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2008年1月 4日 (金)

日本の弓道(九)

 弓道生活は残り少なくなっていた。
 高体連が6月、前哨戦となる県北大会が5月。
 そのための選手選考は4月末。

 いつまでも早気のリハビリをしてはいられない。
 早く的に向かわなければ。僕は焦った。
 メガネをすっ飛ばして以来、素引きさえも怖かった。

 何の確証もお墨付きもないまま、素引き生活を2月ほどで切り上げると、再びジョニーデップ小屋に戻り、的に向かった。

 矢と矢筒だけは自分で買うが、かけ(右手につけるグローブのような装具)と弓は学校の備品を使う。
 先輩が引退する頃には、お目当ての弓を狙ってお座敷取りとなる。
 「俺の弓はおまえに譲るぜ」
 「お前にはこの16kgは無理ばい」
 中には「この弓は記念に俺がもらう」などと言う先輩もいて、僕らを呆れさせた。
 僕らの弓道部では、先輩が後輩に禅譲するのは伝統でも誇りでもなく、この弓だけだった。

 3年生が引退して主将となった僕の希望は最優先で扱われ、グラスファイバー製16kgの弓を引き継いだ。
 当時まだグラスファイバー製の弓は学校に1本しかなく、誰もが憧れていた。 16kgというのは弓の重量ではなく、しなりの強さを表している。キロ数が上がるほど反発力は強くなるが、筋力も必要である。

 強い弓から打ち出された矢は直線に近い軌道で飛ぶ。
 弱い弓から打ち出された矢は山なりに飛ぶ。
 高い確率で的に中てるには強い弓が有効だ。
 だが、弓は力まかせに引けるものではない。
 言葉にして言うならば、力を抜いて引かなければならない。

 大きな力を必要とするのに、力を入れてはいけない。
 そこには高い技術を要する。

 だが、指導者もなく論理を語るアドバイザーを持たない高校2年生はそんなことは知らない。
 スポーツとしての弓道をやっていた僕は、これだけ中っているのだから、さらに強い弓を引いて、たくさん中てたいと考えた。この選択が早気へとつながったのだ。

 リハビリに入る時点で16kgの弓は、怪力と言われていたマツモトに譲っていた。
 主将になった時、帰宅部だった同級生3人を入部させた。団体戦を戦うには僕とタナカ、そして1年生だけでは心許なかったからだ。

 怪力のマツモトは16kgの弓を操り、まさに矢のような弾道?で中てまくった。
 長身のスズキは弱めの弓を使ったが、二階から打ち下ろすような放物線で手堅く中てた。
 僕が休部という扱いとなった後、主将を任せたサトウは、身体こそ小さいが論理に長け、物理学を弓道に持ち込んでいるのかと思うほど、無理のないフォームでよく中てた。
 最も弓歴の浅いこの3人が、あっという間に弓道部の実力ベスト3となった。

 僕は一般的な女子が使うのと同じ12kgの弓で射場に立つ。
 かつて使っていたものよりもさらに弱い弓から放たれる矢は、まるで手で投げたグライダーを見るかのように頼りなかった。
 竹を合わせてできたその弓は、寝ていても引けるほどの弱いしなりだったが、僕の早気はまったく治っていなかった。
 それどころか、日に日に状態は悪くなる。ひどい時には大三の位置からほんの少し引き分けたところで離してしまうことさえあった。

 そうなるともう弓道の体を成さない。
 心身ともに型が崩れているのだから、我が矢が的を射るわけもない。

 3年生、最後の高体連に向けた部内選考の時がきた。
 僕らの弓道部の伝統で、選手選考は競射のみの一発勝負。
 調子が悪かったとか、風邪を引いていたいった、泣き言は一切通らない。もちろん、僕のほうが型がキレイだとか、僕の方が級が上だという言い分も通らない。

 僕の弓道は今も二級止まり。まだ伸び伸びと引いていた時期に、二度試験をうけた。そろばんは8級からだったが、弓道は3級から。試験でよい型を見せ、しかも的に中てれば、飛び級もあるのだが、二度ともひとつも中らなかった。

 僕は本番に弱かったのだ。

つづく

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