敵将の胸で泣いた原辰徳
インターネットが一般に普及し始めて6年。
巨人もようやく、グラウンド以外でのファンサービスとしてウェブサイトに力を入れ始めていた。
2003年
3月14日、公式サイト「HARA Spirit」オープン。
3月15日「選手たちを動かした勇気の手紙」幻冬舎 出版。
7月15日、オールスター初采配。高橋由伸の2本塁打で4-4の引き分けに持ち込む。
7月16日、オールスター監督初勝利。
9月26日、リーグ優勝を逃し辞任会見。
「夢のつづき」だった巨人監督に就任して初年度は日本一。
しかし、2年めは翌年はリーグ連覇を逃した。
ただそれだけのことだ。
これで辞めなければいけないならば、全球団の監督が辞めなければならない。
ただ巨人ファンとしては、松井がいなくなった途端、勝てなくなるような監督ならば替わってもらい、権謀術数に長けた人に再建を託すのもいい。
そういう考え方もできた。
ここでいう"かわる"は替わるである。
いずれまた、原辰徳にもう1度、巨人監督にトライして欲しい。
2度と元に戻らない代わるではなく、再び戻ることもある替わるだった。
10月8日、最終戦後、阪神球団の厚意により甲子園球場でマイク挨拶。
さらに戦い続けようという大将が、敵将(星野仙一)の胸で泣いたのはいただけなかった。
11月15日、2003シーズン ウェブページ「HARA Spirit」に綴ってきたブログをまとめた「ジャイアンツ愛」幻冬舎 出版。書き出しは辞任後の反省から始まっている。
2004年~2005年
松井秀喜が去ってからの2年間。
松井の代役を立てんと、他球団から4番ばかり補強した堀内監督時代は散々な結果に終わっていた。
2005年10月5日
江川監督説がささやかれる中、原辰徳が2度めの巨人監督就任会見。
背番号88
補強ポイントに「一番大きいのは日本人」と日本人補強を挙げた。
2005年オフ、巨人は中日の左腕エースだった野口、西武の抑えだった豊田をFAで獲得している。
2007年
2006年、2007年シーズンとも春は首位を走った。
そして、2年めシーズンは、上原の抑え起用が功を奏しリーグ優勝。
この年から始まったクライマックスシリーズでは、中日に敗れて日本シリーズに出場できなかった。
評論家時代は、クライマックスが制度としておかしいと非難していた落合博満が、NPBの一員になった途端「日本一をめざす」とコメントしたのが、勝利監督インタビューだった。
パリーグはリーグ優勝の日本ハムが出場しており、巨人はクライマックス制度として初めて、日本シリーズに出場できなかったリーグ優勝チームとなった。
2008年
13ゲーム差を逆転してセリーグ2連覇。
これで5期指揮を執り3勝。
監督としては明→暗となっていた原辰徳のイメージは、この2連覇で再び「明」の時代を確固たるものにした。
リーグ優勝決定後の談話として次のように述べている
(スポーツ新聞掲載)
「2009年(=来シーズン)はさらに若返りを図る。2009年は勝てないかも知れないが、2010年から5連覇できるチームを作る」
ぽっと出の監督が言ったら、新聞紙面には載せてもらえないようなコメントだ。
こんなことを言って相手にされるのは"連覇"が命題となる唯一の球団、巨人の監督だけであり、それでも実績がなければ非難される。
2009年
シーズン開幕前の3月、巨人を離れてWBC日本代表監督を務め優勝。
セリーグ三連覇。日本シリーズも優勝。
「もしかして原って名将なんじゃないの?」
「昔はそうは思えなかったけどね」
巨人ファンの原辰徳への評価はここで、転機を迎えた。
ここから先、原批判をする巨人ファンをほとんど見なくなった。
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