ハウステンボスの歴史
ハウステンボスに初めて泊まったのは、秋。
テーマパークの園内に泊まるという体験をしたことがある日本人は希だろう。
それは、ハウステンボスでしかできないからだ。
ホテルアムステルダムの窓辺に座り、冷蔵庫に冷えた「ゴールデンホップ」を呑みながら、きつね色の照明に浮かぶドムトールンを見上げた。
その日、ハウステンボスは家族のように感じられる存在になった。
「長崎オランダ村」「長崎ハウステンボス」をたちあげた創業者 神近義邦は、元々は町役場の公務員。
長崎県西彼町役場の農林指導員をしていた。
実業家でもなければ、大手財閥系企業の重役でもない。
たった一人のど素人事業家が、公称4000億円の事業を起こした実話は「ハウステンボスの挑戦」~講談社~に詳しい。
神近は、ハウステンボス開園時、この町に「千年の時を刻む町」という冠を載せた。
千年の時、潮風と風雪にさらされ、やがて本物の町になる。
そこには、子ども達の笑顔があふれている。
未来の町で、子ども達が笑顔に包まれるためには、今の地球の姿が残っていなければならない。
だから、この町は「環境実験都市」の一面をもつ。
上物は、オランダの町並み。いわゆる、テーマパーク。
だが、その街作りの思想は江戸とオランダの治水に習い、それを現代日本のハイテク環境技術で構築した。
今でこそ「環境とか大切だよね」と誰もが言うが、1992年に「環境」を口にする人は滅多にいなかった。
ハウステンボスは、早すぎた環境都市なのだ。
環境ではメシは食えないという時代を経て、ようやく今、時代がハウステンボスに追いついた。
佐世保の冬、九州の西のはずれとはいえ、空気は身を切るように寒い。
この町の暮れは無数の電灯で「光の町」となり、カウントダウンで幕を閉じる。
そして「静かな冬のブルースに眠る、この町のニューイアーズデイ」という 佐野元春の歌 「Young Bloods」 がよく似合う、ぴんと張った空気の正月が明ける。
2001年春、係留気球「ルフティ」の名付け親となり、オープニングイベントに参加した。
これが、初めてチューリップの季節の訪問。
町は一眼レフを首から提げたカメラマンであふれていた。
日本には、これほど高級カメラが普及していたのかと驚いた。
ハウステンボスの原点は長崎オランダ村。
1983年7月22日に神近義邦が立ち上げた。
「テーマパーク」という言葉が一般に使われるようになるのは、1990年代半ばから。
全国のテーマパーク「○○村」の先駆けとなった。
このような遊園地は当時ほかになく、オランダ村は九州だけではなく、本州からも客を集めた。
ところが、そのような事態は想定されていない。
オランダ村への接続道路は、片側1車線の国道が1本あるのみ。
休日になると、周辺の国道は大渋滞。
マイカーでオランダ村へ遊びに来た家族連れも、近隣の住民も困り果てていた。
そこに、佐世保市が目をつける。
遊休地となっていた海辺の空き地「針尾工業団地跡地」をオランダ村の駐車場にして、そこから海路でオランダ村までお客さんをピストン輸送するプランを持ちかけた。
2月15日につづく
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