2023年2月 3日 (金)

わがこころの四ケ町 佐世保サンド三番手のHASUYA SAND

カフェこもれびをお暇して、わがこころの四ケ町へ進路をとる。
島瀬町立体駐車場に車を停めて、いざアーケードへ。

特になんの用事がなくても、ここを歩かなければ、佐世保に帰った気がしない。
四ケ町を歩くために帰ってくるのではないが、四ケ町を歩かずに佐世保を後にすることは難しい。

まずはじめに玉屋の前に立ち、そこから佐世保駅方面へ向かって、歩き始める。
買い物の用事はあるが、それは復路。
往路は、前回来た時となにか変わったところはないかと、右に左にきょろきょろと首を振って歩く。
サッカーファンが見たら、トップ下で配球先を探す中田英寿かっと想うかもしれない。

スタバは、いつも混んでいる。ここには一度しか入ったことがない。

「おっジャスコののーなっとる」
2022年2月末でジャスコの前は工事中の壁が築かれていて、初老の紳士が工事内容を記した看板に見入っている。
ジャスコが閉まったのを知らなかったのか、その後ここに何ができるかを知りたかったのか・・



2022/2/24 撮影

2025年、跡地に低層階に商業施設、3階以上に分譲マンションという複合ビルが竣工する。
商業施設にはイオン系列のスーパーが入る見通し。

日曜日なのに、人通りが少ないな・・
そう想ったのは、里帰りがいつもお盆だったから。いつもの週末はこんなものなのだろう

音楽カセットはあるだろうかと、カワシモレコードをのぞく。
演歌のカセットが棚に並んでいた。

アーケードの端っこに着くと、そこから折り返し。
夜店通りに逸れて山本でアイスコーヒー。

大型モニターにはお祭りの様子が映し出されている。
どこだろうと想ったら、相浦の総合グラウンド
「させぼシーサイドフェスティバル」が開かれているらしい
僕はマスターのことを覚えているが、マスターは知らないだろう。
これテレビですか?と尋ねたが返事はなかった。
地上波ですか?と聞くべきだったかもしれない。


白十字パーラーで、明日訪問するAvenueのマスターへのお土産「まごコロぽるとアソート」を買う。
2015年3月に発売された小型版のぽるとで、会社土産のばらまき菓子に手頃な大きさ。
だが、今はもうその必要はない。

何が食べたいかを尋ね
誰かを想い買い
渡して笑顔に接する

お土産は三度愉しい。
お土産を買う相手がいることは、幸せなことだ。
お土産を買う機会があることも、幸せだ。


「今日はサンドイッチありますか?」
駐車場から車を出す前にホテルロータスハウスに電話を入れる。
「里帰りしたらすることリスト」に書いていた「HASUYA SAND」だ。

佐世保サンドは、長い間、玉屋のサンドイッチ、ロンサンドの両雄が並び立ち、そこにローソン、セブンイレブンも参入してきた。
2021年、地元勢3番手として、ホテルロータスハウス一階の「はす屋カフェ」が参入した。


佐世保サンドを買って帰った時のお約束である、親戚との「サンド会議」における評価は、次のように集約された。

■HASUYA SAND
・玉屋のサンドイッチと較べるとタレが少なくあっさりした印象
・野菜の歯ごたえがしっかりと感じられる

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2023年2月 2日 (木)

45年ぶりに再会した、魚肉ソーセージで意気投合した同級生

三泊四日の里帰りは三日目

前夜、トラスタからの帰りが遅かったので、午前中は家でゆっくり過ごす
お昼すぎ、白いシャツと礼服の黒いズボンに着替える。
前ボタンのシャツに腕を通すのは、およそ1年ぶり。

行き先は本願寺。この里帰りの大義名分である母の七回忌法要である。
十八で実家を出たあと、お盆には欠かさず里帰りをしてきた。
それが2020年にコロナ禍で途切れると「帰る理由」が必要になった。

地球からあらゆる伝染病が消滅することは考えづらく、これから先も「帰る理由」で思考が立ち止まることが続くだろう。
親戚は「いつでも帰っておいで」と言ってくれるから、それは現代を生きる人が抱える個人的な課題である。


読経のあいだ集中できない時間があった。
集中できないというのは、思考がはいるということだ。
この一年、瞑想をしてきたのにこの様かと情けなかった。
思考が消えないので、別の思考で打ち消すしかなくなり、母と暮らした思い出のシーンを浮かべた。
しばらくして、静かに波打つ川面が浮かんだ

読経が終わると、僧侶から三途の道の話しを聴く。
先祖が行路を照らしてくれている。それを確認するイベントが法要である。
手短に定義すると、こういう話だったと想う。


あっという間の三日間だった。
法要を無事終えることができたし、思い描いていた通りに楽しむこともできた。
次に帰ってくるのはいつになるかわからないけれど、またここに帰ってきたい。


親戚から車を借りて、おでかけ。
佐世保に到着してから48時間が過ぎようとしているのに、まだ四ケ町に行っていない。

まず、初めにヤマト運輸へ。
復路の手荷物を減らすため、最低限度の荷物を残して自宅へ先出し。
お昼すぎに佐世保を出すと、東京には翌々日の午前指定ができる。
里帰りのルーチンだが、三年ぶりということもあって、ひとつやらかしてしまった(後述)


ヤマト営業所を後にして、当然ながら三年ぶりとなる「カフェこもれび」へ

横尾町の山奥?にある、同級生が経営する古民家喫茶。
初めて行った時は、さんざん迷ったが、今回はすんなりと着くことができた。
僕も一口(クラウドファンディング)出資した駐車場に車を停める。


玄関をがらがらと開けて、カウンターへ進み、アイスコーヒーを注文
特に会話も始まらないので、iPhone13に目を落としていると、マスターが素っ頓狂な声を挙げる
「あれ?motoやないと?わからんやった~」
マスクを着けていると、わからないらしい。
確かにそうだろう。
その日、会うことがわかっていない限り、目元だけの特徴では人は判別し辛いのだ。
コロナ禍に入って3年にして、ようやく知った。
世の中の多くの人はとうに知っていたことだろう。僕があまり表に出ないから気づかなかったのだ。

しばらくすると、マスターに来客があった。マスターが僕に言う
「あれ?motoはYとは接点ないと?」
来客は、同級生のYだった。

高校1年の時、入部した弓道部にYがいた。
Yは体格、人柄、頭脳という高校生にとってもわかりやすい三要素に秀でていて、僕はYが僕らの代の主将を務めるだろうと踏んでいた。

福石の弓道場で県北大会があった時、彼とお昼を買いに出たことがある。
駄菓子屋のようなお店で、互いにサンポー焼豚ラーメンを握りしめた時、僕は傍らにあったMARUHA魚肉ソーセージに目を留めた
これ、入れるのよくない?と僕が言うと「いいねぇ」とYも応じた。
それが彼との思い出のすべてだ。
彼は一学期が終わる頃、退部してほかの部に移っていった。それ以来、口を利くこともなかったので、実に45年ぶりということになる。

当然ながら、互いの風貌は大きく変化している。
マスクの有無に関わらず、お互いに言われなければわからないし、言われても実はよくわからなかった。別の人だと言われたら、あぁそうなのかと想ったかもしれない。
四ケ町ですれ違っても、どこかの知らない人の一人に過ぎなかっただろう。

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2023年1月15日 (日)

しまてつ大三東の「しあわせの黄色いハンカチ」で世界平和を祈る

島原鉄道(しまてつ)は諌早と島原間を有明海の海岸線で結ぶ私鉄ローカル線。

1911年
島原鉄道開業

1913年(大正2年)
大三東駅開業

2016年(平成28年)
黄色いハンカチの「幸せ祈願」始まる

2019年3月15日
ガチャ自販機での販売開始
ハンカチのみ 200円/ハンカチ、缶バッジ(全6種+シークレット)付 300円で販売

2022年6月1日
ハンカチ+おみくじ入場券(硬券 150円) 500円で販売開始

2022年7月30日
NHK ドキュメント72時間 「長崎ハンカチなびく海辺の駅で」 放送

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しまてつ諫早駅で諫早駅 島原半島周遊パス(2,500円)を購入
島原鉄道のバス・フェリーを1日何回でも利用できる。
諌早→大三東は片道1,290円。大三東からとんぼ返りなので2,580円。80円お得になる。

周囲には地元の高校生、大三東見当と思われるカメラを抱えた撮り鉄。1両編成の電車は満席になりそうな客数がいる。
大三東までは片道1時間。できれば座っていきたい。車窓から海が見えれば言うことなし。
しかし、誰もホームの乗車口に並ぼうとはしない。

切符売り場のお姉さんによると、特に整列の決まりはないらしい。
乗客たちは、エアコンのきいた屋内で発車時刻を待っているが、動きがあれば遅れまい!と互いを牽制している(考え過ぎか^^;)

しまてつにはヴィヴィくんがヘッドマークの車輌「V・ファーレン長崎トレイン」があるが、やってきたのは、そうではない黄色い電車。同じく「黄色い電車」のいすみ鉄道と較べて、色が濃いと想う。

発車時刻の数分前、一人の客がホームへ出た。すると、すぐに他の客が追随する。
僕らも遅れまいと、それにつづく。
電車が入線してドアが開く。乗車ドアは後方一箇所なので、1人ずつ並んだ順に乗り込んでいく。
左手にあったクロスシートに着席。これで、進行方向左寄り、車窓に海が見える席を確保。クロスシートというのが嬉しい。


13:48 定刻 しまてつ島原港行き下り電車は諫早駅を出発
しばらく雲仙市の内陸を走る。
線路は右に左にうねっており、普賢岳が左へ右へと配置を変える。
田園風景を抜けると、有明海に出た
車窓に干潟が広がっているところを見ると、どうやら僕らは干潮に出くわしたらしい

14:48 大三東到着
ここで、諌早行き上り電車が来るまで36分間の滞在
今から、我々がこなすミッションを完遂するにはちょうどいい頃合いだ。


大三東(おおみさき)は「海に一番近い駅」と謳う、島原鉄道の駅。
・ダイヤは1時間に1~2本
・急行停車駅
・無人駅
・住所:長崎県島原市有明町大三東丙135-2

NHK72時間で紹介されていたカフェトレインは、主に週末に運行されており、ここで45分間停車する。


有明海は干満差日本一。時間帯により目の前が海⇔干潟に変わる。
ホームの端っこには、海に落ちないよう注意喚起のラインが引かれているが、この時、ホームからは遠くまで広がる干潟が見えていた。
「海に一番近い駅」に惹かれてきたので、干潟に罪はないけれど、できれば、海のほうがよかった。


普賢岳噴火被災25周年の年に、地域を活気づけようとしまてつが始めたのが「黄色いハンカチ」
待合所のガチャポン自販機で売られている。
1個500円。100円玉、10円玉が使用できる。500円玉は使えない。
駅前のコンビニはないし、駅構内に両替機はない。駅の外にはキリンレモンの自販機があるので、そこでお金を崩すことはできる。

ガチャポンといえば、カプセルを開けて何が出るかがお楽しみ。
ハンカチは同じだが、同梱の入場券(硬券 150円)がおみくじになっている。
(末吉だった)

テーブルの引き出しに黒マジックペンが入っている。
(念のために持参した)
ハンカチにはフックを掛ける穴が空いていて、願い事と日付をマジックで書いたら、スタンドに掛ける。

掛けて一定期間が過ぎると、神社に奉納される。
2022年12月27日、安中八幡神社で、黄色いハンカチが始まって以来、3度めの「お焚き上げ」が行われた。
恐らく、僕らのハンカチもそこに含まれていたのだろう。


ハンカチを掛けた後は、撮り忘れのないよう、思いつく限りのアングルで写真を撮る。
その間も、ひっきりなしにクルマで観光客が訪れる。
ただし、V・ファーレン長崎のユニフォームを着込んだ一行は僕らだけだった。


15:24 大三東(諌早行き上り)
入線してきたのは、なんと、ヴィヴィくんのヘッドマークがついた車輌「V・ファーレン長崎トレイン」
大いに気を良くした、僕らは戦闘モードで諌早に向かったのだった。

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2023年1月14日 (土)

島原鉄道の諌早駅はJR諫早駅と同じ場所なのか?

博多駅コンコース内のファミマで水を買って、15:31のみどり17号に乗る。
佐世保までは1時間55分の旅。
もしもフリーゲージトレインの開発がうまくいき、佐賀県の賛同が得られて新鳥栖⇔武雄温泉間がフル規格化されていれば、博多→新鳥栖→武雄温泉から分岐しての佐世保というルートができていたはず。その場合の短縮効果はいかほどだっただろうか。
そんなことを考えていたが、あまりにも実現を阻む前提条件が多すぎて、悔しさもない。

慣れ親しんだ車窓の風景を淡々とこなして、特急みどりは佐賀平野を左手にみて走る。いつもながら心が和む。そして、故郷が近いと感じる瞬間だ。

武雄温泉駅の対岸ホームには、開業を2週間後に控えた新幹線かもめ(N700S)がちょうど入線しており、職員さんたちのチェック作業に余念がない様子がみえた。

17:26 佐世保着
佐世保駅構内のエレナでロンサンド、玉屋でラヴィアンローズのサンド(いわゆる玉屋サンド)を買って家路に着く。
佐世保の町は3年前と変わっていない。少なくとも、僕がみた感覚としては。

3年ぶりに食べる佐世保サンドは、変わらぬ美味しさ
甘いマヨの玉屋サンドと、コクのあるロンサンドは、並べて食べるのが美味い。
懐かしい道を歩き、懐かしい味に再会した、3年ぶりのさとがえり初日。
久しぶりに炎天下を歩いた疲れで、すとんと眠りに落ちた。


3年ぶりのさとがえり 2日め

朝起きると親戚の車を借りて、両親が眠る墓参りへ
日頃、なにもしていない分の罪滅ぼしにもならないが、丁寧に慎重に墓石を洗う。
手を合わせて「帰ってきたよ」と語りかける
2人は「私たちはここには居ません」なんてことは言わないだろう。
浄土に還った両親は、目を閉じて手を合わせたところに居ると思っているから、カタチだけの言葉なのだが、それでも、3年ぶりの墓参りというのは、なにか、特別な気持ちにさせる。

直接、見渡すことはできないが、佐世保市民霊園は海のすぐそばにある。
背が低い洋型の墓石が規格統一されており、お墓特有の圧迫感がなく、広々として爽やか。
ここに来るといつも、クリスタルキングの「SA-SE-BO」が脳内に流れる。

♪色をなくした海に背を向けて♪
という歌詞のせいだろう
クリスタルキングのセカンド・アルバム「Locus」B面ラストに収録された、このバラードは佐世保出身の彼らが若き友情を歌った曲。

「佐世保」というタイトルの曲はさだまさし作など、いくつかある。
僕はこれが名曲中の名曲だと想うのだが、地元の人にも、その存在はほとんど知られていない。

■SA-SE-BOの検索ワード
You Tube→クリスタルキング SA-SE-BO
Apple Music→SASEBO


午後からは、親戚と共にV・ファーレン長崎の応援。
保冷ボックスに冷たい飲み物と、昨日買った玉屋サンドを入れて、いざ諌早へ。
と、その前に「大三東(おおみさき)」へ
2022年7月に放送されたNHK ドキュメント72時間 「長崎ハンカチなびく海辺の駅で」 をみて、その存在を知った。

海岸線を走るローカル線に乗りたくないという乗り鉄はいないだろう。
"駅のホームが直接海に面している"という特異性に惹かれる。
以前訪れた、神奈川県のJR鶴見線「海芝浦」もホームが海に面していた。
あそことは、どう違うのだろうと興味が湧いた。
→⇒鉄道オフ2017春 南武支線・鶴見線に乗って 都会の中の秘境駅 海芝浦駅への小さな旅


諫早駅のそばに車を置いて、諌早から島原鉄道に乗る。
事前にしまてつの諌早駅がどこにあるのか?JR諫早駅と同じ場所なのか?ということを「Google先生」に尋ねてみたがわからなかった。

新幹線ホームが増設されて新装なった諫早駅に入ると、左手にしまてつの駅があった。

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2023年1月13日 (金)

西南の学食でカツカレーを大人食い

建て替えられた西南学院大学の学食は、内部のレイアウトが変わっていた。
以前は正面から入って右手にキッチンとカウンターがあったが、現在は奥にある。

私の記憶が確かならば・・9月上旬のこの時期は前期試験真っ最中のはずだが、食堂は閑散としている。
すみません、OBなんですけど、利用できるでしょうか?
カウンター越しにおばちゃんに声をかける
「あぁ、もちろん、いいですよ」

券売機まで戻ろうとしたら「現金でもいいですよ」
オムライスがないことは券売機チェックで確認済みなので、カレーと言って、いやカツカレーと言い直す。ご飯少なめもできるというので (S) 330円にしてもらった。
おばちゃんは、配膳、カラトリー、食器を下げる場所まで丁寧に教えてくれた。


カツカレーを乗せたトレーを両手で大切に抱え、席を探す。
ところどころに同じユニフォームを着た部活のグループが居るものの、大半のエリアは空席。
これだけ選択肢があると、返って迷う。
ほとんど席が埋まっていないシネコンの予約画面のようだ。

できるだけ、目立たないような座席を選び、腰掛ける
アクリル板のパーテーションには「黙食にご協力ください」「食事が終わりましたらマスクの着用をお願いします」の掲示。
まぁ、一人の僕が喋りながら食べたら怖い。

卒業以来、38年の時を超えて再会する学食のカレー、しかもカツ乗せ。
当時はメニューにあったのか記憶がないが、あったとしても、カツ乗せの余裕はなかった。
そういう意味では大人食い。

「この店は味が落ちた」と発言する人がいるが、僕には味を記憶する能力が乏しい。
その味を覚えているわけはないが、なんだか38年前と同じ味がした。

西南学食カツカレーの写真は、しばらく、スマホの壁紙にしていて、見るたびに心が落ち着くのを感じた。なぜ、この何の変哲もないカレーに僕は癒やされているのか?その理由はわからなかった。
4,700円(櫃まぶし)だったはずのお昼が、330円で済んだことに自分らしいと想った。


食器を返却口に戻すと、特に用事はないが生協に足を伸ばす。
僕は「せいきょう」と古館読みするが、世の中には「せ」にアクセントを置いて呼ぶ人がいる。なんだか生活の匂いがして好きだ。

ゆったりとしたスペースに雑貨、食品が並ぶ。書籍売場はあったが、かつてのレコード売り場は見当たらない。
西南オリジナルグッズもわずかながら置いてあった。
郷土愛、母校愛を消費で体現することを是としており、オリジナルネクタイを通販で取り寄せたこともある。今回は特に喉から手が出ることはなかった。

■西南学院オリジナルネクタイ(2014年当時)
博多織 絹100%
製造:サヌイ織物
価格:3,523円+税


西南会館を後にして、キャンパス内を横断。以前に来た時はまだできていなかった図書館を目指す。確か、OBも利用できると会報誌に書いてあった。
IDカードがないと入れないので、ゲートの所まで受付の方に来てもらい、事情を話す。
学生課から在学証明をもらってくれば、正式なIDカードも作れるとのことだったが、今回は臨時入場の書類にサインして入館させてもらった。

エレベーターで6階まで上がり、階段で降りながら散策。
人影はまばら。
そういえば、入り口に現在は夏休み中であると書かれていた。
僕らが在校した頃より、後ろにスケジュールがずれているようだ。

せっかくの図書館なので、4階で足を止めて1冊だけ読むことにする。
全国どこでも読めるものではなく、ここだけのものをと選んだのは・・
「九州経済調査月報2022年9月号」

グループ学習室(ミーティングルーム)、情報検索室(パソコンが並ぶ)、プレゼンテーションエリア(ひな壇とステージ)といった現代の図書館らしい取り組み。
もし、これらが昔あったとしたら、自分は使いこなしていただろうか?今の学生はどうなのだろう?と考えていた。
学生の誰かと世間話をしてみたかったが、叶うすべもない。


図書館を出た日陰は風が吹いている。聖恵ちゃん(いきものがかり)の声が聞こえる。木々が揺れて気持ちがいい。
西南、来てよかった。
防塁の交差点で迷った時、無意識に西南に足を向けた自分を褒めてやりたいと想った。

脇山口交差点に向けて歩きだす。
黒田庵も高田書店もむらたもロッキングチェアもないが、かつて、バイクの事故で搬送された吉村病院は今もそこにあった。
懐かしい街にきて、もっとも残存率が高いのは病院だと想う。

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2023年1月 8日 (日)

お昼は蒸籠蒸しのはずだった

防塁の交差点には藤崎郵便局があり、そこから海に向かって伸びる道に目をやると、その延長線上に福岡タワーが見える。
「よかトピア」のシンボルとして建てられた福岡タワーは*年の落成なので、僕らが学生の時分、そこには空しかなかった。
今の学生たちは福岡タワーに向かって通学する。希望に満ちた者には美しい画角だろうし、失望に溢れた者にとっては、重苦しい光景かもしれない。

僕は福岡タワーを遠くに見て、こう言った
「あぁ、腹が減った」
井之頭五郎ならば、ここで三段ズームの絵になるところだ。

朝から何も食べていない。出発間際に空港ロビーのサンドイッチスタンドにも寄らなかった。だから腹が減る。常日頃から朝昼は食べていないので、ファスティングには慣れているのだが、時間と距離を超えていけば人は腹が減るものだ。

「よし、店を探そう」
とは言わなかった。ただ、学食のオムライスを思い出していた。薄味のケチャップライスに、ライスが透けて見えるくらい薄く焼いた玉子が乗っている350円(当時)のオムライス。いつもならば、170円のカレーと決まっていた僕にとって月に一度の愉しみだった。


当初の計画ならば、福岡空港に降り立ち、博多駅のコインロッカーに荷物を入れたら、天神で蒸籠蒸しを食べることになっていた。
三年ぶりの博多だから、ここはちょっと贅沢しても罰は当たらないだろう。
「天神 蒸籠蒸し」で探すと、なんと本吉屋の支店が岩田屋にあった。

本吉屋
【もとよしや】 蒸籠蒸しの元祖
本店:福岡県柳川市 柳川駅の近く
柳川・川下りの終点そばに沖端店がある

かつて、アベックが柳川に川下りに行くと、その流れで本吉屋というのが定番コースだった。
(考えには個人差があります)
今は、特せいろ蒸しが 4,700円。昨今のうなぎ高騰を受けて、なかなかいい値段だ。
でも、三年ぶりなので3で割れば 1,567円。それならば罪悪感が薄れる(罪悪なのか^^;)

ところが、博多から地下鉄に乗った途端、今日の第一目的である「黒田庵の今」が先決と想い、西新まで乗ってしまった。

9月初旬の福岡は、まだ十分に真夏の体。
気温は30度を超えている。暑い。なにもかもがめんどくさく思える。
「学食にオムライスが今もあるのか?」を知りたい。でも面倒だ・・・

次の瞬間、僕の足は福岡タワーに向いていた
この時、どんな心理が働いたのかは思い出せない
想像するならば、高齢の僕が学食に乗り込むというチャレンジにより、自分を自分で褒めたくなるかもしれないという報酬を見出していたのだろう。
なにもしない自分より、なにか面倒なほうを選んだ自分を褒めたくなる
そんな気がしたのだと想う


学食が入っている西南会館は閑散としていた。
このビルは僕らが通っていた頃のものではない。
西南学院は100周年を境に、大半の建物が何らかの変更を受けた。
今も大学より送られてくる会報誌で調べたところ、次のとおりだ。

■建て直し
1号館  2号館  チャペル(2008年3月完成)  大学院  西南会館  6号館  自然科学館 

■増築
図書館 

■新築
法科大学院  クロスプラザ  博物館  コミュニティセンター  インターナショナルハウス 

■そのまま
3号館  4号館  5号館  体育館  本館 


ちょうど3人連れの男が入っていく。後に僕もつづく。彼らは「おれ、カレー」とか言いながら券売機で食券を求めてから、角を曲がっていく。
ここで過去の記憶を紐解いた。当時は食券ではなく現金だったが「非会員の方は+50円をお支払いください」といった張り紙があったと想う。
ここでしれっと食券を買って入ったら、カウンターのおばさんに「なんか歳の行った学生やね」と想われそうだ。

食券は買わずに3人の男たちの後を追った。

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2023年1月 7日 (土)

雀荘史上初! 麻雀を打たないで本当に働くアルバイト

ロッキングチェア跡地には新たな店ができていたが、営業時間外のようだった。
後日、AVENUEのマスターご夫妻に見せようと、写真をパチリ。
こんなところで写真を撮っていると、地上げ屋に間違われそうなので、足早に202号線へ出る。
ここからは西新方面へ東向きに戻る。

かつて、友達が住んでいたマンションは今もそこにある。
かつて住んだ上五島を訪れた時は、1軒の例外を除いて友人宅は居住放棄の廃墟となっていた。
一戸建てはその家族が居なくなれば廃墟になるが、マンションは区分所有しているためそうはならない。住人が高齢化するなかで建て替えは難しく、そのマンションも外壁がかなり草臥れていた。

その先の祭場で一年ほどアルバイトをしたことがある。
僕の職場は2階の雀荘(じゃんそう)だった。
私の記憶が確かならば・・ここもロッキングチェアのお客さんの紹介だった。

雀荘に一度も立ち入らない人生があると想う。
あなたはどうだろうか(返事は要らないが)
テレビドラマや映画では時折登場する舞台だが、実際に行く人は少数派だろう。
僕も生涯、雀荘に立ち入ることはないはずの人生だった。

その理由は、大学に入る時、姉から言われた助言にある。
「麻雀だけは覚えたらいけんよ。うちの大学でも、ちゃんちゃんことジャージ着て一日じゅう雀荘にこもっている人がおるけど、あれはなんにもならん。時間がもったいない」

その言いつけを守ったというより、僕はその意見に賛同した。
サラリーマン人生なかばには「麻雀仲間」というつながりを羨んだこともあったが、あれは一定の労働をした後の息抜きである。
親の仕送りで暮らしている大学生がすることではない。
それによって多くの時間を失うことも、僕には「ムリムリムリムリ」だった^^)


僕は雇い主から「本当に働く人が来た」と歓迎された。
なにせ、雀荘史上初の「麻雀を打てないアルバイト」だったのである。
他のアルバイト達は、麻雀を打ちながら働いていた。
常連さんから「兄ちゃん、ちょっと入って」と言われては、共に卓を囲む。

他の卓から「兄ちゃんカップラーメン」とオーダーが入ると「ちょっと、待ってもらっていいですか」とやっていた。
遊びながら、お金がもらえるということで、このバイトはなかなか空きがでないと聞いた。


雀荘の一日は夕方から始まる。
店主に挨拶してカウンターにはいる
お客さんが来ると、大学ノートに時間、人数、名前をつける
あまり自分では飲みたくないまずいお茶を出す
時折「コーヒー(インスタント)」「カップ麺」といったオーダーがはいると、お湯を入れて提供する
祭場のキッチンから取り寄せる食事メニューもあった。
お客さんが帰ると、卓と椅子を掃除・整頓。時おり麻雀牌を拭く。
メイン業務は灰皿の取替。タバコ全盛の時代である。

麻雀を打ちながら働くバイトたちは、掃除や灰皿替えをやっていなかった。
それが「本当に働く人は初めて」と驚かれた要因だ。

19時頃には店主が「賄い」を持ってきてくれる
メニューはカレー、ハンバーグの日替わりに固定されていたが、食費1日500円の僕には、これがありがたかった。

「兄ちゃん、役満出た」
と声がかかると、カップ麺を作って「おめでとうございます!」と持っていく。
お正月には家族と花札をして育った僕は、七短がちょっとハイグレードになったようなものか?と想っていた。
誰かに役ができるということは、他の人には悲劇であり、そこに「おめでとう」もなんだか変だなと想っていたが、めんどくさい学生と想われたくなかったので黙っていた。

バイトは常にワンオペ。
フロアには14卓ほどあったが、それが満席になることは滅多にない。一人で十分回せる仕事量だった。

大半の時間はカウンターに座っているだけ。
他のアルバイトは卓に入るくらいなので「暇な時は、何をしててもいいよ」と言われていた。
スマホもパソコンもない時代だ。
そこで勉強すると嫌味なので、もっぱら本を読んでいた。

時給はさほど高くなかったが、食事は出るし、本は読めるし、とてもおいしいアルバイトだったと記憶している。

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2022年12月29日 (木)

ロッキングチェアがコーヒーと大人の優しさを教えてくれた

マスターは春日市の自宅から藤崎まで毎日原付バイクで通っていた。
数カ月後、バイクをCB50S→RZ350に乗り換えた僕は、マスターをバイク沼に引きずり込み「行きつけの喫茶店でマスターとバイクの話をする」という環境を手に入れた。

ロッキングチェアの店内は厨房沿いのカウンターにロッキングチェアが並び、その後ろに4人掛けのテーブル席が2つというレイアウト。
カウンターにロッキングチェアが並ぶ喫茶店を他に知らない。
一般的に喫茶店を訪れたお客さんは、テーブル席を選び勝ちだが、ロッキングチェアでは誰もがカウンターに座った。
常連さんはマスターと話にきていたのだ。
マスターがかまってくれない^^)時は、ロッキングチェアに揺られてコーヒーを飲み、雑誌を読む。
常連さんが帰り際「じゃ行くね」と挨拶するのも、この店の特徴。
それをマスターが「いってらっしゃい」と見送る。数十年後に流行るメイドカフェの要素を先取りしていたとも言える。


憧れの喫茶店を手に入れた僕は、この店でコーヒーを学んでいく。
当時、多くの人がコーヒーには砂糖を入れて飲んでいた。僕もその一人だったが「通はブラックばい」と想っていて、少しずつ砂糖を入れる量を減らしていきブラックにした。

それを美味しいと感じるようになると、今度はチケットをブレンドからストレートコーヒー(11枚3500円)に切り替える。
「今日はブラジルで」と、お店にある銘柄をリクエストする。
一通りのむと、目隠しで味を覚える。
僕が目をつぶっている間にマスターが豆を取り出して淹れてくれる。
三口ほど飲んだところで「キリマン?」と銘柄を言い、マスターが答えを教えてくれる。
ひと月ほどすると、たいてい当たるようになった。
特にブラジルの味はブレンドに含まれていても、わかるようになった。
ただ、それがなにかの役に立ったということはない。
人前で披露できるレベルではなかったので、誰にも言わなかったから「黒歴史」を作らずに済んだ。我ながら賢明だったと思う。

当初のメニューは珈琲中心だったが、常連さんから「食事もしたい」と要望があって、カレーが加わり人気メニューとなった。
僕がお金がなくてコーヒー1杯で粘っていると、常連さんがよく「マスター、モトくんにカレーばやって」と奢ってくれた。
ロッキングチェアは1988年に閉店。その後、マスターは福岡県春日市で「AVENUE アベニュー」を開いており、カレーは今もメニューに載っている。
この旅の最終日にはAVENUEを訪れる予定だ。


僕ら4人のミニコミ誌「Seinan Press」の広告収入は予算に5,000円届かなかった。
それを印刷屋さんに話すと「その分、手伝ってくれれば、まけとくよ」と言ってくれた。
製本当日、4人で裁断・糊付けといった作業を手伝い、僕らのミニコミ誌ができた
今思えば、なんと素敵な印刷屋さんだったのだろう

こうして、大人が学生を暖かく見守ることを学んだから、今、学生の皆さんにそれを返したいと思っている。誰かにカレーをおごることはできないが、なにか参考になるお話ができればと想う。


夏休みが終わると9月上旬から前期試験が始まる。
その日、Seinan Pressの発刊日を迎えた。
チャペル前での手配りは、正体がばれるのでできないから、生協に頼んでカウンターに置いてもらった。印刷した2,000部は数日後にはなくなっていた。

配布初日、何食わぬ顔で学食のちょびっと仲間の席に座る。
「モト、これば見たや?」
大変なことが起きたという風情で、ヤマダ先輩からチェックが入る
彼の手にはSeinan Press。僕らが天塩にかけた一冊。

僕は感情を押し殺し、意思力を消耗しながら、さも関心がない振りをする
あー、なんか"ウチの"と似てますね
"ウチの"はちょびっとのことで、僕は今もこちらの側に居るという猿芝居だ(ごめんな、猿のみなさん)
どれどれと受け取り、パラパラとめくって、ふーんとうなって、彼に返した。

その場はそれで済んだが、ヤマダ先輩はすべてを把握していた。
印刷屋さんに問い合わせて、Seinan Pressを持ち込んだ者の名を聞き出していたのだ。
印刷屋さんにそこは、黙っていて欲しかったが・・そんな無理は言えない。
僕らが造反者であることは部員に知れ渡っていたようだが、誰もそのことに僕らの前では触れなかった。
それが優しさだったのか、呆れられていたのか、面倒を避けたかったのか・・
音信不通となった今となってはわからない。

生涯で一冊、自分たちの手で作り上げた(製本までした)ミニコミ誌
それが手元に一冊も残っていない。
(ちょびっとは保管している)
いつか、枕棚の荷物からひょっこり出てくることを願っている。

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2022年12月28日 (水)

西新喫茶店MAP 西新商店街ローラー作戦で見つけたロッキングチェア

ちょびっとをスピンオフした4人でつくる誌名は、僕が提案した「Seinan Press」にすんなり決まった。
僕らはちょびっとを抜けるつもりは毛頭ない。ひと夏の造反を終えたら、秋には何事もなかったように部内に戻る。
だから、このプロジェクト(非定常業務)は部内には内緒。
それゆえ、いくつかの制約があった。

「50円すらとれないモノをつくってどうする」
と思っていたのは、ちょびっとでの話。ネームバリューがない"新刊"では有償は難しい。

まずは値ごろ感を知るために、ちょびっとを製本してもらっている印刷屋さんに赴く。
ちょびっとと同じ装丁を想定しているので、ここだけは仁義に反するが仕方ない。

こちらの台所事情を話すと「2000部ならば4万円でできるよ」と言ってもらった。
4万円ならば、頑張って広告をとればなんとかなる金額。
そこで、無料配布。発行は2000部と決めた。


僕ら4人に、制作費を手出しする余裕はない。
それぞれのノルマを決め、手分けして広告営業する。

広告単価の設定はちょびっとと同じにした。
裏表紙:1万円
1/2ページ:5千円
1/3ページ:3千円

部内に仁義を通すため、ちょびっとの得意先には手を付けないと決めた。
僕らが作っていることがばれるし、そもそも同義にもとる。

新規の開拓を始めると「3000円くらいならいいよ」と小さい枠は埋まっていったたが、裏表紙の1万円枠については「それは、ちょっとね」という反応だった。

トップ記事は、見開きで「西新喫茶店MAP」
そろそろ本腰を入れて"行きつけの喫茶店を探したい"と想っていた僕が提案した。
町を歩き「ここを、行きつけにしたいか?」という視点で喫茶店を周り、掲載許可をとっていく。
「さわむら」に許可をとりに行くと、ママが「広告はよかとね?」と言ってくれた。喉から手が出そうだったが辞退した。

バイクを停めて、西新商店街ローラー作戦をつづけていたある日。
「レストランむらた」の先の路地にとUCCの看板がみえた。
あれ?あんなとこに喫茶店あったかな?
それがロッキングチェアだった。

「いらっしゃいませっす」
りんりんとベルが鳴るドアを引くと、マスターの歯切れのいい挨拶が返ってきた。
そのヨコで可愛らしい妹さんがにっこり。

いつもは「ちょびっと」というミニコミ誌を作っているが、今回は訳あって「Seinan Press」という別紙をつくっていること。喫茶店マップをトップ記事に載せることを説明した。
あわよくば、広告がもらえるかも・・
「記事広告」という言葉を知るのは、ずいぶん後のこと。
あざとい計算で最後に「もし、よかったら広告を」と切り出した。

「ちょうどよかたい。宣伝してもらわんね」
ロッキングチェアが並ぶカウンター席の一番奥に座っていた女性がマスターに進言してくれた。
「一番、大きかとね(1万円)あぁそれでよかよ」
初訪問のお店から懸案だった裏表紙の広告をもらうことができ、躍り出しそうになったがこらえた。

さわやかなマスター、くつろげる雰囲気
「750ライダー」ピットインのマスターとは、ちょっと違うけれど、ここがずっと探していた理想の場所だと直感した。

翌日からロッキングチェア通いが始まった。
店の壁には、憧れのコーヒーチケットホルダーが並んでいた。
11枚つづり3,000円(ストレートコーヒーは3,500円)
10杯飲めば1杯というお得感よりも「常連の証」というステータスが、心を満たしてくれた。
チケットを入れるとマスターがホルダーに名前を書いてくれる。
右上隅っこの位置は、ロッキングチェアが閉店する日まで、僕の指定席になった。

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2022年12月27日 (火)

人生で数少ない号泣「バカヤロー」と叫んだ壱岐の夜

壱岐は福岡・佐賀県の北に位置する玄界灘に浮かぶ島。壱岐・対馬ともに長崎県に属する。
その夏、ちょびっとの夏合宿は、二年越しで壱岐にやって来た。

前年は出発当日に台風が直撃。博多発の船便が欠航したため、急遽、行き先が玉名(熊本県)に代わった。
1年生部員に玉名出身者がいて、その場で決まり、西鉄電車に乗り込んだ。
後日、部員が投稿した合宿の写真が「シティ情報ふくおか」の「ラメカメラ」に掲載された。
「ちょびっとのメンバー、変わり身の速さがすごい」
ちょびっとは、版元のプランニング秀巧社と親交があり、親しみをこめたキャプションが添えられていて、嬉しかった。


二年越しの壱岐
民宿に泊まり、昼はドライブや海水浴
「合宿」なので、薄味のウニメしの夕飯を終えると、編集ミーティングにはいる。

この日の議題は「9月に発行するか」だ。
ちょびっとの発行は春・夏・学際前の年3回と決まっていた。
編集会議から配布までがおよそ1ヶ月なので、本づくりの3ヶ月と学際の準備以外は、休部状態だった。

その夏休みは自動二輪(中型)免許をとるため福岡に残る予定だった僕が「夏休みを使って一冊つくりたい」と提案した。ただ、一筋縄ではいかない予感はあった。

前月のミーティングでは「50円に有料化」が却下されていたからだ。
いつも、0円配布しているものを50円とろうという提案だ。
本造りに燃える部員は、お金をとることで責任が生まれ、より質の高い記事をめざそうと考えた。
将来、出版社(当時まだ版元という言葉は知らなかった)への就職を目指していた僕もその一人だ。
しかし、大勢の意見は違っていた。

「今まで通りでやりたい」
「責任が発生するのはイヤだ」
「お金とったら、売れない」

見識が浅い僕は、反対派の「のんびりムード」が情けなかった。
「やる気がない」ことは悪だと考えていたのだ。
(この感覚はサラリーマンになってからも長く続いた)
今ならば、有料化することで生まれる金銭授受の手順や、税金の問題などが頭をよぎるだろうが、その時は「50円すらとれないモノをつくってどうする」と頭に血が上った。


さて「9月号発刊」の賛成は(僕が勝手に親友と想っていた)熊本、後輩の気田と的場の4人。
残りの30人ほどが静観、または反対ムードだ。
幹事(代表者)のイバラキさんは、大勢をみて消極的な姿勢をみせている。
このままではマズイと想った僕は、次の一手に出る。

やりたい人だけでやらせて欲しい
時間がとれる人、作りたい人だけで作りたい。皆には迷惑はかけない・・
ということだが、これには「それは違うっちゃないと?」「仲間ハズレにされるみたいで寂しい」という意見だった。
不穏な空気のなか、ミーティングが2時間ほど過ぎた時、幹事のイバラキさんが言った。
「やっぱ、みんなで作ってきたけん。今回は諦めてくれ」

多数決になれば否決は確実で、今ふうにいえば「分断」の遺恨が残る。
彼は自ら、悪者役を買って出たのだろう。
だが、若かった僕はそう想わなかった。

ミーティングを終えると、僕ら4人は副幹事のモリワキさんに誘われて浜へ出た。
モリワキさんは、片岡義男の小説を地で行くハードボイルドな先輩。
僕が悩んでいる時によく声をかけてくれて、男としてのあり方を教えてくれた。

「これも、人生ぜ、モト」
口数少ないモリワキさんの言葉を聞いていると、だんだん悔しくなり泣けてきた。
イバラキのバカヤロー
海に向かって叫んだ。
たぶん、叫ばなくてもよかったと思うが、叫ぶことで僕の気持ちを仲間に伝えようと考えていた。

昨今は、映画を見ただけで「号泣」する人がいるようだが、人は人生のなかでそれほど号泣しない。これが人生2度めの号泣だった


オレたちだけでやらんや?
壱岐から戻った翌日、熊本の下宿を訪れ誘った。
「あぁ、いいよ。どうせ、バイト以外ヒマしとーけん」
その足で、2人でバイクを連ねて気田、的場を訪ねる。
(下宿に固定電話を引いていなかったので、連絡手段は「訪問」しかなかった)
彼らも2つ返事で賛同してくれて、4人の制作チームができた。
副幹事という立場もあるので、モリワキさんには声をかけないことにした。

誌名は「Seinan Press」 無料 発行は2000部と決めた

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