被爆80年
稲佐山の山頂で稲荷寿司をくわえている僕
これが僕が初めて平和公園を訪れた日の記憶だ
写真は稲荷寿司の写真以外には、グラバー園でいとこ、姉と映ったものなどが並ぶが、平和祈念像をバックにした写真はない。
(そこは象徴的な写真スポットだと想うのだが・・)
なぜ、その写真がないのかはカメラマンに聞くしかないが、父はずいぶん前に浄土に還ってしまい、今年は十七回忌を迎える。もう聞くことはできない。
稲荷寿司は恐らく佐世保のおばちゃんとうちの母がこしらえて、お昼用に持ち込んだものだと想う。
当時はそれほど猛暑ではなかったし、食中毒に神経質ではなかったので「保冷剤」のような気の利いたモノは使っていなかった。
子どもの頃から素っ頓狂だった僕は、稲佐山から見下ろす長崎市を背景に、父が向けたカメラに向かって、稲荷寿司の皮を口からはみ出さしたポーズをとった。
右の頬には湿布のようなものが貼られているので、歯が痛かったのだろう。
当時、山口県に住んでいた僕は、佐世保の親戚に遊びにいくと、たいていどこか具合を悪くして、おばさんが優しく介抱してくれたことを覚えている。
山口県に住んでいた僕は、小4まで「平和教育」を受けていない。
山口にもそれはそれなりにあったのかも知れないが、長崎県ほど特別なものではなかったと想う。
僕はその日、初めて長崎市を訪れ平和祈念像を目の当たりにしたはずだが、写真が残っていないこともあってか、その異様な造形に驚いたといった記憶はまるでない。
なぜならば、長崎原爆資料館 でみた資料があまりに強烈だったからだ。
当時、資料館は改装前。
田舎町の雑貨屋で日用品を並べているようなガラスケースに、被爆当時の品々が並ぶ。
特に熱で溶けた瓶に驚いた。
そして、人の影が映り込んだ雨戸の写真が怖かった。
人が溶けて木の中に入った?と当時想ったから怖かったのだが、今思えば、それは影が映り込んだということだと想う。
小学校入学祝いに親戚が贈ってくれた(僕は表紙に「増 **家」と書いている)KOKUYOフリーアルバムに収められている写真には日付やコメントのついたものは少なく、前後の写真から類推して、この長崎市訪問は僕が小1の夏休みだったと推定される。
難しいことはわからないけれど、ただ原爆が怖いこと、水を飲めずに死んでいった人の無念が、脳裏に刻まれた。
世界平和についてコミットしたい、発信したい。
その気持ちはその日、原爆資料館で得た記憶から始まっている。
だから、V・ファーレン長崎、最近ではレアル・ソシエダの選手たちが、そこを訪れたと聞くと嬉しい。
大人になった彼らでも、それぞれになにかを感じてくれただろう。
被爆から80年の今日
長崎ではあちこちで「クスノキ」が唄われる
僕も東京の何処かで唄いたい
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