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2015年10月18日 (日)

20年前ナゴヤ、バリウム検査はなぜ最後におこなわれるのか?

1995年夏
僕は全国的な猛暑が問題視されるずっと前から、暑いことには定評があるナゴヤの病院にいた。
一緒に来たのは同僚のシマちゃん。

名字がシマだから、誰もがシマちゃんと呼んでいる。
名字が2文字で「ちゃん」をつけやすいからというだけではなく、彼は日頃から「愛すべき男」と言われていた。

人のことをよく気遣い、こびへつらうけれど、人が見ていない時はぼろくそに言う。
僕にはとうてい真似できない、その処世術が羨ましいと思っていたからではないが、彼とは行動を共にすることが多かった。

その日は、1年に1度の健康診断
その最終メニューである胃部レントゲン検査(通称バリウム)を終えると、その病院から支給されたお食事券を持って、近くの食堂に河岸を変えた。


「なんで、バリウムって最後なんだろうね?」
シマちゃんが口火を切る。
2人とも、憤懣やるかたないのである。

確かにどの健康診断でも、バリウムは最後に行われる。
この後、バリウムが残っていると思うと、ずっと気分がすぐれない。
いやなことは、最初に済ませたいと思うのが人情だ。

しかし、それには文句を言っても始まらない。
バリウムが腸に滞留しないよう、我々はすぐに下剤を飲んでいる。
日頃、下剤を服用していない人は、速効でその第一波がやってくる。

いつ来るかわからない第一波に怯えていては、健康診断どころではない。
従って、バリウムは全行程の最後にアサインされているのである。


しかし、回れとか、息止めろとか、げっぷするなとか、腹立つよね。
これは僕が言った。
すると、シマちゃんが応じる。

「だいたい、人がぐるぐる回るのとかおかしいよ。
きっと20年後には、技術革新が起きていて、機械のほうが回ったり、そもそもバリウムを飲まなくて済む方法が開発されると思うよ。また、そうならなきゃおかしいし」

その言葉にはリアリティがあった。
数々の技術革新を起こしてきた日本人。
恐らく、医療の分野でも画期的な方法を創り出すに違いない。

昔も今も、日本人にはこうした、技術革新への希望がDNAに備わっている。
まだ、朝ご飯を食べていた当時の僕は、昨晩21時から我慢した夜食と、抜いた朝食の分まで取り返そうと、お昼から焼き肉定食を頼んだのだった。


あれから20年。
自治体が行う「胃がん検診」で病院に来た。
2015年度は、ありとあらゆる検査を受けると決めている。
ところが昨今、企業では検診のメニューからバリウムを外し始めており、そういえばここ数年バリウムを飲んだ記憶がない。
そこで、会社で胃がん検診がない場合に限り、1,000円の実費負担で受けられる制度に応募したのである。


いつも、検診で訪れる病院に電話すると「すでに定員終了しました」と断られた。
2軒目は行ったことがないA病院。まだ枠が残っていた。


予約した時間より15分前に着く。
あいにくの雨。
建物の古さもあいまって、じめっとした空気。
あまり快適とは言えないが、今からここに入院するわけではないし、バリウム検査なんてどこで受けても同じようなものだろうと、淡々と時を過ごすことにする。


診察に来たわけでもないのに、渡された問診票は2種類。
そのうち一つは、筋肉注射に関するものだ。

生まれてこの方、いろいろな検査を受けてきたことには自信があるが、筋肉注射は経験がない。
というより、耳慣れない医療行為だ。
記憶にあるとすれば、殺人を取り扱う推理ドラマ。
何者かにより筋肉注射が打たれた・・というものだ。


説明によると「消化管の働きおさえることにより、胃の動きをわかりやすくするため」とある。

設問には
「緑内障と診断されたことはあるか」
「前立腺肥大と診断されたことはあるか」
などが並ぶ。

緑内障は所見は出ていないが、定期的な検査を受けている。
そもそも、バリウム前に筋肉注射を打つという話を聞いたことがない。

とりあえず、同意のサインには署名したが、これについては注射器を構えた人の前で、異議を唱えればよいだろう。
「筋肉注射打たせない人には、バリウムは飲ませない」
と言うのならば、そこで帰ればよい。

つづく

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