人は右側の歩道の右側を歩くのではないのか?
【 通勤の路上から 2 】
OLは、彼女にとって歩道の左側、つまり、僕の真正面を歩いている。
嫌な予感がする。
案の定、彼女は、こちらと目を合わさぬよう、歩道の目地を注視している。
しかし、プライドは高そうだから、500円玉が落ちていても、拾わないだろう。
僕は、さらに右側に寄る。
彼女は、まっすぐ歩いてくる。
このままでは、OLと正面衝突だ。
しびれを切らして、僕は歩道に降りる。
「おいおい、人がすれ違う時は、相手の右側からじゃないのか?」
面倒なことになってはいけないので、黙ってつっこむ。
もちろん、歩行者同士が行き違う時は、キープライト。
違反者は禁固1年以下 という法律はない。
人は右側の歩道の右側を歩くのではないのか?
法律で決まっていないことに、合意はあり得ない。
人は、それぞれが判断の基準を持っていて、臨機応変にそれを切り替えていく。
わかりやすく言えば、自分の都合で生きている。
再び、右側の歩道。
道路の反対側から、こちら側の歩道にちょんと、飛び乗ったおじさん。
彼にとっての左側、つまり、僕の正面を歩き始める。
歩道の右側はブロック塀。
おじさんが目前に迫る。
すると、おじさんは奇異な行動に出た。
半身になって、壁にぴたりと張り付いた。
まるで、この壁は僕のものだと言わんばかりに。
しばらく行くと、今度はおばさん。
やはり、彼女にとっての左側。すなわち、僕の正面をまっすぐ歩いてきたおばさん。
なんと、僕の前で立ち止まった。
一歩も譲らないという固い決意で、こちらをうかがっている。
彼女は口には出さず、僕につっこむ。
「人は左側の歩道の左側を歩くんじゃないの?」
彼らには、通勤路の歩道の優先権でさえ、譲れないという緊迫感がある。
戦争はとうに終わり、勝ちと負けで、相対的に富が配分される社会に生まれ育った世代。
社会の力によって洗脳されて、負けることは、すなわち不幸につながるという自己暗示にかかっている。
僕らが生きる、この地球では、幸せの総量が決まっているわけではない。
誰かに勝たなければ、一家無理心中ということもない。
始まったばかりの通勤の路上には、人々の切ない姿があった。
「通勤の路上から」は不定期で連載します。
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