東京スカイツリーの絵
「博多の街はおかしゅうなりよる、九州の東京になってどげんする」
父は持論を紙面に載せた。
会社はそれを行政に喧嘩を売ったと考えた。
父は「読者に本当のことを言うとが俺の役目たい」と譲らない。
父は子供の頃からの夢だった新聞記者を辞めた。
フリー記者になってから、家族の生活は楽なものではなかったが「国立ならなんとかする」と、僕を大学までやってくれた。
老いた父の姿を想像したことはなかった。
僕の周りの友達はどうだったのだろうか。
もし、想像することがあったら、きっと矍鑠とした老人を浮かべただろう。
それ以外は思いつかなかったはずだ。
かつて、世の中のすべてのことに刺さるかと思われた、父の舌鋒は見る形もない。
父がその輝きを失ってからのさし呑みは、親孝行としては片手落ちだったと思う。
杯を重ねるごとにメートルを上げる、気持ちよい酒を呑ませてやりたかった。
「あん絵はよう描けとったなぁ。お前 39か。ならヤツは今頃 37たいな。生きとってくれりゃあなぁ」
ことばは嗚咽にかわる。
今頃になってそれば言うとや、おやじ・・・
14歳になった僕は、家族の前では初めから姉と二人兄弟だったかのように振る舞った。
僕は大丈夫だと強がって見せることが、この家族の中で、僕の務めだと突っ張っていた。
だが、心ではいつも怒っていた。
親父、なんで銀次にもうちょっとようしてやらんかったとか。
銀次はいつも僕のお下がりを着ていた。
たまには自分だけのおニューが欲しかっただろうに。
笛もハーモニカも僕のお下がり。
僕が小学校のうちは、お互いの時間割とにらめっこして、音楽の時間には、笛の受け渡しで、互いの教室を行き来した。
僕が中学に上がると、笛が専用になり、体操服が 2枚になったと喜んでいた。
銀次は愛くるしい顔をしていて女の子から人気があったが、その分男友達には疎まれた。
絵が抜群にうまく、風景画は天才かと思えた。
東京に来て描いた東京スカイツリーの絵は東京都の金賞をとった。
「金ばとったけん、今度から金次って呼ばんばね」
母は茶化して喜んでいたが、銀次の笑顔は心なしか弱々しかった。
なんで兄ちゃんに言わんかったとか。そげん頼りなかったとか俺は。
お前んごたっとは弱虫って言うったい。
いや、悪かとは俺たい。
自分ばっかいい思いして、親には一回も、俺の分ば銀次にもしてやってくれとは言わんかった。
来る日も来る日も堂々巡り。
怒っていなければ、心が保たなかった。
死んだ子の年をかぞえて 25年。
父もまた、日々そのことを悔やんでいたのだと知った。
フリーライターになって 5年、一家 5人を食わせるために父はあれだけ嫌いだった東京に来た。
少しでも原稿の依頼をとるためだ。
小六の銀次は「Jリーグのチームがたくさん見られる」と言い「東京は楽しか」と笑っていたが、友達には恵まれなかった。
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