NO COFFEE SHOP, NO LIFE 人生には、喫茶店が必要だ
NO COFFEE SHOP, NO LIFE
その喫茶店が閉店して、5年が過ぎたが
それに代わる店を見つけることができていない
その喫茶店は、最近ウクライナからの避難民に仕事を提供していることが報道されている会社に代替わりする前の百貨店に入っていた
コロナ禍前のことで、週末は駐車場が混んでいたが、その喫茶店はいつも空いていた
土曜日の朝、本とノートを持って開店と同時に喫茶店へ直行する
自宅のパソコンでフォルダーをワンドライブに放り込んでおくと、ノートでもファイルが開けるのが便利だ
学生時代の行きつけのように毎日来るわけではない。年に4~5回程度か。それでも、この場所が僕の拠り所
マラソンに向けてがんばっている時は、レースを終えたらゆっくりあの喫茶店へ行けるということが、励みの一つになっていた
その喫茶店が閉店する
たまにしか来ない立場で、勝手な言い分だが、ずっと続けてほしかった
壁沿いに設えた一枚板のテーブルが僕の定席
そこから、ウィンドウ越しに百貨店の食品売り場を見下ろせる
迷路をゆくパックマンのように、売り場のあちこちでたくさんの人が違う方向に歩いている
パソコンに飽きたら、しばらくそれを眺めている
ノートと本を交互に開いて、ブレンドコーヒーを飲む
ここでの気分は、家でいつものパソコンに向かっているときとは明らかに違う
「煮詰まる」という感覚がないのだ
長い時間、文章を書いていると、脳の回転速度がおちる
そろそろ何か、新たな動きがあるのではないかと、ネットを巡回したり、メールをチェックするのだが、世の中は僕を置き去りしたかのように進展がなく、空虚な気持ちになる
ここではそういうことはない
家にいるとつい、ネットを開いて、当てもなく時間を過ごしてしまう。ここでもテザリング環境はあるのだが、今開いているアプリに集中できるのだ
いつもは思いつかないようなアイデアを思いつくこともある
日頃、断片的に思いついては消えていたことが、ここで整理できることもある
一定の制約がある非日常の環境に身を置くと、日頃は自分の中から掘り出せなかった考えをカタチ(文章・メモ)にすることができる
その理由を考えてみた
・誰かがそこに居るのに、誰かに話しかけられて思考が中断しない
・誘惑、逃げ道の選択肢が少ない
・ほどよい雑音、机と椅子がある
そこに居るのは自分だけではないのに、自由で、支配されない空間
それを「居場所」という
居場所は欲しいが、不要な思考を喚起されたくない
(それを居心地が悪いという)
人生には、考えることが多すぎる
人生には、知らなくていいことが、あふれている
人生には、喫茶店が必要だ