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2016年3月 3日 (木)

頭が固い

子供の頃、クラスで頭突き合戦が流行ったことがある。
発端は、大木金太郎とボボ・ブラジルの頭はどちらが固いのだろう?
という議論だった。

ボボ・ブラジル アメリカ人
1924年7月10日~1998年1月20日
僕は後に博多に住むことになるが、この時はまだ、なんの違和感もなく、この話題に夢中になった。

当時の風潮は「日本人は日本人を応援する」というものだったので、僕らは教室で大木に軍配を上げた。
だから彼の晩年、馬場と対戦する度、苦境に陥ると「金玉パンチ」を繰り出す姿に、寂しさを感じたものだ。

放課後、僕らは一日の苦行が飽和した教室で頭突きをして、どちらが痛がるか競い合った。
自分がどれだけ強いか知りたかった。



僕は頭の固さに自信を持っていた。
石頭自慢の相手との頭突き合戦では、たいてい僕のほうがダメージが少なかった。
時には、痛いなと思うことがあっても、言わなければばれやしない。
痛みを顔に出さない術は、頭突き合戦が教えてくれた。


「校内頭突き王選手権大会」は残念ながら母校では行われていなかったので、立証はできなかったが、僕は学校一頭の固い男だと思っていた。

別に頭が固いことだけにこだわりがあったのではなく「図書館で一番多くの本を読む」とか、1日の終わりの会でもっとも多く、同級生から糾弾されるといった、なにごとにも突出する性分だったのだ。



頭の固い人を揶揄して「石頭」という。
いい意味で筋が通っている場合は「ぶれない人」と言う。
褒め言葉で「石頭」は使わない。

子供の頃は「石頭」と言われると、誇らしい気分になったが、大人になると「石頭」と言われて喜ぶ人のは難しい。

面と向かって「あなたは頭が固いんじゃない?」と言われることは希だ。
もしも誰か1人にそう言われたならば、その背後には100人の同意見者がいると思っていい。



確かに「石頭」は存在する。
感覚的には30%程度がそう呼べると思う。

大人になってからの「石頭」は「なにかを守りたい人」である。
「ゼロベースに戻る」という習慣がない人とも言える。
いったん、ゼロベースに戻り、相手の意見を斟酌し、それでも現状を変える必要がないという結論を出すならば「石頭」とは言われない。

要はテクニカルな問題なのだ。
一度、相手の話をよく聞き「そうですねぇ」と一緒になって考える。
そこでいくつかの問答をしてから、自分の考えを決めて話す。
こうすれば「石頭」とは言われない。


だが「石頭」と思しき人は、人の意見を真っ向から「ムリ」「難しい」と言って跳ね返す。
そうなると「石頭」の烙印が、そのまま「無能」の烙印になることもある。
常に改善、革新が求められているめまぐるしい世の中では「石頭」と呼ばれることは得策ではない。


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