大田泰示プロ1年め~6年めまでの歴史
2009年、大田泰示プロ入り1年め。
4月24日、イースタン・リーグで1号本塁打
6月21日、1軍の試合に初出場。
代打でロッテのシコースキーと対戦して三球三振だった。
6月26日、9回から三塁手で出場。初守備機会のサードゴロをさばいた。
11月14日、日韓クラブチャンピオンシップ 9回に代打出場して三振。
55番の先輩、松井秀喜の1年めは4月を2軍で過ごし、5月以降、1軍に定着した。
ファンは松井秀喜の再来とまでは期待していなかったが、あわよくばという淡い期待はすぐにしぼんだ。
2010年
巨人は2007年からセリーグを3連覇していた。
その余裕があるうちにと、原監督は大田泰示が三塁のレギュラーに成長することを期待していたが、彼にまだそこまでの器はなく、一軍の打席には立ったが、2年めシーズンもヒットすら打てなかった。
オフシーズン、原監督は「(三塁手のレギュラーだった)小笠原を一塁に固定して、亀井義行と大田で三塁を競わせる」と公言した。
2011年
プロ3年めの5月19日
決勝点となるプロ初安打初打点。
一塁塁上に立った大田は
「ボールください」
「ボールください」
「ボールください」
そう三度繰り返す映像が何度も放送された。
翌日には原監督から「今日は、もうボール要らないのか?」とからかわれた。
まだ、精神的に子どもだった頃だ。
内野では出場機会がないことと、その長身と走力という適性により、シーズン半ばからはセンターにコンバートされた。
2012年
入団4年め、外野手登録1年め。
またも春先から二軍暮らし。
9月1日、7番ファーストで先発出場。
3安打3打点でお立ち台に立った受け答えは落ち着きはらった態度で、精神面の成長をうかがわせた。
9月23日、プロ71打席めで初本塁打。
ヤクルト戦1点リードの8回無走者。東京ドームのレフトスタンド上段に運んだ。
前試合には、レフトポール際に特大のファウルを打ち報知の一面を飾っていた。
大田泰示は、ファウルが1面を飾った初めての野球選手だったと推察する。
2013年
入団5年めも大半を二軍暮らし。
シーズン終了後、背番号が44に変更された。
現役を引退した松井秀喜を指導者で迎える際、その背番号として55を用意するためと推察される。
2014年
春季キャンプでは臨時コーチとして参加した松井秀喜から個別指導を受けた。
プロ6年めの今年、大田泰示は意外な新境地を開拓する。
それが、代走・守備要員。
8月以降、リーグ優勝に黄信号が灯り始めた頃から、大田の出番がやってきた。
代走の切り札、鈴木尚広に次ぐ2番手の走り屋として、そして、そのままセンターに入る守備要員として。
似ても似つかぬユーティリティ・プレーヤー。
それは、4番を期待された男の意外な居場所だった。
8月27日、初敬遠。
twitterでは「大田プロ入り初敬遠!」が話題になったが、次打者は投手だった。
次打者が野手の"真の敬遠"はまだ先だ。
9月17日
かぷー戦で打った今季1号本塁打は、代打逆転決勝2ラン。
もしこのまま、2015年シーズン大田泰示が覚醒したならば、この日が大田泰示覚醒の記念日となるだろう。
9月27日、初めてスタメンで4番打者となる。
それはセリーグ優勝決定翌日であり、主力を休ませた試合での4番。
それでも、メディアは「巨人歴代第81代4番」と謳った。
クライマックスシリーズ初出場。
スタメン起用はなく、途中出場のみで4打数2安打。
まったく阪神投手陣を打てずに4連敗したチームの中では、出色の出來。
原監督得意の頑なに主力にこだわる采配により、ラッキーボーイ大田は生まれなかった。
2015年シーズン、6学年下の岡本和真が入団する。
岡本和真は、かつて大田泰示がそうであったように「4番サード」を期待されている。
だが2015年シーズン、巨人ファンが最も飛躍を期待する打者は、プロ7年めを迎える大田泰示だろう。
| 固定リンク | 0
「スポーツ」カテゴリの記事
- 快晴の国立競技場トラックを「ひよこ」の皆さんが42.195mを駆け抜けた!(2025.01.27)
- 長崎平和マラソン開催 J.LEAGUE春秋制終了 2025年にしらべるが注目するできごと(2025.01.15)
- V・ファーレン長崎が決勝でFCバルセロナと対戦する日(2025.01.07)
- J.LEAGUEクラブが「世界一をゴールに設定」できる大会が2025年から始まる(2025.01.06)
- 柔道混合団体 ルーレットが回って僕の目が点になった(2024.08.06)