鼻に詰まっていた10本ものガーゼ
下垂体腺腫の手術を受けて3日。
脳腫瘍があった場所から血の塊が一気に落ちてこないよう、鼻にはぎっちりとガーゼが詰め込まれていて、僕から自由な呼吸を奪っている。
本来ならば、このガーゼは下垂体腺腫の手術後2日で取り出してくれるのだが、2日めが日曜日に当たったため、3日後の今日になったのである。
あとで思えばネタでしかないが、当事者としての僕にはこの1日の差は本当に辛く長いものだった。
「耳鼻科で鼻から綿を抜く時は、千葉さんくらいの年齢の方でも涙流すくらい痛いですよ!」
ICUの看護師が言っていた言葉は忘れもしない。
ただ今はどれだけ痛かろうが、涙を流そうが、早くこの呼吸を少しでも楽にして欲しい。
耳鼻科医が自己紹介する。
と言っても出身地や趣味を言うのではなく、ただ耳鼻科医のサトウです。と名乗るだけだ。
何度か耳鼻科に来てわかったことだが、医師がひんぱんに入れ替わっているようで、ここではまず患者に対して名乗るというのが規程になっているのだ。
ある時は、名乗らずに治療を始めて、あっスズキですと途中で名乗った医師もいた。
大きな病院でも医師が名乗るのを、他では聞いたことがない。
医療をサービス業と見なせば、それもまた礼儀として当然ということで、耳鼻科だけでそう決まっているのだろう。
サトウ医師は名乗るが早いか、鉗子を左鼻にさし込むと予告も迷いもなく、ぐいっと引き出した。
思わず身体が前に持って行かれる。
眼下には血に染まった帯状のガーゼ。
それをトレーに置くと続いてもう一本。
確かに痛い。
涙目になる。
だが、ICUの看護師が予告してくれたお陰で、心の準備ができている分耐えられる。
結局、ガーゼは左右5+5本も入っていた。
10本ものガーゼが規則正しく折りたたまれて、鼻孔から下垂体につながる空洞に詰められていた。
その緻密な後処理に感動する。
医療技術というのは、切って縫うだけではなく、このような術後の安定的な回復のための方法論にも及んでいるのだ。
患者のためにアイデアを出し、それを適える手技を磨く。
医師の皆さんを尊敬する。
すべてのガーゼが抜かれると、鼻の奥を細い道具で丹念に掃除してくれる。
耳鼻科に通ったことはあるが、これは初めての鼻孔ケア。
工程がしっかりと練られていて、仕事が丁寧。
ちょっと得した気分だ。
楽になった呼吸。
すっかりやさぐれていた気持ちが軽くなった。
しかし、まだ足取りはおぼつかない。
杖があるわけでもない。
「歩き始めたばかりの術後3日の患者」
という名札を付けているわけでもない。
院内を通行する外来患者や病院スタッフは、遠慮無く高速ですぐ脇をすり抜けていく。
もうちょっと、気を使ってくれてもいいのに。
後で思えば、やはり、ヘルパーさんにお迎えを頼むべきだったのだろう。
10:20
耳鼻科から戻るとすぐに副担当の長井医師がやって来た。
「順調です。今日点滴が終われば、何もやることはないです。早ければ今度の土日で出られるかも知れませんね」
パワーポイントでスライドが切り替わるように、この言葉で一気に病人からリハビリ患者へとページが進んだ。
しかし、そんなに早く退院しなくてもいい。
こちとら、じっくり治したい。
長井医師が"患者は誰もが早く退院したがっているもの"と思っているのか、あるいは実際に脳神経外科病棟にいる人々の中では、退院を待ち焦がれる人の比率が高いのか。
それでこのリップサービスなのだろう。
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