箱根駅伝と蒲田踏切
箱根駅伝のカンタンな歴史
1920年(大正9年)
第1回開催
1953年(昭和28年)
NHKラジオで中継放送開始
1989年(第65回)
ニッテレがテレビ中継放送開始
2002年(第78回)
初めてドーピング検査が実施され、その後続いている。一部の区間、選手だけが対象。
すべての区間で実施するわけではない。ドーピングが発覚した場合、その選手の記録、所属大学の順位が無効となる。
2004年(第80回)
80回記念大会のため、日本学生選抜(日本学連)がオープン参加。
2005年(第81回)関東学生選抜(関東学連)がオープン参加。以降の大会も参加が続いている。
2008年(第84回)
関東学連が初めてシード圏内の4位にはいった。
1月3日は箱根駅伝復路。
その見せ場は10区の蒲田踏切。
首位のランナーが近づくと白バイ、つづいて大会車両がやってきて封鎖。コース・クリアとなる。
しばしの間があって、選手が踏み切り越えに臨む。
たかが2本のレールを越えるくらい訳のないことと思うかも知れないが、実際に走ってみると意外と歩幅が合わない。
2009年大会では東海大の選手が、踏切に足を取られてくじき、その後棄権している。
その時、間近でファインダー越しに見ていたが、足をくじいたことには気づかなかった。
道路と直角に交差しているレールを越えるだけでも神経を使うが、蒲田踏切は道路を線路が斜めに横切っている。
意識が朦朧としている時に、この踏切を越えるのは見ている以上に難しいのである。
去年の1件があったため、今年10区を走る選手はここに来て、踏切越えの練習をしたのではないだろうか。
先頭のランナーが通過してから、最終のランナーが通過するまでの間、踏切は閉まらない。あかずの踏切ではなく、年に一度の「閉まらずの踏切」となる。
京急電鉄は臨時ダイヤを組み、電車は最寄り駅で待機する。
最終ランナーの後から大会車両、つづいて警察の規制解除車が通過。
すると沸いてきたかのように京急職員が大挙して踏切を点検。
異常なしが確認されてから、電車の運行が再開される。
そこからしばらくは、溜まっていた電車が(上り)(下り)と殺到し、年に一度のあかずの踏切となる。
蒲田踏切は2002年1月より高架化工事が行われており、2009年1月にしらべた時は2015年3月に完成予定とされていた。
だが2009年12月、讀賣新聞では2012年度中に踏切は姿を消すと報道された。
そうなると、早ければ2013年大会から、復路名物「踏切越え」は見られなくなる。
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