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2015年10月23日 (金)

長嶋監督が高橋由伸にウルフと命名した結果

高橋由伸はイチローが日本を去った後、NPBで唯一"天才"と呼ばれてきた選手。
天才とは、天賦の才能に頼って結果を出す人のことではない。
天才とは、努力し続ける才能を持った人を言う。
努力し続けることは、誰にとっても簡単ではない。


1998年
プロ1年め、開幕スタメンデビュー。
この年の新人王は中日川上。
同年オフ、吉村外野手の引退で背番号「7」が空き、高橋由伸が引き継ぐものと目されていたが、それはドラフト(逆指名2位)で入団してきた二岡智宏が引き継いだ。


1999年
シーズン前半、長島監督が高橋由伸を「ウルフ」と命名。
松井秀喜は「ゴジラ」というニックネームを待つまでもなく、その風貌からして威圧感があった。
一方、童顔の高橋由伸は迫力に欠ける。
戦う者としての猛々しさを醸し出すための策である。

だが、この命名が故障の歴史の始まりとなってしまった。
シーズン終盤名古屋ドームでフェンスに激突、鎖骨骨折。
2015年現在、いつの頃からか、メディアもファンも、彼をウルフと呼ぶのをやめている。


NPBでよく言われる「2年目のジンクス」は高橋由伸には無縁。
プロ入り2シーズン終了時・契約更改での年俸1億円到達は、当時のプロ野球最速記録。
その後は松坂、大谷、菅野らが続いている。


2000年
前年の骨折で準備不足となり3年目は前半戦、打撃不振を極めた。

2001年
開幕戦3番。開幕戦アーチ。
「140試合3番固定」とスポーツ各紙に報道されていたが打撃不振。
31試合本塁打なし(44~74戦)のスランプで1番も経験。6番が指定席となった。
オールスター初本塁打(第3戦)。
シーズンオフにはW杯に出場、4番を打った。


2002年
開幕から3番固定、一時5番。
一時期打率を4割に乗せた。
8月3日、守備で足をひねり全治2週間の怪我、登録抹消。


2003年
松井がヤンキーズに移籍した後を受けて、開幕4番センター。

4月25日、腰痛で登録抹消。
5月15日、初めて代打本塁打。スタメン復帰後はライトを守る。

6月11日、11打数連続安打 14打席連続出塁。いずれも日本タイ記録。
7月15日、オールスターゲーム、原監督初采配試合で代打出場。
2打席連続本塁打でMVP獲得。
11月、アテネ五輪予選センターで出場。打率.538で首位打者。


2004年
開幕戦4番ライト。
この年から指揮を執る堀内恒夫監督の方針である「四番は生え抜き選手」により四番を打つが、不振におちいった。

今でこそ巨人ファンの誰からも愛される高橋由伸だが、この頃は「松井秀喜につづき、FA獲得後はメジャーへ移籍する」という空気を醸し出していた。

松井秀喜は2002年に4番で50発を打ち、原辰徳監督就任1年めに日本シリーズで西武を4タテという「松井で勝った1年」を作って旅立った。
果たして高橋由伸は、移籍までに高橋由伸で勝った1年を作れるのか?
興味はそこにあった。


2005年
故障がつづき、堀内監督のチームリーダーとしての期待を2年続けて裏切った。
堀内恒夫は2年で退任。
2006年からは原辰徳が復帰する。


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