同窓会にアウェー感を感じる理由
1つのテーブルに10人ほどがつき、それが5卓設えられた。
出席者が5人を超える宴席に出るのは、ずいぶん久しぶりのことだ。
料理は個々に供されるコース料理。
だが、ここで何が出たか、何を食べたか、美味しかったか、そうでもなかったか。
さっぱり覚えていない。
宴会から半年が過ぎているせいもあるが、恐らく翌日にこの稿を書いても思い出せなかっただろう。
断片的な映像が記憶の彼方で揺らいでいる。
音声は付けようと思えばつけられるが、それは個人の言葉ではなく、わーっという歓声になる。
一番遠い席から、一番年下という後輩が挨拶にきた。
体育会系ではないので、そういう気を使う必要は全くないのだが、来てくれると嬉しいし可愛い。
男だけど。
とてもしっかりした考えを持った青年なのだろう。
と言っても、彼ですら卒業から20年は過ぎている。
最も彼に聞くべき質問である、いつ頃、この愛好会の歴史が潰えたのかをぶつけたものの、彼にも明快な答えの持ち合わせはなかった。
時間の経過と共に、場が解ける。
運ばれてくる料理つまり、自分の初期席に紐付かない宴会に変わっていく。
自分の席を動くと言うことは、行き場所がなければならない。
行き場所とは、そこに話しかける相手が必要だ。
そして、その話しかけた相手が、来訪を歓迎してくれて話しが弾むという成算が要る。
自信がない。
いや、自信がないというより、歓迎されるべき実績がない。
誰もが楽しい時を過ごしたい。
旧交を温めるに足る、共感を醸成できる人と語りたい。
数十年ぶりに逢う仲間であればなおさらだ。
動けない。
時々、料理から目線をあげて、行き場所を探してみる。
しかし、既にそこかしこに、しっかりとしたコミュニティができており、誰一人として人恋しく手持ちぶさたを託っていない。
無理をして、よい方に評するならば「出遅れた」と言えるのかも知れないが、先手を打って滑るのは怖すぎた。
はじめの席で1人、グラスを見つめているのは辛い。
ひとり卑屈になっている姿を見せているのは、盛り上がっている皆にとっても興ざめだろう。
ようやく、親友の隣りに1人分のスペースを見つけて移動する。
あまりに長く黙っていたので声が出ない。
周囲の喧噪にかき消されぬよう、腹に力を入れて話そうとすると、肩にも力がはいってしまう。
それを悟られぬよう、リラックスした外観を構築する。
なにか一つ収穫を上げるとすれば、自分が自分を嫌いになるような、心にもない作り話や、他人を不愉快にするような下世話な話しで場をつなぐことに逃げなかったことだ。
「アウェー感」という言葉がある。
日頃親交の薄い親せきから法事の連絡が来た時、そこにたった1人で隣席する自分を想像する。
あるいは、できあがったコミュニティに、新参者として乗り込む。
時間とお金をかけて、苦しみに行くことを人は避ける。
アウェー感を感じる場所に、人は足を踏み入れないものだ。
同窓会に「アウェー感」を感じるということは、リアルタイムの頃に大切な何かを構築していないということだ。
それは「共感」
漢字でたった二文字だが、仲間と共感を醸成することこそが、最も難しいことだ。
無理をしても作れない。
短期間ではなおさらだ。
長い期間をかけて、信頼関係を継続する。
そこで初めて、共感が生まれるのだ。
宴会ダイエットという造語がある。
しらべるで造った。
宴会では、いつも以上に気を使ってしまうため、脳がエネルギーを大量消費する。
高カロリーの飲み食いをしたにもかかわらず、カロリーの収支がマイナスとなり、帰宅して体組成計に乗ると体重がマイナス。内臓脂肪率だけが上がる。
この後、クルマに乗って実家に帰る。
そこには、体のデータを定点管理している体組成計がない。
恐らく、体重は1kgくらい減っていたことだろう。
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