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2015年10月の31件の記事

2015年10月31日 (土)

列車はゆっくりだが、アイドルは暴走じゃなくてBOSO娘

BOSO娘(ぼうそうむすめ)は房総半島応援アイドル。
いすみ鉄道が公認し、大多喜町観光大使、長生村スペシャルサポーターを務める。


2013年9月
公募、オーディションを経て、当時、中学一年生から大学二年生までの7名が選ばれた。

2013年10月19日(BOSO娘誕生日)
大多喜観光本陣にて結成記者発表

2014年4月2日
1stアルバム「Summer Drive」(3曲+カラオケ3曲)

2015年4月2日
「勝浦だ!タンタンメンだ!」

2015年5月
体調不良のため千葉あずさが卒業。

2015年5月30日
和島海彩(わじまみいろ)加入

2015年6月24日
「まつり」(3曲+カラオケ3曲)

2015年9月26日
藤咲奈々花が卒業


メンバーは2015年10月現在6人。

槻島もも
二宮羽菜
川原結衣
星野くるみ
本多なつき
和島海彩

なかでも川原結衣の言論はアイドルとしては出色。
「房総」という名ゆえか、その暴走ぶりに目が丸くなることもしばしばである。
いつも「今日のキャスは22時からだよ」とネット生中継の予告ツイートをしているが、恐くてまだ見に行けない。

BOSO娘にはAKBやHKT、くまモンのように、ココに行けば必ず会えます、あるいはグッズがありますという小屋はない様子。
いすみ鉄道でどのような押しになっているのかは、当日の楽しみの1つとなった。


いすみ鉄道関連書籍は2冊。
いずれも、鳥塚亮社長が上梓している。

①「いすみ鉄道公募社長 危機を乗り越える夢と戦略」
講談社 2011年5月

②「ローカル線で地域を元気にする方法-いすみ鉄道公募社長の昭和流ビジネス論-」
晶文社 2013年7月

鳥塚亮は赤字がつづき廃線もやむなしと言われていた2009年に、公募で就任した社長。
その就任3ヶ月後から、いすみ鉄道は地域の足でありながら、観光鉄道でもあるという道を歩み始めた。

①はそのストーリーを記している。
②は彼の持論を展開する随筆であり、いすみ鉄道そのものについて触れた内容ではない。


現在、いすみ鉄道を取り上げる「乗り鉄」本で必ず紹介されるのが、黄色い「ムーミン列車」
国吉駅にはムーミンのキャラクターオブジェがある。
こうした観光列車化により、採算を得る基軸は鳥塚亮就任以降のものである。

なぜ、ムーミンなのか?は「いすみ鉄道公募社長 危機を乗り越える夢と戦略」に詳しく書かれている。


いすみ鉄道26.8kmのうち沿線15kmに、春には菜の花が咲く。
黄色いムーミン列車が、黄色い菜の花で埋まる田園風景に映える。
いすみ鉄道のベストシーズンは「3月~4月上旬」と書籍では紹介されている。

春に行きたかったな・・
と思わないでもないが、決まったのがこの時期だから、口に出すのはやめておいた。

オフシーズンだから、それほど混んでいないかも知れない。
菜の花をとるか、のんびりムードをとるかと言われれば後者だ。
心穏やかな秋晴れの週末
この時は、そんなイメージを描いていた。

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2015年10月30日 (金)

小湊鐵道といすみ鉄道の歴史

「いすみ鉄道と小湊鐵道で往く房総半島半周の旅」まで4ヶ月。
幹事はアラブさんだが、僕は僕なりにしらべることにした。
旅は「計画」が一番楽しい。

なぜならば、一番長く楽しめるからだ。
旅そのものは数時間、長くて数日で終わる。
旅を振り返るブログも数日。

だが、計画は早く始めた分だけ長く楽しめる。
毎年のように夏に行っていた「100系 300系 500系 700系 レールスター N700系に一日ですべて乗る品川-博多の旅」「全駅停車していく品川-博多の旅」などの企画旅行は、およそ半年前から準備にとりかかっていた。


まずは書籍で予習する。
全国の名物鉄道を収録した「乗り鉄」本には、九分九厘、いすみ鉄道が収録されている。
まず、その概要を「房総半島を横断して田園風景を走る鉄道」と定義した。


房総半島の東(太平洋)側、真ん中あたりにあるJR大原駅。
そこからいすみ鉄道は西へ向かい、房総半島の中腹を横断していく。

終点の上総中野(かずさなかの)までは14駅。
営業運転距離はわずか 26.8km。
所要時間にして50分。

上総中野からは小湊鐵道(こみなとてつどう)に接続する。



■小湊鐵道といすみ鉄道の歴史

1925年
小湊鐵道、五井~里見 間開業
当初、安房小湊を目指して着工したため「小湊鐵道」と命名された。

1928年(昭和3年)
小湊鐵道が里見~上総中野(かずさなかの)まで延伸
(小湊鐵道全線開通)

1930年
木原線(のちのいすみ鉄道)大原~大多喜間 開業
木原線は、木更津を目指して着工したため、木更津と大原から1文字ずつとって命名された。

1933年
総元まで延伸

1934年
上総中野まで延伸。
小湊鐵道と接続して房総半島横断鉄道となる。

1987年7月7日
JR木原線廃線をうけて、第三セクターのいすみ鉄道(株)設立

1988年3月24日
いすみ鉄道開業

2009年
6月29日、社長公募で鳥塚 亮(とりづか あきら、前職は英国航空勤務)が就任。
ここから、いすみ鉄道の観光鉄道化が始まる。
10月1日、ムーミン列車運行開始

2010年6月
いすみ鉄道オリジナルポイントカード発行

2011年4月29日
大糸線で廃車になったキハ52型(窓が開くボックスシート車両)の営業運転開始。

2014年10月19日
いすみ鉄道公認の房総半島応援アイドル「BOSO娘」が誕生した。


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2015年10月29日 (木)

3人の仲間で練る「旅の栞」

「いすみ鉄道にしませんか?」
それを言ったのはアラブさんだった。
いや、サオリさんだったかも知れない。
だとしたら、台詞も違っていて
「前からいすみ鉄道に乗ってみたかったんですぅ」
だったかも知れない。

いずれにせよ、その台詞が出たのは、3人で「東京都下0系静態保存3本視察」に出かけた帰りの電車だ。
いや、国立の喫茶店だったかも知れない。

なぜ、こんなに曖昧かというと、生涯初の手術を間近に控えていた僕は、青梅、昭島、国立を1日で回るという強行日程を無事終えたことに安堵していて、人の話をよく聴いていなかったのである。
(いつものことだが)


そんなこんなで、次回の幹事はアラブさんということになった。
「0系視察」では僕が「旅のしおり」をまとめた。
日頃から、計画が趣味の僕にしてみれば、寝ていてもできる程度の出來だったと思うのだが、アラブさんはいたく感動してくれて、次はぜひ自分がということになったのである。


まずは候補日を決める。
10月から11月にかけて互いのスケジュールが合う候補日を3つ設定。
その中から天気出現率により、最も好天が見込めそうな日に決めた。


つづいて、幹事のアラブさんから「旅の栞ver.1」が添付ファイルで送られてきた。
一日がかりで鉄道に乗りに行くと言う企画は、鉄道ファンならば、さほど特別なものではないかも知れない。
計画も立てず、ふらりと言って、来た電車に乗り、目の前の定食屋で焼きめしを食べる。
そんな気軽な旅もある。

だが、僕らは2ヶ月も前からプランを練り、それぞれに調べたアイデアを持ち寄っている。
旅は「計画」で1度、実施で1度、振り返りブログで1度。
都合、3度楽しめる。
そんなことにつき合ってくれる酔狂な仲間が居ることは、人生の宝だ。
(髪は宝田)



「旅の栞」by アラブさん

いすみ鉄道改札 待ち合わせ

10:46
大原駅発
いすみ鉄道・大多喜行き 530円
(27分)

11:13
大多喜駅着
戦国武将・本田忠勝ゆかりの大多喜を散策

11:30
大多喜城 城見学
昼食

12:30
房総中央鉄道館 200円

13:02
久保バス停発
小湊バス・牛久駅行き 700円
(41分)

13:43
上総牛久駅着

14:13
上総牛久駅発
小湊鉄道・五井行き 700円
(27分)

14:40
五井駅着
小湊鉄道 SL見学

スイーツタイム
解散

多少の調整はあったものの「旅の栞」はほぼ、原案通りに承認された。


その行程をマッピングすると、それはちょうど房総半島を半周するコース。
僕はこの企画に「いすみ鉄道と小湊鐵道で往く房総半島半周の旅」と名づけることにした。

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2015年10月28日 (水)

幽体離脱してみた経鼻内視鏡頭蓋底手術

あっという間に眠りに就いた僕
スタッフの皆さんは、予定通りだと思っただろうか。
それとも「はやっ」とつっこんでくれただろうか。

ここで満を持して牧野医師が登場する。
と言っても、僕にはその姿は見えない。
次に意識を取り戻すのは、これから4時間後のことである。


「それでは、これより千葉龍一さんの経鼻内視鏡頭蓋底手術を始めます」
恐らく、このような口上で、スタッフが臨戦態勢に入っただろう。


下垂体腺腫の除去手術は、この経鼻内視鏡頭蓋底手術で行われる。
この方式は低侵襲な手術として、およそ10年ほど前に始まった。

「低侵襲」とは、患者の負担が軽いという意味である。
この方式が開発される以前は、口を開け腔内を切り開いていた。
ちょうど口避け女のように開口部を作り、そこから下垂体までの経路を確保していたのである。

そのため、腔内に大きなキズが残った。
キズが元通りになるまのに時間がかかるので、患者の回復が遅い。
恐らく術後の入院期間も、今のように2週間では済まなかっただろう。

また、従来は顕微鏡を使用していたため、死角となる部分があった。
そのため、希に動脈を傷つけるような事故が置き、輸血が必要になるといった事態もあった。
今回も合併症説明のなかで、そのような事態になった場合、死亡という可能性が言及されていた。

牧野医師からは「ただしそれは、内視鏡を使っていない頃の話です」と説明された。

経鼻内視鏡頭蓋底手術では、内視鏡を使うため、従来は死角だった部分が見える。
腫瘍のとり残しといった可能性が下がり、より根治的な治療が可能になった。


経鼻内視鏡頭蓋底手術は、10年以上前にはなかったハード(内視鏡ナビゲーション)ソフト(手技、チーム医療)両面の進歩により可能になったのである。


ちなみに、下垂体腺腫は子供より大人に多い。
よほど腫瘍が巨大でない限り、経鼻内視鏡頭蓋底手術が可能である。

10数年前に下垂体腺腫を患っていたら、腔内を切り開き、長い入院をしなければならなかった。
今回は、医療の進歩に切実に感謝した。

現代においても、すべての病院が経鼻内視鏡頭蓋底手術を行えるわけではないので、下垂体腺腫となった場合、経鼻内視鏡頭蓋底手術の手術実績が多い病院を選ぶとよい。



鼻から内視鏡ナビゲーションにより、先端にメスがついた内視鏡が下垂体へたどり着く。
遠隔操作画面で腫瘍(腺腫)を視認したら、メスを入れて腫瘍を切り開く。
それから、吸引ノズルを使って腫瘍をかき出す。
歯医者で使う、唾液・水分を吸い取る吸引器のようなものだと思えばよい。


つづいて、内視鏡によりとり残しがないよう、腫瘍を掻き出す。
下垂体腺腫には、一定比率の再発リスクがある。
くまなく、掻き出すことが、そのリスクを下げることにつながる。

この時、かすかに下垂体本体に傷を付けてしまうことがあり、それによってホルモン剤の使用が必要になることが、事前に説明されていた。

ここは、医師の手技次第と言える。
いわゆる巧い先生に当たれば、術後の回復がめっぽう速いと言うことになる。


腫瘍を掻き出すと、腫瘍があった場所が空洞になる。
すると、腫瘍におされていた下垂体とその上にある視神経が降下する。
その降下速度をゆるやかなものにするため、腫瘍のあった場所に"解ける綿"のようなものが詰め込まれる。
あとは、時間をかけて詰め物が解けて、本来の位置を取り戻していく。


こうした手術の一部始終は、幽体離脱して上空から見ていた。
わけはない。

事前に調べておくこともできたが、患者が手術を研究することでプラスになることは何もない。
むしろ、知ってしまうことで怖さが生まれるというマイナス面がある。

手術の内容は、退院後、ゆっくりと文献やインターネットを通してしらべたものである。


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2015年10月27日 (火)

執刀医のように現れる笑う患者 初めての手術台

ICU担当の女性看護師が2人。
手術室まで僕を先導している。

僕はというと、雑然とした廊下を自分の足で淡々と歩き、1分も歩かないうちに手術室の前に来た。
手術室のドアは広く開いている。
ストレッチャーを真横にしても、通れるくらいだ。
それは看護師がキックボタンで開けたのか、記憶がない。


看護師の役目はそこまでで、手術室に僕1人が入っていく。
正面にはこれから僕が横たわるベッド。
それを取り囲んでいるのは、うすい緑色の手術着に身を包んだチームの皆さん。
ひーふーみー
と数えはしなかったが、10人くらいはいるだろうか。


準備中の手を止めて、お待ちしていました
と言わんばかりに、誰もが僕の方を見て微笑んでいる。
彼らが小難しい顔をしていたら、患者の側が萎縮してしまう。
患者をリラックスさせるためにも、彼らは快活に振る舞っているのだ。
少なくとも、この時の僕にはそう見えた。

にこりと微笑んで、よろしくお願いしますと会釈する。


自分の足ですたすたと歩いて来て、じゃよろしくと言っている僕はあたかも、これからメスを執る執刀医のようだ。

ストレッチャーに乗せられて運ばれる患者のような悲壮感はここにない。
思いも掛けぬこの情景が意外で、僕はうけてしまい、満面の笑みを浮かべる。

こんなに笑っている手術前の患者は珍しいな
数人のメンバーはそう思ったかも知れない。


「こちらからお上がりください」
手前にいた目の大きい女性が手招いている。
その後も、全体の進行を取り仕切っていたので、恐らく、一目置かれるポジションにいるのだろう。

ステップの下で靴を脱ぎ、ゆっくりと手術台へと上がる。
生涯で初めてあがる手術台。
ようやく、ここにたどり着いた。

日本人のどれくらいが、一生のうちに1度ここに上がるのかわからないが、少なくとも病理がある以上、上がらないわけにはいかない場所だ。

全幅の信頼を置く医師の手で、次に目覚める頃、僕は健全な状態を取り戻しているだろう。
そう確信していることが、気持ちをしっかりしたものにしている。

「麻酔を担当します***です」
始めに麻酔医が自己紹介する。

よろしくお願いします。

つづいて、いろいろな人たちが挨拶に来る。
メモ帳を持ってくるわけにはいかないし、名刺をくれるわけでもないので、誰がなんと言う名前で、どんな役割の人だったかを記憶していない。
幸いなのは、次々に話しかけてくれるから、緊張する間もないということだ。


それでは、麻酔薬を入れて行きます。
その言葉を最後に、僕の記憶は消える。

麻酔薬が左の腕から入っていく時、あっという間に気持ちよくなり、あとは医師に任せるだけだなと思っていた。

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2015年10月26日 (月)

2016年開幕戦 高橋由伸に「最後の打席」を!

2008年
開幕から1番を打つ。
シーズン終盤、腰痛で二軍落ちしたため日本シリーズには出場しなかった。


2009年
開幕から二軍でリハビリ。
8月からファーストの練習を開始。
8月28日代打で今期初出場。

2010年
腰痛を抱えているため、代打中心の出場。

2011年
4月、またしても守備で外野フェンスにぶつかり負傷。


2012年
故障なくほぼ毎試合出場で優勝に貢献。

5月16日に放った満塁本塁打は優勝への起点となった。
その日は、2012年から始まった「橙魂」で、初めて来場者全員にユニフォームを配布する日。
交流戦初戦のオリックス戦。
巨人は前日までにようやく勝率5割に戻して臨んだ試合。

ユニフォームを受け取ったファンが、スタンドをオレンジに染め始めていたが、仕事を終えたサラリーマンがまだ入場しきれていない1回裏。
いきなり高橋由伸が満塁本塁打で試合を決めた。

"原巨人"絶頂の1年。
交流戦、リーグ戦、クライマックス、日本シリーズ、アジアシリーズの五冠を制したのはプロ野球で初めてだった。
(原辰徳は監督としてWBCも制覇)

「高橋由伸で勝った1年」を探すならば、この年だが、4番で50発(2002年)の松井秀喜と較べると見劣りがする。



2015年
原監督最後の年。
代打では.395 の高打率を記録した。

原辰徳退任に伴い、後任監督を打診されて受諾。
それと同時に現役引退を決断した。
巨人ファンは、高橋由伸最後の打席を大歓声で見送るという記憶を獲得し損ねた。


未練がましいかも知れないが「最後の打席」に悔いが残る。
できれば2016年シーズン開幕戦。
1日だけ支配下登録して、打席に立てないものだろうか。
谷繁元信が最多出場記録を達成したのを境に、監督に専念したように。

ファンあってのプロ野球。
ファンあっての讀賣巨人軍ではないか。


松井秀喜で勝った2002年
高橋由伸で勝った2012年
監督はいずれも、原辰徳。

このペースで行くと、巨人ファン至福のエポックイヤー、次は2022年だが、そんなに待ってはいられない。
高橋由伸の元"誰々で勝った一年"を作ってくれるスーパースター候補を入れなければならない。
それは生え抜きで四番を打つ左打者。
現在の70人には候補が見あたらない。

(おわり)


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2015年10月25日 (日)

高橋由伸が巨人ファンから愛され始めた「できごと」

高橋由伸はこれまで巨人にいたスーパースターの中でも特に守備が上手かった。

近年、原辰徳は"守れない外野"を使わなくなったため高橋由伸が目立たなくなったが、彼は元々強肩の外野手だ。
俊足で守備範囲が広いうえに、フェンスを恐れずに突っこむため、数々のピンチを救った。
顔は優しいが、守備に於いて彼はまさにウルフだった。


走塁については「速い」というイメージがついているが、入団当初、報知新聞評論家である原辰徳との対談で本人はこう語っている。

「周りが言っているほど速くないんですけど・・周りが足があるとか言ってしまっているんで、これからどうごまかしていこうかと」
決して遅くはないが、トップクラスの俊足というわけではなかったのである。


この対談 *1 で原辰徳は背番号について、ユーモアに富む発言をしている。
「できれば背番号8をあげたかったね。中畑清の24番より8番の方がいいかも知れないね。仁志と変えようか。"にし"で"24"なら、ちょうどいい」


"にしが8"と九九みたいでゴロがいいと思っていたが、にし=24というのは、当時考えもしなかった。
当時、これを読んだ仁志が気を悪くしないかと、冷や冷やしたものだ。
(仁志にとってのベストシーズンは2000年。高橋由伸3年めのシーズンなので、それは杞憂だった)


高橋由伸が慶應大学でつけていたのは主将の番号「10」
巨人の「24」は中畑清引退後、大森剛、石毛浩史、そして直前はカステヤーノに引き継がれていた。

*1「高橋由伸新世紀へかけろ大アーチ」報知新聞社


2006年
原辰徳監督復帰の1年め。
過去2年、故障続きだった高橋由伸は、春のWBCに召集されなかった。
ライトに亀井(または矢野)が入りセンターにコンバート。
しかしまたもや、ダイビングキャッチで脇腹を痛め1か月離脱している。

高橋由伸が巨人を逆指名した日、松井秀喜は宮崎キャンプで、本来の守備位置サードへのコンバートを志願していた。
そこで、サード松井、ファースト高橋由伸というかつてのONの再現を望む論調もあった。
しかし、松井の三塁守備はプロとしては並。
(当時、正三塁手は近鉄から来た石井)
一塁には清原がいた。

もしも、それが実現していれば、少なくとも外野守備で怪我を重ねた高橋由伸の歴史は、ずいぶんと違ったものになっていただろう。
そして「高橋由伸で勝った1年」を未だ作れないまま、FA獲得の2007年を迎える。


2007年
開幕から常時1番に入る。
FA権獲得。
ここで巨人ファンを感激させたコメント「ずっと巨人に居たい」が出る。
それは、松井秀喜に続いて逃げられるものと、心の準備を整えていた巨人ファンには意外なものだった。
そして、巨人ファンの気持ちを動かした。
この時を境に、高橋由伸は巨人ファンの誰からも愛される選手となったのである。

2007年7月26日、1シーズンのプロ野球新記録(9本)となる先頭打者本塁打。
35本塁打で本塁打王に1本届かず。
高橋由伸は打撃三冠のタイトルを一度も手にしていない。
それは能力が不足していたからではなく、故障離脱が多かったためだ。


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2015年10月24日 (土)

長野マラソン2016エントリー本日一瞬、開催

日本の市民マラソンとしては、1年間のうち、最も熱い戦いが今日の10時から始まる。
そして、それはマラソンだというのに一瞬で決着が付く。
それは時間にして30秒くらいだろうか。


2015年10月24日(土)10:00
第18回長野マラソンのエントリー受付が始まる。
定員:10,000人 
RUNNET枠9,000人 電話枠1,000人
定員は2012年大会より10,000人となり、それから変わっていない。


長野マラソンの定員が8,500人だった時に1度、10,000人となってから1度走ったのだが、違いは歴然としていた。
この大会で10,000人を走らせるのは危険である。
特にスタート前からスタート直後はコースが狭くて危ない。
コースを広げる(違う所を通す)か定員を減らすかどちらかだ。


RUNNETの受付システムは、数ある販売システムの中で最も優秀な部類に入る。
10時にアクセスすると、そこで順番が割り振られる。
あとは、自分の順番が来るのを待てばよい。
枠が9,000だから、順番待ちの数字が9,000以内ならば、誤ってブラウザーを閉じてしまわない限り、エントリーできることになる。

コンサートなどの興行を販売するイープラスなども、この仕組みを見習って欲しいところだ。


長野マラソンは確かに人気大会だが、人気大会は他にもいくつかある。
なぜ長野マラソンだけが、この"秒殺"イベントになるかというと、それは人気大会の中で唯一「先着順」だからである。
これだけは、続けて欲しい良き慣習である。


長野マラソンには、エントリー枠獲得よりも厳しい戦いがある。
それは宿泊ホテルの確保。
数多くの「旅マラソン」ランナーと、善光寺参りの観光客による争奪戦は熾烈だ。

2015年に北陸新幹線が開業。
観光客の増加により、いっそう宿の確保は難しくなった。
昨年は善光寺のご開帳とも重なったが、今年はそれがない分、幾分ましかも知れない。

もしも長野市内で確保できない場合、上田などの近隣駅そばに仮の宿を取る。
そして、根気よく長野市内でキャンセル待ちが出るのをウォッチすると良い。
実際、2014年大会時は、そうしてキャンセル待ちで部屋を確保できた。


参加費は従来どおりの10,000円+手数料
この金額は全国の政令市マラソンがヨコ並びで設定している料金。
(横浜だけが、群を抜いて高い)
恐らく、東京マラソンが値上げすれば、各大会が一斉に追随するだろう。

今年もチャリティエントリー(1,000円)を受け付ける。
エントリーはあくまで先着順であり、チャリティ拠出の有無と出場権は関係ない。


開催日程(一部予測)
2016年4月16日(土)10時~20時
ビッグハットで選手受付 ナンバーカード配布。
4月17日(日)
8:30 スタート
13:30 終了(制限時間)


長野マラソンの開催日は、4月の第3日曜日で固定されている。
暦で言うと第3日曜日となる可能性があるのは15日~21日。
日によって天気出現率が違うので、過去大会の天候をみれば、2016年大会の察しが付く。

■2015年4月19日:晴 12度 *9時現在
■2014年4月20日:くもり 9.3度 *スタート時
■2013年4月21日:雪 0.4度 *スタート時
■2012年4月15日:晴れ 最高気温15度
■2011年4月17日:晴れ 最高気温14度
 (この年は東日本大震災の影響で中止)
■2010年4月18日:晴れ 最高気温13度
■2009年4月19日:晴れ 最高気温23度

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2015年10月23日 (金)

長嶋監督が高橋由伸にウルフと命名した結果

高橋由伸はイチローが日本を去った後、NPBで唯一"天才"と呼ばれてきた選手。
天才とは、天賦の才能に頼って結果を出す人のことではない。
天才とは、努力し続ける才能を持った人を言う。
努力し続けることは、誰にとっても簡単ではない。


1998年
プロ1年め、開幕スタメンデビュー。
この年の新人王は中日川上。
同年オフ、吉村外野手の引退で背番号「7」が空き、高橋由伸が引き継ぐものと目されていたが、それはドラフト(逆指名2位)で入団してきた二岡智宏が引き継いだ。


1999年
シーズン前半、長島監督が高橋由伸を「ウルフ」と命名。
松井秀喜は「ゴジラ」というニックネームを待つまでもなく、その風貌からして威圧感があった。
一方、童顔の高橋由伸は迫力に欠ける。
戦う者としての猛々しさを醸し出すための策である。

だが、この命名が故障の歴史の始まりとなってしまった。
シーズン終盤名古屋ドームでフェンスに激突、鎖骨骨折。
2015年現在、いつの頃からか、メディアもファンも、彼をウルフと呼ぶのをやめている。


NPBでよく言われる「2年目のジンクス」は高橋由伸には無縁。
プロ入り2シーズン終了時・契約更改での年俸1億円到達は、当時のプロ野球最速記録。
その後は松坂、大谷、菅野らが続いている。


2000年
前年の骨折で準備不足となり3年目は前半戦、打撃不振を極めた。

2001年
開幕戦3番。開幕戦アーチ。
「140試合3番固定」とスポーツ各紙に報道されていたが打撃不振。
31試合本塁打なし(44~74戦)のスランプで1番も経験。6番が指定席となった。
オールスター初本塁打(第3戦)。
シーズンオフにはW杯に出場、4番を打った。


2002年
開幕から3番固定、一時5番。
一時期打率を4割に乗せた。
8月3日、守備で足をひねり全治2週間の怪我、登録抹消。


2003年
松井がヤンキーズに移籍した後を受けて、開幕4番センター。

4月25日、腰痛で登録抹消。
5月15日、初めて代打本塁打。スタメン復帰後はライトを守る。

6月11日、11打数連続安打 14打席連続出塁。いずれも日本タイ記録。
7月15日、オールスターゲーム、原監督初采配試合で代打出場。
2打席連続本塁打でMVP獲得。
11月、アテネ五輪予選センターで出場。打率.538で首位打者。


2004年
開幕戦4番ライト。
この年から指揮を執る堀内恒夫監督の方針である「四番は生え抜き選手」により四番を打つが、不振におちいった。

今でこそ巨人ファンの誰からも愛される高橋由伸だが、この頃は「松井秀喜につづき、FA獲得後はメジャーへ移籍する」という空気を醸し出していた。

松井秀喜は2002年に4番で50発を打ち、原辰徳監督就任1年めに日本シリーズで西武を4タテという「松井で勝った1年」を作って旅立った。
果たして高橋由伸は、移籍までに高橋由伸で勝った1年を作れるのか?
興味はそこにあった。


2005年
故障がつづき、堀内監督のチームリーダーとしての期待を2年続けて裏切った。
堀内恒夫は2年で退任。
2006年からは原辰徳が復帰する。


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2015年10月22日 (木)

スーパースターへの道を選んだ高橋由伸

左手にミサンガをつけて会見に臨んだ高橋由伸は、にこりともせずに200人の報道陣の前に座っていた。
慶応の後藤監督は穏やかに応対する左側で、仏頂面の高橋由伸が宙を見据えている。
まるでドラフト会議当日、意中ではない球団から強行指名された選手のような表情である。


その日、僕は愛知県の尾張地区で飛び込みの営業に回っていた。
朝10時に会見が行われ、そこで逆指名球団が発表される。
当時はインターネットはまだ普及前。
携帯電話は持っていたが、スマホのように最新のニュースが配信されるわけでもない。

それはある意味で、気が散らないでよかった。
もしも、情報入手手段があったならば、営業のクルマをどこかに停めて、それに見入っていたかも知れない。

当日のスポーツ紙朝刊は「ヤクルト有力」を伝えていた。
巨人にはほとんど脈がない。
人はあまりに望みが薄い時にこそ、返って期待が持てることがある。
ダメで元々。

お昼休み、巨人ファンの同僚である石ちゃんに電話を入れた。
彼はホンジャマカの石塚に似ていることで、皆から石ちゃんと呼ばれ、慕われていた。
ナゴヤでは土曜の夜にホンジャマカが生放送のテレビ番組を持っていて、彼らは大変人気があった。
「まいう~」で有名になる遙か前の時代だ。

どう?どこにいくかわかった?
すると、石ちゃんがもったい付けて言う。

「どこだと思いますか?」
その言葉ですべてを理解した。
もしかして?
「ぴんぽん~」


その頃、宮崎キャンプでサードコンバートをアピールしていたのが、1つ年上、プロでは5年先輩の松井秀喜である。
高橋由伸、巨人逆指名の報を宮崎で聞いた松井秀喜はこうコメントした。
「スターにはどの球団でもなれるけど、スーパースターには巨人でしかなれない」


会見の数時間前、高橋由伸は家族会議で、ヤクルト、西武への入団を主張していた。
元々、巨人志望だったが、プレッシャーが大きい巨人で大成できるのかという迷いから、違う選択肢を選ぼうとしていた。
それを翻意させたのは巨人ファンの父・重衛さん。

高橋由伸は確かに会見で笑わなかった。
それは、直前まで秋波を送っていたヤクルト、西武への配慮だったと推測する。
彼はスーパースターへの道を歩む覚悟を決めたのである。


1975年4月3日
千葉県生まれ。
大学入学時に浪人したため、1年入団が遅い上原浩治と同年月日生まれ。
2年入団が遅い高橋尚成とは1日違い。

1997年11月
桐蔭学園から慶応大へ進み、逆指名1位で巨人に入団。
スーパースター候補に対して、本来ならば一桁の背番号を割り当てたかったのだが、生憎空き番号がなく「24」に決まった。


1998年3月1日
オープン戦初戦で先発デビュー。
長嶋監督は公式戦さながらのベストメンバーを組んだ。
以下はその先発オーダーである。

1 【二】仁志
2 【左】清水
3 【一】清原
4 【中】松井
5 【三】石井
6 【右】高橋
7 【DH】ダンカン
8 【捕】杉山
9 【遊】川相
*投手は岡島

見るからに"打てそう"な、昔ながらの強打の巨人打線。
それは悪く言えば"打つしかできなさそうな"打線でもある。

古きを温ねて新しきを知る。
打って、走って、守れる。
原辰徳が10年の歳月をかけ、三拍子揃ったチームに作り替えたのである。

つづく

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2015年10月21日 (水)

高橋由伸 選手兼任監督

東京ドームで観戦していると、巨人で一番愛されている選手は誰かがわかる。
若年層であれば坂本勇人だろうが、若い人から年配者まで、幅広くといえば高橋由伸だ。
巨人のMr.childrenと言ってもいい。
(なんだそれは)

好機が訪れ、代打のために高橋由伸がベンチを飛び出した瞬間、それに気づいたファンが早くも歓声をあげ、代打コールと共にこの日最大音量の拍手がわき起こる。


今でこそ愛すべき男、高橋由伸がかつては、どこか外様のようなイメージを持っていたことを覚えているファンは少ないと思う。
その話はあとで詳しく触れるとして、現在の話だ。


巨人はその高橋由伸に「原野球を継承する男」として、監督就任を要請した。
高橋由伸と就任依頼の会談を終えた久保社長のコメントを読むと、断るわけがないだろうという上から目線が垣間見える。
両者のコメントから読み解けるのは、巨人側が高橋由伸に対して
「巨人の監督は選手兼任でできるような甘いものではない。現役を引退して監督をやって欲しい」と主張したことだ。


それは、お偉いさんにありがちな、あまりにも夢のない紋切り型の考え方だ。
巨人ファンならば、誰もがこう唱えるだろう。

「一番打てる代打を引退させてどうするの?」

2016年シーズン、試合終盤、ここで一本欲しい。
しかし打順は低打率にあえぐ下位打者に巡ってきた。
さぁベンチには誰がいる?
よしのぶ!はもう居ないのか。
そうして、いくつの試合を失うことだろう。


ここで、似非プロ野球通ならば、
なにを言ってるの?
どこの世界に、監督が代打に備えてベンチ裏でバット振っているチームがあるの?
というかも知れない。


だが、今論じられるべきは、そういう問題ではないのだ。
来期、巨人は高橋由伸にフリーハンドを与えなければならない。

高橋由伸が自ら進んで現役を退きたい。監督に専念したい。
そう思うのならばそれでよい。
もし、現役としてグラウンドに立ち、それでもいいと巨人が言うならば監督を受けるのもいい。
彼がそう思うならば、その通りにさせる必要がある。

監督打診会談のあと、高橋由伸は「ファンの期待に応えたい」とコメントしていたが、ファンは彼がバットを置くことなど期待していない。


監督候補と言われる江川卓は、数年前、身内のほころびが原因となって、肘鉄を食わせた時点で終わっていたのだ。

大田泰示から「55」を剥ぎ取ってまで背番号を開けて待つ松井秀喜は、未だに帰国の意志がない。

追い詰められているのは巨人側だ。
もしも、高橋由伸から「現役を続けたいから監督はパス」と言われでもしたら、大迷走に突入する。
「引退しろ」とか言っている場合ではない。


それでも高橋由伸は、巨人のいいなりになるだろう。
そして、それは巨人がかつて高橋由伸に借りがあったことを想起させる。
それは1997年11月4日に遡る。


慶大日吉キャンパス
前日、六大学秋期リーグを終えた高橋由伸がいよいよ意中の球団を発表するとあって、200人の報道陣が駆けつけていた。

この年、高橋由伸獲得意志を表明していたのは、中日、日本ハム、広島を除く9球団。
そこから高橋由伸が在京5球団(西武、ヤクルト、巨人、横浜、ロッテ)に絞る。
そして、会見の時点で脈が残っていたのは西武、ヤクルト、巨人。
当日のスポーツ各紙は「ヤクルト有力」で一致していた。


「私、高橋由伸は讀賣ジャイアンツを逆指名させていただきます」
詰め襟の学生服を着て「逆指名球団発表会見」に臨んだ高橋由伸は、この会見で笑わなかったのである。

つづく

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2015年10月20日 (火)

バリウム検査が20年経っても技術革新しない理由

検査室にあったのは、おなじみの機器。
期待はしていなかったが、バリウム検査に技術革新は起きていないようだ。

予約時間を過ぎること15分。
検査着に着換えて、ようやくバリウム検査が始まる。

「メガネも外してください」
指示に従い、機械のヨコに立つ。
カップホルダーには、既にバリウムがたっぷりと注がれたコップが待っている。

「あ、ちょっと待ってください」
胃袋を押さえつける孫の手にトラックボールが付いたようアームが、ふらふらと動いている。
技師がそれを調整した。
機械が老朽化しているのでなければいいが。

発泡剤をさらさらと口に含み、少量の水で流し込む。
この時点でげっぷが襲ってくるが、これを耐えなければ痛い目に遭うことを経験で知っている。

バリウムを一気に飲む。
まずいものではない。かと言っていちごフレーバーも付いていない。

「ごくごくといっちゃってください」
となりの部屋の小窓からこちらを覗いている検査技師の声が、スピーカーから聞こえる。
なにが、ごくごくだばか
と20年前ならばつっこむところだが、もうそれほど血気はない。


1995年夏、暑いナゴヤの病院にあった機械となんら変わっていない。
この20年間には、ベッドが動くタイプの機械も経験した。
しかし、人はただ寝てればいいという「全自動」には至っていない。

全自動にならない理由は、胃部の全面にバリウムを粘着させることが難しいからだ。
カメラも追随して回る機械にすれば「全自動」もあり得るのだろうが、NASAの無重力訓練機のようなものにしなければならない。
それでは機械が高額になり、普及は難しいだろう。

MRIやCTが苦手という人がいるように、閉所が苦手な人にとっては敷居が高くなると言う難点もある。


こちら向きに回ってください
ちょっと右
あ、行き過ぎ
はいそこで、息を止めて
はい楽にして

毎日、これを言う方も飽きるだろう。

よし、今日は"こっそりげっぷ"もしていない。
(だいたい、ばれる)
呼吸で自然に抜けているのか、げっぷのむかつきも収まってきた。
これは、いいんだよな。
そう思った時だ。

「ちょっと、空気が抜けて来ましたね」
技師がドアを開けて、追加の発泡剤を持ってきた。


そういえば、胃を押さえ付けるトラックボールの出番がなかったな。
検査が終わったら食べようと思っていた、マックのソーセージエッグマフィンを食べていて思い出した。
本当に機械が壊れていたのかも知れない。


バリウムや内視鏡に代わる方法がないわけではない。
血液検査により胃部検査を行うことはできるが、それでは食道や十二指腸の情報が得られない。
ある程度の苦痛は仕方ない。
早期発見には代えられない。


あれから20年。
シマちゃんとは職場が離れ、もう随分会っていない。
彼ならば、この状況をなんとコメントするだろうか。
次の20年に向けて、彼がなんと言うか聞いてみたくなった。

おわり


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2015年10月19日 (月)

バリウム検査 その前に筋肉注射を回避する

名前を呼ばれ、通された狭い廊下の両脇には、開診前だというのに多くの人が居た。
ようやく空いた椅子を探し、腰かける。

開診と同時刻に入れた検査予約だから、待たされることはないだろう。
そう思って、本もkindleも持ってきていない。

目を閉じて待つ
でも一向に名前を呼ばれない
さっきから雑音として聞こえていた人の会話を、言葉として認識し始めた。


「あんたが病院来るなんて、よっぽど悪いんだね」
ばぁさんのだみ声に、独演会をしていたじーさんが応える。
「おぅよ。インフルエンザの注射とかしたことねーからな」

悪い予感がして、薄目を開けて見やると案の定、
じーさんはマスクをしていない。

しまった。
病院に来る時はマスクを持って来ないといけないのだった。
マスクを忘れた客のために、受付でマスクを売ってくれればいいのに。
1つ50円くらいだったら買う。いや、100円でもいい。
考えても、後の祭り。

じーさんのとなりに居た若者が、席を立ちこちらへ移ってきた。
僕がとなりにいても、同じようにしただろう。

「すみませんが、ちょっと静かにしてくださいね」
コロコロで床のゴミを掃除にきたおばちゃんが、じーさんに注意を与える。
患者に注意すると言うことは、看護師なのだろう。
そういえば、白衣を着ている。

それでもじーさんは、話をやめない。
再び、耳の焦点を外して雑音の一部に変えていく。
それにしても、こんなに待たされるのか?
本を持ってくればよかった。
そう思った時、おばちゃんから名前を呼ばれた。


彼女に招かれた部屋へ向かう。
じーさんの前を通る時は、息を止めた。
家に帰ったら、うがいを入念にしなければ・・

薬剤やガーゼなどが雑然と置かれているところを見ると、どうやら僕は処置室に来ているらしい。

「緑内障の検査受けてるの?」
年上なのか、年下なのかわからないおばちゃん(たぶん看護師)が、ため口で尋ねる。
遠慮がないから、人はおばちゃんと呼ぶ。
ということは、最近、遠慮がなくなってきた僕はおじちゃんの資格を得たことになる。


「半年に1度、検査を受けているんです。次は・・」
どれだけ検査を受けているかを手短に話し、注射回避を訴える。
奥の部屋へ入っていくおばちゃん。
その先には医師がいるのだろう。
「緑内障?あぁしなくていいよ」
漏れてきたその言葉にすべてを察して、安堵した。

なにごとも経験と言うが、リスクのある経験はゴメンだ。
いや必要ならば、リスクもいた仕方ない。
無用のリスクはゴメンだ。


初めて来る病院の見取り図は、もちろん把握していない。
それでも、レントゲン検査室がどこにあるかは、なんとなくわかる。
中規模病院の場合、それはおよそ地下にあるものだ。

そこには、町のたばこ屋さんのようなガラス戸の受付。
そして、お前は誰だと言わんばかりのどでかい監視カメラが正面から、僕をにらんでいた。

つづく

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2015年10月18日 (日)

20年前ナゴヤ、バリウム検査はなぜ最後におこなわれるのか?

1995年夏
僕は全国的な猛暑が問題視されるずっと前から、暑いことには定評があるナゴヤの病院にいた。
一緒に来たのは同僚のシマちゃん。

名字がシマだから、誰もがシマちゃんと呼んでいる。
名字が2文字で「ちゃん」をつけやすいからというだけではなく、彼は日頃から「愛すべき男」と言われていた。

人のことをよく気遣い、こびへつらうけれど、人が見ていない時はぼろくそに言う。
僕にはとうてい真似できない、その処世術が羨ましいと思っていたからではないが、彼とは行動を共にすることが多かった。

その日は、1年に1度の健康診断
その最終メニューである胃部レントゲン検査(通称バリウム)を終えると、その病院から支給されたお食事券を持って、近くの食堂に河岸を変えた。


「なんで、バリウムって最後なんだろうね?」
シマちゃんが口火を切る。
2人とも、憤懣やるかたないのである。

確かにどの健康診断でも、バリウムは最後に行われる。
この後、バリウムが残っていると思うと、ずっと気分がすぐれない。
いやなことは、最初に済ませたいと思うのが人情だ。

しかし、それには文句を言っても始まらない。
バリウムが腸に滞留しないよう、我々はすぐに下剤を飲んでいる。
日頃、下剤を服用していない人は、速効でその第一波がやってくる。

いつ来るかわからない第一波に怯えていては、健康診断どころではない。
従って、バリウムは全行程の最後にアサインされているのである。


しかし、回れとか、息止めろとか、げっぷするなとか、腹立つよね。
これは僕が言った。
すると、シマちゃんが応じる。

「だいたい、人がぐるぐる回るのとかおかしいよ。
きっと20年後には、技術革新が起きていて、機械のほうが回ったり、そもそもバリウムを飲まなくて済む方法が開発されると思うよ。また、そうならなきゃおかしいし」

その言葉にはリアリティがあった。
数々の技術革新を起こしてきた日本人。
恐らく、医療の分野でも画期的な方法を創り出すに違いない。

昔も今も、日本人にはこうした、技術革新への希望がDNAに備わっている。
まだ、朝ご飯を食べていた当時の僕は、昨晩21時から我慢した夜食と、抜いた朝食の分まで取り返そうと、お昼から焼き肉定食を頼んだのだった。


あれから20年。
自治体が行う「胃がん検診」で病院に来た。
2015年度は、ありとあらゆる検査を受けると決めている。
ところが昨今、企業では検診のメニューからバリウムを外し始めており、そういえばここ数年バリウムを飲んだ記憶がない。
そこで、会社で胃がん検診がない場合に限り、1,000円の実費負担で受けられる制度に応募したのである。


いつも、検診で訪れる病院に電話すると「すでに定員終了しました」と断られた。
2軒目は行ったことがないA病院。まだ枠が残っていた。


予約した時間より15分前に着く。
あいにくの雨。
建物の古さもあいまって、じめっとした空気。
あまり快適とは言えないが、今からここに入院するわけではないし、バリウム検査なんてどこで受けても同じようなものだろうと、淡々と時を過ごすことにする。


診察に来たわけでもないのに、渡された問診票は2種類。
そのうち一つは、筋肉注射に関するものだ。

生まれてこの方、いろいろな検査を受けてきたことには自信があるが、筋肉注射は経験がない。
というより、耳慣れない医療行為だ。
記憶にあるとすれば、殺人を取り扱う推理ドラマ。
何者かにより筋肉注射が打たれた・・というものだ。


説明によると「消化管の働きおさえることにより、胃の動きをわかりやすくするため」とある。

設問には
「緑内障と診断されたことはあるか」
「前立腺肥大と診断されたことはあるか」
などが並ぶ。

緑内障は所見は出ていないが、定期的な検査を受けている。
そもそも、バリウム前に筋肉注射を打つという話を聞いたことがない。

とりあえず、同意のサインには署名したが、これについては注射器を構えた人の前で、異議を唱えればよいだろう。
「筋肉注射打たせない人には、バリウムは飲ませない」
と言うのならば、そこで帰ればよい。

つづく

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2015年10月17日 (土)

ファミマの違和感

今日はファミマ
電車の駅を降りると、コンビニの選択肢はローソン、セブン、ファミマの3つ。

ホームから階段を下りながら、今日のお昼は何にしようかな?と考える瞬間が楽しい。

きっとお昼休みをつぶして午後の準備になりそうだな。
という時は、その日食べたい気分のサンドイッチが置いてあるコンビニ。

今日はゆっくりお弁当が食べられそうだなという時は、ファミマに足が向くことが多い。

ファミマは、小ぶりで安くて美味しい弁当の品揃えがよい。
もちろん、ローソンやセブンにも小ぶりな弁当はあるのだが、ファミマは選択肢が多いのである。


ファミマは「弁当用レジ袋」を用意している。
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買った弁当を温めてもらった時などは、その袋に入れてくれる。

それを自分で持っている姿について、自分では何も考えないが、クルマを運転していて、あの袋を提げて横断歩道を渡っている兄ちゃんを見ると「あぁ、とても無防備だなぁ」と思う。
思わず、こちらが目を伏せてしまうほどに。

これから食べる弁当を手にしている時、人は幸せを隠しきれない。
顔に出していないつもりでも、弁当用レジ袋を提げているというだけで、幸せそうに見えてしまう。


この日、選んだのは鶏そぼろ弁当。
朝は、一緒にコーヒーも買うので、袋は通常の白いレジ袋だ。

財布からクレジットカードを出す。
カード銘柄は「ローソンパス」
ポンタカードにクレジット機能がついたカードで、現在は「ローソンポンタカード」と呼ばれている。

この券面には、青い文字でLAWSONと記されている。
それほど大きい文字ではないが、受け取った時に目に入る位置だ。

「うち、ファミマですよ」

この言葉をもう10回は聞いている。
念のために言うが、こちらが差し出しているのはクレジットカードだ。

「Tポイントカードは大丈夫ですか?」
こちらの台詞ならば、100回以上聞いている。
他社コンビニ提携クレジットカード(以下、他社カード)で決済するけれど、Tポイントカードを呈示すれば、Tポイントが付く。
他社カードとファミマカード(クレジット機能付き)を呈示して、決済は他社カード、Tポイントを付けるということもできる。

「Tポイントカードは大丈夫ですか?」については、
「せっかくTポイントが付くのですから、もしお持ちでしたら、Tポイントカードも出しませんか?」
という意味の親切なのである。

「うち、ファミマですよ」は、聞く度にがっかりする。
「それ、ローソンのカードですけど」と言われることも多い。

「看板見えなかった?ローソンと間違ってない?」
「うちじゃポンタポイントは付かないよ」
と言われているようだ。
不注意な大人と見くびられているようで、不愉快である。


ファミマ接客は、店によって落差が大きい。
ファミチキとファミチキホットを買うと、封をするテープを貼り分けてくれて「こっちがホットです」とやってくれるような、通の店員が居る。

一方では「そこで切っちゃったよ」と店員に愚痴りながら、血が出ている手で商品を詰める店員もいる。
注意したところ、きょとんとした表情で絶句していた。
血液感染という言葉を知らないようだ。

そんなファミマに違和感がある。
「うち、ファミマですよ」
次にそう言われたら、それはどういう意味なのか?
と尋ねてみよう。
できれば、それを言わせないで欲しい。

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2015年10月16日 (金)

透明人間になりたかったがなってみるとそうでもない

子供の頃、学校の図書館に入り浸っていた。
漫画しか読まない松坂大輔でさえ、そう言うくらいだから、世の中には「自称・図書館小僧」はあまた居るに違いない。

だが、僕の場合は本当に居た。
お昼休みの図書館にもいたが、放課後、誰も居ない図書館にも居た。

盆地にある田舎のその学校では、図書カードが全員分、誰でも手に取れるよう入口に置いてあった。
そこには借りた本が記されている。
たくさん借りた人のカードはホッチキスで留められて2枚以上になっている。


僕は学校で一番、本を借りる生徒になりたくて、よく本を読んでいる6年生のAさんや、5年生のBさんのカードを見ては冊数を確認していた。
(ライバルはすべて、女子だった)
何を読んでいるかということには関心がないので見ていない。


最近、村上春樹の出身高校の図書館から貸出カードが流出。それを神戸新聞が掲載するという出来事があった。

日本憲法は国民に対して思想・信条の自由を保証しているため、コンピューター管理となった現代では、図書館の貸出履歴は返却と同時に削除される。
だが、貸出カードという紙で管理されていた時代は、後生大事に保存していた図書館があったのである。


ちなみに神戸新聞は「村上春樹は公人であり、村上春樹研究の役に立つから、公開は問題ない」という立場をとっているという。
恐らく、図書館に関する諸制度を調べたことがない人が言っているのだろう。
"神戸新聞による憲法への挑戦に反対するストライキ"というものがあったら、参加したいものである。


子供の頃、他人の読書履歴を見ることが御法度であることは知らなかったが、僕はただ冊数(というよりカードの枚数)だけが気がかりだった。


「学校で一番本を借りている生徒」になりたい。
今思えば、おかしなことに拘っていたものだが、子供心にそれは真剣なものだった。
冊数をかせぐためには、低学年向けの絵本まで借りて帰った。

ある時、絵本を小脇に抱えて下校していて、小学校一年生のみーちゃんに「あんな本読んでる~」と指を指された時は「おい、言うな しーっ」と諫めた。
その恥ずかしさは強く心に刻まれて、それを今でも覚えているほどだ。


シャーロック・ホームズ全集は、図書館にあるものは全て読んだ。
「小公子」や「ファーブル昆虫記」といった名作児童文学は自宅にも買い置きがあったのだが、推理ものや冒険もの、ミステリーの類は父が買ってくれなかったからだ。

その数年後「刑事コロンボ」が流行ったこと、そして現代「相棒」がロングランになっている原点は、ホームズにあると今でも信じている。


「とうめいにんげん」シリーズは、食い入るように読んだ。
人が透明になるなんて、本当に可能なのだろうか?
小学生の僕は真剣に考えた。

もしも、とうめいにんげんになったら・・
いろいろなことを妄想した。
恥ずかしくて書けないようなこともたくさん。


それから10年後「数学II」の先生が、ポルノ映画「透明人間」を見てきたという話をきかせてくれた。
「内容?まぁ、君たちが想像するようなものだよ」
「でも、最後はトラックにひかれてしまうんだけどね」

悲しい結末だったようだ。


かつて、とうめいにんげんになりたかった。
でも大人になり、歳を取ると、幼い頃の憧れが可笑しい。

会社で狭い廊下を歩いていると、相手がぶつかっていく。
お偉いさんは僕の前を素通りして、選ばれし者の元へと通う。
実際に透明人間になってみると、その存在の軽さが可笑しい。

俺を認めろ
などと、気色ばむ時期はもう過ぎた。

透明人間は、見えない人には見えない。
見える人には見える。

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2015年10月15日 (木)

脳と身体、ランニングやドライブを数値化するメガネJINS MEMEいよいよ発売

身体のデータを管理して、様々な指標の数値を出すメガネが発売される。

なんだそれは?
これでは、あまり興味がもてないと思う。
だが、実際に誰かが使ったわけでもない現時点においては、これ以上の書きようがない。


ブルーライトをカットするPC向け廉価メガネで市場を席巻したJ!NS(じんず)の名前は、既に有名になっている。
都内でも主要駅そばには出店を終えている。

そのJ!NSが、2015年11月5日に発売するのがJINS MEME。
【 じんずみーむ 】は、目から出ている微量の電気を検知して、体調を管理するメガネ。

メガネのフレームにセンサーと発信器が仕込まれており、それをスマホやパソコンで受信。
アプリに数値を表示して体調を管理する。


電気を使うと言うことは充電が必要と言うことだ。
充電はミニUSB端子でおこなう。
フル充電からの連続使用は16時間。

夜寝る前に充電して、朝起きたらJINS MEMEをかけて出かける。
その繰り返し。
毎晩スマホを充電するように、これからはメガネも充電しなければならない。
(ユーザーは)


開発は、東北大、慶応大などとJ!NSによる産学共同開発。
健康器具分野ではオムロン、居眠り運転防止の分野でDENSOと業務提携する。


2015年1月16日
仕様公開

2015年4月22日
「カンブリア宮殿」にJ!NSの社長が出演した際、番組終盤にJINS MEMEが紹介された。

当初の発売予定は2015年10月だったが、10月14日に発信された希望者向けメルマガでは、11月5日がメガネ本体発売、関連アプリのダウンロード開始日と発表された。
またその中で3種類のアプリについても紹介された。


JINS MEME(メガネ)本体は2種類
「ES」は通常使用向け
3点式眼電位センサー・加速度センサー・ジャイロセンサー搭載。
アプリ「JINS MEME」「JINS MEME DRIVE」での利用を想定している。

「MT」はサングラス
加速度センサー・ジャイロセンサー搭載。
3点式眼電位センサーが着いていない。
アプリ「JINS MEME RUN」を使うスポーツ利用に特化しており、仕様を落としている。


日頃から、毎日体組成計に乗っていたり、光学式リアルタイム心拍計付きGPSで詳細なデータをとっているランナーならば、触手が伸びる新商材である。

ただ、そういう人ならばわかると思うが、数字は管理してなんぼではなく、活かしてなんぼである。
ずっとデータはとっているけれど、それを分析したことがない。
そういう人が大半だろう。

よほどの分析マニアでもない限り、データの分析は敷居が高い。
そして、身体と心のデータということになると、それを読み解く専門知識も必要だ。
専属トレーナーがいない一般人にとっては、マイ・ビッグデータが持ち腐れという状態なのである。


さてこのJINS MEMEだが、ウェブサイトで見る限り、斬新な指標を打ちだしているものの、それを活かした行動はどうすればよいのか?

ランナーで言えば、どのような強化トレーニングが必要なのか。
健康管理で言えば、どのような生活習慣や栄養摂取が必要なのか。
そこのところは懐疑的だ。

当面は、飛びついたユーザーたちの声をウォッチしていきたい。


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2015年10月14日 (水)

満面の笑みを浮かべ、手術棟へ向かう患者

13:00
手術予定時間まで1時間。
準備OK。
おちついている。

はみがき粉、歯ブラシ、コップ、ティッシュといった日用品は一つ一つに「千葉龍一サン」と石川さんが書いてくれたシールを貼って、一足先にICUへ運ばれている。
所せましとモノが並んでいた床頭台* は閑散とした。
本は読めないだろうと思い、たかぎなおこの漫画も入れなかった。

* 病室のベッドそばに置かれている戸棚



13:20
「準備するよう連絡がありました」
石川さんが血中酸素を測りに来た。
こう、ほぼ日手帳に書き留めているが、記憶がない。
細かい検査は数限りなくあるから覚えていないのか。
それとも、緊張し始めていたのだろうか。


13:45
「14:15入りで呼ばれました」
さぁ、いよいよだ。
だが、僕が意気込んでもしょうがない。
気を紛らすため、読んでいた漫画に再び目を落とす。


14:00
石川さんがやって来る。
出番か?
ベッドから降りて靴を履こうとすると
「14:30に変更になりました」

自分の手術は、牧野医師らにとって今日2件め。
前の手術の進行によっては、夕方にずれ込むこともあると聞いていたので、これくらいの遅れは織り込み済み。
30分程度の遅れと言うことは、前の手術はほぼ順調ということになる。
見知らぬ誰かの手術だが、よかったなと思う。


今日明日はICU暮らし。
次にここに戻ってくるのは2日後になる。
担当医が来る度に退院を直訴している隣りのひょうちゃんと、また会うことがあるだろうか。
次に会う時は、もう少し静かに願いたいな。

そんなことを考えているところに家族がやって来た。
手術終了に間に合うよう来てくれればよかったのだが、リスクの低い手術とは言え、手術前に来てくれたのはやはり嬉しい。


さらに予定が押して14:45
いよいよ、手術室からの呼び出しがかかった。
相部屋の誰とも会話していないので、誰かから「行ってらっしゃい」と声がかかることもない。
相部屋は和気あいあいというのは「ナースのお仕事」の世界だけだ。

ベッドから降りて靴を履く。
手荷物はない。
すたすたと自分の足で歩き、平原さんと石川さんの先導に従って手術棟へ向かう。

なんか変だな
思い描いていたイメージと違うぞ
普通、手術というのはストレッチャーに乗り、家族に手でも取られながら、がらがらと廊下を進むのではないのか。

なぜ僕は自分の靴ですたすたと歩いているのだ?
そう考えると、可笑しくて吹き出しそうになる。
満面の笑みを浮かべている手術前の患者というのも、妙な感じである。
家族の立ち入りは途中のエレベーターホールまで。

じゃあねと手を振ってエレベーターに乗り込み、手術室のフロアに着く。
「千葉龍一さんをお連れしました」
手術棟の受付で、平原さんが手続きをする。

「頑張ってくださいね」
新人の石川さんがキックボタンを蹴ると、手術室につながる廊下の自動扉が開いた。
やはり、緊張している。
でも緊張しても仕方がない。
緊張している自分を自覚しないよう、目の前の一歩のことだけを考えるようにする。


扉の向こう側には、ICU担当看護師が待ち構えていた。
病棟看護師の立ち入りはそこまで。
「ありがとうございます」
2人に礼を言って歩き出す。

ここから先は未知の領域だ。
生涯初めての手術、全身麻酔。
ただ、その時は何も考えていなかった。

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2015年10月13日 (火)

手術の朝という経験

手術に呼ばれるまで5時間弱。
自宅から持ってきた6冊の中から松岡圭祐「千里眼優しい悪魔」を読んでいる。
「千里眼」シリーズは年末年始などゆっくり時間がとれる時に、少しずつ読み進めている愛読書。
松岡圭祐の映像を文書にする力は群を抜いている。

だが、それが今日は凶と出た。
場面がぐろくなってきたところで、この後受ける自分の手術とイメージが重なり、気分が悪くなってページを閉じた。

残り5冊から、たかぎなおこ「アジアで花咲け!なでしこたち-たかぎなおこが海外の働き女子に出会う旅-」に取り替える。
日頃、人前で漫画は読まないと決めているが、"闘病中"根を詰めて活字が追えない状況を想定して、漫画を2冊入れてきたのは正解だった。

となりの男性も今日が手術。
予定時間は、僕より2時間ほど早い。
面会時間には早いが、既に家族が来て、手術前のひとときを過ごしている。
誰かと話すだけでも、気が紛れるだろう。

だからと言って、それが羨ましいということもない。
ひとり、こうして手術を待つ朝という経験は、滅多にないものだ。
1億人の日本人のうち、半分も経験しないかも知れない。
この経験がなにかに生きるということはないかも知れないが、それが希望のあるものならば、あらゆる経験は悪くないと思う。


9:45
「ゴミを回収します」
清掃担当のおばちゃんがゴミを集めに来てくれた。

ゴミ箱はあるけれど、このゴミは自分が何処かへ捨てに行かなければならないのか?
入院して2日そのことがずっと心配で、最後の気がかりだった。
これで入院生活の疑問点はなくなった。
いや、スマホのことがあるか・・
それはまた、手術後にゆっくり解消すればいい。


10:30
お腹がグーと鳴る。
数十年、朝食は食べていない。
それを身体はわかっている。
だが、珍しく昨日食べたものだから「今日は食べないの?」と問いかけているのだろう。

準備はできている
落ち着いている 恐くはない


10:45
主治医の牧野医師が病室に来てくれた。
「がんばっていきましょう」
はい!少年のように素直に応える。

いや、頑張るのは先生ですよ!
と心の声がつっこんでいるが。

そういえば、執刀医は牧野先生だと思っているし、事実そうなのだろうが、一度も「先生が手術するんですよね」と聞いたことはない。
手術室では僕が麻酔で眠った後に登場するのだろうから、誰が手術するのかはわかりはしない。


11:30
副担当(そういう言葉はない)の長井医師が説明にくる。
説明・同意書にサイン。
これで手続きはすべて終了した。
手術予定時間まであと3時間を切っている。


12:30
配膳が終わり、いつもの和やかな喧噪が去った頃。
「そろそろ準備しましょう」
新人の石川さんが声をかけに来た。

いよいよか・・
落ち着かない読書を切り上げて、身体を起こす。
心は澄んでいる。


生涯初めて履くT字帯(Tパンツ)
もちろん、誰かに手伝ってもらうわけではない。
石川さんは、雰囲気を察して帰って行った。

ふりちんで寝転がって試行錯誤している姿は、誰かに見せたいものではない。
ずっと監視カメラが捉えていると思うと、心穏やかではない。

「履けましたか?」
頃あいを見計らい石川さんがストッキングを持って来る。
しばらく寝たきりになる間、エコノミー症候群にならぬよう、膝から下に強いコンプレッションのストッキングをはくのである。

「履きづらいでしょ?」
彼女が気遣ってくれるが、マラソンの日に履いているCW-Xと較べるとずいぶん楽だ。

「はぁそうですか~」
僕の解説口調が災いしたのか、新人の石ちゃんは手応えのない返事だ。
まぁ、ここは手応えを求めている場合ではない。
目の前の一分に集中しようと気持ちを切り替える。



牧野医師、長井医師、スタッフの皆さん、皆優秀だ。
なんなんだ、この人は?
という人が1人もいない。

MRIを撮った病院で、紹介先の"大病院"として2つの選択肢を示された。
その時の僕には、大病院はどこでもハズレはないだろう・・という認識しかない。
"駅から近い"という理由だけで、堂下総合病院に即決した。

手術がここでよかった。

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2015年10月12日 (月)

新人と名乗る若い看護師

おーい ぱんぱん

ひょうちゃんはほとんど目が見えていない(らしい)
寝ている間にナースコールがどこかに落ちてしまったのだ。
ナースセンターまでは遠く、その弱々しい拍手が届くような距離ではない。


かつて、体操選手内村航平は「寝起きでもウルトラCができるくらいに練習している」と語っていた。
僕も、目覚めてから運動に移るまでの速さには自信がある。
恐らくそれは、学校にいた頃から近年まで、遅刻すれすれに起きる習慣で鍛えられたのだろう。


このまま、おーいぱんぱんが続いては敵わない。
ひょうちゃんのためというよりは、自分のためだ。
ベッドから飛び起きると、靴を履いてナースセンターへ歩き出す。
すると、ちょうどむこうから平原さんがやって来るところだ。

となりの人がさっきから呼んでいますよ!
「ありがとうございます」

彼女はそう応えたが、この行為が歓迎されるものだという自信は持てなかった。
夜中の病棟の廊下ということもあり、彼女の言葉はとてもテンションが低かったからだ。
もちろん、退院までの間に、ひょうちゃんから感謝の言葉が聞かれることはなかった。


7:10
「千葉さん検温お願いしま~す」
平原さんが来た声で再び目覚めた。
悔しいけれど、あまり眠れていない。


手術当日は朝ご飯、昼ご飯、晩ご飯すべて抜き。
歯を磨き、VIDANで髭を落とすとすることがなくなった。
ベッドのリクライニングを起こして、本を読んで過ごす。

「スマホは充電禁止」と言われたが「使用禁止」とは言われていない。
だが、堂々と使うのは気が引ける。

各ベッドの天井には、監視カメラが備え付けられている。
これは13年前の入院時にはなかったことだ。
常に見られているという環境は、通常に暮らす限りそれほど苦痛ではない。
特殊なことをしなければいいだけだ。


少しだけスマホでメールをチェックしていると平原さんがやってきたので、すぐに仕舞う。

「頭痛のことは心配しないでください」
彼女のことばは抑揚にメリハリがあって感じがいい。
昨晩出してもらったロキソプロフェンのお陰か、頭痛はずいぶん楽だ。


9:20
「新人の石川です」
日勤の担当者が挨拶にくる。
一瞬、息が止まる。
新人?
社会人が自ら、その言葉を言うのは禁句だと思っていたからだ。

仕事をしていて、後輩の新人と接するのは楽しい。
その圧倒的な元気さ、吸収力に接して、こちらの教えたい病がうずくからだ。

だが、その新人が唯一無二の担当者として、自分に宛がわれたとなると、話しは違ってくる。
特にここは医療の現場であり、新人だから少々採血が下手でもいいということはない。
もちろんそんな人はいないはずだ(そう願いたい)

あえて「新人です」と名乗る真意があるのだろうか。
一瞬でそんなことを考えたため「はぁ」という気のない返事になってしまった。
彼女はその後もずっと、交代の挨拶の度に「新人の」という冠をつけていた。

堂下総合病院、脳神経外科看護師たちの伝統により、1年間は「新人の」と名乗ることになっているのかも知れない。
さすがに、そういうしきたりなのか?という質問は誰にもできなかった。


昨晩、頭痛があってロキソプロフェンを出してもらったことは、新人の石川さんも承知していた。
9:00からナースセンターミーティングが行われており、そこで申し送りがされているのだろう。
彼女は、ひとつひとつの説明が丁寧であり、とても安心感がある。
初心を忘れず基本に忠実という印象だ。


カーテンの外で平原さんが、石川さんを指導している。
石川さんはそれを真綿のように吸収していく。
目の前の仕事に主体的になることは、年齢に関わらず難しい。
自分が主体的に仕事に取り組むと決めて、勉強するかしないか。
彼女のようにできる人は、現代社会においてとても少ないと思う。

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2015年10月11日 (日)

原辰徳と江川卓

2010年
首位と僅差で優勝を逃しセリーグ3位

2011年
セリーグ3位


2012年
リーグ優勝。9期指揮を執り5勝。
監督として3度目の日本シリーズ優勝。


2013年
セリーグ2連覇 日本シリーズは楽天と対戦。
2度にわたる楽天寄りの誤審が響き敗戦。
第7戦では不調の杉内起用にこだわったのが解せなかった。
結局、一度も日本シリーズの2連覇はできなかった。


2014年
5月29日、父親の原貢氏が亡くなる。
5月31日、試合後に公表された。
その日、訃報は選手に知らせずオリックスと対戦。
金子に9回を無安打無得点(記録はノーヒットノーランにはならない)に抑えられたが、12回表2死無走者から亀井義行の本塁打で1-0の勝利。
菅野智之をはじめ7人の投手が11安打を打たれながら12回を完封した。

セリーグ3連覇(監督として2度め)
クライマックスファイナルで阪神に4連敗して、日本シリーズ出場を逃す。


2015年
ヤクルトにわずかに及ばず、セリーグ優勝を逃す。
4連覇は2度めの挑戦でも叶わなかった。
スポーツメディアでは原辰徳退団が報じられている。


2007年にクライマックスシリーズが始まって以来、巨人は一度もBクラスに落ちておらず、毎回出場している。
2位以下での出場は、2010年、2011年に次いで今回が3度め。
2位での出場は初めて。

2010年は3位 1stで阪神を破り、2ndで中日に敗れた。
2011年は3位 1stでヤクルトに敗れた。



ホームランを何本くらい打ちたいか?
そう問われ、ホームラン狙いを否定して「ヒットの延長がホームランです」と謙虚な素振りで応える選手がいる。
原の場合は「ホームランの打ち損じが犠牲フライ」または「外野フライの延長がホームラン」だった。


原辰徳は著書の中で、犠飛の難しさを唱えている。
犠飛のシーズンセリーグ記録を持つ彼が、フライを上げる技術が高かったとみるか、ボールの下を打つ特徴があったとみるか(芯に当てるのが下手だった)ものごとの見方には個人差がある。
ただ、ファンとしては、もう少し芯に当てて欲しかった。


もしも、2002年の日本シリーズ第4戦、代走・鈴木尚広が浅いレフト前ヒットで2塁から生還、西武に引導を渡して優勝を決めた翌日、松井秀喜がMLBに往くと言わなかったら・・・
原辰徳は2004、2005年のブランクを経ず、松井を中心とした巨人黄金時代の大将となっていただろうか。

あるいは、外から野球を見る雌伏の時あってこその名将化だったのか。


その松井秀喜、現在41歳。
原辰徳が監督就任した44歳まで、まだ充電の猶予がある。
ならば、江川はどうだ。

紆余曲折を経て巨人入団を貫いた江川。
ドラフト会議で藤田監督が"残りくじ2枚"の二者択一を引き当ててくれた原辰徳。
だが、あの時、藤田監督がはじめに指に触ったくじを取っていたら・・

「巨人以外行かない」
と決めていた原辰徳は、江川に次ぐ巨人浪人第2号になっていたのである。
(後に元木大介が第2号、菅野智之が第3号になった)

江川にも、いい思いをしてもらいたい。
他の巨人一筋の男たちと同じように。


原辰徳と江川卓は巨人で7年間を共に戦っている。
大学で出会って以来、信頼関係は深い。
2009年に発売された書籍「原辰徳-その素顔」で、江川が原を語る言葉には強い共感がにじんでいる。

現場と解説者は立場が違う。
だからグラウンドには降りないというルールを自らに課す江川。
いつかは原監督と江川ヘッドコーチで、共に「GIANTS」のユニフォームを着たかったことだろう。

今でもそのチームを見たい。
原辰徳が巨人を去ってしまうならば、せめて江川卓がつくる巨人というチームを見たい。

(おわり)

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2015年10月10日 (土)

敵将の胸で泣いた原辰徳

インターネットが一般に普及し始めて6年。
巨人もようやく、グラウンド以外でのファンサービスとしてウェブサイトに力を入れ始めていた。

2003年
3月14日、公式サイト「HARA Spirit」オープン。
3月15日「選手たちを動かした勇気の手紙」幻冬舎 出版。
7月15日、オールスター初采配。高橋由伸の2本塁打で4-4の引き分けに持ち込む。
7月16日、オールスター監督初勝利。

9月26日、リーグ優勝を逃し辞任会見。
「夢のつづき」だった巨人監督に就任して初年度は日本一。
しかし、2年めは翌年はリーグ連覇を逃した。
ただそれだけのことだ。
これで辞めなければいけないならば、全球団の監督が辞めなければならない。

ただ巨人ファンとしては、松井がいなくなった途端、勝てなくなるような監督ならば替わってもらい、権謀術数に長けた人に再建を託すのもいい。
そういう考え方もできた。


ここでいう"かわる"は替わるである。
いずれまた、原辰徳にもう1度、巨人監督にトライして欲しい。
2度と元に戻らない代わるではなく、再び戻ることもある替わるだった。


10月8日、最終戦後、阪神球団の厚意により甲子園球場でマイク挨拶。
さらに戦い続けようという大将が、敵将(星野仙一)の胸で泣いたのはいただけなかった。

11月15日、2003シーズン ウェブページ「HARA Spirit」に綴ってきたブログをまとめた「ジャイアンツ愛」幻冬舎 出版。書き出しは辞任後の反省から始まっている。



2004年~2005年
松井秀喜が去ってからの2年間。
松井の代役を立てんと、他球団から4番ばかり補強した堀内監督時代は散々な結果に終わっていた。


2005年10月5日
江川監督説がささやかれる中、原辰徳が2度めの巨人監督就任会見。
背番号88
補強ポイントに「一番大きいのは日本人」と日本人補強を挙げた。
2005年オフ、巨人は中日の左腕エースだった野口、西武の抑えだった豊田をFAで獲得している。


2007年
2006年、2007年シーズンとも春は首位を走った。
そして、2年めシーズンは、上原の抑え起用が功を奏しリーグ優勝。

この年から始まったクライマックスシリーズでは、中日に敗れて日本シリーズに出場できなかった。
評論家時代は、クライマックスが制度としておかしいと非難していた落合博満が、NPBの一員になった途端「日本一をめざす」とコメントしたのが、勝利監督インタビューだった。

パリーグはリーグ優勝の日本ハムが出場しており、巨人はクライマックス制度として初めて、日本シリーズに出場できなかったリーグ優勝チームとなった。


2008年
13ゲーム差を逆転してセリーグ2連覇。
これで5期指揮を執り3勝。
監督としては明→暗となっていた原辰徳のイメージは、この2連覇で再び「明」の時代を確固たるものにした。


リーグ優勝決定後の談話として次のように述べている
(スポーツ新聞掲載)
「2009年(=来シーズン)はさらに若返りを図る。2009年は勝てないかも知れないが、2010年から5連覇できるチームを作る」

ぽっと出の監督が言ったら、新聞紙面には載せてもらえないようなコメントだ。
こんなことを言って相手にされるのは"連覇"が命題となる唯一の球団、巨人の監督だけであり、それでも実績がなければ非難される。


2009年
シーズン開幕前の3月、巨人を離れてWBC日本代表監督を務め優勝。
セリーグ三連覇。日本シリーズも優勝。

「もしかして原って名将なんじゃないの?」
「昔はそうは思えなかったけどね」
巨人ファンの原辰徳への評価はここで、転機を迎えた。
ここから先、原批判をする巨人ファンをほとんど見なくなった。


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2015年10月 9日 (金)

残念な「仁志が8」の後、指導者原辰徳の時代が訪れる

1995年秋
現役引退セレモニーのマイクでは「この夢には続きがあります」と涙ながらに話した原辰徳。
それが巨人監督を指していることは自明だ。
しかし、その姿に指導者としての期待感は持てなかった。
それは原が醸し出していた、真っ直ぐな(わかりやすいとも言う)空気による。

1990年代といえば野村克也率いるヤクルトが最強のdecade。
パリーグでは広岡の流れを組む森率いる西武。
競技者としての資質には溢れている原だが、権謀術数に長けた先輩と較べると見劣りがしたのだ。


1996年
引退の翌年から、原辰徳はNHKプロ野球解説者、ニュースキャスターとなる。
初めてブラウン管(当時はまだブラウン管)の向こうに原辰徳を見た時「暗」のイメージが一気に「明」に変わったと感じた。

もう打席に立ち、ポップフライや「止めたバット」を打たなくていい。
大学を卒業して社会に出た"勉強嫌いな"若者が、もう勉強しなくていいんだと、活き活きと働き始めるように、ユニフォームを脱いだ途端 「打てない4番」のマイナスイメージが消えた。
元来、二枚目の顔立ち。滑舌のいい語り口。
それは、とてもTVに映えた。


1997年
1996年シーズン、リーグ優勝したものの、日本シリーズでイチローが居たオリックスに1勝止まり。
明けた1997年はヤクルトに覇権を譲った。
シーズン終了後、巨人は原に二軍打撃コーチ就任を要請したが辞退した。


原辰徳の「8」は、原引退と入れ違いで入団した原の大ファンという仁志敏久が引き継いだ。
(1995年ドラフト2位)

それはかつて、高田繁と入れ違いで原辰徳が引き継いだ時の再現だ。
九九で「二四が八」というくらいで、仁志が8は彼にとってこれ以上ない僥倖だったはず。

1997年以降、セカンドのレギュラーに定着した仁志は、打者によって極端に守備位置を変える。
「やられた!」と思ってカメラが切り替わると、仁志が正面で捕っている。
「何もなかったように正面で捕るのがファインプレー」という彼の守備はファンを驚かせたものだ。


1999年
原辰徳が野手総合コーチとして巨人復帰。背番号80。


2000年シーズン。この年は唯一の日本シリーズ「ON対決」で長嶋巨人が勝利した年。
ダイエーが日本シリーズ日程に福岡ドームを予約しておらず、3戦めの後に休養日があるという変則日程になった年だ。

仁志はレギュラーシーズンから日本シリーズ、挙げ句は日米オールスターまで全試合に1番打者として出場。
シーズンでは首位打者の金城に次ぐ安打数を記録。
2連敗で迎えた日本シリーズ3戦では、流れを変える美技。
(巨人は第3戦から4連勝)
日米戦ではメジャーの投手を打ち崩して日本人最高打率を残した。
これが、仁志にとってのベスト・シーズン。

しかし、その「明」の時代は長く続かなかった。
2002年には清水に指定席の「1番」を明け渡し、下位打線に常駐。
2004年にはFA宣言してMLB移籍を試みたが、採用がなく巨人と再契約。

2006年シーズンオフにトレードを希望。
小田嶋正邦と交換で横浜に移籍。
2008年シーズン終了後、横浜を解雇。
2010年、米国独立リーグでプレーしていたが故障のため引退。

原辰徳の「8」を燦然と輝かせてくれるとばかり思っていた仁志が8は、巨人ファンを失望させた。


2001年オフ
原辰徳はコーチとして3シーズンを経た後、長嶋監督の後継者として第14代監督就任。
背番号83
直後のドラフトでは、1位指名した寺原を外し、外れ1位で真田裕貴を指名した。


2002年
監督としての初シーズン。
意外と堅実な采配、目配りの細かい起用でリーグ優勝。
松井秀喜はレギュラーシーズンで50本のホームランを打った。
日本シリーズでは、80年代にはあれだけ歯が立たなかった西武を、(日本シリーズ)球団史上初の4-0で破り日本一。


原辰徳のイメージは特が付くほど「明」を極めたが、それもつかの間。
西武に圧勝したことが、返ってよくなかったのか松井秀喜がFAでMLB移籍を決断。
巨人ファンは天国から地獄へ突き落とされた。


松井本人が移籍会見で述べたように、それは裏切り者以外の何者でもない。
順風満帆にスタートしたはずだった原の監督生活は、それを機に一気に「暗」へ転げ落ちていった。

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2015年10月 8日 (木)

ポップフライに止めたバット あまりに悪い原辰徳のイメージ

原辰徳がデビューした1981年。
巨人入団では2年先輩の江川卓は、プロ3年めのシーズンを迎えていた。
20勝6敗 最多勝 最優秀防御率 最多奪三振。
実力で取る投手部門のタイトルをすべて手にしたが、記者投票で決まる「沢村賞」だけは西本聖(18勝)に持って行かれた。

江川にとっては、わずか1年限りの全盛期。
投げる試合の大半は9時前に終わってしまう。
平和台球場での試合は、僕の記憶では8時9分に終わってしまった。

投打の同世代スターが一斉に花開いた年は、もちろんセリーグ優勝。
日本シリーズでは、本拠地後楽園球場どうしの対決で日本ハムを破り日本一。



1983年(入団3年めシーズン)
103打点で打点王
これが現役唯一の打撃タイトルとなった。
この年はリーグ優勝したこともあり、セリーグMVPにも選ばれた。


だが、そこから後が思い出せない。
通算成績表を見れば、そこそこの数字が載っているのだろうが、記憶に残っていないのである。
それはなぜかと尋ねれば・・


好印象をかき消してしまうほど、悪い印象が強いのである。
チャンスに打席に立つ4番原。
しかし、打つつもりだったのかも怪しい気のないスイングで、打ち上げる内野へのポップフライ。

野球選手は本能的に打球を目で追ってしまう生き物で、情けない打球を「やっちゃった」と見上げ、顔をしかめ歯ぎしりしながら念のためにのろのろと一塁へ走り出す原。

あるいは、スイングの途中で思いとどまったが、バットの芯で捉えてしまい力のない内野ゴロになる、いわゆる「止めたバット」


打者というのは3割打てば一流。
7割は失敗しても許される。
だが、原はその失敗の形が悪すぎた。
従って、圧倒的に回数が多い"失敗"のイメージが強く残ったのである。


記憶に残らない4番打者が座るチームは、リーグ優勝しても日本シリーズで西武に歯が立たなかった。
1983年、1987年と西武に連敗。
(1989年は近鉄相手に3連敗のあと4連勝)


1990年は西武に4連敗。
原の子分である岡崎郁が「野球感が変わった」と言ったのがこの年である。
(岡崎は原を「親分」と呼んでいた)


1992年
入団以来12シーズン連続 本塁打20本以上。
シーズン最多犠飛セリーグ記録となる12犠飛。
(プロ野球記録は大杉の15)*多すぎではない
王貞治、長嶋茂雄がその記憶と共に打ち立てた記録と較べれば、なんとスケールの小さいことか。


1994年
10.8決戦
巨人の先発cleanupは、松井秀喜-落合博満-原辰徳。
登板した投手は3本柱の槇原-斎藤-桑田。
今思えば、豪華絢爛である。
だが、あとの5選手はどのような活躍をしたか思い出せるのに、原に至っては試合に出ていたことすら覚えがない。


日本シリーズは3度めの対戦で初めて西武を破り日本一。
この年が原辰徳、現役最後の優勝。
在籍15シーズン中の優勝は、1981、1983、1987、1989、1990、1994の6回。
うち日本一が3回。


1995年
シーズン終了後、現役引退。
通算打率.279、382本塁打、1,093打点

現役最後の年は松井秀喜、落合博満といった強打者が主軸を打ち、原はレギュラーを外れ、代打出場が多かった。
勇者必衰、晩年の原は「暗」のイメージでバットを置くことになった。

つづく

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2015年10月 7日 (水)

原辰徳ドラフト前夜、プロ野球ニュース出演、そこで書いた夢

ヤクルトと僅差の2位(1.5ゲーム差)
今年の巨人はどこが悪かったのか?

防御率1位の投手たち。
打率6位の打者たち。
敗戦の責任が誰にあるかは明白だ。

それは、使えない外国人を残したり、新たに連れてきたスカウティング。
打撃を預かった指導者。
キャンプ中、超高速打撃マシンの球を金属バットで打つ練習をしたが、その結果がこれである。
その責任のどの部分をどこまで、原監督が負わねばならないかは、球場に取材パスを持っていない者には判断しかねる。

原辰徳ほど、選手、指導者を通じてその評価が移ろった野球人は珍しい。
それは明→暗→明→暗→明と遷移してきた。


1958年7月22日
福岡県生まれ。だが彼の中に「福岡」の血筋を見ることはできない。

博多んもんな横道もん、青竹割ってへこにかく(ばってんラーメン・・と続く)
は鮎川誠(シーナ&ロケッツ)が宣伝していた「日清はかたんもんらーめん」のコピーで"博多者は横着で、青竹を割ってふんどしにするほどだ"という意味(ラーメン袋の裏に書いてあった)だが、原辰徳はそういう博多者の無骨なイメージとは対極にある。

いやいや、原辰徳は博多じゃなくて大牟田だというツッコミはご遠慮します。


1974年
東海大相模高校進学
3年間で4度(80%)甲子園に出場した。

1975年
センバツ甲子園で準優勝。

1977年
高卒の段階では巨人から1位指名の確約がなく、東海大進学。
4年間で三冠王2度獲得。

1980年
ドラフト会議前夜
原辰徳は学生服を着て、CXプロ野球ニュースに出演していた。
画面には佐々木信也と並んだ2ショット。
佐々木から「夢」を問われた原辰徳は色紙をかざす。
そこには「巨人 原辰徳」の文字があった。

おいおい、そんなこと書いていいのか
とブラウン管にツッコンだが、それほどまでに入りたいと言ってくれるのが、球団職員のように嬉しかった。


ドラフト会議当日
1位入札したのは日本ハム・広島・大洋・巨人の4球団。
前夜のアピールが効いた訳ではないだろうが、思いのほか少ない競合だった。
抽選では、巨人の藤田監督が引き当てた。

用意された背番号は「8」
これは、さだまさしが「♪高田の背番号も知らないクセに」と「朝刊」で歌った高田繁がつけていた番号。
高田の引退と入れ替わりになったため、その番号を引き継いだ。


1981年
当時、巨人の正三塁手は中畑清。
原辰徳といえども、プロでは未知数の若者に過ぎない。
主軸打者をいきなり定位置から押し出すことはできず、二塁にコンバートされて、キャンプでは篠塚と定位置を争った。
篠塚もその頃"安打製造器"の片鱗を見せており、その時点での単純比較では篠塚が上と思われていた。

だが、開幕スタメンは原辰徳。
キャンプ中には、牧野ヘッドコーチが「不平等はないが不公平はある」という名言を残している。

開幕セカンドスタメンデビュー。
すると、開幕早々に三塁の中畑が負傷。
代役の三塁としてはまった原辰徳はそのまま、好成績で存在感を示す。
負傷が癒えて戻ってきた中畑は、当時正一塁手だった松原をベンチに追いやり、そこにはまった。
巨人ファンとしては、それこそが求めていた姿だった。

1年目打率.268、22本塁打、67打点 新人王
原辰徳のプロ生活は、まさに「明」で始まった。

つづく

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2015年10月 6日 (火)

原辰徳、公式戦最後の采配

10.4をもって巨人はセリーグ日程を終了。
原辰徳監督は今季限りで退任が濃厚であり、これが公式戦最後の指揮となるだろう。

何を言ってるの、クライマックスだって公式戦でしょ?
とツッコミが入るかも知れないが、しらべるはあれを秋の余興(エキジビション)と位置づけている。
競技ではなく、商売に軸足を置いた酔狂なレギュレーション。
2位や3位から勝ち上がって、日本シリーズで4つ勝ったら「日本一」と言い張る人もいる。


NPBの中に身を置く人では、あの制度を一時的にでも非難したのは評論家当時の落合博満くらい

それも監督に就任してからは封印した。
組織の中にいる人は、内部を批判できない。
外部にいるファンこそが、自由に真実と信じることが言える。
それでも「下克上」などと言う人には、言わせておくしかない。

この日は来場者全員にアンダーアーマーロゴが入ったオレンジユニフォームが配られた。
これは当初の予定になかった企画で、9月1日富山での中止が振替になり、最終戦に組み入れられた時点で発表された。

2012年より始まった「橙魂」は今年で4シーズンめ。
いつもならば、選手も上半身オレンジユニフォームを着用するのだが、この日、選手は通常の白いユニフォームを着用した。
つまり「橙魂」の冠ではない、単なるユニフォーム特典付き試合だったのである。
スタンドはオレンジ一色、グラウンドは白ユニ。
これは初めてのことだ。

オレンジユニフォームは全ゲートで配られるので、緑のユニフォームで陣取る「ビジター応援席」のヤクルト・ファンにも配られたはず。
しかし、誰も着ていない・・

いや、中段に着ている人がいるぞ!
ヨコ一列10人ほど、オレンジ・ユニフォームらしき集団。
巨人ファンがチケットを取って乱入したのだろうか?
10人ヨコ一列のチケットなんて、取れたっけ?

これは帰宅して、録画を見て謎が解けた。
オレンジに見えたのは「swallows」の赤いユニフォームを着た一団。
応援旗のポールを持っているところをみると、応援団のユニフォームなのだろう。
紛らわしい。


10.4 原辰徳の最終采配は、消化試合然としたものだった。
送りバントは投手の内海が1度だけ(失敗)
盗塁なし
(カウント3-2からのオートスタートのみ)
ヒットエンドランもなければ、当然スクイズもない。
もしかすると、長野久義には「ホームラン」のサインが出ていたのかも知れない。

3回裏の攻撃、2点を先取したが、それだけでは心許ない。
ここで長野久義が打ち上げた打球は、高い放物線を描き、ライトフライ?いや、けっこう伸びてるぞ!と思ったところで前の兄ちゃんが立ち上がって肝心なところが見えなかった。

兄ちゃんの腰のヨコから、前方を確認するとボールは外野を転々としている。
長野は二塁ベースあたりで立ち止まっている。
それを審判が「ホームランだ」と走るよう促す。
不審げに走り出す長野。
彼は視力がよいのだろう。

ライトの雄平とセンターの上田が首をかしげている。
しかし、真中監督はビデオ判定を要求しなかった。
消化試合だからだろう。
帰宅して録画をみる限り、ボールはフェンスよりやや奥に設置された黄色いバーの下にあるネットで跳ね返っている。
東京ドームのルールではホームランではなく、インプレーだ。

これがもし、優勝がかかった試合ならば、ビデオ判定の結果、巨人の得点は1~2点少なかったはずだ。

試合中、バックスクリーン右側には、試合終了後「シーズン終了セレモニー開催」と告知されていた。
それよりも不思議だったのは、日テレで19時から放送するテレビ番組のCMも表示されていたことだ。
いったい、誰が見るのだろう。
わんせぐかっ

98打点でゲームに臨んでいたヤクルト山田に対して、走者1人置いた打席で高めのストレートを投げ込んだ宮國椋丞には、目を疑った。
イイ球はあるものの精度が低い。
今の彼は"待ってくる"セリーグよりも"打ってくる"パリーグ向きの投手だ。
背負っている番号が「30」なだけに、今シーズンオフ、パリーグへのトレードがあるかも知れないと推測する。


10-2の快勝
相手が石川ならば、タオルを振る回数は数えるほどだっただろう。
しかも、球場に着いてからオレンジタオルを忘れたことに気づいた。
ポケットに入っていたハンカチを振ろうとしたが、白いハンカチだったので、そのまま仕舞った。
消化試合とはいえ、縁起が悪いからだ。

結局、得点後だけで8度、くるくると手を回した。
これじゃ、チェッカーズ「涙のリクエスト」である。

いつもならば、巨人勝利の後に行われるヒーローインタビューはなし。
選手がマウンド周辺に整列する。

まだ、原辰徳退任が発表されたわけではない。
「なにか、言うんじゃないか?」
と固唾を呑むファンをよそに、
「日本一に向かって戦って往きましょう」
という優等生発言に終始した。

というのは、帰宅後に録画で知った。
その頃、セレモニー終了10分後まで発売すると告知されていたCS1stステージのチケット売場にいたからだ。

チケットサイトやローソンチケットでは、既に完売しているチケットだが、球場枠を買うことができた。
球場に足を運んだ人が受ける恩恵として、この販売枠は大事にしてもらいたいと思う。

なにせネットやコンビニのチケットは、やたら手数料がついて高い。
ここで買えば、額面通りである。

つづく

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2015年10月 5日 (月)

10.4決戦 見どころは山口鉄也の8年連続60試合登板

2015年10月4日
いよいよ「10.4決戦」の日を迎えた。
と言っても決戦の相手はヤクルトではなく、広島のジョンソンである。

巨人にとってシーズン143試合めの最終戦。
2014年シーズンまでは年間144試合制だったが、2015年より交流戦の試合数が減ったため、1試合少なくなった。

先発は菅野ではなく内海。
まだ引退する年齢ではないので、花道登板ではない。
クライマックスシリーズ2ndステージを見据えて、ヤクルト戦に使えるかのテストだろう。

10月3日現在
広島は残り2試合
うち1試合は阪神なので、2連勝した場合逆転で3位に上がる。
10月4日の登板はないとしても、10月7日の中日戦はジョンソンにとって中3日。
重要局面では登板の可能性もある。
(※10月7日加筆 ジョンソンは登板しなかった)
菅野としては、最低限の仕事として、ジョンソンの防御率を上回っておく必要がある。

ジョンソンの防御率は1.852
追う菅野は、5回2/3を無失点ならば防御率1.851となり、逆転できる。


個人より巨人

これが試合後、原監督のコメントである。
菅野に登板機会は与えられなかった。


10.4決戦、2つめの見どころは"鉄腕"山口鉄也。

1983年11月11日
神奈川県生まれ

2002年
横浜商高卒業
ドラフト会議では指名されず、渡米してダイヤモンドバックスと契約。

2005年
帰国してNPB球団のシーズンオフテストを受験。
横浜、楽天は不合格。巨人だけが合格を出した。

この年はちょうど育成選手制度が始まった年。
2015年12月1日、第1回育成ドラフト1巡目で巨人に指名された。
背番号102


2007年
4月23日、支配下登録 背番号99
育成選手は3桁番号を付けるが、支配下登録選手は2桁という決まりがある。
支配下枠は70人であり、王貞治の「1」長嶋茂雄の「3」のように多少永久欠番があっても、99を超えることはないという判断によるものだ。

同年5月9日
初勝利。これが、育成選手から支配下登録された投手としての初勝利でもあった。


2008年
この年から、背番号が現在つけている47に変更された。
2006年オフ、門倉の人的補償で工藤公康が横浜に移籍。
2007年は松本哲也(外野手)が着けていたのを引き継いだ。
初めてシーズン60試合登板
育成枠入団選手として初めて新人王に選ばれた。
(翌年は育成枠入団の松本哲也が選ばれた)


2014年
7年連続60試合以上登板(NPB記録)
大きな故障で長期離脱すると、60試合は投げられない。
コンスタントに投げ続けて来たこの記録が、彼が鉄腕と呼ばれる所以である。


2015年9月26日
ヤクルトとの首位決戦で通算250ホールド到達(NPB史上初)


そして、10.4決戦
前日のDeNA戦は横浜スタジアム開催だったため、1日お休み。
記録達成を本拠地にとっておいた。
8回の先頭打者から登板。
二人を抑えてマシソンに交替した。

観客席からは大きな拍手が寄せられたが、花束贈呈などの儀式はなし。
電光掲示や場内放送も一切なかった。


そして、最後にこの日最大の見どころは原辰徳。
巨人監督として最後の指揮である。

つづく

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2015年10月 4日 (日)

消化試合となった10.4決戦をいかに楽しめばよいか

10.4巨人ヤクルト戦は「10.4決戦」にはならなかった。
消化試合の公式戦を球場で観戦するのは、生まれて初めての経験になる。
といってもオープン戦ならば、子供の頃によく見ていた。


生まれ育った山口県では、公式戦で巨人が来ることはなく、巨人を目の前で見ることができるのはオープン戦に限られていた。
今でも、その日付、チケットの活字、券面の色までイメージが残っている。

家では讀賣新聞をとっていなかったので、新聞販売店から配られたものではなかったはず。
でも、無料招待券と書かれていた気がする。
父か母のどちらかが、巨人ファンの僕を連れて行こうと、どこかでゲットしてきてくれたのだろう。


秋晴れの候、家族4人がスバル360に乗って、福岡県の平和台球場や小倉球場をめざす。
オープン戦ですら、巨人が山口県に来た記憶はない。
これは推測だが、山口県は広島の隣接県。
広島がサブフランチャイズ地域として、興行開催権を抑えていて、オープン戦ですら巨人に対して開催を許諾しなかったのではなかろうか。

当時はユニフォームを着て応援する習慣はないし、父母がなにか記念グッズを買ってくれたということもない。
そんなものは何も要らなかった。
目の前で巨人のユニフォームが動いている(だいたい外野のヨコにある内野席なので顔はあまり見えない)
それだけで、おとぎの国に迷い込んだように陶酔できた。


さて、目の前にある10.4決戦
真剣勝負ではない試合をどうやって楽しむか。
そもそも、観戦するという行為にどんな意味があるのかといえば、それは応援である。

応援というのは「阿部ぇ母ちゃんにいいもん食わしてやれ~」とか「マイコラス、来年は3億出すから残ってくれ~」というような声をかけることではない。
贔屓チームの勝利を希望しているという前提がある。


僕らは希望があるから、身体を動かしてその場所へ移動する。
贔屓チームの打者がヒットを打てば歓び、投手のナイスボールが「ボール」と言われれば「どこ、見てるんだ審判」と嘆く。
巨人の場合、得点を挙げれば1点につき1度、オレンジ色のタオルを振りながら

ビバ ジャイアンツ 輝ける男たちよ
ビバ ジャイアンツ 美しき男たちよ
光る大地を 駆け抜けろ

と歌わなければならない。
この歌が得点時に歌われるようになってから、巨人のスカウトはルックスも評価に加えるようになった。
(推測)

ちなみに、ヤクルトの場合は応援用小型ビニル傘を広げて東京音頭を歌う。


ビデオ録画機
インターネット配信
1980年代以降、野球中継を見る方法は多様化している。
従来との差異を表すキーワードは「タイムシフト」「場所の移動」だ。

昔はスポーツは同時進行で観るしかなかった。
それを見る場所は、球場とお茶の間(ブラウン管でもいいですが)と限られていた。
それが、中継ツールの多様化により、各々が都合の良い時間に見ることができるようになったのだ。


ある人は残業を終えて、自宅にたどり着き、ビールを抜いて(古いな)試合開始から追っかける。
ある人は呑み会の席で、スマホの中継を見る。
そんな現代にも、唯一、昔ながらのライブを満喫できる場所。
それが試合が行われている球場なのである。


球場では、CM(攻守交代)の時間は飛ばせない。
見たくないからと言って、味方の守備も飛ばせない。
贔屓チームのピンチも飛ばせない。
試合が行われている3時間前後。
歓喜、落胆、失望
あらゆる感情に向き合い、ある時は天に昇り、ある時は地獄に落ちなければならない。
その葛藤こそが「球場に足を運ぶ」ことの醍醐味と言えるだろう。


葛藤に耐えるためには、希望が必要だ。
だが、優勝が決まってしまった後の消化試合。
希望はどこにあるのか?
贔屓チームが勝つに越したことはないが、勝つことを渇望するほどではない。

数日後にクライマックスで対戦することに備えて、相手戦力を分析しても仕方ない。
クライマックスで勝ち上がることに意味があるのは、興行収入で生業う人たちにとってだけ。
多くのファンにとって、恐らく選手にとっても、意味はない。
いや、50歩譲って意味があるとしても、大義がない。
現行ルールで大義があるのは「リーグ優勝」だけである。
これに、両リーグ首位チーム同士が出場した場合に限り「日本シリーズ優勝」が加わる。


巨人の選手を見るということが、夢の世界の向こうにあるような気がしていた夢見る頃とは違う。
試合中の球場にライブで居ることが嬉しかった、あの頃の気持ちに戻れない。

いや、戻るしかないんだろう。
今日も世界が平和で、日本が無事で、こうしてたくさんの人が可処分所得の中からチケット代を払って、足を運んでいる。
その人たちに向けて必死にビールや弁当を売る人たちも元気だ。
水道橋のマクドナルドには並ばない。
インターネットで調べておいて、球場内で名物弁当を買おう。
ジャビット弁当(巾着付き)
崎陽軒の弁当
弁当だけで、いったい何種類あるんだ!


試合は日曜日なので、翌日は仕事。
いつもならば、ワンサイドの負け試合でもない限り、席を立つことはないが、消化試合ならば「9時頃を目処に」と決めておいて帰ることもできる。

主宰者から配布されたオレンジユニフォームを着て、讀賣新聞からもらった小降りのオレンジハンカチをたくさん振ることができるといい。
できれば5回くらい振りたいところだ。

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2015年10月 3日 (土)

ヤクルトスワローズの歴史(村上春樹入り)

もしも、勝つのがヤクルトだったら村上春樹さんが喜ぶから、まぁいいか。

この夏から村上春樹が取り組んだ"人生相談"本(4冊+電子書籍1冊)を読んでいて、そう考えていた。
スワローズファンの村上春樹は「村上さんのところ」で"2015年シーズンのセリーグ順位予想を"と尋ねられて、このように答えている。

「優勝はわかりませんが5位、6位だけはわかります。5位ヤクルト6位DeNAです」
自虐的に書いたのだろうが、実際そう考えていたのだろう。
ではここで、スワローズの歴史に村上春樹の歴史★を重ねてみよう。
(なんだそれは)
1949年★
村上春樹 京都で生まれる
1950年
国鉄スワローズ結成、セントラルリーグ加盟
1965年
国鉄がサンケイ新聞社に身売り。サンケイ・スワローズとなる。
1966年
サンケイ・アトムズに改名
アトムとは「鉄腕アトム」のアトム
1970年
ヤクルトに身売り ヤクルト・アトムズとなる。
1974年
ヤクルト・スワローズに改名
1978年
リーグ初優勝、日本一
*広岡監督3年めのシーズン
1979年★
処女作「風の歌を聴け」
この小説が群像新人賞を受賞。
2015年「職業としての小説家」の中で「この受賞で小説家としての入場券を得た」と書いている。
1987年★
「ノルウェーの森」
1992年
リーグ優勝
*野村監督3年めのシーズン
1993年
リーグ優勝、日本一
1994年
つば九郎入団
後世、無言のトリックスターくまモン達が見せる芸風は、ここに原点があると推測する。
神宮球場の3塁側にも姿を見せてもらいたい。
1994年★
「ねじまき鳥クロニクル」3部作
1995年
リーグ優勝、日本一
1997年
リーグ優勝、日本一
1990年代、ヤクルトはセリーグの強豪に数えられていた。
監督の気質によるのか、広く支持は広がらなかった。
ただし、一時期強かった中日が「落合が監督だから」と嫌いな球団に挙げられたほどではなかった。
2001年
リーグ優勝、日本一
*若松監督3年めのシーズン
2002年★
「海辺のカフカ」2部作
2006年
古田監督兼選手1年め。
上記年表を見ると気づくと思うが、ヤクルトには広岡、野村、若松と"就任3年めで優勝する"というジンクスが続いていた。
だが古田にはそれが叶わず、監督3シーズンで退任している。
2008年
高田監督1年め
2009年★
エルサレム賞受賞
1Q84」4部作
2015年
14年ぶりリーグ優勝
*真中監督1年め
今期、神宮球場での最終戦。
そこで優勝を決めたことで、村上春樹さんを始めファンの皆さんは大変お喜びと思います。
よかったですね。
できることならば、日本シリーズでは難敵を撃破して、奇妙だった2015年セリーグにけりを付けてもらいたいと思います。
巨人と阪神または広島の皆さんはクライマックスでヤクルトに勝ったりしないようお願いします。
日本シリーズはリーグ優勝チームが出場する場所ですから。

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2015年10月 2日 (金)

じぃじ、ばぁば族と伝統的な家族の呼称

その日、僕は生まれて初めてグランクラスに乗っていた。
東北新幹線のほうではなく、長野新幹線のほうだ。

なぜ、北陸新幹線と言わないかというと、まだその頃、新幹線は長野止まりだったからだ。
北陸新幹線改行に先行して、1年前から走り始めたE7系。
その12号車(金沢寄り先頭車両)にはグランクラス車両が連結されている。




撮影目的で12号車に立ち入ってはいけないと、JR東日本は注意喚起の車内放送をしているので、この写真を撮っていると言うことは、グランクラス乗車の証である。
もしも、乗車していないのに写真を載せている人がいたら、それはマナー違反いや、JR東日本が施行するローカルルール違反と言うことになる。


通常車両は5列
グリーン車は4列
そして、グランクラスは3列

東京から金沢方面へ向かって左から
[C][B]廊下[A]
という並び順になっている。
(上の写真は東京行きを撮影)

JR乗車券発売は乗車日の一か月前同日より。
さらに、その1週間前(同じ曜日)午前5:30からえきねっとの事前申込みが始まる。
早起きしてネットに向かい申し込んだお陰で、難なく1人掛け[A]席をゲットできた。


E7系はアクティブサスペンション装備車だが、12号車だけはフルアクティブサスペンションが使われている。
それは、電車とは言えない静寂である。
知人のレクサスに乗せてもらった人から「静かすぎる」という感想を聞いたことがあるが、きっと同じような感覚だろう。
機械が動力で地面との摩擦を起こしながら前進していく。
それは本来、揺れてうるさいものと相場は決まっている。
そのはずなのに、ここには揺れや騒音がない。

「あれ、そういえばさっきから静かだな」
そう改めて、今いる場所を確認しなければ、その異常に気づかない。

ただでさえ快適な台車だというのに、さらにそこに設えられている川崎重工、トヨタ紡織の手による椅子は快適。
まるでマッサージチェアを思わせる。

同時期、トクだ値30(30%オフ)の場合は普通指定で5,570円(長野-東京)
それに7,590円を上積みして乗ったグランクラス。
寝てしまいそうだったが、寝るには惜しく、コーヒーで覚醒しながら僥倖に酔っていたその時だ。

びえ゛~

グランクラスいっぱいに響きわたる子供の泣き声
だが、それは仕方がないことだ。
物心ついている子供ならば、親のしつけがなってない!
と愚痴の一つも出るところだが、相手はまだ幼児。
泣くのが仕事だ。

しかし、その泣き声はすぐにやんだ。
だが、それからが長かった。

どうした、まんま?
ほれジューチュ(ジュース)
そう、美味しいね?
ほら、ばぁばの顔みて
ばー
あぁ笑った
そうね
面白いね
ばー
ほれジューチュ(ジュース)
<以下繰り返し>


それを言うなら、ババァだろう

声にしてつっこんだが、もちろんばぁばには届かない。

祖母は自らをばぁばと名乗り
母はその母を指して、ばぁばと呼称する
孫も調子に乗って(ではなくて)真似てばぁば!

いつから、じぃじとかばぁばとか虫ずの走る言い方が定着したのだろう。
欧米ではグランドマザーを略してグランマと言うようだが、それを真似たつもりか。
いや、略したならば、ばぁちゃん→ばちである。

ある日どこかの誰かが文字を並べ替えたら、語感が可愛らしくなったので使い始め、それがメディア、SNS、ファミレス^^;)などで広まったのか。
それとも「百匹目の猿現象」* のように同時発生したのか。

言っている本人たちは、悦に入っているが、聞いている方はむずがゆい。
(え゛むずがゆくない?)
むずがゆくない人達は、恐らくお父さんを「パパ」お母さんを「ママ」と呼んできた人達だろう。
つまり、日本古来からの伝統的な呼び方にこだわらず、新しい価値を取り入れることに逡巡がない人達という意味でだ。
きっと「ビッグダディ」が登場するようなバラエティ番組を喜んで見ている人達だ。

お父さんが堅苦しいなら「父ちゃん」
お婆ちゃんだと親近感に乏しいなら「ばあちゃん」でいいではないか。

それでも「ばぁば」は続いて行くだろう。
それを絶対に使わない人も減らないだろう。
いずれ日本は伝統的な家族にこだわる人たちと「ばぁば」族に分かれていく。
*ある範囲の中で、ある行動をする者の数が一定の量になると、その行動が距離や空間をこえて広がっていくとする仮説


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2015年10月 1日 (木)

あなたにとっての10月1日は、どんな一日ですか?

行政は和暦で行われている。
会計年度は「平成27年度」のように表記される。
2015年度ということはない。

年度というのは4月1日から始まり、3月31日に終わる。
従って、4月1日には組織の設立。法律の施行が集中する。
誰もが切りよくやりたいからだ。

年度の中を細かく分けると「半期」「四半期」がある。
半年ごとの区切りは半期。3ヶ月毎の区切りは四半期。
"第3四半期"といえば、10月~12月。
"3四"と数字が続いて見づらいので、数字と漢数字で書き分けるとよい。


10月1日は年度後半と第3四半期の開始日。
それゆえ、設立・施行が集中する日である。
歴史の古い順から見て行くと次のようになる。


1948年
110番通報設置


1952年からは「都民の日」が制定された。
この日、東京の学校はお休み。
でも一般企業は休まない。
上野動物園は無料になるので、この日、有給休暇をとって子供にパンダを見せる人が多い。


1957年
5000円札発行


1964年
東海道新幹線(東京~大阪間)開業
東京五輪を間近に控えたこの日、東京駅から0系が出発した。


1971年からは「ネクタイの日」
1884年、小山梅吉が日本で初めてネクタイを製造した日にちなみ、日本ネクタイ協会が決めた。
でも、誰も知らない。


1983年~
コーヒーの日

1990年~
デザインの日

1993年
ドコモ記念日(設立日)

1969年
交通違反反則点数制度実施

1971年
フロリダ州オーランド市にディズニー・ワールド(WDW)マジック・キングダム オープン
今や世界各国にあるディズニーパークの端緒である。


1985年
新幹線100系登場 0系から100系が登場するまでの間には21年もの時が流れていた。

その後はというと
1992年 300系(7年)
1997年 500系(5年)
1999年 700系(2年)
2007年 N700系(8年)

高度情報化社会は、手を止めることなく次の一手を求めていく。


1997年
長野新幹線「あさま」(東京~長野間)運行開始

2000年
KDDI設立

2001年
著作権等管理事業法施行
NTTのFOMAサービス開始
三鷹の森ジブリ美術館オープン

2002年
「安全で快適な千代田区の生活環境の整備に関する条例」実施

2003年
新幹線品川駅開業

2004年
厚生年金保険料の引き上げ

2005年
MTFGとUFJが合併

2007年
郵政事業が民間会社に移管された。
郵政講座

2010年
国勢調査

2015年
国勢調査
初めて全国規模でインターネット回答による「スマート国勢調査」を実施した。


この時期は美的感覚に優れると言われる天秤座。
その星の下に生まれた人たちには、次の3人がいる。

1965年
柏原芳恵
1977年
1986年
SAYAKA


9月末決算の会社では、新規事業年度始まりの日。
ということは人事異動により、新たなスタートを切る人が多い。
皆さんの新しい部署での暮らしが、健やかなものであることを祈ります。

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