逆縁自殺禁止法 痰にまみれるグローブ
「なぜ死んではいけないの?」という子どもの無垢な問いに、親が明快に答えるのは難しい。
だが「逆縁自殺を認めない法」が施行されたことで、一つの回答例として「法律で罪になるから」という選択肢ができた。
国が自殺を認めない姿勢を打ち出すことは、利こそあれ一害もない。
それでも死にたい人は死んで行く。だが、死人に鞭打つ罰則はない。
同法は行為に注目した法ではあるが、条文では自殺、自傷という行為に注目するのではなく、親が「つらい」「それ以外に途がない」という心に寄り添うことを求めた。
2036年1月の施行時には、最終項に「対象を40歳未満とする」という条文をつけた。対象の下限を設定した法律はあっても、上限を設定した法律はこれが初めてだった。そして、三か月後の改正でこの最終項を削除した。
「週刊新法」に竹田記者がこう書いている。
逆縁自殺禁止法の第三項目「40歳未満とする」が削除された。逆縁自殺に限って禁止するという法律は、目標法というIDOが提唱する新たな概念について、国民的議論を巻き起こそうという狙いが垣間見える。
ただ、逆縁に限定したことは理解し難い。誰かが自殺すれば、親に限らず、子、友人、知人みなが悲しむのだ。目標法として禁止を謳うならば「自殺禁止法」とするのが、衆目の一致するところだろう。今回ばかりは、自殺で肉親を亡くした人を中心に非難の声が高まっている。
百歩譲って法律の意義は後世の評価を待つとして、今回削除された最終項は、施行時から不可解だった。40歳という年齢を設定することに、いったいどんな意味があったのか。
40歳と言えば、その両親は概ね70歳を越えている。高齢者が希望の灯火とするわが子を、自殺という形で失う。その孤独な心中は察するに余りある。逆縁を悲しむ気持ちは、年代を超えた普遍のもの。法曹界にとどまらず、各界から疑問の声があがっていた謎の第三項は三ヶ月で姿を消した。
穿った見方をすれば、第三項はもともと国民に問題を提起するための条項だったのではないか。法律に上限年齢を定めるという新たな取組。40歳を越えた年齢での自殺では、悲しむ両親が老いているのだという想像力。確かに、多くの国民が新たな二つのテーマについて、考えさせられることになった。いつものことだが、IDOの心を知る術はない。
記事の向こうに、東大「昭和ヒーロー研究会」の仲間、竹田のVサイン映像が見えた。おとぼけ振りはなかなかのものだ。彼は意図的に「衆目の一致するところ」「声がある」といった"曖昧メディア語"を多用して、読者を揺さぶっている。一方的に、相手をやりこめるのではなく、メディアもこの程度ですよと内情を晒してしまう。もう何年も会っていないが、僕らは糸電話のようなもので、いつも話していた気がする。
最終項を削除した意図は竹田の言う通り。
初めに40歳という年齢を設けていたのは、同世代を生きる仲間へのシンパシー。
一度や二度の挫折くらいで死ぬなよ。だけど、三度も四度も挫折が続けば、死にたくもなるよな。十分に頑張って、責任を果たして来たんだ。自分の命をどう扱うかまで、法律で決められたくはないよな。子どもと大人は違うんだから。
ただ、子どもには、生きて欲しい。
「今日の放課後、屋上に来い」
地獄に突き落とされるような命令を受けて、過ごす午後の2時間。
屋上に行けば、辱めにあうことが約束されており、逃げて帰ろうものならば、さらなる辱めが約束される。
放課後までの途方に暮れる長い時間。死刑台に上るかのような屋上への階段。 カバンに入れていたグローブは兄からの借り物。
「ウルトラスポーツか。なんや、田舎もんがかっこつけて。ちょっと使いやすくしてやろうか」
一人が右手を入れるポケットに唾を垂らす。ほらお前も、グローブは三人の間を一巡する。
「あ、痰のほうが手に馴染むかも」
二巡めは「なかなか痰が出ないな」と2倍の時間がかかる。
「どうかな、銀ちゃん。ちょっと試してみてよ」
まるで親友に語りかけるように、言葉に親しみを込める執行人たち。
痰にまみれたグローブは青白く濁る。ぬるぬるとして、痰に宿っていた体温を感じることもなく冷たい。
にいちゃん、ゴメンよ
にいちゃん、さようなら・・・
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