ヤキリンゴのパン工場
国丸書店の道路向かいにはパン工場があった。
私の記憶が確かならば・・・鉄川という名前だったと思う。
鉄川という名字は同級生にも2人いたが、2人ともパン屋の子どもではなかった。新魚目町には割と多い名字なのだ。
頭ヶ島天主堂、青砂ヶ浦天主堂など五島、そして九州で幾多の教会を手がけた建築家、鉄川与助は青方村で生まれ、魚目村で暮らしている。
「今日は弁当作れんかったけん、これでパン買ぉていき」
朝、登校しようとすると、母親がそう言ってお金をもたせてくれることがあった。
母にとってみれば、子供に弁当を持たせず見送るのは不徳のいたすところだったのかも知れないが、僕はこの一ヶ月に一度くらいの割合でやってくる「パン工場襲撃」の日がとても嬉しかった。
手のひらに置かれたのは確か20円。菓子パン1つが10円だったので、2つ買いなさいということだ。
家から魚目小までは徒歩2.3km
割と距離があるが、山口にいる時は3km弱の道を通学していた。お陰でこの年になってもマラソンが続けられるほど足腰が丈夫なのかも知れない。
学校まで1kmを切った所で鉄川のパン工場の引き戸を開ける。
ごめんくださ~い
大きな声でおらぶ。
ここはあくまで工場でありパン屋ではないのだ。
奥の方から工場のおばちゃんが出てくる。
ここでは製造を担い、町の小売店へ卸す。本来、ここでは小売りはしていないのだろうが、子どもの僕はそういう社会の仕組みには無頓着で、そこにパンがあるから売ってもらえるものだと思っている。
母も20円を持たせて送り出すのだから、そう思っていたのだろう。
鉄川サイドからすれば、朝の出荷が終わり一息ついたところに、20円を握った小学生が勝手に入ってきて、パンを要求する。可愛い女の子だったら心和むが、小太りで憎たらしい。迷惑だなとは思わないまでも、面倒だなくらいには思われていたのかも知れない。
ヤキリンゴとアンパンください
与えられた選択肢は2つ。そして僕は鉄川のパン屋に来るとヤキリンゴを外さなかった。
ある時はヤキリンゴとジャムパン、ある時はヤキリンゴとクリームパンという具合だ。
さて、懐かしのパン工場、建物はそのままだったが、看板は取り外され、既に稼動はしていない様子。
僕のパン工場再襲撃は成らなかった。
ヤキリンゴ、もう一度食べたかったな
国丸と鉄川、僕が通った榎津の中心が向かい合って廃墟になっている。もうここに用事はないよと榎津が言っている。
ワゴンRをさらに走らせると、左手に新魚目町の役場が見えてくるはずだが、その建物は既になくなったようで、その位置がどこだったかもわからなかった。
丸尾との小高い峠に向けてなだらかに道路が上り始めると、その先に今も変わらぬ魚目(うおのめ)小学校が見えてきた。
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