2022年7月29日 (金)

東京フォーワードではないと想う、TOKYO FORWARD

東京2020大会1周年記念イベントーTOKYO FORWARD

15:00 開場
この時間、
・メイン(中央門側)
・北サイド(メインから向かって左・千駄ヶ谷門側)
・南スタンド(メインから向かって右・外苑門側)
に陽は差さない。

ただバックスタンド(青山門側)だけが、くり抜かれた屋根の隙間から楕円形の日射を浴びている。
そのあたりに誰も座っていないのは、誰もがコンコースに避難しているからだ。

というのは、バックスタンドからやってきた選手村仲間近藤さんが教えてくれた。
B棟の職員さんだった近藤さんは、最初にレジセンの仕事を教えてくれた僕の先生。
近藤さんのわかりやすい研修のお蔭で、僕は興味と関心を持って仕事を覚え、2か月間の選手村生活を楽しむことができた。
・・・と真顔で話したが、どれだけ伝わっただろうか。社交辞令と想われたかも知れない。


16:15 オープニングアクト
スケートボードアスリートによるデモンストレーション
ただし、リンクは北スタンド側に設営されており、南スタンドからは視認できなかった。


オリパラを通して、2度同じシフト(A棟)に入った日立さんがやってきた。
最後にParalympic Villageで会って以来、11ヵ月ぶりの再会。
でも、そんな時間が経ったとは思えない。

2人でB国オフィスの窓拭きをしたこと。くじ引きで時計が当たったこと、当たらなかったから買ったこと。思い出す限りの思い出話に花を咲かせた。

30年前にパソコン通信を始めた頃、仲間とオフで再会すると「久しぶりに会ったとは思えないね」と言い合っていた。
そして、その別れに名残惜しさや寂しさはなく「またすぐ会える気がするね」と話していた。

価値観を共有して、共感した仲間とは、たとえ離れていても、会った途端に空白の時間が埋まるのだろう。
今日、再会した仲間たちとは、この秋「横浜マラソン2022」のボランティアでふたたび再会することが決まっている。


17:00 開式
冒頭、東京2020誘致に貢献された安倍晋三元総理大臣へ黙祷を捧げる。
挨拶に立つ人々が、安倍さんへの感謝と追悼を口にする。

僕はそれを聞きながら「なぜ誰も石原慎太郎さんのことは言わないのだろう」と考えていた。
東京2020の歴史は、2005年9月に当時の石原慎太郎東京都知事が、2016年夏期五輪の招致を表明したところから始まっている。
それは僕が東京五輪を目指してスポーツボランティアを始めるきっかけだった。

2016年夏の招致はリオに敗れたが、2020年夏の招致決定前年(2012年10月)に都知事を辞するまで、招致の井戸を掘り、主導した功労者が石原慎太郎さん。
(招致決定時の都知事は猪瀬直樹氏)
東京マラソンの生みの親でもある石原慎太郎さんは、今年2月に89歳で亡くなられた。


さっきまで一階席を蒸し風呂にしていた楕円形の日差しが二階席に上がった頃、トラックではパレードが始まる。
小池百合子東京都知事、ミライトワ、ソメイティを先頭に、MCの松岡修造さんが「数人来てくればいいと想っていた」サンライズレッドのシャツと靴で揃えた日本選手団は200余名。
それにCity Cast、Field Castがつづく。

一年前の今日、誰も座っていないのに、人が座っているように見える客席には誰も座っていなかった。
ここに参加した200人のアスリートに、今年は僕らの拍手が耳に届いたと想う。

パレードの動画(tweet)

TOKYO MXの帯番組では、声の調子が悪いのか?と想うほど聞き取りづらい時がある平井理央のMC、今日は青空に突き抜けそうなほど声が出ていて活気がある。
イベント名の「TOKYO FORWARD(東京フォワード)」を、ただ1人「東京フォーワード」と言い続けていたのが印象に残った。

18:40 閉式
間もなく終わりという頃、大月さんがやってきた。
僕らは青山、六本木、麻布十番という僕らには場違いな町を避けて、庶民の町大門の庶民的な居酒屋で、今後のボランティア活動について語り合った
(ということにしておこう)

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2022年7月28日 (木)

初めての国立競技場

2022年7月23日
6月に訪れた猛暑による史上最速の梅雨明けから「戻り梅雨」を経ての「戻り夏」
東京が炎天下となった日、東京2020大会1周年記念イベントーTOKYO FORWARD-が行われた。

去年の今日は臨時で2年にわたり10月から引っ越していた「スポーツの日」ということは、五輪開会式の日だ。

1964年五輪では「罰ゲーム」かと想うような聖火台への長い階段を最終ランナーが駆け上がったが、今回は割と低い聖火台に大坂なおみさんが点火したのが1年前。

今日は節目となる日なのだが、2か月間を選手村で過ごした僕にとっては、あまり実感がない。


東京2020オリンピック・パラリンピック1周年記念セレモニーは、事前にボランティア、観覧、パレード参加者をそれぞれ公募。1人で3つとも応募することができた。
僕は運営ボランティアと式典観覧に応募。ボランティアが落選で観覧に当選した。
選手村仲間の間では同様の結果だった人が多く、希にボランティア当選、観覧落選という人がいた。


これまで、天皇杯でも五輪でも縁が無かった新・国立競技場にようやくたどり着いた。
大深度地下に造られた大江戸線「国立競技場」の駅から、何度もエスカレーターを折り返して地上に出ると、そこに初めてだけど見慣れた風景が「どーん」とお目見えした。

ここまで、あまりField CastやCity Castシャツの人を見かけていない。感覚的に100人に1人くらい。そんなものだろうか。もっと多いかと想っていた。

最寄りのゲートまで来ると「おーい」と呼ぶ声あり
選手村仲間の大月さんだ・・・
と想ったが普段着なので、かなり近寄らないとわからなかった。
オリパラの間、全員が青シャツにマスクという出で立ちだったので、服装が違うと、もう誰が誰だかわからない。
閉式後に再会する約束をして場内へ。

7万人という収容からして、とてつもなく広大な箱をイメージしていたが、中に入ってみると、意外にこぢんまりしている。

事前に送られたQRチケットで入場し、一旦、座席へ赴く。
式典は「政府等が定める新型コロナウイルス感染拡大防止ガイドライン等」に準じて開催されるため、座席は市松模様。
はね上げられた座席に体重を掛けて腰掛ける。座り心地は可も無く不可も無し。
ここまでに目にした設備はどれも、潔いほどコストがかかっていないのが窺える。

指定された117ブロックはサッカーでいえば「ゴール裏」左コーナーフラッグ寄り(メインスタンド寄り)
陸上競技場(球技兼用)で観るコートは、とても遠くに感じるものだが、思いの外近い。これならば試合はかなり見やすい。
なぜ、そう感じるのか。
グラウンドレベルには陸上トラックとエスケープ・ゾーンもしっかりとられている。恐らくスタンドの傾斜角がきついのだろう。
ここが竣工して以来の夢である「元旦、オリスタ、決勝」の舞台にV・ファーレン長崎が立つ日が、さらに待ち遠しくなった。

観覧は2人以上のグループ(隣席)で申し込むことはできないランダム抽選ゆえ、隣近所に知り合いはいない。
一旦、座席を離れて、選手村仲間の姿を探しに行く。
事前に「選手村用語集」つながりの仲間数人が来場していることを確認しておいた。

つづく

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2022年2月10日 (木)

デストロイヤー マスカラス まだ引退していないのかな検索で旭日双光章

遠い昔に憧れていた千葉真一(アクション俳優)の訃報に接したのは去年8月のことだ。
去年は、同じくアイドルだった沢村忠(キックボクシング)も3月に亡くなっている。

子どもの頃は、千葉真一のようにカッコよく、沢村忠のように強く、そしてマチャアキ(当時歌手兼役者)みたいに面白い大人になりたかった。
(面白くなる目標だけ、少し近づけたと想う)

こうした訃報はニュースで飛び込んでくることもあるし
「あの人、まだ生きてるかな検索」
で「Google先生」に教わることもある。


それとは別に「まだ引退していないのかな検索」もしていたのが、二人の覆面レスラー。スポーツ選手というのは歳をとると現役を退くものだが、プロレスは例外で60歳を過ぎているから引退しているとは限らない。

一人は1973年から1979年までジャイアント馬場の全日本プロレスに参加していたザ・デストロイヤー。
プロレスというのは力道山の時代から、日本人が外国人を倒すのをみて溜飲を下げるものだったので、その外国人が「日本陣営」に入ったことには大変驚いた。
今でこそ、相棒を裏切る、敵に寝返るというストーリーはプロレスのお約束だが、当時はフルネルソン(羽交い締め)したら交わされて、相打ちでギャフンという猿芝居程度だった。
20世紀風にいえば「プロレス自由化」、いま風にいえば「プロレス・ダイバーシティ」の先鞭をつけたのがデストロイヤーだったと言える。

彼は米国に帰国後、1993年(62歳)まで現役を続けた。
2003年には日米の文化交流を促進する活動団体「NPOフィギュア・フォー・クラブ」発足
2019年に88歳で亡くなっている。


もう一人はミル・マスカラス
毎試合、異なるマスクをつけるという触れ込みで「千の顔を持つ男」と呼ばれていた。
地方会場では新デザインのマスクを披露し、大都市会場で行う節目の試合では額に「M」が入ったトレードマーク・デザインのマスクを着用した。


ある時期を境にマスク2枚重ねで入場し、リングアナからコールされると、上に被っている1枚を観客席に投げ入れるパフォーマンスを始めた。

当時はプロレスショップもインターネットもなく、お金を積んでもマスクは手に入らない時代。観客は、餌を投入された養殖ハマチのように必死でマスクに手を伸ばしていた。

マスカラスは1971年に日本プロレスに初来日。
1972年からは馬場が設立した全日本に参戦した。

1974年には「日本陣営」に居たザ・デストロイヤー「覆面10番勝負」の対戦相手となる。

試合は互いにフライングクロスチョップ、足四の字固めという十八番で1本ずつ取り合った3本目、再び「四の字」が決まる。なんとか逃れたマスカラスだったが、足にダメージがあり、デストロイヤーの頭越しのジャンプに失敗。急所を頭突きされるカタチとなりレフェリーストップ。互いの名誉を傷つけず痛み分け。
心配したデストロイヤーがマスカラスのタイツの腰ひもをゆるめると、マスカラスが嫌がるというシーンが印象的だった。

その後、ジャンボ鶴田の「鶴田試練の10番勝負」にも登場。こちらは1-2ピンフォール負けできっちり片が付いた。

エースのジャイアント馬場にも対戦を要望していたが、馬場はレスリングスタイルが合わないことを理由にシングルの対戦を一度も組まなかった。人気レスラーのブランドに傷をつけたくないという配慮だったと思われる。

今般「まだ引退していないのかな検索」をしたところ「Google先生」より2つの情報がもたさされた。

2019年「ジャイアント馬場没後20年追善興行~王者の魂~アブドーラ・ザ・ブッチャー引退記念~さらば呪術師~」に出場。同年現役引退(79歳)

2021年11月、スポーツを通じた日本・メキシコ間の相互理解促進に寄与したとして旭日双光章を受章

文化交流ならば、デストロイヤーだって負けていないぞと「Google先生」に尋ねると、デストロイヤーも一足早い2017年秋、旭日双光章を受章していて、ほっとした。

 

世の中が便利になり「ゴング」の発売を待たなくても、プロレスの情報が入るようになった。
あとは、マスカラスの覆面を大人買いしないよう、気をつけなければならない。
「マスカラス マスク」
わっAmazonでも大量に売ってるし^^;)

プロレスの歴史

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2022年1月 5日 (水)

スポーツの力。今、君はそれを手にしている

「スポーツの力」は大きい
見るだけで元気になる。スポーツを通して日本から世界を元気にしていきたい
そう言ったのは、聖火リレーを走った直後の明しゃちょー(高田明)だった

「音楽の力は大きいよ」
それは数十年前、仕事で悩んでいた僕に友だちが言ってくれた
その言葉は、十代、二十代と音楽三昧だったのに、三十代は音楽から離れていたことを思い出させてくれた

「ドラマに依存していい」
それは「ドラマ依存症」を自責する相談者に対して村上龍が言った。エンターテインメントは、本来そういう役割があるのだと

スポーツ、音楽、ドラマ(漫画でも書籍でもいい)には力がある。
(エンターテインメントと括って言うとイメージがぼやけてしまう)

 

きちんと心の整理が付いている人を除いて、多くの人は日々、苦悩の中にいる。
そんな時、スポーツを見る、音楽を聴く、ドラマを見る。そうしたことで一時、違う世界線へ往くことができる。

世界線(world line)は「別の世界」という意味で若者に使われる物理用語で、本来は「零次元幾何を持つ点粒子の時空上の軌跡」という意味。そこから転じて、昨今は「パラレルワールド」のような意味合いで使われている。
この言葉はofficial髭男「Pretender」※の歌詞で使われており、それに若者が共感しているようだ。ちなみに広辞苑 第七版 には収録されておらず、僕も含めて高齢者はボクシングかと想ってしまう(それは世界戦)

※2019年、映画「コンフィデンスマンJP ロマンス編」主題歌として配信された。同年、紅白歌合戦初出場の際に歌唱している


五輪開催への逆風が強まっていた2021年春、明しゃちょーは敢えて「スポーツの力」を強調してくれた。
その言葉は本当に嬉しかった。勇気づけられ、五輪へ向かう後ろ盾を得た。

2022年、元旦からVELCAの試合があり、箱根駅伝があった。
応援しているチームの勝負には高揚がある。一方、直接思い入れはない人たちにも、その苦しい表情や、競技を終えた笑顔に感情を移入した。
見るとどうしても心が動く。穏やかなままじゃ居られない。
それが「スポーツの力」だ

かつて、スポーツを見るにはテレビの前に座るしかなかった。
箱根駅伝でテレビを占領すると、家族から「いつまで、これあるの」と不興を買った。
テレビでやっていない競技は現地へ行くしかなかった。愛知県安城市で行われた試合を見たければ、東海道新幹線で三河安城まで行かなければ見ることはできなかった。それが、この5年で変わった。

2016年にDAZN、バスケットLIVE、B3TVがサービスを開始。
2019年に改正放送法が成立して、インターネットとのサイマル放送(同じ番組を同時に違うメディアで放送すること)が可能になった。
(箱根駅伝のLIVE配信は2019年、実証実験から始まった)


僕らの世界に「スポーツの力」を目の当たりにする機会が増えている。
とても、ありがたいことだ。

する、見る、支える
「スポーツの力」のお世話になりたい

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2021年9月 1日 (水)

スポボラの日 宇佐美彰朗さんの経歴

当初予定の閉会式に因み、9月6日は「スポボラの日」と制定された。
スポボラとはスポーツボランティアの略。

ボランティア団体「NSVA」代表の宇佐美彰朗さんが提案。
記念日協会により制定された。

(当初予定)2020年9月6日、東京2020パラリンピック閉幕日に因んでいる。
2020年9月6日には、福島のJビレッジで後夜祭が行われる予定だった。


■時系列の記録

2018年7月
記念日制定

2018年8月
JSVN上級スポーツボランティアリーダー講習にて、宇佐美彰朗講師が記念日制定を紹介した


宇佐美彰朗【うさみ あきお】さんはスポーツボランティア育成に力を入れている 元オリンピックマラソン選手(3連続出場)


■経歴

1943年5月31日
新潟県生まれ

スポーツ歴は中学はバスケット、高校は軟式テニス
陸上を始めたのは大学からと遅い。走り方を目学問で吸収したので、他人のフォームを見て目標と現状のギャップを見極める力がついた

1964年
初マラソン 中日マラソン11位

1968年
メキシコ五輪マラソン9位

1970年
12月、福岡国際マラソン(当時の大会名称は国際マラソン選手権)優勝 この時の2時間10分37秒がベストタイム(PB)

1972年
ミュンヘン五輪マラソン12位

1976年
7月、モントリオール五輪マラソン32位
8月「走れ!走れ!」日本経済新聞社 現代のマラソン指南書の原型がここにある
「マラソンひとりぼっち」講談社

1980年
8月「ぼくとマラソン」岩波書店

1981年
5月「ザ・ジョギング」情報センター出版局

1988年
8月「マラソンランナー」朝日新聞社

1994年
9月「きみも走れる42.195km」自由国民社 児童向けのランニング指導書

1996年
11月「女子マラソン」筑摩書房

2001年
ウォーキング指導に力を入れ始める

2002年
11月「からだに効くウォーキング」山海堂

2003年
スポーツボランティア団体 NSVA設立

2004年
笹川スポーツ財団がこの年に始めたスポーツボランティア・リーダー育成事業に協力する

2008年
NSVAウォーキング指導者養成教室を始める

2009年
NSVA主催 宇佐美彰朗のランニング・クリニックを始める

2011年
クリール2011年5月号で「宇佐美彰朗のフォーム改造塾」の連載が終了した。6月号から同連載は「谷口浩美のランニングフォームセミナー」として引き継がれた

2017年1月刊行
「スポーツボランティア読本」二宮雅也著 に「スポーツボランティアの夢」を寄稿

 

2020年9月6日
パラリンピック閉会式予定日だったこの日、NSVAでは講習会を開催

2021年9月6日(月)
今年の「スポボラの日」は東京2020パラリンピック閉会の翌日に当たる

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2021年8月31日 (火)

「とっきょう」ロゲ会長の訃報に接し、初心に返る

パラリンピックが佳境を迎えている8月30日、ロゲ会長の訃報が伝えられた。
東京2020はロゲ会長の「とっきょう」から始まった。


■第32回夏季五輪、東京2020の時系列の記録

2013年9月7日(日本時間8日5時)
IOC総会でロゲ会長が「とっきょう」と開催地を発表

2015年6月25日
東京オリンピック・パラリンピック大臣任命

2015年7月17日
安倍晋三首相が国立競技場の建設計画について見直しを発表

2015年9月1日
ベルギーのリエージュ劇場のロゴに似ていると指摘されていたエンブレムの使用中止を発表

2015年10月1日
スポーツ庁創設 初代長官は鈴木大地

2015年12月22日
再度コンペが行われていた新国立競技場建設プランが、森に囲まれたA案に決まる

2016年4月25日
再度の公募により東京五輪2020エンブレムが組市松紋に決定

2016年8月4日
IOC総会で「野球・ソフトボール」「空手」「サーフィン」「スケートボード」「スポーツクライミング」の5競技18種目を東京五輪で行うことが決定

2018年4月
2020年に限り「海の日」「山の日」「体育の日」を五輪開催期間へ移動させる方針が固まる

2018年9月
「大会ボランティア」公募開始

2019年初旬
チケット発売開始

2020年3月24日
新型コロナウイルス感染症の影響で延期発表

(ここから、延期された当初予定)
2020年7月24日(金)~2020年8月9日<日>
東京五輪2020開催

2020年8月25日~9月6日
パラリンピック開催
(ここまで)

2021年7月23日~8月8日
東京五輪2020開催

2021年8月24日~9月5日
東京パラリンピック2020開催


当初予定の閉会式に因み9月6日は「スポボラの日」と制定された。

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2021年8月24日 (火)

きょうパラリンピック開会 今度こそ、ブルーインパルスを見たい!

2021年8月20日
日本の47都道府県で採火された聖火は東京に集められた。
そしてこの日、パラリンピック発祥の地、英国のストーク・マンデビルで採火された火が赤坂迎賓館で加えられた。

8月21日~24日
東京都で聖火リレー


世界で初めて「パラリンピック」として2度めの開催を迎えることを誇りに思う。

■挨拶スピーカー
東京オリパラ組織委員会の橋下聖子会長
日本政府から菅義偉首相
開催都市東京都から小池百合子知事
IPCアンドリュー・パーソンズ会長

「人類の15%を占める障がい者 12億人が受け入れられて初めて、彼らは光となることができる」
(パーソンズ会長)


IPCは International Paralympic Committee
国際パラリンピック委員会
(五輪はIOC)

各国のパラリンピック委員会は NPC
National Paralympic Committee
(五輪はNOC)

日本のNPCはJPC。
国のパラリンピック組織委を指すとき「NPC」という。
国のパラリンピック選手団を指すときも「NPC」という。


【 時系列の記録 】

1894年6月23日
IOC設立

1989年9月22日
IPC設立

1999年8月20日
JPCが厚生省の認可を受け発足
JPC発足後は、初めてのパラリンピック自国開催


パラリンピックに出場するためには、IPCに加盟している必要がある。
前橋で1年9か月にわたって合宿していた南スーダンのクティヤン・マイケル選手は、IPC加盟が叶わず出場できなくなった。

また、アフガニスタン選手団は空港封鎖のため、出国手段がなくなり参加を断念した。

開会式前日時点で、参加を予定しているのは158または159の国と地域。
当初は「およそ170の国と地域」を見込んでいたが、2012年ロンドン五輪の「164の国と地域」に届かず、史上最多とはならなかった。


8月24日(火)
14時~14時15分頃
北区、港区、足立区、葛飾区を巡るルートで航空自衛隊アクロバットチーム「ブルーインパルス」が展示飛行

20時~23時
オリスタで開会式

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2021年8月20日 (金)

Tokyo 2020 Summer Paralympic Games いよいよ開幕

東京2020パラリンピック
Tokyo 2020 Summer Paralympic Games
は2021年8月24日(火)に開幕する


東京でパラリンピックの開催は2度めだが「パラリンピック」として行われるのは初めてとなる。

※1964年東京五輪で「パラリンピック」という言葉が登場したが、正式名称ではなかった。
「パラリンピック」が正式名称になったのは1985年
夏の大会では、同一都市2度目の開催は初めて


東京五輪2020は「205の国と地域」が参加した。
パラリンピックは「170の国と地域」が参加予定。
直前になって、空港が封鎖され渡航手段のなくなったアフガニスタン選手団が参加できなくなった。


■東京2020パラリンピック時系列の記録

2013年9月7日(日本時間8日5時)
IOC総会でロゲ会長が「とっきょう」と開催地を発表

2016年4月25日
大会エンブレムが野老朝雄氏が制作した「組市松紋」に決定

2018年7月22日
大会マスコットの名前が投票により「ソメイティ」に決まる
(五輪はミライトワ)

2020年3月24日
1年延期が決まる

2021年8月12日~16日
47都道府県で採火式

2021年8月17日
選手村(Paralympic Village)開村

8月17日~20日
各地で採火した聖火リレー

8月19日(木)
イギリスのストーク・マンデビルで採火

8月20日(金)
各地でつながれた火を集め、ストーク・マンデビルで採火した火を加えて東京で集火式

8月21日~24日
東京都内で聖火リレー

8月24日(火)
開会式

9月5日(日)
閉会式

9月8日(水)
選手村(Paralympic Village)閉村

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2021年8月19日 (木)

パラリンピックの歴史とオットーボック

2021年8月19日
英国のストーク・マンデビルで東京2020Paralympic Gamesの採火式が行われる


1948年
英国のストーク・マンデビル病院でルートヴィヒ・グットマンがアーチェリー大会を開催したのが、現代パラリンピックの始まり

1960年
ローマ五輪後、ローマで「国際ストーク・マンデビル大会」開催 車いす使用者400人(23カ国)が参加

その後、この大会が第1回パラリンピックと位置づけられている


1964年
東京五輪後 東京で第2回開催
車いす使用者以外のその他の障がい者も参加
この大会で初めて「パラリンピック」という愛称が使われた

1985年
パラリンピックが正式名称となった

1988年
ソウル五輪 五輪組織委員会がパラリンピック運営を始めた
これ以降五輪と同一開催地で行われている


この大会からドイツの医療福祉機器メーカー ottobockが無償の修理サービスを開始した。

ottobockは日本表記「オットーボック」
海外のパラアスリート達は「オットボック」と発音する
1919年ベルリンで創業した。


2000年
五輪開催地は五輪後にパラリンピックを行うことが規定された
シドニー五輪で優勝したスペインのバスケットボールチームに健常者がいたことがわかり、2004年アテネ五輪から知的障がい者が参加できなくなった

2012年
ロンドン五輪2012 再び知的障がい者が参加するようになった

2016年
走り幅跳びで健常者と同レベルの記録を持つマルクス・レームはリオ五輪への出場を自ら断念し、パラリンピックに参加

ottobockの修理センターには22カ国から92名の技術者が参加


2021年
東京で2度目のパラリンピック開催

8月15日、オットボックが選手村にottobock Repair Service Centerを開設した。
車椅子、義肢、装具等の修理・メンテナンスを無償でおこなう。他社メーカーの製品も対応する。
23カ国・地域の義肢装具士や技術者など、およそ100人でサービスに当たる。
今回は2,000件の修理サービスを想定する。

これだけの準備をして費用をかけながら、サービスが「無償」であり「他社製品にも対応する」というところに多いに胸を打たれる。

「支えるスポーツ」の一員として最大限の敬意を表したいし、できることはなんでもしたい。

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2021年8月18日 (水)

パラリンピックのスリーアギトス 東京五輪2020の組市松紋

東京五輪2020が終わった。
それでも、僕にはまだ終わったという感覚が無い。
それは今、パラリンピックに向けた準備をしているからだ。


パラリンピック(Paralympic)は障がい者が出場する「もう一つのオリンピック」
夏季、冬季ともに五輪と同一開催地で、五輪閉幕後に開幕する。


「パラリンピック」という言葉が作られたのは1960年。
パラプレジア(下半身麻痺)とオリンピックを合わせた造語だった。

1964年からは意味づけが変わり、パラレル(平行)とオリンピックを合わせた造語となっている。

 

パラリンピックのシンボルマークは赤、青、緑の炎を組み合わせたマークで「スリーアギトス(Three Agitos)」という。
「アギトス」はラテン語で「私は動く」

3つの炎は「ボディ」「マインド」「スピリット」を表す。
(「三日月を組み合わせた」と説明している文献もある)

赤、青、緑の三色は各国の国旗に最も多く使われている色として選ばれている。オリンピックの五輪マークの色も各国の国旗に多く使われている色ということで選ばれている。


■パラリンピック シンボルマークの歴史

1988年
初めて「パラリンピック」の名称で行われたソウル大会で、初めてシンボルマークが使われた
当時は五輪カラーの5つの勾玉だった

1994年
リレハンメル大会から「3つの勾玉」に変更された

2004年
アテネ大会の閉会式で「スリーアギトス」が発表された
それ以来、スリーアギトスが使われている

 

東京五輪2020のエンブレムは紆余曲折を経て現在の「組市松紋」に決まった。

■東京五輪2020エンブレム決定の経緯

2015年9月1日
当初発表されたものが、ベルギー・リエージュ劇場のロゴに似ているとして使用中止を決定

2015年12月7日
仕切り直しでエンブレムを公募
締切時点で 14,599作品の応募があった

2015年12月22日
年明けの審査に進む64作品に絞る

2016年1月7日~9日
採用候補作品を4点に絞る

2016年4月25日
オリパラ共に野老朝雄氏が制作した「組市松紋」に決定

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