« 原辰徳ドラフト前夜、プロ野球ニュース出演、そこで書いた夢 | トップページ | 残念な「仁志が8」の後、指導者原辰徳の時代が訪れる »

2015年10月 8日 (木)

ポップフライに止めたバット あまりに悪い原辰徳のイメージ

原辰徳がデビューした1981年。
巨人入団では2年先輩の江川卓は、プロ3年めのシーズンを迎えていた。
20勝6敗 最多勝 最優秀防御率 最多奪三振。
実力で取る投手部門のタイトルをすべて手にしたが、記者投票で決まる「沢村賞」だけは西本聖(18勝)に持って行かれた。

江川にとっては、わずか1年限りの全盛期。
投げる試合の大半は9時前に終わってしまう。
平和台球場での試合は、僕の記憶では8時9分に終わってしまった。

投打の同世代スターが一斉に花開いた年は、もちろんセリーグ優勝。
日本シリーズでは、本拠地後楽園球場どうしの対決で日本ハムを破り日本一。



1983年(入団3年めシーズン)
103打点で打点王
これが現役唯一の打撃タイトルとなった。
この年はリーグ優勝したこともあり、セリーグMVPにも選ばれた。


だが、そこから後が思い出せない。
通算成績表を見れば、そこそこの数字が載っているのだろうが、記憶に残っていないのである。
それはなぜかと尋ねれば・・


好印象をかき消してしまうほど、悪い印象が強いのである。
チャンスに打席に立つ4番原。
しかし、打つつもりだったのかも怪しい気のないスイングで、打ち上げる内野へのポップフライ。

野球選手は本能的に打球を目で追ってしまう生き物で、情けない打球を「やっちゃった」と見上げ、顔をしかめ歯ぎしりしながら念のためにのろのろと一塁へ走り出す原。

あるいは、スイングの途中で思いとどまったが、バットの芯で捉えてしまい力のない内野ゴロになる、いわゆる「止めたバット」


打者というのは3割打てば一流。
7割は失敗しても許される。
だが、原はその失敗の形が悪すぎた。
従って、圧倒的に回数が多い"失敗"のイメージが強く残ったのである。


記憶に残らない4番打者が座るチームは、リーグ優勝しても日本シリーズで西武に歯が立たなかった。
1983年、1987年と西武に連敗。
(1989年は近鉄相手に3連敗のあと4連勝)


1990年は西武に4連敗。
原の子分である岡崎郁が「野球感が変わった」と言ったのがこの年である。
(岡崎は原を「親分」と呼んでいた)


1992年
入団以来12シーズン連続 本塁打20本以上。
シーズン最多犠飛セリーグ記録となる12犠飛。
(プロ野球記録は大杉の15)*多すぎではない
王貞治、長嶋茂雄がその記憶と共に打ち立てた記録と較べれば、なんとスケールの小さいことか。


1994年
10.8決戦
巨人の先発cleanupは、松井秀喜-落合博満-原辰徳。
登板した投手は3本柱の槇原-斎藤-桑田。
今思えば、豪華絢爛である。
だが、あとの5選手はどのような活躍をしたか思い出せるのに、原に至っては試合に出ていたことすら覚えがない。


日本シリーズは3度めの対戦で初めて西武を破り日本一。
この年が原辰徳、現役最後の優勝。
在籍15シーズン中の優勝は、1981、1983、1987、1989、1990、1994の6回。
うち日本一が3回。


1995年
シーズン終了後、現役引退。
通算打率.279、382本塁打、1,093打点

現役最後の年は松井秀喜、落合博満といった強打者が主軸を打ち、原はレギュラーを外れ、代打出場が多かった。
勇者必衰、晩年の原は「暗」のイメージでバットを置くことになった。

つづく

| |

« 原辰徳ドラフト前夜、プロ野球ニュース出演、そこで書いた夢 | トップページ | 残念な「仁志が8」の後、指導者原辰徳の時代が訪れる »

スポーツ」カテゴリの記事