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2012年10月26日 (金)

菅野智之 浪人の1年

菅野智之の大願が成就した。
一年の浪人生活を終えて、いよいよプロ野球での生活が始まる。
おめでとう菅野智之。

菅野智之【 すがのともゆき 】は巨人監督、原辰徳の甥というイメージが先行している野球アスリート。

1989年10月11日、神奈川県生まれ。23歳。
野球を始めたのは年長、6歳のとき。

2005年からは、おじさんの原辰徳とおなじ東海大相模高校へ進んだが、在学期間中の甲子園出場はなかった。
2008年からは、これもおじさんと同じく東海大学に進学。
首都リーグ通算37勝4敗 という成績を残して、2011年のドラフト会議に向けてプロ志望届けを出した。

アマチュア野球選手は日本プロ野球(以下NPB)に関しては、入団希望チームを口に出すことができない。
それは、シューカツの学生がB自動車の採用面接で
「企画部に行きたい」
「開発室に行きたい」
と配属の希望を言うようなものだからだ。

だが一方では、メジャー(以下MLB)に行きたい!というのは自由だ。
それは「B自動車ではなく、夢だったA自動車に行きたい」というに等しい。
職業選択の自由なのである。
NPBもMLBも一見、おなじ野球。
国内のことは言えなくて、国外のことは言えるというのは理解しづらい。
その原因は、NPBが"我々は統一契約書に基づく一企業のようなものである"と言い張っていることにある。
NPBとMLBでは、法律の定義が違うのである。

前年の澤村拓一は、希望の進路について聞かれると、巨人側と符丁を合わせたコメントを出して周囲を牽制。それが功を奏したわけではないだろうが、驚くほどすんなりと単独指名となった。

菅野智之の場合、監督と親せきである。
巨人志望は火を見るよりも明らか。
2日前のサンスポは「巨人単独指名」と一面見だしを立てた。
当日の報知は「虎竜ハムのリスト残る 菅野 巨人祈願」だった。

2011年10月27日、ドラフト会議2011。
1位指名したのは巨人と日本ハム。
巨人は清武代表がくじを引き、抽選で日本ハムが交渉権を獲得した。

ドラフト翌日、報知の一面見だしは「原監督呆然 菅野」。
巨人ファンにしてみれば、前年澤村がすんなりと単独指名できたのは何だったのかという気分だ。
決して、澤村の評価が低かったわけではない。
当時、中日監督だった落合博満は、退任後「2011年ドラフトでは澤村の力が群を抜いていた」と語っている。

それから一か月後の11月21日
讀賣新聞と報知新聞が「菅野浪人」を他社抜きで報じた。
報知の見だしは「巨人入りへ 菅野留年」

2012年3月31日、日本ハムの交渉期限切れ。
東海大の卒業延期制度を利用して就職留年した。
2012年度は東海大野球部の施設で練習。

2012年4月3日、巨人が2012年ドラフトで1位指名予定であることをメディア各社に伝えた。
菅野智之は「光栄です」とコメントした。

2012年10月15日、東海大横井人輝監督が巨人以外から指名された場合の対応についてコメント
「留学を含めて米国に行くだろう。日本にはいないのではないか」
これに対して、菅野をリストに残しているDeNAの高田GMは、東海大側を強く非難した。

2012年10月25日、ドラフト会議2012。
当日朝、菅野を見出しにしたのは2紙。
報知「巨人菅野 原願っている」
サンスポ「また競合も菅野は原が獲る」
報知は、DeNAがリストから外し、残るは楽天のみ。
今年、巨人以外で菅野を視察したのは楽天だけだと伝えている。

そして、ドラフト会議。
菅野智之を1位指名したのは巨人だけ。
原監督がくじを引くことなく、交渉権が確定した。

クライマックスシリーズ後、原監督の去就が取りざたされている。
だが、巨人ファンは2012年のセリーグを制して原留任が確定。そして、菅野智之を迎えて2013年シーズンを共に戦うことを見守りたいと思ってきた。
2013年春、開幕戦のベンチに2人が並んでいることを願う。

澤村拓一と菅野智之が競い合い、どちらがエースと呼ばれる投手に成長するか。
巨人ファンに、新たな夢と希望が生まれた。

澤村拓一デビュー年を振り返る(目次)
澤村拓一の2011年公式戦全成績

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