母が居なくなって初めての母の日に母を想う
5月14日(日)は「母の日」
普段は照れくさくて伝えられていない気持ちを伝えてみては?
衣料品メーカーから届いたメルマガにあった「母の日」というキーワードに脳が反応した
この実世界に「母」という存在がいなくなってから迎える初めての「母の日」
直接言葉や品物でなにかを伝える相手はもう居ない。
試しに自分のメールソフトを「母の日」で検索してみた
出てきたのは数年前、親戚と交わした「母の日」にまつまるやりとり。
そして、今年届いた「母の日」ギフトを訴求するメルマガが3通
過去に届いた「母の日」メルマガが大量にヒットすると想定していたのだが、1通もなし。
恐らく「母の日」という件名を見た途端、中も見ず削除したのだと思う。
別にメルマガを削除したのが悪いとは思わないが、それくらいに「母の日」というキーワードに反応する気持ちがなかったことはわかる。
さだまさしが以前「生さだ」で「親孝行したい時には親はなしと言うけれど、親孝行は生きている時にするのではなく、親が元気な時にするものだ」と語っていた。
会話ができない状態になってから、語りかけても、あまり多くは伝わらない。
寝たきりになってからでは、美味しいものを食べたり、散歩に連れ出すことさえままならない。
いつか一度、僕がマラソンを走る姿を見せたかった。
だから「佐世保ハウステンボスマラソン」を企画して、実現に向けて動いたのだが、それは夢となった。
「親孝行したい時には親はなし」
誰に言われたかは忘れた、いつのまにか心に刻まれた言葉
恐らく、この言葉が言われ始めた時代は、脇目も振らずに一生懸命働いて、ある程度の年齢になり、心にゆとりが持てるようになった時、親はもう他界していた。という慚愧の念を言ったのだと思う。
現代の「親孝行事情」は少し違っているだろう
自分がどうだったのかは、よくわからない。
なにせ親元を離れてから数十年が経っている
反省をしようと思えば、いくらでもできる
だが、カンタンに反省で総括できるほど単純じゃない
そんなことをしたら、過去の僕が怒るだろう
今さら反省しても、もう母はいない
だから「意味がない」のかというと、それは違う
母はもう居ない
実世界には。
でも、僕は生きて母を想う
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