フェイクワード
2011年3月29日、予算委員会の質疑。
野党からの「復興財源としての増税もあり得るのか?」という問いに対して、管直人首相がこう答えている。
「あらゆる可能性について議論をする必要がある」
断言口調だ。
堂々としている。
一見、かっこいい。
だが、何も言い切っていない。
増税するとも言っていないし、しないとも言っていない。すべては議論次第。議論に加わるのは与党と野党であり、その責任の所在は後付けでなんとでもなる。
野党になんの言質もとられていない。
どっちに転んでも、後でとやかく言われることはない。
そういう、なにも責任を背負わない言葉が「フェイクワード」
一見、断言調に発言しているが、その内実は「何もやらない」と言っているのに等しい。
菅直人首相が被災地の首長に対して「できることは、なんでもやる」と言ったのもその一つ。
「できないことは、なにもやらない」と逆に読むことができる。
"できることは"と前提をつけられてしまうと、言われたほうは白けてしまう。
本人は一途な気持ちを表現したつもりでも、受け取る側にはそれが伝わらない。心の熱さがまったく伝わってこない言い方だ。
ポストにいる人の無責任時代。
政敵が、目を皿のようにして失言や失策を探している時代。
ポストに就いている側。
政治家で言えば総理や大臣。県知事。議員・・
会社で言えば、役員、部長。課長・・
彼らは、責任を問われない狡猾な言い回しを探している。
「あらゆる可能性を排除しない」
などという一見かっこよく、なおかつ責任が全くない言葉が報道されると、鰹節を前にした猫のように飛びつく。
「早急に全方位で検討してくれ」
「聖域を設けず、見直すことが必要だ」
「粛々と進めてくれ」
といった曖昧な言動は、下にいるものには響かない。
「また、始まった」と思うだけだ。
「4月23日までに佐藤君が予算を含む対策をまとめたうえで、部長以上を招集する会議を設営してくれ。これに関することは僕の名前を出してかまわない。全権は委ねるが、責任は俺がとる」
"いつ、誰が、何を、どのように"
を明示したうえで、自分がその全責任を負うことを明言しなければ、スタッフは動けない。
誰もが無責任だから、責任を背負う気概のある人が支持される。
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