原辰徳ドラフト前夜、プロ野球ニュース出演、そこで書いた夢
ヤクルトと僅差の2位(1.5ゲーム差)
今年の巨人はどこが悪かったのか?
防御率1位の投手たち。
打率6位の打者たち。
敗戦の責任が誰にあるかは明白だ。
それは、使えない外国人を残したり、新たに連れてきたスカウティング。
打撃を預かった指導者。
キャンプ中、超高速打撃マシンの球を金属バットで打つ練習をしたが、その結果がこれである。
その責任のどの部分をどこまで、原監督が負わねばならないかは、球場に取材パスを持っていない者には判断しかねる。
原辰徳ほど、選手、指導者を通じてその評価が移ろった野球人は珍しい。
それは明→暗→明→暗→明と遷移してきた。
1958年7月22日
福岡県生まれ。だが彼の中に「福岡」の血筋を見ることはできない。
博多んもんな横道もん、青竹割ってへこにかく(ばってんラーメン・・と続く)
は鮎川誠(シーナ&ロケッツ)が宣伝していた「日清はかたんもんらーめん」のコピーで"博多者は横着で、青竹を割ってふんどしにするほどだ"という意味(ラーメン袋の裏に書いてあった)だが、原辰徳はそういう博多者の無骨なイメージとは対極にある。
いやいや、原辰徳は博多じゃなくて大牟田だというツッコミはご遠慮します。
1974年
東海大相模高校進学
3年間で4度(80%)甲子園に出場した。
1975年
センバツ甲子園で準優勝。
1977年
高卒の段階では巨人から1位指名の確約がなく、東海大進学。
4年間で三冠王2度獲得。
1980年
ドラフト会議前夜
原辰徳は学生服を着て、CXプロ野球ニュースに出演していた。
画面には佐々木信也と並んだ2ショット。
佐々木から「夢」を問われた原辰徳は色紙をかざす。
そこには「巨人 原辰徳」の文字があった。
おいおい、そんなこと書いていいのか
とブラウン管にツッコンだが、それほどまでに入りたいと言ってくれるのが、球団職員のように嬉しかった。
ドラフト会議当日
1位入札したのは日本ハム・広島・大洋・巨人の4球団。
前夜のアピールが効いた訳ではないだろうが、思いのほか少ない競合だった。
抽選では、巨人の藤田監督が引き当てた。
用意された背番号は「8」
これは、さだまさしが「♪高田の背番号も知らないクセに」と「朝刊」で歌った高田繁がつけていた番号。
高田の引退と入れ替わりになったため、その番号を引き継いだ。
1981年
当時、巨人の正三塁手は中畑清。
原辰徳といえども、プロでは未知数の若者に過ぎない。
主軸打者をいきなり定位置から押し出すことはできず、二塁にコンバートされて、キャンプでは篠塚と定位置を争った。
篠塚もその頃"安打製造器"の片鱗を見せており、その時点での単純比較では篠塚が上と思われていた。
だが、開幕スタメンは原辰徳。
キャンプ中には、牧野ヘッドコーチが「不平等はないが不公平はある」という名言を残している。
開幕セカンドスタメンデビュー。
すると、開幕早々に三塁の中畑が負傷。
代役の三塁としてはまった原辰徳はそのまま、好成績で存在感を示す。
負傷が癒えて戻ってきた中畑は、当時正一塁手だった松原をベンチに追いやり、そこにはまった。
巨人ファンとしては、それこそが求めていた姿だった。
1年目打率.268、22本塁打、67打点 新人王
原辰徳のプロ生活は、まさに「明」で始まった。
つづく
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