初めて亡くした親、最後に亡くす親 それぞれなんと呼ぶか
母との思い出
最近、ともだちの町田君のお父さんが亡くなった。
父上の具合が悪いことは知らなかったので、町田君にどれくらいの覚悟があったのかはわからない。
そこに自分が父を亡くした時の気持ちを重ねてみる。
父と母、亡くなった時、どちらが堪えたかというと、父の方だった。
それは、僕が「お父さんっ子」だったという噺ではなく、ただ、初めて亡くした肉親だったからだ。
肉親が亡くなること
その亡骸に接すること
初めての時というのは、前もって想像がつかないだけに、重く心に刻まれるのだと思う。
そういえば、日本には「初めて親を亡くすこと」に相当する言葉が無い。
無いならば作り出すのが、僕のライフワークの1つだから考えてみた。
「初」「親」「送る」といったキーワードを組み合わせて、できないだろうか。
「初盆」のように漢字2文字、音が4つだと語呂がいい。
日本人が仏教徒ばかりならば、初めて親が浄土に還るを略して「初浄」(はつじょう)などはどうかと思うのだが、聞いた人がおかしな意味にとりそうだ。
二度めに亡くす親は「完葬」
基本的には親は2人なので、二度亡くした時、あなたは誰かの子どもではない「大人」になる。
自分が戸籍の筆頭になるということは、無意識のうちに、人を大人にさせていくのだと思う。
ただ、二度めなので「初浄」のように、ずしりと来ない。
一度、経験済みのことは、その感情も想像できるので、脳は既定路線のように流してしまおうとするのだ。
じっくりと悲しむことができないのが「完葬」
数年が経ってみて「完葬」の親、僕の場合、母親を失った感慨が、どこか薄っぺらい。
ただ思い出は、圧倒的に母が多い。
それは、夕方の時間帯の想い出だ。
親と過ごしたのは高校生までだったので、父が居ない家の中で母と過ごした時間帯は、大半が夕方。
僕が学校から帰り、公務員だった父が、世の中のサラリーマンと比べれば早い時間帯に帰って来るまでの間。
母を想う時、いつも、うなぎの寝床のように狭く細長い台所で夕飯をつくる母の姿が思い浮かぶ。
いつも、厳しかった母も、そこでは温和な顔だった。
時々、夕飯のおかずになるハムやちくわの端っこをくれた。
そのせいか、今もハムの端っこ、ねじられてギザギザになった所を食べる時、幸せな気持ちになる。
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