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2016年11月26日 (土)

顴骨法要 初七日

ここに来て、雨が一段と激しさを増した。
足腰の弱い親戚のおばさんには酷な状況だ。
本来、クルマが入れない玄関先に付けさせてもらい、おばさんを寺の中へ。
おばさんをかばって傘を差し掛けた、老年のいとこの体が濡れる。
親戚同士の間柄には理屈抜き、ためらいもない。


真善美を求めるのは 、人みなの思いだが 、どんなに求めても 、美ならざるもの 、正ならざるものは 、やはりなくなりはしない 。

そう記したのは松下幸之助(道を開く)
昭和の世でも、平成の世でも、この世からイヤなヤツが消えてなくなることはない。
ただ今、こうして親戚同士、近くあるいは遠く血と縁でつながった人々だけがいる空間では「いい人」だけが存在していて、日頃、私たちを取り巻く環境に「イヤなヤツ」がいることを忘れている。
できれば、ずっと忘れていたいが、しばし、このひとときは平穏な時間が過ぎていく。
そんな時間を提供してくれたのは、紛れもなく故人の母である。


新築なった佐世保別院、法要が営まれる畳の間が真新しい。
以前は信徒が座る場所にザブトンが並べられていて、老年の人々を苦しめていたが、今はそれが幼稚園児が座るくらいの高さの椅子に代わった。
これならば、正座ができない太った人も、股関節が硬くてラップタイムが伸びない僕も、足のしびれや無礼を気にせずにいられる。


火葬、収骨につづいて営むのは顴骨法要(かんこつほうよう)である。
民営の火葬場には斎場が併設されていて、その場に僧侶を招いて行うことが多いが、公営の火葬場で火葬した場合、斎場または寺に移動しておこなう。
一般の会葬者は告別式で帰っているので、それ以降、この法要に残っているのは遺族・親族、まれに親しかった人だけとなる。


はじめに僧侶の読経
つづいて遺族・親族の焼香
会葬者がいる場合、その焼香
これで終わり。


つづいて、初七日法要を営む。
初七日とはその名のとおり、死後七日めにおこなう法要であるが、実際には遠方から来ている遺族・親族が七日後に再び足を運ぶのは難しいので、葬儀をしめくくる法要として行われる。

顴骨法要との違いはお経の内容
佐世保別院ではお経の本を配り、皆で声を合わせて読み上げる。
この時はまだ、それにどういう意味があるのかも考えず、ただ遅れないよう集中して読んでいた。

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