奥多摩参考記録【22話】大半の地球人は経験しない「尻で滑る滑落」
僕はサス沢山の登山から勇気ある撤退を決めた直後、路を見失い、下り坂を滑り落ちた
切り株を掴んで体の統制を確保しながら、僕は考える
復帰する路が見つからないということは、どういうことだろう
GPSと連動したアプリが生きていれば、航跡と現在地を比較できたのだが、僕はそれを放棄してしまった
最善の策が登山ルートに戻ることであることは、疑う余地はない
混乱の林床※からたった一本、登山者が安全に下山できる路を見つけ出したい
でもカンタンには見つかりそうにない
※林床(りんしょう)
森林の樹下の環境。森林の種類や林相の違いで草や低木、小動物・菌類などが独特の生態系を構成する。(広辞苑第七版)
途方にくれた僕は、もどり道を探すのをやめて眼下を見下ろした
そして、ある誘惑に駆られる
このまま、滑って降りたら楽なんじゃないか?
人は誰でも楽をしたい、他の誰かと同じように
とても苦しい状況に追い込まれて、その状況を脱するために、時として突拍子もないことを考える
かつて、初めて東京マラソンを走った日のことだ。
浅草寺を目指して走っていた僕は苦しさのあまり「寝ながら走ったら楽なんじゃないか?」と考えた。よし、寝てしまおう。就寝時間が来て掛け布団をめくるように僕は寝る態勢に入ったが、すんでのところで正気を取り戻した。
だが、この日、奥多摩では実行に踏み切ってしまう
「滑って降りたら楽」と考えた瞬間に、踏ん張っていた右足の力を抜いてしまった
わりかし、長い距離を滑り落ちた
なぜなら、捕まる木の枝や切り株がなかったから
ようやく、左側に現れた切り株に捕まり、なんとか体を止める
なんてことするの、危ないよ
もし、長い距離を滑った加速がついたところに大木が待ち構えていたら
体を切り裂くような異物がこの、林床に紛れ込んでいたら
軽率な考えを悔い、戒めて、自分から滑りに行くことを選択肢から除外して、慎重に滑らないルートを探る
体重を支えることができそうな根茎(こんけい)をみつけて、そこに片足をかける
だが、都合良く僕の言うことを聞いてはくれず、地面から剥がれ落ちる
再び、滑り落ちる
僕は滑り台をすべる要領で、姿勢を低くしている
このメソッドに名前を付けるならば「尻で滑る滑落」といったら、いいだろうか
ハイサイドが怖かった
バイクのレースに関わるすべての人々ならば、この感覚がわかると想う
■ハイサイド
バイクで後輪タイヤのグリップが失われ転倒しそうになった時、アクセル・ブレーキ操作が災いしてタイヤがグリップを取り戻し、車体が一気に起き上がって逆サイドに転倒。ライダーがひどく放り出されること
低い姿勢を保っている分には「滑っている」だけだが、急に靴が路面をグリップして、体が放り出されると「回転」が加わる。
回転しながらの滑落ならば、最悪の事態もあっただろう。
幸い「尻で滑る滑落」では、メガネや帽子、持ち物が飛ぶこともなく、すべての装備と機能を保持している。
着るエアコン「レオンポケット4」も、平常通り、僕の体を冷やし続けている
「尻で滑る滑落」は、なかなか難しかった。なにせ、初めての経験だ。
大半の地球人が崖を滑落する経験をせずに一生を終えるだろう。昨日までの僕も例外ではなかった。
従って、訓練しようと思ってできるものでもない。
どの筋肉にどれくらいの力を掛けるかはわからない
考えてできるものでもない
体の力を抜き、それでも不測の事態に備えて、体に力を残す
頼りなく柔らかい洗濯物を小脇に抱え、重たい掃出し窓のサッシを閉める時のような要領。
あまり、好例が浮かばないのだが、少しはイメージしてもらえるだろうか。
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