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2015年10月11日 (日)

原辰徳と江川卓

2010年
首位と僅差で優勝を逃しセリーグ3位

2011年
セリーグ3位


2012年
リーグ優勝。9期指揮を執り5勝。
監督として3度目の日本シリーズ優勝。


2013年
セリーグ2連覇 日本シリーズは楽天と対戦。
2度にわたる楽天寄りの誤審が響き敗戦。
第7戦では不調の杉内起用にこだわったのが解せなかった。
結局、一度も日本シリーズの2連覇はできなかった。


2014年
5月29日、父親の原貢氏が亡くなる。
5月31日、試合後に公表された。
その日、訃報は選手に知らせずオリックスと対戦。
金子に9回を無安打無得点(記録はノーヒットノーランにはならない)に抑えられたが、12回表2死無走者から亀井義行の本塁打で1-0の勝利。
菅野智之をはじめ7人の投手が11安打を打たれながら12回を完封した。

セリーグ3連覇(監督として2度め)
クライマックスファイナルで阪神に4連敗して、日本シリーズ出場を逃す。


2015年
ヤクルトにわずかに及ばず、セリーグ優勝を逃す。
4連覇は2度めの挑戦でも叶わなかった。
スポーツメディアでは原辰徳退団が報じられている。


2007年にクライマックスシリーズが始まって以来、巨人は一度もBクラスに落ちておらず、毎回出場している。
2位以下での出場は、2010年、2011年に次いで今回が3度め。
2位での出場は初めて。

2010年は3位 1stで阪神を破り、2ndで中日に敗れた。
2011年は3位 1stでヤクルトに敗れた。



ホームランを何本くらい打ちたいか?
そう問われ、ホームラン狙いを否定して「ヒットの延長がホームランです」と謙虚な素振りで応える選手がいる。
原の場合は「ホームランの打ち損じが犠牲フライ」または「外野フライの延長がホームラン」だった。


原辰徳は著書の中で、犠飛の難しさを唱えている。
犠飛のシーズンセリーグ記録を持つ彼が、フライを上げる技術が高かったとみるか、ボールの下を打つ特徴があったとみるか(芯に当てるのが下手だった)ものごとの見方には個人差がある。
ただ、ファンとしては、もう少し芯に当てて欲しかった。


もしも、2002年の日本シリーズ第4戦、代走・鈴木尚広が浅いレフト前ヒットで2塁から生還、西武に引導を渡して優勝を決めた翌日、松井秀喜がMLBに往くと言わなかったら・・・
原辰徳は2004、2005年のブランクを経ず、松井を中心とした巨人黄金時代の大将となっていただろうか。

あるいは、外から野球を見る雌伏の時あってこその名将化だったのか。


その松井秀喜、現在41歳。
原辰徳が監督就任した44歳まで、まだ充電の猶予がある。
ならば、江川はどうだ。

紆余曲折を経て巨人入団を貫いた江川。
ドラフト会議で藤田監督が"残りくじ2枚"の二者択一を引き当ててくれた原辰徳。
だが、あの時、藤田監督がはじめに指に触ったくじを取っていたら・・

「巨人以外行かない」
と決めていた原辰徳は、江川に次ぐ巨人浪人第2号になっていたのである。
(後に元木大介が第2号、菅野智之が第3号になった)

江川にも、いい思いをしてもらいたい。
他の巨人一筋の男たちと同じように。


原辰徳と江川卓は巨人で7年間を共に戦っている。
大学で出会って以来、信頼関係は深い。
2009年に発売された書籍「原辰徳-その素顔」で、江川が原を語る言葉には強い共感がにじんでいる。

現場と解説者は立場が違う。
だからグラウンドには降りないというルールを自らに課す江川。
いつかは原監督と江川ヘッドコーチで、共に「GIANTS」のユニフォームを着たかったことだろう。

今でもそのチームを見たい。
原辰徳が巨人を去ってしまうならば、せめて江川卓がつくる巨人というチームを見たい。

(おわり)

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