息子がバイクで大怪我という報に接しても冷静なお母さん
救急車を呼ぶ電話を終えると、僕は怪我をしたスズキさんから聞いておいた自宅の番号に電話をかけた。
(なかなか気の利く若者である)
この事実だけをみればそう想う。
だが、当時の僕は決して気が利くほうではなく、むしろ「気が利く人の」対極にいた。
ではなぜ、この時は気が利いたのか?
それは、僕自身が3ヶ月前、救急搬送される側の立場を経験していたことに拠る。
僕の場合、事故で気を失い、目を覚ましたのは病院のベッドだった。
看護婦さんから「ご実家には連絡済みです。どこか他に連絡するところがありますか?」と聞かれて、その日行くはずだったアルバイトを紹介してくれたおばちゃんに連絡をしてもらった。
人は知見がなければ考えが及ばない。少なくとも僕の場合、経験からしか学べない。
電話口にスズキさんの母親らしき人が出た。
これから伝えるのは悪いニュースだ。現場を見てきた昂りが伝わらぬよう、できるだけ抽象的に事実を並べる。
**さんが三瀬峠でバイクで転倒され怪我をされました。私はバイクで通りかかり、たった今、救急車を呼んだところです。これから救急車が来て病院に運ばれます。またそちら(病院)から連絡が入ると思います
「息子は大丈夫なんでしょうか?」
はい。怪我されていますが、意識はあり、受け応えもしっかりされており、こうしてご自宅を教えてもらいました。私はこれからまた現場に戻ります
「オレオレ詐欺」という言葉はまだない時代なので、怪しまれることはなかったと思うが、スズキさんの下の名前を聞いておいたのは信憑性を担保する意味でよかったと思う。
僕がそこまで言うと、お母様はひと安心してモードが変わった。
現場で救護にあたってくれた者への感謝モードだ。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ありがとうございます」
お子さんが大怪我をした第一報を聞いた直後だというのに、使者を撃つような言葉もなく、冷静で謙虚な口ぶりに少し驚いた。
お母様は僕らの対応についてお礼を言われ、最後に名前を聞かれた。
僕は躊躇した。恐らく、ここで名前を言えば、後に「お礼がしたい」という展開になり、僕ひとりが感謝の対象になってしまう。
ここで救護に当たったメンバー紹介ができればいいのだが、あと4人の名前を知らない。
「匿名希望でお願いします」というわけにもいかない。
僕以外にも4人の方が救護に当たっていることを話したうえ、motoといいます・・と名字だけ告げると「どちらの?」と食い下がられた。
携帯電話はまだ世になく、固定電話を引いている学生は稀だった。
ここでいう「どちらの?」は住まいのことだろう。
僕は考えた。ここで住所を言えば、それをもとにして御礼の品が送られてくるだろう。
うまい切り抜け方はないかと思案して、とっさに学校名を告げた。
まさか、名字だけを頼りに大学を訪れるという砂中に針を探すようなことはしないだろう。我ながらうまい機転だ。
この時はそう確信していた
再び、三瀬の坂道を上り現場に戻ると、事故ったスズキさんは上半身を起こしていた。足の怪我をしているものの、それ以外は大丈夫そうだ。
お母様が電話に出られたこと、話した内容を伝え、少し言葉選びに迷ったが、しっかりしていらっしゃってよかったですと声をかけた。
人々が給水ボトルを携帯している時代ではないので、誰かが「水をどうぞ」ということもない。そもそも「水を容器に入れて売れる」という認識は浸透していなかったし、ポカリスエットは存在していたが、スポーツドリンクという市場は成立していなかった。
今思えば、喫茶店でなにか買ってくればよかったのだが、初体験のことでも「気の利く僕」という人格は出現していなかった。
「行きつけのバイク屋ありますか? 長く放置するのは不用心なので」
救護ライダーの一人が提案して、損傷したRZ250はスズキさんが最寄りのバイク屋に連絡して、搬送を依頼することに決めた。
「三人寄れば文殊の知恵」というが、五人も寄れば、誰かが気の利いたことをいうものである。
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