2020年6月 6日 (土)

200円のお小遣いがPTAで取り上げられる

借りて来た陽水をカセットテープに収めた僕は、さっそく「ミュージックセレクター」のスイッチをオンにする
キューまたはレビューボタンを押下
(あとは見ているだけ)
自動的に曲間を検知すると「きゅうん」という音と同時に赤いランプが点灯してテープの回転が止まる
キューまたはレビューボタンがかちゃっと音を立ててキャンセルされ、新しい曲が始まる

曲間を検知するために、音楽を録音する際、曲間に4秒以上の無音部分を作るよう説明されていた。
当時のLPレコードは大抵、その条件に合致していたので、大半の曲間が検出できた。
ただし「あかずの踏切」から「はじまり」というような、ほぼ無間隔でつながる曲間は検出できなかった。


当時はまだレンタルレコードも、音楽配信もない。
音楽を趣味にしている同級生は五島の身の周りにいなかった
従って、音源の頼りはFMからのエアチェック

既に「テレビマガジン」を卒業していた僕は、新たに「週刊FM」が愛読書になった。


少し話しが逸れるが「テレビマガジン」は仮面ライダーやキカイダーなど、当時の特撮ヒーローを主に取り扱った月刊誌。講談社が発行していた。
僕が今でも講談社贔屓なのは、その影響だと想われる。

仮面ライダーファン(当時オタクという言葉はない)の僕は、発売日には国丸書店に飛び込んで購入した(配本が1~2冊と少なかった)
ページが折れないよう1ページずつ大切にめくり、穴が空くほど読み込んだ。
付録としてカードやポスターが綴じ込まれていて、僕が壁に貼っているのはこのポスターと旅先で買ったペナントだった。

当時、毎月のお小遣いが200円
テレビマガジンが200円
つまり、全財産を仮面ライダーの情報収集に費やしていたのだ。
仮面ライダースナックも買う必要があったが、それは、お年玉を切り崩していた。

200円というお小遣いは当時としても決して高くはなく、恐らく学校じゅうでも最低ラインだったと想う。
ある時、なんの気なく、お小遣いが「テレビマガジン」で終わってしまうという話を頭の良い上級生に話した。
すると、その上級生が親に話し、その親がPTAで取り上げた。
少なすぎる!可哀想!
要は学校の先生の子供にしては、みじめだということだ。
同級生の大半は漁師の家庭で、そこから見ると公務員というのは収入が安定しており、お金に困っているはずがないということなのだろう。

余計なお世話だ

この話しは、母から聞いた。
つまり、母がPTAに行った時に、リッチな母親たちに言われたのだ。
母が、僕と同じ見解をその場で述べたのは言うまでもない。
僕もおおいに同意したが、内心はこれを機に100円くらい上がらないかなと想った。

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2020年6月 5日 (金)

ラジカセをゲットした少年は、なぜ皆、同じポーズで写真に収まるのか?

南松堂からもらって帰ったカタログを熟読した僕は、その先進性にうっとりしてしまった。
値段は39,800円
憧れのスタジオ1980より3,000円安い。何より4万円の壁を切っていることが大きかった。

僕はまだ松下幸之助がどれだけ偉い人かを知らなかったが、すっかり松下魂に染まり、ミュージックセレクターの素晴らしさ、これだけの先進機能を入れながらも、なに1つ基本をおろそかにしていない。しかも、お値段サンキュッパ!
さらに本日限り、なんと!カセットテープ2本のおまけ・・
は言わなかったが、これまでに身につけた、ありとあらゆる知識に、仮面ライダーカードで覚えた説得のコツを駆使して父に迫った。

次の週末、我が家の4畳半の居間には、National RQ-552を抱えて記念写真に収まる僕がいた。

昭和50年頃というのは、写真を撮ると言うことは非日常の行事だった。
フィルムを買ってカメラに入れる。
撮影して現像+同時プリントして手元に届く。
それをナカバヤシフエルアルバムにいれる^^;)
恐らく1枚の写真には100円程度のコストがかかっていたと想う。
そんな手間暇とお金がかかる写真は、そうそう撮れるものでは、いや、撮ってもらえるものではなかったのだ。

その日は猫の額の居間で箱を開けた後、写真に収まった。
父が「一枚撮るか?」と言ってくれたのか、僕から記念に一枚撮って!とせがんだのかは覚えていない。
恐らく前者だろう。思春期を迎えた子供をカメラに収めるのがいかに難しいかは、後に知ることになる。

僕はハンドルを握ってラジカセを胸の高さまで持ち上げて「どーだ」というどや顔を決めている。

どうして、ラジカセと記念写真する男というのは、みな同じポーズなのだろう。
これまでに、雑誌などで何枚かの写真を見たが、一様にハンドルを握り胸の高さにかざしたラジカセでカメラ目線という写真だった。


ラジカセを手にした瞬間というのは、それほど、誇らしく、輝かしく、記念すべき時なのだ。
ラジカセは受け手から担い手へ僕らを誘う。
僕らはテレビで育ち、情報に対して一方的に受け身だった。
ラジカセは音を「記録」し「削除」し「上書き更新」する。
混ぜたり、複写したりもできる。
(挿入はできなかったが)

次の日、学校に着いた僕は職員室に直行し、音楽の立岡先生に陽水の「断絶」をもう1度貸して欲しいと申し出た。
すると、立岡先生は「氷の世界」「二色の独楽」も一緒に貸してくれたのだった。

つづく

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2020年6月 4日 (木)

日本初のラジカセを作った ナショナル ラジカセの歴史

ナショナルのラジカセ「RQ-552」は「5ウェイワイヤレスマシン」を本体内蔵して大人気となった「RQ-448」の後継として「音のマック」というキャッチコピーで売り出された。
当時ナショナルのラジカセには「マック」という愛称があったのだ。
アップルコンピューターが設立されたのが1976年。
ナショナルはそれ以前から「マック」という愛称を使っていた。

ちなみに、1977年に発売したVHSビデオデッキには「マックロード」と命名した。
当時、NHKが土曜日に放送していた「警部マクロード」という人気海外ドラマがあったので、恐らく、それにあやかったものだと推察している。


■ナショナルラジカセの歴史

1967年12月
RQ-231
35,800円
既にテレコはSONYが出していたが、日本初のラジカセはRQ-231

1973年
RQ-540(MAC GT)
カールコードのワイヤードマイク付き
FMトランスミッターを初搭載

1973年
RQ-448(MAC ff)
5ウェイワイヤレスマシンを本体内蔵
34,800円

1975年
RQ-552(音のマック)
39,800円

ナショナルラジカセの品番は「RQ」が使われた
1976年に参入したステレオラジカセ(RS-4300)ではRS、RQ、RXが混在した


音のマック「RQ-552」の特徴は、世界初の「ミュージックセレクター」を搭載したことだ。

当時、ラジカセの上位機種に搭載されていた曲間頭出し機能「キュー&レビュー」は、頭出しをしている間、ボタンを押し続けていなければならなかった。
これが、けっこう指力が要った。恐らく、ラジカセファンは指立て伏せが得意だったはずだ。

そのうえ「よし、ここだ!」と想って指を離すと、次の曲の頭が切れていたりした。
絶妙のタイミングで指を離すのは熟練を要した。
もし、今「TVチャンピオン」で「ラジカセ王選手権」があるならば「キュー&レビュー頭出し対決」は最大の見せ場になるだろう。

ミュージックセレクターは、このラジカセ少年を悩ませた頭出しを自動化したのだった。そういう意味ではラジカセ界のAI、いやRPAといえる^^;)

 

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2020年6月 3日 (水)

上五島に引っ越して来た日の迷推理

上五島に引っ越して来た日
陸続きではない海の果てに来てしまったことなど忘れて、僕はハイテンションだった。
それは、物心ついてから初めての引越だったからだ。
それ以前にも生まれた佐世保から2度引越をしているはずだが、その日のことは記憶にない。

家財を載せたトラックと僕らの自家用車は同じフェリーで奈良尾に着いたのだが、トラックはまだ着いていない。

僕は家の鍵を開けてもらうと、一番乗りで家じゅうの探検に入る
一階にはうなぎの寝床のような台所(実際に母はここで釣ってきたうなぎを捌いていた)風呂と和式の便所、そして四畳半の居間
本当に猫の額のような部屋をみて僕は「せまっ」とは言わなかったが、ここで一家四人がご飯を食べテレビを見て過ごすには狭すぎると感じた。
その部屋に二間の押入があった。

荷物が届いていないのだから、がらんどうのはずなのだが、そこに未開封のタオルが1つ。僕はそれを手にして、遅れて入って来た母にこう言った。

前にこの部屋に住んでいた人は、みなまつどうと関与してる人だね

今つくった話しではない
小学4年の時には、校内一、本を(借りて)読んでいた僕は「シャーロックホームズ全集」を読了していたため、推理に飢えていたのだった。

ワトソン君じゃなくて、母は僕の名推理をスルーした
特に何かを指摘することもなく

上五島の人ならばわかると想うが、タオルには南松堂と書かれていた。
南松浦郡上五島町青方の電器屋だから南松堂。
長崎県には北松浦郡と南松浦郡があり、それぞれ「ほくしょう」「なんしょう」と呼ばれている。
このお店の呼び名は「なんしょうどう」である。
後日、それを知った僕は、顔から火が出ると同時に、このことは一生誰にも言うまいと心に決めた。


週末の日曜日、僕は父と青方に買い物に来ていた
いつものスーパーで買い物をしたあと、父を南松堂に誘う
南松堂は上五島に一軒だけあったナショナルのお店だ。

ショウウィンドーに見慣れぬラジカセが飾ってあった
カタログを暗記しているので、それが新製品であることは一瞬でわかる
スピーカー周りの装飾が目新しい

そのラジカセは名前を RQ-552といった。

つづく

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2020年6月 2日 (火)

SONYファンの父にスタジオ1980をねだれなかった理由

僕のラジカセ・ゲット作戦は終盤を迎えつつあった。
SONY、ナショナル、日立、AIWA
佐世保に遊びに行った時には、四ケ町の千日音機に足を運び、店頭でもらえるカタログはすべて集めて研究した。

SONYスタジオ1980の絶対的優位はゆるがない
ただ、五島にはそれを店先に展示している店がなかった。
昭和40年代、たいていの子供がそうしていたと想うが、何かをねだる時は親をお店に連れて行くのが手っ取り早い戦術だった。

あれ?誰かと想ったら、君はスタジオ1980君じゃないか?
こんな所で会うなんて奇遇だねぇ
あぁ、紹介するよ。こちら僕の父だ
(そして、親に向かって)
1980君とはカタログで出会って以来、相思相愛の仲なんだけど、そろそろ家に迎えてくれませんか?
そうすれば、僕は目の色を変えて、日々勉学に努めるものと候^^;)

だが、この作戦はファーストミット、月刊ゴング(全日本プロレスファン)と連戦連敗。うまくいった例しがない。
月刊ゴングの時などは、国丸書店の店頭で「ウチではこのようなものを推奨した覚えはない」と一笑に付され、やり場のない喪失感を味わった。


直接、質問したわけではないが、父は恐らくSONYファンだったはずだ。
(これに限らず、親に質問することは、とても少なかった)
トランジスターラジオ(清志郎ではない)ステレオセット、トリニトロンのカラーTV。我が家にある音響機器はすべてSONY製品だったのだ。

今振り返ると、そんな父がSONYの旗艦モデルであるスタジオ1980を買ってくれなかったのが不思議に思える。
僕はきちんと説得していたのだろうか。もしかすると、腰が引けて心からねだっていなかったのでは?


42,800円という価格はネックだった。
1974年当時の大卒初任給は78,700円
もちろん、そんなアカデミックな計算をしていたわけではないが、中学生の僕がやすやすとねだれる金額ではないことは理解していた。

当時、ラジカセで4万円を超えるものはほとんどなかったと想う。ラジカセが5万円を超えるようになるのは、ステレオラジカセの登場以降だ。
少し話しが逸れるが、僕はこのステレオラジカセを初めて見た時、こう想った。

なんてこと、するんだ

あまりにもかっこ悪かった
その頃はモノラルとステレオの違いなど、どうでもよかった
今ならばステレオは「L」と「R」のスピーカーが左右に分かれていることに疑問はない。
だがこの時は、なぜカセットを筐体の中央に配したのか意味が分からなかった。

ラジカセというのは左にカセット、右にスピーカー。そのうえにラジオのチューニングやVUメーター。それこそが黄金律と信じて疑わなかったのだ。
ステレオラジカセの見てくれは、一学年下に降りて来た落第生のように、ばつの悪さが拭えなかった。


ショールーム販売に持ち込めなかった僕が、カタログを唯一のツールとして臨んでいた「スタジオ1980」交渉が暗礁に乗り上げていた頃、ナショナルから1台のラジカセが発売された。

つづく

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2020年5月29日 (金)

SONY スタジオ1980 は子供たちにとって反則のオンパレードだった

僕がベストのラジカセ、ゲットに向けて各社のカタログを精査してい当時、流行始めていたのがミキシング。

mixing
ミクシィをすることではない
音と音を混ぜることだ
レコーディング・スタジオで調整卓を操り、いくつもの音源を混ぜる(トラックダウンする)人をミキサーという。

糸居五郎のオールナイトニッポンやRKBベスト歌謡50の林さんみたいに、音楽を後ろでかけながら話すことに憧れた。

■ミキシング
ラジオ、AUX IN、マイクなどの音源をミックスして録音する機能
ラジオDJのように音楽に声をかぶせてオリジナルテープを作ることができ、プロの気分を味わうことができた


1974年発売のSONY「スタジオ1980」はレコーディングスタジオのミキサーコンソールを模した音量調節が付き、大人気を呼んだ。
僕はしらべるでこう定義している。

オーディオファン予備軍の子ども達を虜にしたラジカセ
A boombox that captivates the children of the audiophile reserve army

ラジカセは「ドラちゃん」(POCKETALK S ドラえもんEdition)によると boombox というらしい。そんなの聞いたことないなと「Google先生」にも意見を求めたところ同意見だった。
悪い!「ドラちゃん」一瞬、君を疑ってしまった。


スタジオ1980
■型番:CF-1980
■価格:42,800円

仕様
■サイズ:W376×H245×D106mm
■ラジオ:AM/FM 2バンド

1974年
スタジオ1980発売
1976年
スタジオ1980マークⅡ発売 43,800円
1977年
シリーズ最終型 スタジオ1980マークV発売 44,800円

 

スタジオ1980の魅力はミキシングコンソールもさることながら、最大出力3wで鳴らす16cmという大口径のウーファー(スピーカー)にあった。
そのスピーカーを強調する迫力満点のデザインは幼気な少年たちを、これでもかというほどいたぶった。

どーだ!
君の魂を揺さぶる音を聴かせるぜ
その音楽は君が作ったっていいんだぜ!

National クーガRF-877と並んで、スタジオ1980のデザインはまさに暴力的。その威力の前に僕らはひれ伏すしかなかったし、数十年の時を超え、今でもその偉容には畏怖の念が消えない。


当時、佐世保玉屋裏にあったSONYショップの店頭に、スタジオ1980の巨大な模型が展示されていた。記憶が確かならば高さ1mほどはあったと想う。僕は靴に釘を打たれたように、いつまでもその場から動けなかった。
(10分くらいで動いたけど)

つづく

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2020年5月28日 (木)

僕らにはワウ・フラッターを語る相手がいなかった

キュー&レビューは上位機種に装備されており、カタログでラジカセを選ぶ時の「マストアイテム」といえた。
たとえばナショナルのカタログにラジカセが8機種紹介されていたとすれば、フラッグシップの1台、そこから魅惑の機能を外した少々廉価の2台程度まで。
"メインエベント"の馬場と、セミファイナルの鶴田、デストロイヤーまでといったところだ。高千穂や轡田には付いていない ^^;)


カタログで各機種を見比べる時、キュー&レビューと並び、デフォルトといえる機能がフルオートストップ。

■フルオートストップ
再生、早送り、巻き戻しが終わると自動的にボタンがキャンセルされ、電源が切れる機能
再生だけの場合はオートストップ
SONYだけはフルオートシャットオフという呼称を使っていた。

搭載以前のラジカセは、自分でストップボタンを押下しなければならなかった。
この機能の効能は、電気代の節約だけではなく、再生ボタンが押されたまま長い時間が経つとテープに負担がかかるためと理解していた。
ただ、それが何から得た情報だったかは思い出せない。
カタログにそこまでの蘊蓄は載っていなかったし、ラジカセ専門誌はない。中一コースなどの総合情報誌に載っていたのだろうか。
もちろん、インターネットはないし、周りに僕よりラジカセに「詳しい人」が居た記憶も無い。


ワウ・フラッターという言葉はよくわからなかった。

■ワウ・フラッター
モーターの回転ムラによる音のふらつき。%で表示される。数値が小さい方が高性能

カセットで音楽を聴いていた頃、すなわち1970年代は、ほとんどの歌謡曲がフェイドアウトで終わっていた。
このフェイドアウトの音がよく揺れた。
元々そういう曲なのかと想うほどだったが、もちろん、そんなはずがない。
モーターの回転が不安定なのか、テープが伸びているのか、原因はわからなかった。
それもワウ・フラッターで語ることなのか?それについて誰かと語り合ったことはない。周りに僕くらい細かいことが気になる友達がいなかったのだ。
今ならば、インターネットを通して全国のラジカセ仲間と語り合うことができただろう。
昭和の子供たちは、カタログが話し相手だったのである。


メーターの装備もデフォルト。
内蔵するラジオからの録音レベルは自動決定されるが、ステレオセットとつないでレコードを録音する時などは、針の振れが概ね0のところ(レッドゾーンの手前)に収まるよう調整する。
この作業は、録音中に部屋の蛍光灯を消したりしないことと同様、神経を使った。

当時ラジカセに搭載されていたメーターはVU(ぶいゆー Volume Unit)と呼ばれるもの。
後にカセットデッキに搭載されたピークメーターは瞬間のピークを表示。
やがてメーターがデジタルになり、ピークホールドで誰にでもピークが読めるようになった。

つづく

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2020年5月27日 (水)

ラジカセのキュー&レビューで磨いた技術

シンちゃんが買ってもらったラジカセは、さほど高機能なものではなかった。
なぜわかるかと言うと、その時点で僕は主要メーカーのカタログを集めていたからだ。
父の引き出しに仕舞ってあるテレコにはラジオがついていない。
頼み込めば、譲り受けることはできるだろうが、それではエアチェックができない。

■エアチェック
ラジオ放送を録音すること
当時、レンタルレコード店はなく、おこずかいで買えるレコードは限られていたので(音質のよい)FM放送から音楽を録音することをこう呼んだ

テレコのお下がりで「おねだり聞いてもらう券」を1枚消費してしまうのは惜しい(そんな券は実在しない)
願いを叶えてもらうならば、2度と新しいものが欲しくならぬよう、ベストの1機を選ぼうと、陽水の「限りない欲望」で学習していた僕は、しっかりと情報を集めていたのだ。


上五島には青方にナショナル、有川にSONYのお店が一軒ずつあり、僕が住んでいた魚目(うおのめ)には電気屋さんがなかった。
2年前に訪れた時は、それがなんと魚目(浦桑)が上五島唯一の繁華街になっていて驚いた。それでも電気屋は青方にしかなかったが。

お店でもらって来たカタログを嘗めるように見た。
もしも、そのカタログを今も持っていたら、あちこちに涎をこぼした跡が残っているかも知れない。


まず、押さえるのは対応できる「録音」のバリエーション。
エアチェックだけでなく、立岡先生から借りて来るレコードも録音したい。

入力は「AUX IN」「MIC」の2系統が欠かせない。

■AUXiliary IN
外部入力端子
カタログに読みが書いていなかったので「おうくすいん」と心の中で読んでいた。間違えていたらかっこ悪いので友達には言わなかった。
今ならば「Google先生」に「AUX 読み」と聞けば良い。
だが、インターネット登場前の世の中は、周りに詳しい人がいなければ終わり。いかに「詳しい人」を多く確保するかが、昭和の時代のテーマだった。
他のラジカセ仲間も発音がわからなかったのだろう。
この端子については、互いに触れなかった。


シンちゃんのラジカセが"高機能ではない"と想った理由は、その機種がキュー&レビューを搭載していなかったからだ。
もちろん、それを口に出して言ったりはしない。
それは、新しいものを買ってもらった友達への最低限のエチケットだった。

■キュー&レビュー
再生中に[FF][REW]ボタンが頭出しボタンとして機能すること
ボタンを押下している間、ヘッドがテープに触れていて微かに音源の音が聞こえる
僕は集中して「キュルキュル」という音が「きゅーん」という曲の終わりのフェイドアウト部分に変わると素早く手を離す技術を磨いた。それは誰かにワザを自慢するためではなく、静かなる自分との戦いだった。

つづく

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2020年5月22日 (金)

初めてカセットテープから音が出ることを知った日

父の引き出しで見つけたテレコが動かなかった日から、僕の好奇心は日増しに募っていた。
一ヶ月後のある日、もしかすると僕のやり方に誤りがあったのではないかと考えて、再び父の引き出しを開けた。

父は使っていないようで、テレコは1mmも動かず同じ場所にあった。
機械を取り出してコードをコンセントにつなぐ。
「EJECT」と書かれていただろうボタンを押すと蓋が開き、カセットを入れる。

今日は他のボタンを押してみよう
この間押した ▶ とは逆方向に向いている ◄◄ のボタンを押した

機械が動き出した・・
僕の手の動きにより、その機械は制御下に入った
世界が動き出した
さぁこれから、いったい、どれだけのことが始まるのだろう

この時の感動が、今も音楽とその再生機器に格別の好奇心を持ち続けている原動力だ。

わしゃわしゃと音を立てて軸が回っている
僕は固唾を呑んで見守る
大丈夫か、壊れたりしないだろうか
とりあえず、動きは一定のリズムで行われている。
小窓から覗いているのはテープらしきものだ。
初めは分厚かった右側が次第に薄くなるにつれて、左側の軸が厚くなっていく。右から左へ移動しているようだ。
よし、行けるところまで行こう。
ずいぶん長い時間が経った気がする頃、動きが止まった。
音が止まる。

■のボタンを押すと、他のボタンがキャンセルされることは既に経験している。
■を押下して、満を持して ▶ を押下する

人の声がした
音楽ではない
抑揚が安定した1人のナレーターが何かのテーマについて語っている。

その機械にはカセットを入れるスペースと音が鳴るスピーカー
そして、持ち運び用と思われる把手が付いていた。ラジオはついていない。録音用の内臓マイクやイヤホン端子があったかは覚えがない。
電池で使うこともできなかったと思う。

勝手に引き出しを開けていることがばれるので、父にこのテレコを譲って欲しいとは切り出せなかった。

カセットテープをこの機械に入れれば音が出ることを知った僕は、ここから急速にラジカセにのめり込んでいく。

つづく

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2020年5月21日 (木)

父の引き出しにカセットレコーダーを見つけた

上五島に住んでいた時の職員住宅はとても狭くて、家族全員に個室がわたることはなく、僕は父と相部屋。
その部屋には父の書棚、机、SONYのステレオセット、そして僕の勉強机があった。
ただ、父は居間で仕事をしていて、その机に座ることはなかったので、いつも僕は1人だった。

僕は時々、父の机の引き出しを開けていた。
子供の頃、父の引き出しをこっそり開けたことが、誰にもあると思う。

そういえば、母や姉の引き出しを開けた記憶は無い。
異性に対しては、独自の規制がかかるのかも知れない。

父はあまり小物を多く持つ人ではなく、引き出しがすかすかだったが、どでかい電子計算機、何に使うのか意味不明な金属の道具などがゆったりと仕舞われていた。

ある日、父の引き出しに弁当箱よりはちょっと横長な物体を見つけた。それまでもそこにあったのかも知れないが、僕の関心がその方面に向き始めていて、その物体に強く惹かれたのだろう。

その物体には電気のコードがつながっていた。
僕はあたりの気配を窺いつつ、それを引き出しから出してコンセントにつなぐ。
スイッチを押してみる
かすかに何かが動いているような電気的な音が聞こえる気はするのだが、特になにも起こらない。

もう1度、引き出しをのぞいてみる。
そこには、ちょうどその物体にはまりそうな四角いモノが1つだけあった。
それはコンパクトカセット、いわゆるカセットテープだと後に知るのだが、自家用車のカーステレオは8トラック(通称8トラ)だったので、カセットテープというものを僕はまだ知らなかった。

話しが逸れるが、家族で出かけるといつも8トラックのテープで本田路津子やデュークエイセスを聞いていた。時々テープをカーステレオから取り出して掛け替えるのだが、このテープがいったいどういう仕組みで動いているのかがいつも謎だった(今でも謎なので、今度「Google先生」に聞いてみたい)


恐らく「EJECT」と書かれていただろうボタンを押すと蓋が開き、僕はそこに恐る恐るカセットを入れる。カチャッと音がしてそれはスペースにきちんと収まった。よし、これなら壊れることがないだろう。

「パパのクラリネット」(クラリネットをこわしちゃった)を聴いて育った僕は、父の備品を壊して、こっそり使ったことがバレるのを極端に畏れていたのだった。

スイッチを押した
何かが起きるのを待つ
しかし、なにも起こらない
もちろん音はしない(音が出るものだと知らなかった)

STOP と書かれているボタンを押すと、その前に押下したボタンが元の位置に戻った。
とりあえず、壊れなかったことに安堵して「まだ僕にはムリなんだ」と独りごちて、物体を元通りの場所に戻した。

つづく

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