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2008年1月 7日 (月)

日本の弓道(十)

 例年、高体連には3年生が優先で出場するという慣例があった。
 だが、僕らはあえてその特例を廃し、全員参加の一発勝負で5人を選ぶことにした。
 上位3人の力が高いレベルで安定しており、うまくいけば団体入賞が狙えると考えたからだ。

 競射は県北大会で個人5位にはいったスズキ、怪力のマツモト、主将のサトウが頭一つ抜け、それを二年生のヤマダが追う展開。
 的に中てるどころか、満足に弓を引くこともできない僕も、泣き言を言ってはいられない。
 今日初めて弓を引いた人が射るとこんな感じだろうという、引きの浅い型でなんとか的を狙う。
 結局、6位の2年生を僅差で制して、5位にすべり込んだ。

 選手登録は5人と補欠1人。
 補欠登録されたのは、ただ一人落選した3年生。僕を「練習せんでも高体連に出れるばい」と誘ってくれたタナカだった。

 試合ではいつも、前半の4射を終えた時点で成績の悪い者が、補欠と交替することになっていた。4射を終えて0または1中ならば九分九厘、前半でお役御免となる。
 男子の個人優勝者は8射8中か7中で競っていたが、僕らのなんちゃって弓道部では「5割」が夢のライン。
 8射で4射中てられれば、その試合はとても充実感を持って終えることができる。
 しかし早気持ちの僕には5割どころか「全どす」野球でいえば4タコの可能性が最も大きい。

 イケダ師範は一向に早気が直る気配のない僕に、いつもと変わらぬ暖かい笑顔で接してくれた。
 6月の高体連まであとわずかとなった日、その師範から意外な言葉を聞いた。
 「来月には、今勤めている会社をやめて、田川の会社に移ることになりました。
 君たちが高体連を終えて報告に来る頃には、もういません。
 頑張ってください。応援しています」

 田川は井上陽水が育った所だということは知っていたが、その地名を聞いてその町をイメージできなかった。
 田川は「青春の門」の舞台。
 もしこの時に読んでいたら、大学は早稲田に行きたい、東京に出たいと強く思っただろうが、その本を手にしたのは、福岡での大学生活にどっぷり浸かった後だった。

 親方日の丸の公務員を父にもつ僕には、イケダ師範の言葉が意味するところがよく飲み込めなかった。
 仕事というのは一度就いたら、変わらないものだと思っていた。
 会社勤めの人は、年をとってからも会社を変わるものなのかと訝しんだ。
 イケダ師範はいつもと同じように笑っていたが、心なしか淋しそうにも見えた。
 僕はどんな言葉が適当なのかがわからずに、そうなんですか淋しくなりますというのがやっとだった。

 今思えば、経営難で大幅な人員整理を行っていたその造船会社のことだ。ある程度の年齢に達していたイケダ師範は、再就職口の斡旋を条件に、肩を叩かれたのかも知れない。
 リストラという言葉が登場したのは、まだまだ後のこと。
 高校生の僕はただ、我が心に寂しさを感じるだけ。相手の気持ちを思いやるには至らなかった。

 その年、高体連の弓道は長崎市の街中にある道場で行われた。
 会場は競技によって県内の持ち回りで行われる。

 試合は初日に1立ち(2射)。2日めに3立ち(6射)が行われる。
 27校が8射ずつならば、1日で終わる競技だが、長崎県は離島が多い。
 教職員は若い頃に一度、管理職に上がる時にもう一度、離島勤務を経験しなければならない。女性の中には離島勤務を嫌い、隣りの佐賀県に勤める人もいる。
 離島からの船は、長崎または佐世保まで片道3時間。便数も限られる。
 一日で8射を終える競技だと、離島の学校は前後泊で二泊しなければならなくなる。
 27校の中に離島の高校があったのかを覚えていないが、全競技で横断的に日程を組むため、僕ら弓道部も旅の恩恵にあずかることができた。

 佐世保市開催の場合、二日間家からの往復になるところだが、僕らの弓道が一泊せざるを得ない遠い街で行われることを神に感謝した。

つづく





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