「Hot Space Tour '82」日本の初演地は福岡
1982年夏
まだ地球は温暖化が進む前で、福岡市の大学生だった僕は、扇風機で快適に夏を過ごしていた。
アルバイトしたお金は主にオーディオコンポを買い集めることにつぎ込んでいたが、チューナーだけは後回しにしていたため、実家から持ってきた60年代のトランジスターラジオで、辛うじて受信できるRKBラジオを聴いていた。
「ままぁ~」
その日、ラジオから慣れ親しんだサビが流れてきた。
お、ボヘミアンラプソディと聞き耳を立てるとアナウンサーが言った。
「クィーン来日公演決定っ」
へぇ、クィーンが福岡に来るんだな・・・
15の時「華麗なるレース」でクィーンと出会った僕は「三度の飯よりクィーンが好き」になり、大学に入ったらフレディのピタもっこりスーツを着てロックバンドを組もうと決めた。
だが大学生になった僕は「クィーンが住んでいる街に来る」というニュースに触れてこう考えた。
「クィーンはステレオで聴くものであって、見るものではないからね」
今想うに、41年前の僕はお金がなくて諦めていたのだろう。
1日の食費が500円の生活をしていた僕にクィーン公演のチケット代が払えるとは想えず「行きたい」という気持ちが起きる前に打ち消したのだと。
中三の頃、世の中には洋楽ロックブームが起きていて、ベイシティローラーズのスタジオライブやKISSのライブ映像がNHKの土曜夕方の特番で放映されていた。
「ジーン・シモンズの火がすごか」
「パットは弾いとらん」
当時まだビデオデッキはなく、僕らは目を皿のようにして映像を焼き付けると、学校でロック仲間と語り合った。音楽を評論する語彙に乏しかった僕らはジーン・シモンズが火を吹く仕掛けや、観客に手を振ってもギターが鳴り続けるマット・マッグリンについて話したものだ。
エアロスミス、クィーンを含めた4大グループが揃って全盛期をむかえていて、僕らはそれぞれの派閥に分かれて覇権を競っていた。
クィーンファンはベイシティファンを馬鹿にし、そのクィーンファンをエアロスミスやイーグルスのファンが馬鹿にする。
「クィーンは女子どもの聴くもんばい」
そんな言葉が男子と女子、時には男同士の仲を険悪なものにした。
高校に入った僕は地学愛好会の仲間から「佐世保北高のフレディ・マーキュリー」と呼ばれた。
そう呼んでいたのは1人だけど・・・
その時「大学に行ったらピタもっこりスーツを着てボーカリストとして活動する」と決意した僕は14キロのダイエットを成功させた。
だが、学歴だけで一流企業が出世コースを約束してくれる大学に入れなかった僕は、入学時にボーカリストを断念し勉学の道を進もうと心に誓ったのだった。
ボーカリストも勉学の道も、とうに忘れてしまっていた1982年10月、あのクィーンが来日した。
そのこと自体はずいぶん前からCMが流れていたので知っている。ただ、10月に入り公演が近づいてからもRKBラジオからは「ままぁ~」で始まるクィーン来日のCMが流れていた。
「三度のメシよりクイーンが好き」だった頃の僕ならば「おやっ」と心が動いただろうが、1981年に出会った佐野元春に興味と関心が移ったこと、クィーンの新譜「ホットスペース」の出来が不満だったこともあり「あぁ、来てるんだよなぁ」と想うだけだった。ちなみに「ホットスペース」は割とよくできた作品だが、僕はいつも「オペラ座の夜」「華麗なるレース」という二大傑作を超えて欲しいと想っていて、どうしても見立てが厳しくなった。
「まだCMが流れているということはチケットが売れていないのだ」
今ならばそう考えるが、まだ世の中を知らなかった僕は、来日の景気づけにCMはやり続けるのだろう・・・くらいに考えていた。後にとんでもないことが起きるとは知らずに。
つづく
QUEEN THE RHAPSODY TOUR 2024年2月14日
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