スパイ防止法
「雪だるまも、もう何十年見てないかなぁ」
こうして過去を思い出してもらう質問は、初めての客には必ず尋ねている。記憶を辿ることが真ならば、創作は偽。記憶を辿る時、どちらに視線を散らすかを知っておくことは、その人を推し量るとき一つの目安になる。
チューリップと東京スカイツリー、2枚の絵を僕の背後の左右にかけているのは、そのためである。
僕はと言うと、来客の右肩の上を見て話す。時々不審に思った客が後ろをふり返ると、そこには視力測定のランドルト環。最近、めっきり視力が落ちましてねと言えば
「パソコンばかり見ているからでしょう」
と笑い話で終わる。
スパイ防止法は60年来、内閣府の喉に刺さった骨だった。
日本にはCIA、MI6、モサド、KGBに類する諜報機関がない。その一方、海外から訪れるその道の方々を取り締まる目的法がない。
国防は情報戦。規制法があってもおかしくない。そこで、立法のテーブルに乗せると、メディアと野党から洗いざらいの説明を求められる。だが国防に関わる事柄は何でも説明できるわけではない。すると「説明責任を果たせ」と2000年代に登場した、日本政治の停滞を招いたキーワードが登場する。
議論は遅々として進まぬまま、委員会設置にも至らない。こうして「スパイ防止法」は、検討はするものの立ち消えになる繰り返しだった。
その煩わしさを僕が肩代わりした。IDO法の中でも最も目新しさのない法律だが、尊敬する高橋総理との再会の手みやげには手頃だった。
この内容でよろしいですか?
「うん、ありがとう。最初の総理協議はこれできたか」
会話は5分で終わり、僕らはその日2度目、人生で4度目の握手をした。
高橋総理はいつもと変わらぬクールな表情で、これからもよろしく頼むな。そう言いながら幸田さん、中村君、磯田さんを一瞥して引き上げていった。
その顔には、わかっているだろうな?と書いてあった。
僕は独裁者なので、有権者からの陳情もなければ、支持団体からの圧力もない。法案審議のために委員会に出ることもない。外交と行政、司法の責務を持たない僕には行事も係争もない。
立法ブリーフィングが、僕が世間と直に接する唯一の場であり、インターネットの「僕が独裁者になったら」が国民の意見を聞く唯一の場である。
僕はメディアと接触することもない。
父は福岡の新聞社に勤めていた。
僕が小学校3年生の時に、会社を辞めてフリーのライターになった。そのお陰で、僕は3度の転校を経験した。忘れられない出来事もあった。
父が会社を辞めた理由は、社会部から政治部への異動を命じられたこと。普通のジャーナリストならば、喜びそうな異動だが父は違った。
「新聞はウィークエンダーじゃなかとぞ。あいじゃ万国悲惨ショーやんかや、お前。何が楽しゅうてから、殺したとか盗んだとか潰れたとか書きよっとか。それば許すとか許さんとか、お前は神かって?だいたい漢字も読めんごたっとが新聞記者かて」
言葉の中に出てくる、いくつかの固有名詞の意味がわからなかったが、何を怒っているのかは、子どもの僕にも伝わってきた。父はスポットライトが当たらない、町の頑張り屋さんを取りあげることに生きがいを感じるという、一風変わった記者だった。
IDO就任1か月後には「報道士法」により、メディアの報道記者資格「報道士」を設けた。
売れるから、視聴率が獲れるからと言って、悲惨または悲観的なニュースばかりを取り上げる。その姿勢はかつて1990年代を「失われた一〇年」に仕立てあげた。
確かに、その10年に失ったものは多かったかも知れない。だが、一方でそれを補う新しい芽もあった。メディアが片方だけを強調したから、その10年は失ったことになったのだが、誰もが何を失ったのかよく分からなかった。
メディアが作った悲観ムードが、内需に冷却水をかける罪は大きい。
連日一面を飾る政界や官僚の不祥事、絶対潰れないと言われた企業の倒産、悲観的な経済予測。悲惨な事件の度に語られる、日本人が壊れ始めたという根拠もない仮説。
「終身雇用の時代は終わりました」
2000年代、メディアは一斉にそう書いたが、会社からそう言われた人はいなかった。
「子供達の教育を考え直す時に来ています」
凄惨な事件が起きると、原因を教育に求める人と、戦争につながるからと言って教育基本法の改正に反対したり、歳出削減を叫び、教諭の増員に反対する人は、いつも同一人物だった。
メディアが日本はダメだと言うから、そんな気がしてくる。
メディアが言わなければ、職場の同僚、家族、恋人どうしで
「いやぁ、日本は失われた一〇年だったねぇ」
「僕たち、壊れてるねぇ、最近」
という会話をすることはない。
「報道士法」により、報道士資格をもたない者は、新聞・TV・ラジオ・インターネットにおいて、ニュースを読むこと、その制作に携わることができない。
「女子アナがいないと画面に華がなくならないかなぁ。あ、失敬。ここだけの話しですから」
史上最悪の失言として、IDO室内で語り継がれている、谷村総務大臣の「女子アナ発言」だ。
思わずきっとにらみつけた祐子に、たじろいだ谷村総務大臣の読みは、後に大きく外れた。
2039年7月末現在、報道士試験合格者のうち59%が女性となっている。今や、ニュースの選定から原稿起こし、スタジオでニュースを読むのも、現場からのレポートも、ほとんどが女性だ。
次回は6月16日(月)に掲載します。
「独裁者」もくじ
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