コーヒースカッシュ(昭和晩年)
本当に頼むんですか?
ウェイトレスが言う
バブルが弾けて間もない頃、僕は外回りの営業マンだった。
景気の影響は時間をかけて、じわじわと広がっていく。
バブルが弾けたと言っても、その影響はすべての人へ一斉に及ぶわけではなく、中小企業、アルバイトといった基盤の弱いところから、生活を蝕み始める。当時まだ非正規という概念はない。世の中は悲痛に暮れる人とそうでない人に分かれていた。それはコロナ禍の今に似ている。
博多の繁華街から外れたその喫茶店は、昼食を取り損ねたサラリーマンで溢れている。いや、もしかすると、営業の合間に休憩をとっているのかも知れない。
そこは今でいうならば、いわゆる「漫画喫茶」
壁じゅうに設えた本棚にはぎっしりとコミックスの単行本が並んでいる。
順番に並べると背見出しが絵になっている両さん。サラリーマンのバイブルだった本宮ひろしの「俺の空」皆が好きな漫画はたいてい揃っていた。
喫茶店として当時は当たり前だった、一軒だけの個人経営。いわゆるカフェではない。
小ぶりな古本屋に匹敵する蔵書量もさることながら、店の人気の秘密はそのメニューの豊富さにあった。
組紐で閉じられた木製表紙のメニューを開くと、手書きの紙を厚手のビニルに収めたファイル型のお品書き。
ハンバーグ、ナポリタンやピラフといった食事、ホット、れいこーやクリームソーダといった飲み物が、ページ毎に分類されて整然と並ぶ。
常連客はメニューも見ずに「いつもの」お気に入りを頼む。
いつもならば、アイスコーヒーお願いしますとメニューも開かずに言うところだが、その日、僕は何か新しいことをしたい気分だったのだろう。
ちょっと見せてください。と言ってメニューを受け取る。
ジーパンとTシャツにエプロンをかけているウェイトレスは、腰掛けのアルバイトというよりは本職の店員なのだろう。あちこちで馴染みの客に声をかけられ、厨房に潜んでいる店主とも親しげだ。
彼女はその場に留まり、僕の様子を窺っている。
「早く決めなさいよ、忙しいのよ」というプレッシャーを受けながら、飲み物のページをめくる。僕はそこに見慣れぬ字を読んだ。
他では見たことがない、人生初のメニューだった。
コーヒーとレモンスカッシュを混ぜたようなものだろうか。
味が想像できない。ただ、美味しそうとは思えない。
それでも、いつものことよりも初めての体験を選びたい。
僕はそうやって生きてきたし、それでたくさん失敗もした。だが、喫茶店の飲み物で失敗しても死にはしない。
このコーヒースカッシュってできるんですか?
ウェイトレスは今で言うならば「はぁっ」というリアクションをした後、メニューを受け取り、蔑んだような目でこう続けた。
本当に頼むんですか?
困り果てた目ではない
「人と違うことをするなよ」という軽蔑の目だ
これが僕が常連ならば「いやだぁmotoさん、これはダメよぉ」となるのだろうが、僕はこの店ではまだそこまでの人間関係を築いていない。
結局、博多を離れるまで築かなかったが。
どれくらい通えば人間関係を築けるのかというと、それは以下の2つのパターンに分かれる。
1.対面カウンターの場合 2~3回
2.テーブルの場合 4~5回
とても学会で発表できるレベルではないが。
対面カウンターを設える場合、元々、店主は客との関係を築きたいと思っている。接している時間が長く、互いを知ることができる。
テーブルの場合、接する時間が限られる分、時間がかかるというだけ。いずれにせよ、客の側に「常連客と思われたい」「頻度高く利用したい」という気持ちがあれば、店主が人間嫌いという場合を除き、人間関係を築くことはできる。
つづく
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