僕は創刊号を捨て始めた
僕は創刊号を捨て始めた
創刊号を集め始めてから30年、ずっと捨てられなかったのだが踏ん切りが付いた。
それは父が死に母が死に、その持ち物の大半は処分されるということを実感したからだ。
僕が持っているものも、僕がいなくなればほぼそのまま捨てられる。
残しておいて誰かの役に立つならば残す甲斐もあるが、まずあり得ない。
それならば、今自分が魅力を感じないものを、とっていて(残していて)どうする。
「DENIM」1992年8月
小学館 480円
当時の雑誌は500円以下のものが多い。
それくらいの値付けでも採算がとれたからだ。
その理由は2つあり「入り広」がとれること。
そして「数が売れる」ことである。
1997年にインターネットの普及が日本で始まると、雑誌が売れなくなった。
2010年代に入ると、企業が使う広告費はネット広告に比重が移った。
従って、現代の月刊誌は大半が700円~1000円の間で値づけられている。
「DENIM」は当時「DIME」が好調だった小学館が、二匹目のドジョウを狙った雑誌。表紙の雰囲気は、当時よく売れていた「BIG tomorrow」に似ている。
「DENIM」は既に存在しないが「BIG tomorrow」は2017年7月号現在も刊行が続いている(690円)
「じゃマール東海版」1997年2月
リクルートフロムエー 350円
「じゃマール」は1995年に創刊されているが、これはその東海版。
「売ります」「買います」から「メンバー募集」を活字で掲載している。
昔はこうだったなぁ
そういえば、SONYの会報誌に載っていた文通希望を見て文通を始めたことがあった。
僕がまだ高校生の頃だ。
その相手は書面で「芸能人の榊原郁恵に似ている」と自称していたが、僕に写真を送ってとリクエストして、それが届いたのを最後に音信が途絶えた。
いまだに、本当に榊原郁恵似だったのかは不明だ。
苦い思い出だが、自分を傷つける記憶ではない。
「THIS」1994年9月
佐野元春事務所 1000円
僕らの仲間「元春HP」が佐野さんにホームページを提案したのが、ちょうどこの頃だ。
当時、日本にはホームページと呼べるものはなかった。
個人がHTMLを記述して公開したものは存在したが、企業・組織・著作家などがその情報を一覧で開示する、いわゆる「ホームページ」正確に言うと「ウェブサイト」は日本には1つもなかったのである。
その第一号が佐野元春の「Moto's Web Server」だった。
売り手と買い手をつなぐ媒体が活字からネットへ移行していく前夜。
これが佐野元春、最後の活字での挑戦だったと言える。
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