カラオケにおける不協和音
カラオケボックスは岡山で生まれたので、僕がカラオケボックスを初めてみたのは岡山市内だった。
ある企業を視察に訪れた時、マイクロバスの車窓から広陵とした敷地に点々とコンテナが置いてあり「カラオケ」と書いてあったのだ。
あれはなんですか?
ガイドの人に尋ねると「あれはカラオケボックスです」
あんなところで歌うんですか?
「そうなんですよ。いったいどんな人が行くのでしょうね」
誰がいくんですかねぇ・・
会話はそれで終わった。
ガイドの彼が脳内にどんなイメージを描いていたかは知る由もないが、僕の脳内には中洲のスナックの動画が流れていた。
「ねぇmotoくん、サザン歌って!」
いやぁ、サザンはあまり知らないんだよなぁ
と逃げを打った翌日、レンタルでサザンを借りてきて、歌詞を暗記するまで練習する。
カラオケとはそういうものだと思っていたのだ。
いや、当時は誰もがそのようなものだと思っていたはずだ。
先輩に連れられてスナックに行けば
「サトウさん、銀恋うたって!」
と甘い声で年増のママが言うと、よし来たと先輩のサトウさんは応じる。
イントロが流れたかと思うと、隣にいたスズキさんが「じゃ、ママ踊ろう」と促し、サトウさんが苦い顔をする。
あのチークというのが苦手だ。
つかず離れず(身体は密着していない)軽いステップを踏んで、いったいその先にどんな未来が待っているというのか。
効率至上主義だった若い頃は、あぁいう予定調和な娯楽が鼻持ちならなかった。
そのせいか、年をとった今も、ハグというのがダメだ。
時々、そういう主義(どういう主義だ)の女性がいて、オフの後などにハグしようとする。
そんな時は、すぐに酔いが覚めて機敏にバックステップで身をかわす。
話がそれてきたので元に戻そう。
そんなこんなで、昔はカラオケというものは男女が風俗営業法のもとに営まれる店で、かりそめの懇親を深めるためのものだったが、今や「誰がいくんだろう」と言っていた方のカラオケボックスが主流だ。
歌いたい人が、歌いたい人と往く。
歌を好きな者どうしにわき起こる共感。
カラオケ友だちがいることは、人生に彩りを加える。
歌が好きな人にとっては。
だが時々、気まぐれは起こる。
それは初めてカラオケに誘った人との間で。
「古い歌でスミマセン」
40代以上の人がいうこの台詞が辛気くさい。
長い間、音楽と離れた暮らしをしている人には新曲がないのである。
人生はその繁忙期において、音楽と離れる時期がある。
就職、子育て、仕事の多忙あるいは充実。
あるいは私生活の充実いわゆる「リア充」
部屋では音楽を時々かけているのだが、積極的に新しい楽曲を取り入れていない。
50代の人がMr.childrenの新譜を聴くことは容易だが、SEKAI NO OWARIの新譜を聴くことは敷居が高い。
音楽には支持される世代特有の呼吸があり、その呼吸を理解するためには、我慢する努力が必要だ。
50代の人が「ゲスの極み乙女。」を聴いて、一発ではまるのは難しい。
ましてやあの早口で歌うのは至難の業だ。
だから、音楽から離れている人には新曲がない。
従って、カラオケで入れる曲はすべて古い。
ただし、誰もそれを責める人は居ない。
唄は世に連れ、世は唄に連れ
その人が共感してきた音楽と共にあることは、誰にも尊重されることだ。
「新しい曲知らなくて」
「こんな唄、知らないでしょ」
1曲入れる度に、歌う度に同じ台詞
そうやって「いやいや知ってますよ」「昔聴いてました」「懐かしいですね」とレスして欲しいのだろうが、いい加減飽きる。
お互いの音楽観を尊重し、上手下手を問わない。
それはカラオケボックスの不文律だ。
それを信じられない人との間に生じるのは不評和音だ。
なんだかよくわからないが、つづく
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