんな会話が実際に飛び交っていた。

 

 愛・地球博の入場券はコンピューターチップが埋め込まれていた。人気のパビリオンは事前にインターネットで予約し、当日入場ゲートの機械を通すと予約が確定するという先進のシステム。

 学校の先生の中には入場を何度も繰り返す人もいた。大量に券を渡されて、すべて「入場済」にするよう言われてきたようだ。

 

 愛知の雄、カンバン方式のトヨタが大々的にバックアップしただけあって、カイゼンの姿勢はすばらしいと評価された。
 子供達が遠足に行って、行列でごはんが食べられないと言えば、弁当持ち込みを許可し、それを食べる場所がないといえば、専用のスペースをつくり、雨宿り場所がほとんどなく、弁当ごとびしょ濡れになったときけば、屋根を作り・・
 カイゼン後の話しだけきくと美しいが、初めの方に行った人は「最初からやっとけ」とつっこんでいた。

 

 「名古屋人は新しモノ好き」という人がいる。
 また一方、慎重で他人がやっているのをみて、案配がよさそうならば雪崩を打ったように追随する土地柄だと知人から聞いた。
事実、パチンコ屋、焼鳥屋、喫茶店・・新しい商売が始まると、じーっと様子をみていて「儲かるでかんわ」ということになると、一斉に参入するのは確かだった。

 

 ただ、愛知万博について言えば、初めのほうに行った人が正解だろう。僕が行った5月は、すでにトヨタ館など企業系パビリオンはとても入れないような混雑状況になっていたが、それでも開門と同時に直行すれば「マンモスのみ」が見られたし、外国系パビリオンはがらがらだった。

 

 名古屋の街のインフラとして リニモセントレア、名港トリトンは残ったが、大阪の「太陽の塔」のような、記念碑的な建造物を造ってほしかった。
 子供達のこころにずっと残るような

*参考図書「虚飾の愛知万博」前田栄作 光文社 2005年2月

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