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2020年6月 2日 (火)

SONYファンの父にスタジオ1980をねだれなかった理由

僕のラジカセ・ゲット作戦は終盤を迎えつつあった。
SONY、ナショナル、日立、AIWA
佐世保に遊びに行った時には、四ケ町の千日音機に足を運び、店頭でもらえるカタログはすべて集めて研究した。

SONYスタジオ1980の絶対的優位はゆるがない
ただ、五島にはそれを店先に展示している店がなかった。
昭和40年代、たいていの子供がそうしていたと想うが、何かをねだる時は親をお店に連れて行くのが手っ取り早い戦術だった。

あれ?誰かと想ったら、君はスタジオ1980君じゃないか?
こんな所で会うなんて奇遇だねぇ
あぁ、紹介するよ。こちら僕の父だ
(そして、親に向かって)
1980君とはカタログで出会って以来、相思相愛の仲なんだけど、そろそろ家に迎えてくれませんか?
そうすれば、僕は目の色を変えて、日々勉学に努めるものと候^^;)

だが、この作戦はファーストミット、月刊ゴング(全日本プロレスファン)と連戦連敗。うまくいった例しがない。
月刊ゴングの時などは、国丸書店の店頭で「ウチではこのようなものを推奨した覚えはない」と一笑に付され、やり場のない喪失感を味わった。


直接、質問したわけではないが、父は恐らくSONYファンだったはずだ。
(これに限らず、親に質問することは、とても少なかった)
トランジスターラジオ(清志郎ではない)ステレオセット、トリニトロンのカラーTV。我が家にある音響機器はすべてSONY製品だったのだ。

今振り返ると、そんな父がSONYの旗艦モデルであるスタジオ1980を買ってくれなかったのが不思議に思える。
僕はきちんと説得していたのだろうか。もしかすると、腰が引けて心からねだっていなかったのでは?


42,800円という価格はネックだった。
1974年当時の大卒初任給は78,700円
もちろん、そんなアカデミックな計算をしていたわけではないが、中学生の僕がやすやすとねだれる金額ではないことは理解していた。

当時、ラジカセで4万円を超えるものはほとんどなかったと想う。ラジカセが5万円を超えるようになるのは、ステレオラジカセの登場以降だ。
少し話しが逸れるが、僕はこのステレオラジカセを初めて見た時、こう想った。

なんてこと、するんだ

あまりにもかっこ悪かった
その頃はモノラルとステレオの違いなど、どうでもよかった
今ならばステレオは「L」と「R」のスピーカーが左右に分かれていることに疑問はない。
だがこの時は、なぜカセットを筐体の中央に配したのか意味が分からなかった。

ラジカセというのは左にカセット、右にスピーカー。そのうえにラジオのチューニングやVUメーター。それこそが黄金律と信じて疑わなかったのだ。
ステレオラジカセの見てくれは、一学年下に降りて来た落第生のように、ばつの悪さが拭えなかった。


ショールーム販売に持ち込めなかった僕が、カタログを唯一のツールとして臨んでいた「スタジオ1980」交渉が暗礁に乗り上げていた頃、ナショナルから1台のラジカセが発売された。

つづく

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