朝刊を夕方に運ぶ新聞のおばちゃん
五島の海は紺碧
潜水艦岩の向こうに有川
背後の山頂に風車
あの風車は、子どもの頃にはなかったものだ
あたり一面、背の高い雑草が生い茂っていて、このフレームを切り出すのには、かなり手こずった。
この場所に立つと僕は新聞配達のおばちゃんを思い出す。
この場所に立つと僕は新聞配達のおばちゃんを思い出す。
午後3時~4時頃、僕はよくここでおばちゃんとすれ違った。
五島では朝刊は夕方に届いた。
だから、長崎県の朝刊テレビ欄には翌日午前のテレビ番組が掲載されている。そうしないと、離島民は午前中にテレビで何をやるかがわからない。
朝刊が夕方に届くわけなので、夕刊はない。
海がしけて船が欠航すると、新聞も来ない。翌日船が着くと二日分がまとめて配達された。
新聞のおばちゃんは榎津に着いた鯨波丸で運ばれてきたその日の朝刊を受け取り、この道を榎津から浦桑に向けて歩いてきた。
当時は人口1万人弱の町だったので、町内を1人で受け持っていたわけではない。恐らく榎津の一部と浦桑。つまり榎津港を境に南側を受け持っていたのだろう。
おばちゃんは、とても人がよさそうで、ちょっと太っていたけれど、来る日も来る日も歩きづめなので、赤銅色に日焼けしてとても健康そうに見えた。
おばちゃんのお陰で僕はテレビ番組を確認し、昨日の巨人は誰が打ったのかを知ることができた。そんな感謝すべき人なのに、僕はおばちゃんと話した記憶がない。道ですれ違った時には「いつもありがとう」までは言わなくとも「こんにちは」くらい言えなかったものか。今これを書いていて、少し後悔した。
恐らくおばちゃんは僕が何処の誰かを知っていただろう。僕が親しげに話しかければ、きっと喜んでくれただろうな。
かつては路線バスも通った旧道だが、今は人っ子1人いない。すぐに道路の右下に榎津港が見えてきた。
その左側の崖を見上げた所には同級生女子の家があった。女の子の家をくまなくチェックマしていたのではなく、部活を終えて同じ方向に帰るから、自然と家がわかるというだけだ。だから僕が知っているのは2人だけだ。
今もその家はあった。当時からして相当に古びていたが、さらに朽ち果てて、今にもこちらに向かって崩れ落ちてきそうだった。
いまだ、旧友とは出会えない。
今日乗ってきた高速船は榎津には来ない。
かつて客船の「鯨波丸」は有川の後に榎津に入った。
佐世保に行った後、僕らはいつも榎津から帰宅していた。
フェリーは榎津と有川には着かなかった。港の深度が不足しているからだと誰かから聞いて、ずっとそう理解している。
クルマで佐世保に行く時は、奈良尾からフェリーに乗っていたと記憶している。当時、まだ鯛ノ浦の航路はなかったと思う。
佐世保からの客船が着かない榎津は、この時点でとても寂れてみえた。
そして、これから先、さらにそれを確信することになる。
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