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2008年8月 4日 (月)

技術革新独立決裁責任者

 七 越権

 IIDO
 技術革新独立決裁責任者IIDO(Innovation Independent Decision Officer)の誕生は世界に衝撃を与えた。
 工作機械で世界一となった日本が、同様に他の分野も押さえてしまうのか?各国政治・経済の首脳に戦慄が走った。

 「科学技術会議」が内閣府でスタートした2001年が、日本の科学技術再立国元年とすれば、IIDOが誕生した2014年が、日本に「世界の工場」の冠がついた元年だ。

 2001年の科学技術改革では、産官だけでおこなってきた議論に、学が加わった。このプロジェクトがあったから、今日、日本はナノ・バイオ・ITと三本の柱を保っている。
 だが、いくつかの問題は、なかなか解決しなかった。
 研究投資が民間頼りであること。
 省庁が横軸で協力しないこと。
 異能の人材に特別待遇ができないこと。
 技術革新は、日常の小さな作業の積み重ね。秘訣はない。
 技術革新は、ハードやソフトがするのではなく、人がする。
 ゆえにすべてはプロジェクト・リーダーとなる人材で決まってしまう。
 成功のポイントは、経歴や学歴を問わず、広い母集団の中から
最適な人材を迎えることに尽きる。

 IIDOは当時の川村総理が独断で任命した。苦労人の川村さんは二世でも族議員でもない。ただひたすら庶民の気持ちで政策を説いていた。
 「公務員の給料は半分でいい」
が口癖だったが、それは退任後20年たった今、ようやく二割減ったところだ。

 川村さんは総理よりもIDOをやりたかったのだろう。ただ当時の与党は安定多数をようやく確保した議席数だったし、その年一月の国民投票で憲法四一条と七四条を改正したばかり。そこでIDO法案をぶつけたら、憲法改正の意図がばれてしまい、未来永劫にIDOは誕生しなかっただろう。

 川村さんは賢明かつ私心のない人。近未来日本の繁栄のためにIIDOをつくり、日本の信義のために数十年先を見越してIDOの布石を打った。後者については二〇年後にささやかな評価を受けることになるが、当時はよけいな説明ひとつせず、その真意を黙して語らなかった。

 川村政権が二期六年を終えた時、僕はKLのFE設立委員会にいた。一年後にはFE設立を控えている。
 僕は川村さんがFEディレクターとして来てくれるものと思っていた。川村さんがやりやすいルールと体制をつくる。それが僕の動機付けだった。

 だが、川村さんは就任要請を固辞した。表向きは体力的理由としていたが、法務省内では、憲法四一条、七四条の改正が原因だとわかっていた。
 意図がみえない改正。多大な労力とお金を使いなぜ改正したのか。
 2011年、歴史的な憲法初改正で前政権は名を残していた。
 「川村もただ歴史に名を刻みたかったのではないか?」
川村さんが打ち立てた金字塔に似合わない評価が残った。

 川村さんが任命した初代IIDOの太田さんは、切れ味鋭い人。
 いつも予見を持たず、個別案件ごとに任意に処遇を決めていた。
 就任後の初仕事は「ガン細胞限定攻撃装置」
 ナノ・バイオ・IT、各分野の叡智の集約が求められた同プロジェクトでは、名古屋大学の池田教授に目を付けるや、年収2億円、研究棟から徒歩5分の住居を用意した。

 彼の切れ味はここからだ。
 池田教授の奥さん池田恵子氏は、名古屋でケアマネージャーをしていた。

 ケアマネ資格の受験にはホームヘルパー実務経験五年を要する。
 ケアマネになった後も、最初のうちは受け持ち軒数も少なく、ヘルパーを続けながらの仕事となる。

 亭主は大学の研究棟にこもりきり。三人の子育てをしながら、朝から夕方までケアマネとヘルパーの掛け持ち。子どもが寝静まると、パソコンに向かいケアマネの書類をつくる。ケアマネ専任となった時、ヘルパーになった日から10年が経っていた。

 「とてもありがたい話しなのですが・・
 家内がなんと言うか。家内がライフワークにしていることが、最近ようやく軌道に乗ってきたところなんですよ。僕が独りで行くしかないかなぁ」



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