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2008年7月18日 (金)

命を守るためにIDOが決断する

 リベロから来たボールをアタッカーにバックトスした瞬間、見たことのない映像が脳内を流れた。
 なんだ、今のは?
 あたりをきょろきょろと見回した時、監督の叱咤が飛ぶ。
 「リュウイチ!ぼーっとするな!」

 バレーボール部の練習を終えて帰宅すると、いつもは灯っている玄関の電気が消えていた。
 胸騒ぎが襲う。アパートは空っぽ。
 食卓の上には「銀次を探しに行く」という姉の走り書き。

 さっき僕の頭に浮かんだ映像には、学校の屋上のような場所と赤いチューリップが見えていた。
 カバンを放り出すと、急いで靴を履き直し、闇に沈む冬の校舎に駆けつける。
 正面玄関を突っ切って、まっすぐに裏庭の花壇をめざす。
 そこに、銀次が大事にしていたチューリップがあったはずだ。

 凜と咲く冬のチューリップをなぎ倒したその塊を、最初に僕が見ることになった。

 難しい場面に立った時「もしも、ここが砂漠だったら」と考える。
 (砂漠に立ちつくす子ども 空っぽになったペットボトルを右手に握りしめている)
 あるいは、爆撃機からミサイルが降り注ぎ、逃げまどっている自分を想像してみる。
 (焼け野原で、やせこけた子ども達)
 食べるものもなく、水もない。今まさに命を奪われようとしている。そんな時、人は本能的に生きようとする。

 「逆縁自殺を認めない法」施行時に制作して配信したイメージ映像の一コマ。
 涙の筋が乾き、砂漠に立ち尽くし夕陽をにらむ少年。
 画面が暗転し、ディゾルブで白抜きの文字が浮かび上がる。

 自分の力で生きる権利がある君が、死んでいいはずがない

 【AED法】
 本来AED(自動体外式除細動器)は実習を受けていなくとも、音声ガイドに従えば操作できるように設計されている。だが、AEDを知らない人が、救命作業をした事例はない。存在を知らない人には、ただの箱に過ぎなかった。

 2004年のAED一般解禁以降、公共設備に配備され始め、東海大震災の経験を経て、2030年には公的施設すべてに配備された。だが2034年の「心室細動事例調査報告書」によると、そばにAEDがあるのに使用されず、救急車の到着を待っているうちに亡くなったケースが60%もあった。
 10分で死に至る心室細動で、救急車を待っていては助からない。

 「AED法」では、50席以上の私立施設への設置、スポーツチームでの常備を義務化。
 解禁当初 3社だったメーカーは、現在19社となっている。
 AED製造メーカーには、厚生労働省の専門チームが張り付いており、より素人に使いやすい改良を求めている。
 許認可権を新設しないという僕の軸に則り、価格管理はしていないが、どのメーカーも真摯な低価格で出して頂いている。AEDメーカーさんには足を向けて寝られない。
 そして、AED実習を国民の義務とした。罰則はないが助け合いの精神を根っこに持つ日本人だけに、敏感に反応した。
 実習では三大救命措置のあと二つ、CPR(心肺蘇生術=人工呼吸、心臓マッサージ)も紹介する。同法施行後、CPRによる救命事例も、全国で毎年二千件以上報告されている。

 2000年には年間 4万件を超えていた心室細動による突然死は、2030年は3.5万件。「AED法」施行1年を経過した2036年は 2万件となった。
 人口が2005年より減少に転じており、一概に比較はできないが、当該死者数は著しい減少を見せている。日本は2030年以降、心室細動死者において、対前年減少率世界一を続けている。

 土地が高すぎて都市の過密が問題になった1980年代。
 食糧問題の観点からも、人口が減ることを歓迎する人たちがいた。
 しかし、2010年代にはいり、国の仕組みが維持できないとわかると、そう考える人はいなくなった。

 人口が減り続ければ、やがて国の信義を保てなくなる日がくるかも知れない。
 人の命を救うことは、日本の信義にもつながっている。

 こうした目標法には、免責例外やサブマニュアル的なチェック基準を設けていない。
 自治体は実習を主催するが、出欠も受講率の統計もとらない。
 国民の義務ではあるが、義務を果たさぬからと言って、自由を奪われることもない。
 心に訴えることが法の目的であり、行為には焦点を当てない。
 要は"管理のための管理"に、のめり込まないこと。
 "管理のための管理"は、公務員に新たなお役所仕事を生む。公務員には税金というお金がかかっている。実効性の乏しい仕事にお金を使うのは、止めなければならない。

 命を扱う法律は、誰かが決断しなければ前に進まない。
 1997年に成立した臓器移植法は、立法化が検討された日から制定まで13年の歳月を要している。
 当時「時間をかけて議論を尽くすことは尊いことだ」と学者達が言っていた。
 だがそれは、皆が責任を取るのを恐れていただけだった。

 「臓器移植は医学の永遠の課題です。倫理に照らし慎重な国民的議論が必要です」
 「私の子どもは親の肝臓を移植すれば助かると言われていました。でも先生から法律で禁じられていると、手術を断られて死にました」

 倫理 対 感情
 倫理を盾に、一見最もらしく、実は出口のない議論をして、お互いよくやったとたたえ合う予定調和な人たち。政治家と学者はそれで済む。
 だが、人は感情で生きている。命をつなぎ止めるために、その法律を必要としている人。一日千秋の思いで成立を待つ人は、涙声で訴える。

 人の命がかかっている時、求められる法律は、倫理・論理なにかが欠落していても、それをIDOが決断するよう、心がけた。



次回は7月22日(火)に掲載します。

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