日本の弓道(八)
早気を患った射手にとって、長くもった会、無心の離れ、残心は憧れ。
かつて、伸び伸びと弓を引いていたイメージに戻りたい。
ただでさえ手狭なジョニー・デップ小屋では、的にも巻藁にも向かわない素引きの射手は肩身が狭い。日々、腕を上げていく仲間を尻目に、的に向かうことができない惨めさを否が応でも感じてしまう。
そんな時に見つけた一人きりの練習場は、かつてのイメージを思い起こさせてくれた。
緩やかな動作で八節が進んでいく。
大三からがいよいよ問題のステップだ。
右肩から先の力を抜き、弦を肘で引いていく。
野球でバッターが実際には腕で打っているのに「腰で打つ」と言う感覚と同じで、弓道の指導者は腕で引くのではなく「肘で引く」という言葉をつかう。
ランナーズハイという言葉は、ほとんどのマラソン・ランナーは本に書いてある幻想の言葉だと知っているが、この日の僕には天からまさに「弓道ハイ」といえそうなイメージが降りていた。
晴れやかな心で弦をいっぱいに引いた。
その手を離すと、矢は素直な心を映すようにまっすぐに28m先を目指し、36cmの的の中心を射る。
力を解きはなった弓は、左手を軸にきれいに返り、弦は左手の外側に収まる。
ばちっ
すごい音がして右耳がしびれた。
瞬時にガラスが粉々に割れる音がした。
2秒ほど全身が固まった後、すぐ辺りを見回した。
誰も見ていなかっただろうか。
目撃者がいないことを確認すると、痛む右耳を押さえながら、飛んだものを回収する。
かけていたメガネが体育館の壁に当たった後、地面に落ちていた。
初めてのメガネは3年使った。
まだ一年しか使っていないスチールフレームのメガネは、レンズが割れ落ち、フレームはぐにゃぐにゃになった。
あの時と同じだ。
小学3年の時、下りの坂道で止まりきれず自転車でこけて大けがをした。
傷んだ左足よりも、曲がったハンドルよりも、まず最初にきょろきょろと辺りを見渡した。
誰も見ていないことを確認すると、あまりの痛さに涙が出た。
親に連れられて駆け込んだ外科で、先生に言われた。
「誰も見てないと思ったら、安心して泣きたくなっただろ?」
読心術者かと思ったが、先生は病院の屋上で休憩していて、一部始終を見ていたのだった。
こんな細かい心理描写が心に焼きついたのは、それをなぞって解説した人がいたからだ。
恩着せがましくてはいけないが、言葉を持たない子供には、その心理描写を大人が替わりにしてあげるのがいい。
番えていない矢の替わりに、弦は耳からメガネを弾き飛ばして、きれいに弓返りの位置に納まっていた。
2500円の小遣いではメガネの弁償もままならない。
母は喧嘩じゃなかろうね?とだけ確認すると、替わりのメガネ代をくれた。
高校生活最後、そして弓道生活最後の、快心の会がこれだった。
結局、半年を過ぎても早気は克服できぬまま、僕は高校3年生の春を迎えていた。
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